対話と個別指導のあるオンライン少人数クラスの作文教室
作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)
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型に頼る うっちー
日本人は本来中身を磨くには充分に外面を鍛える必要があると考えてきた。その一方でデカルトの考えた精神二元論は近代西洋でも取りいれられて、戦後の日本の社会にも大きな影響を与えた。それにより、現在の日本社会は中身を重視して、中身をかえることで外見も改善できるといった考え方を疑いもせずに受け入れている。その原因は二つある。
まず第一の理由は高度経済成長期において型を重視する形式ばった考え方は非効率的とされ、忌み嫌われたからだ。何よりも型を教えてその型の中に当てはめようとするよりも、自由に考えることの重要性ばかりが強調された。私が小学校で始めてクラブ活動をしたとき科学クラブには顧問の先生が居たにもかかわらず、殆んどなにも教わらなかった。先生は理科室の後ろにある本を使ったりして自由に調べて物を作りなさいと言っていたが、小学校四年生が知恵を絞った所で何をしていいのか全く思いつかないで今思えばあまり密度の濃くない一年を過ごしたと思う。学年が上がるごとに自分が何をすればいいのかが見えてきて面白くなったが、最初からもう少し丁寧に教えてもらっても良かったと思う。各人に適した型があればその中で精一杯考えることも出来るだろうが、完全に自由にするとかえって戸惑う事も多いだろうからこそ適切なナビゲートが必要だ。
また、第二の理由は子どもが大人たちの完全な統制下に入りきらなくなってきているからだ。以前であれば子どもは親の考えていることの域を脱することなく成長した。しかし、私たちの親の代以降から急速に技術が進み親と子どもが共有できる体験が減ってしまった。今の親世代が子どもだった頃はファミコンは無かった。しかし、私たちの世代なら始まりはせいぜいスーパーファミコン、少し遅ければポケモンだ。親がカブトムシを育てたり空き地で走り回っていたような頃には私たちはピカチュウを育てていた(笑)。これでは親の考える型には到底当てはまらない。だからこそ型ではなく中身を弄くるように方針を変えたのだ。中身を重視するのは型に嵌めるのが難しいと考えられているからかもしれない。
確かに型にはまったステレオタイプな発想だけではグローバルな社会を生き抜けないと忠告する人もいるだろう。だが、多すぎる自由は人生を楽しくするのではなく少なすぎる自由と同じで疲れさせるのだ。より多くの自由を与えて制限無しに本来持つ発想力でのびのびと考えさせるのもいいかもしれない。しかし、良い先生、良い型に出会えれば自らの力を自分ひとりでやるより楽に引き出せるだろう。中身を大事にするあまり、先人の残してくれた型を無視するのは問題だろう。
講評 nane
小学校のときの理科の授業はいい例。
現在、図工の分野でも、自由に描かせて楽しむだけでおしまいという形の授業がある。芸術もスポーツも勉強も、人類がこれまで達成してきた文化を伝達することが主な目的だから、系統的な指導はやはり大切になる。このあたりを、自由という抽象的な言葉でつい勘違いしてしまう。
社会の発達が、型を伝えにくくしたというのもいい指摘。確かに、江戸時代のような社会では、親が子に伝える文化が大半を占めていたから、型の伝達もしやすかった。だからこそ、あの時代に文化が洗練されてきたのだろうね。でも、これからの日本がまさにこの江戸時代のような時代に入りつつあるところ。
「多すぎる自由は……」は、名言の加工だね。
今回も清書候補。
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