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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   血となり肉となる者   闇の女帝

 感情と言葉を一緒くたにしようと思うと、大変困難である。感情は言葉よりもずっと繊細だからだ。確かに日本語という言葉も繊細である。花に関する言葉は、日本が一番多いのではないのだろうか。しかし、感情と言葉の繊細さは少し違ってくる。感情の繊細さというのは、まるで鉛筆が鋭く尖っているような感じの繊細さだ。尖った鉛筆は、力の入れ加減によってポキリと儚く折れてしまう。感情も言葉で表そうとして無理やり表すと、本来とは意味の違った別のコトバになってしまうことがある。
 「言葉に表せないほど」とか「口で言えないほど」という表現には、その人がどれだけ繊細かというのが見えてくる言葉だと思う。言葉というのは、いつでも探究すべきものである。「言葉に言い表せないほど」という言葉を連発する人は、感情の繊細さが磨かれていないか、言葉の探究を怠っている人だ。言葉は無限大にある。その言葉を全て理解した人、掘り出した人こそ、言葉のスーパー偉人といえるのである。しかし、多くの人々は言葉を全て発掘する前に、自分の命が尽きてしまう。言葉は、生まれてから誰しも目指すべき永遠の宝なのである。宝を掘り当てるという行為こそが、生き様なのである。生き様が誰一人違うのは、掘り当て方が違うだけで、結局は皆、言葉の探究ということをしているのだ。
 ところが、感情というのは、感情の探究というのをしなくても、自然と自分で学ぶのだ。自分が生きていく中で初めて「誤解」というものがあるのに気付いたり、「憎しみ」「楽しみ」「嬉しさ」というのを、生きていく過程の中で身に着けていくのだ。そして、より多く感情の体験をした人こそが、鉛筆をより尖らせることができるのだ。
 しかし、この感情と言葉の成長が不釣り合いだったとき、精神の重心がぐらりとどちらかに傾いてしまうのだ。言葉は未熟でも心は大人、という人は何事にも敏感に反応し、自分の心を表すことに苦しさ、苛立ちを感じるようになるだろう。言葉は大人でも心は未熟、という人は自分の心にもないことを誇張して言ったり、表現の仕方が物足りなかったりするのだ。例えば、心が未熟な人が、花が咲いている様子を表すと「道にきれいな花が咲いていました。」で終わってしまう。ところが成長の仕方に釣り合いがとれている人は、「雨に濡れてしっとりとしているあぜ道の上に、薄桃色の小さくて愛らしい花が、ちょこんと咲いていました。」という素晴らしい表現ができるようになるのだ。 感情と言葉。切っても切れないこの関係。みなさんは気付いただろうか。
 人間にとって言葉とは、永遠の宝であり、備蓄しておくと将来自分と血となり肉となるものだ。

   講評   inoko

 闇の女帝さん、こんにちは。
言葉は決して万能ではない。自分のこの思いをうまく伝えられないと感じるとき、そう思い知るものだ。しかし、言葉は万能ではないと言いつつも、私たちはすべての言葉を知り尽くしているわけではない。だから、万能ではないと嘆くのはまだ早い。人間は、一生修業を続けていくものだと私は考える。言葉についても同様だ。いろいろな体験を積み、多くの人と知り合い、自己を磨いていく。その過程で、頭の中の言葉のタンクが次第に満たされていくのだ。そのタンクは決して満タンになることはない。だから、私たちは安心して言葉の修業を続けていけるのかもしれない。




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