言葉の森 話題の記事2011年

 言葉の森のホームページでこれまで話題になった記事を掲載しています。(2011/1/14-2011/9/9)


本物の国語の力をつける言葉の森の勉強

 言葉の森では、毎週1回の作文の勉強以外に、毎日家庭で取り組む自習の課題があります。
 その自習は、問題を解くようなものではなく、同じ文章を繰り返し読むという自習です。この同じ文章を繰り返し読むということが、国語力の最も確実な土台となっています。
 その一つは、暗唱用長文です(ただし、本人の希望により、自習として取り組むかどうかを選択できます)。暗唱の勉強というと、文章を覚える勉強と考える人がいますが、そうではありません。覚える勉強ではなく、何度も繰り返して声を出して読んでいるうちに、結果として覚えてしまうという勉強です。
 この暗唱の方法は、言葉の森が独自に開発した暗唱用紙を使って行います。仕組みはきわめて簡単で、100字の文章を30回読んで覚えることを基本に、1ヶ月で約1000字の文章を暗唱できるようにするという方法です。
 最初は、どの子も、そんなことは難しくてできないと思うようです。しかし、実際にやってみると、わずか10分でほとんどの子が、100字の文章をすらすら暗唱できるようになります。あとは、手順を追って毎日10分の自習を続けていけば、1ヶ月でだれでも簡単に1000字の文章が暗唱できるようになります。
 この暗唱によって、どのような効果があるのでしょうか。読む力と書く力と理解する力がつくのです。もちろん長い文章を覚える力もつきます。暗唱の練習をした子は、中学生や高校生になって英文や古典の文章を覚える必要が出てきたときも、暗唱の仕組みを知っていますから気楽に取り組むことができます。しかし、暗唱の本当の目的は、記憶力ではなく、理解力をつけることにあります。
 どうして暗唱によって理解力がつくのでしょうか。それは、長い文章を丸ごと自分のものにすることによって、その文章の中にあるさまざまな因果関係も丸ごと自分のものとして消化できるようになるからです。理解力は、初歩的な段階では文を理解することですが、高度な理解力になると、文の理解ではなく、文章の中に盛り込まれた考え方の理解になります。この考え方の理解が、理解力の本質で、それがすべての学力の土台となるのです。
 毎日の自習として、小学校高学年や中学生、高校生の生徒が行っているものは問題集読書と四行詩です(ただし、本人の希望により、自習として取り組むかどうかを選択できます)。これも、言葉の森の独自の勉強法で、入試問題集を読書がわりに読むことで、難しい説明文を読む力をつけていくものです。(2011年1月19日)

小1から始める作文の勉強が学力を育てる

 言葉の森では、幼稚園年長や小学校1年生から作文の勉強を始めることができます。しかし、幼稚園のころは、家庭で楽しくお父さんやお母さんと話をしているだけでも十分です。年齢的に無理なく始められるのは、ちょうど幼稚園から小学校に上がるころです。
 しかし、これから小学校1年生になる子は、文字がやっと書けるぐらいです。書けても、「く」の字が左右逆になっているようなこともよくあります(笑)。また、読むことにもまだあまり慣れていないので、声を出して読むことによって自分の耳で聞いて初めて理解するような読み方です。
 ですから、作文を書いても、最初に書けるのは2、3行です。また、書き方を先生や親が説明しても、一度で理解することはほとんどありません。会話をカギカッコで書いて行を変えるというようなことも、何度言ってもできないというのが普通です。しかし、それを無理にできるようにさせる必要はありません。
 では、そういう勉強で何が身につくのでしょうか。2、3行しか書けない作文を書いているぐらいなら、国語の問題集を解いたり、漢字の書き取りをさせたりする方がいいのではないでしょうか。ところが、そうではないのです。逆に、問題を解いたり、漢字の書き取りをしたりという勉強的なことをすると、かえって国語の力がつかないことも多いのです。
 それはなぜかというと、勉強というものを生活から分けて考え、勉強が済んだからあとは遊んでいいということで、テレビを見たりゲームをしたりしてしまう生活になりやすいからです。国語の力は、国語の勉強の中でつくのではなく、国語的な生活の中でつくのです。
 低学年からの勉強で、もっと問題なのは、勉強のときだけは親と子の接触があるが、勉強が終わると親は親の生活に、子供は子供の生活に分かれてしまい、親子の対話が少なくなってしまうことです。子供の国語力は、日常生活における親子の対話の中で育ちます。親子の対話が少ないのに、国語の勉強だけをしても、言葉の力は発達しません。
 子供が子供どうしで遊ぶというのはよいことですが、そこで楽しく遊んでいるときに交わす会話は、子供どうしのきわめて限られた語彙で通じるような内容です。語彙力のある子と語彙力のない子が一緒に楽しく遊ぶためには、その遊び仲間のいちばん語彙力の少ない子に合わせた会話をしなければなりません。小さい子供は、親との対話がなければ語彙の力を豊かに育てることができないのです。
 しかし、テレビやCDやDVDのような機械による音声で日本語に接するというのは、もっと大きな弊害があります。機械による学習は、子供の感情を破壊する面を持っています。特に、CDやDVDで聞かせる音声が、日本語でなく外国語であるような場合は、感情だけでなく知力の発達も抑制するようになります。
 しかし、もしこれまでそういう生活をしてきた場合でも、今からやり直せば間に合います。そのやり直しの基本は、親子で対話をする機会を増やすことです。そして、更に、本を読む時間を確保していくことです。
 ここで、言葉の森の作文の勉強を生かすことができます。言葉の森の勉強は、毎週1回作文を書く勉強ですが、そこに毎日の生活の中での読む学習、親子で対話をする学習を結びつけることができます。それが、長文の音読と暗唱、読書、作文を書く前の対話、作文を書いたあとの対話、子供の音読や暗唱をもとにした対話という学習です。
 毎日の生活の中で、日本語を読む機会、聞く機会、話す機会を増やし、しかも、その内容を意識的にレベルの高いものにしていくというのが、国語力を育てる最も優れた方法なのです。(2011年1月21日)

小学校1年生から始めて受験の作文につながる勉強

 言葉の森は、もともと大学生の作文指導の教室からスタートしました。その後、高校生の小論文指導や、中学生、小学生の作文指導へと指導を発展させてきました。
 ですから、小学生の作文指導をする際にも、中学高校へと勉強進めていく土台となるような勉強の仕方をしています。この小1から高3までの指導の一貫性が、言葉の森の作文指導の特徴です。
 学校や塾で小学生の作文指導ををするときは、その学年で上手な作文を書くことが目標にしてなりがちです。そのため、小学校4年生ぐらいになると、文章を書くことが好きな子は、その学年としてはほぼ完璧な作文を書くことができるようになります。どのようなテーマでも、自分なりに個性的な実例と印象的な表現で書き進めていくことができるので、保護者や先生は、これで作文の指導は一段落したと思いがちです。
 しかし、言葉の森の作文指導は、小学生のころに上手な作文を書くことで終わりになるわけではありません。言葉の森では、小学校5、6年生から説明文・感想文の指導に移っていきます。
 中学生で本格的に意見文・感想文の練習が始まると、小学生のころまで上手に書けていた子供たちが、途端にうまく書けなくなり、多くの子が作文に苦手意識を持つようになります。
 小学校高学年や中学生の課題は、テーマが抽象的になってくるので、そういう抽象的な課題を考えるための語彙力がまだ育っていない時期は、作文が一時的に下手になるのです。
 しかし、中学生で意見文の練習を始めた子は、たとえ途中でやめることになっても、構成的に作文を書く方法を理解しているので、高校入試や大学入試の作文小論文試験の際に、それまでに勉強したことを生かすことができます。
 抽象的な課題の作文力の土台となる語彙力が備わってくるのは、中学3年生のころからです。中学3年生になると、自我が成長し、勉強も自覚的に行えるようになるので、作文の力も安定してきます。中学3年生で作文が上手に書ける子は、そのまま高校生になっても大学生になっても、その文章力の基本を維持することができます。
 高校生以上の作文の勉強は、考える力をさらに深めていくという形で上手になっていく勉強です。ですから、中学生高校生の作文の上達は、難しい文章を読んだり考えたりする時間がどれだけあるかということと比例しています。
 作文の力は、読む力と比例しているので、読む力が向上してくると、ある時期から突然、作文が上手になるということがあります。
 これまでの例では、小学校4、5年生のころまではいつもふざけていい加減なことばかり書いていた子が、好きな本のジャンルができ、それらの本を読んでいるうちに、小学校6年生から突然作文が上手になり、中学高校とめきめき学力を上げていったということがありました。
 また、小学生のころから成績はよく真面目に勉強はしているものの、作文はごく普通に書けるという程度だった中学1年生が、自然科学系の部活でやはり好きなジャンルの本を読むようになると、高校生の後半からぐんぐん作文が上手になっていったという例もありました。
 作文の勉強は、書き方を教えてすぐに効果が出る面ももちろんありますが、本当の実力は、読む力をつける中で少しずつ蓄積されて行き、ある日突然開花するものです。
 作文の勉強をする上で大事なことは、今の学年で上手に書くことばかりでなく、先の学年に進んだときに質の違う上手な作文を書けるようになるという展望を持って勉強を進めていくことです。(2011年1月27日)

作文試験物語―小1から言葉の森で勉強していたA君が高校入試の作文試験に臨む

 以下は、小学校低学年のころから言葉の森で作文の勉強をしていた子が、中学生、高校生になって受験を迎えたときのひとつの典型的な例です。実際に教えた複数の生徒をモデルにしています。
 A君は、小学校1年生の途中から言葉の森を始めました。毎日課題の長文を音読するという自習があったので、ときどきさぼりながらも、一応音読をするという習慣を続けていました。課題の長文を音読していると、それを聞いているお父さんが、「へえ、面白い話だなあ」と割り込んできて、途中から楽しいお喋りになることもよくありました。
 小学生のころは、楽しく作文を書いていました。特に、小学校3、4年生のころは、家族の内緒の話を書いたり、自分の失敗をした話を書いたりして、家族みんなで大笑いすることもありました。小学校4年生のとき、そのひとつが、小学生新聞に入選したことがあります。担任の先生がそれに気づいて、クラスみんなの前でその作文を発表し大受けしました。
 小学校5年生になると、言葉の森の作文の課題は急に難しくなり、感想文が中心になってきました。しかし、楽しい作文は、もう小4までにたっぷり書いたので、小5の難しい課題はむしろ新鮮でした。
 小5の課題の長文を家で音読していると、時々お母さんが、「ええ、そんなに難しい話、読んでわかるの」と聞いてきたことがあります。確かに難しくてよくわからない箇所もありましたが、そういう難しい課題に取り組んでいるということがちょっと誇らしい気持ちにもなりました。
 高学年になると、友達は、みんな塾に行き始めます。作文の勉強のようなマイナーなことをやっている人は、周りにはいません。少し不安な気持ちもありましたが、小学校1年生からやっているのだし、通信教育の担任の先生も、今では学校の先生よりずっと長く教わっている先生で、自分のことをよく知っていてくれる先生なのでやめるつもりはありません。難しくて大変だなあと思いながら、そのまま勉強を続けていきました。
 中学生になると、部活と定期テストで、学校生活はかなり多忙になってきます。言葉の森は、週1回同じペースで授業があるので、定期テストとぶつかるときは休みにしてしまうこともあります。しかし、通信教育なので、自分の都合のいい時間帯に授業を受けることができるし、休んだ分は別の日にふりかえることもできるので、何とかやりくりをして続けていくことができました。
 作文の勉強をしていることは、中学の学校の勉強との関連でいうと、直接的なメリットはあまりありません。しかし、レポートを提出したり、感想文を書く宿題が出たりしたときは、みんなが苦労している中、ひとりで楽に仕上げることができました。
 また、国語の勉強については、小学生のときから言葉の森をやっているという意地のようなものもあるので、毎回高得点を取ります。漢字や文法の問題は勉強しなければいい点は取れませんが、読解問題はこれまで難しい長文を読んできた蓄積があるので、全然勉強していかなても高得点が取れるのです。
 中学3年生になり、受験が迫ってくると、みんな勉強に拍車がかかりだしました。A君も、中3の夏休みごろから、猛烈に勉強し始めました。すると、みんなも同じように勉強しているはずなのに、A君の成績はどんどん上がっていくのです。学校の先生は、「考える力のある子は、やりだすと伸びるのも速いんですよ」と言ってくれました。A君は、小学生のときからずっと難しい長文を読んできたから、それで考える力がついたのだろうなあと思いました。
 言葉の森の作文の勉強をしていたことが結果的に役立ったのは、高校入試の推薦試験の枠に、作文の試験があるとわかったときです(笑)。しかし、これまで、そのような試験向けの作文の勉強をしていたわけではありません。どうしようかと思って、言葉の森の先生に聞いてみました。
「入試向けの作文って、難しいんですか。どういうのが出るんですか」
 すると、先生の答えは、意外にも、
「確かに難しいけど、君は、これまで勉強していたから大丈夫だよ」
でした。
 中学生の作文の課題は、そのまま高校入試にも、大学入試にも生かせる内容だったのです。A君は、どうりで毎週の勉強が難しいはずだったと思いました。
 入試向けの受験コースは、過去問に合わせてやっていきます。しかし、その学校は過去問が公開されていなかったので、一般に出そうな題名で受験作文の練習をすることにしました。
 A君は、それから約2ヶ月間、受験用の作文の課題を練習しました。どの課題も、これまで練習してきた作文の延長で書くことができました。A君は、作文を書きなれているので、スピードと字数には自信があります。先生も、「試験は大丈夫だから、自信を持ってやっておいで」と言ってくれました。
 ところが、実際の試験では、全然予想していなかった課題が出ました。Σ(゜□゜;)ガーン(。□。;)ガーン(;゜□゜)ガーン!!
 言葉の森の課題は、全体に真面目なものが多く、本格的な小論文の練習ということでやっていましたが、入試にで出た課題は、最近の流行語とコマーシャルをもとにしたかなりくだけたテーマでした。
 A君は、毎日部活で夜遅くまで練習をしていたので、テレビを見るような時間はほとんどありません。だから、課題で出た流行語とコマーシャルも、どこかで聞いたような記憶はありますが、意味がよくわからないものでした。しかし、わからないと言ってあきらめるわけにはいきません。
 ここで、A君のがんばりが出てきました。せっかく、小学生からやってきた言葉の森の勉強です。作文の課題の意味がよくわからなかったからということで引き下がるわけにはいきません。A君は、これまでの作文の練習で書いた実例を思い出して、テーマに合いそうな話を書き進めていきました。
 いったん書き出すと、書くスピードには自信があります。時間にだいぶ余裕がある状態で結びの段落まで来ました。結びの5行は、格好よく決めなければなりません。結びの表現を決めるということは、先生に言われたわけではありませんが、これまでの言葉の森の勉強で自然にそういう感覚が身についていたのです。
 A君は、書き出しのキーワードとテーマのキーワードと、最後の意見の内容をじっくり眺めて、格好のよい結び方を考えつきました。書き終えたあと、全体を読み直してみると、テーマの意味がよくわからないにもかかわらず、かなりうまくまとまっています。A君は、もうこれでいいやと思いました。
 試験が終わり、言葉の森の先生に会って、どんな問題でどんなふうに書いたのかを話しました。ひととおり話し終わると、先生は、「うん、合格だ」と言いました。A君が、「ええっ! でも、課題の意味が全然わからなかったんですよ」と言うと、先生は、「結びに光る表現を入れるぐらいだったら、まず大丈夫」と言いました。
 合格発表は一週間後でした。推薦入試と言っても倍率はかなり高かったようです。A君は、不安な気持ちで合格発表を見に行きましたが、掲示板にはしっかりと自分の番号がありました。(2011年1月30日)

伝統、担任制、ふりかえ授業―言葉の森と他の作文教室との違い(その1)

 世の中には、言葉の森以外に、さまざまな作文教室や国語教室があります。
 ときどき、問い合わせの方から、「どういうところが違うのですか」という質問を受けますので、今回はそれを説明します。
 第一は、作文教室の中で最も古くから始めているということです。長い伝統があるので、指導のノウハウもいちばん多く蓄積されていると思います。
 これは、言葉の森のホームページをごらんになるとよくわかります。言葉の森のホームページは1996年から開設しているので(言葉の森の開設自体はもっと以前から)、その当時の生徒の作品や指導の記録が残っています。そのころ小学生だった生徒は、みんなもう立派な社会人です。
 第二は、通信指導なのに、担任の先生からの電話による説明が毎週あるということです。担任の先生が決まっているということは、生徒によっては、同じ先生に小学生のころからずっと何年間も担当してもらうこともあるということです。
 作文の内容というものは、添削した先生は意外とよく覚えているもので、電話指導中に、「そういえば、○○君はもう中学生だけど、小学生のときにこんなこと書いていたじゃない」などという話になることもあります。
 この電話による担任制度というものは、少人数の教室でなければできないので、言葉の森以外にはやっているところはないと思います。言葉の森の生徒は現在約1000名ですが、その1000名の生徒を約80人の担当の先生が毎週電話で指導するという体制をとっています。
 第三は、授業のふりかえや質問などが随時できるということです。電話指導の時間に電話に出られないということは、だれでもときどきあります。そのときに、ほかの曜日や時間にふりかえて、その週の授業の説明を聞くことができます。
 また、電話指導の時間帯もかなり幅が広いので、部活などで帰りが遅い生徒も、遅い時間帯に授業を受けることができるようになっています。
 これらの事情から、言葉の森の作文指導は、通信指導でありながら毎回の提出率がきわめて高いという特徴を持っているのです。(2011年2月1日)

作文だけの専門指導―言葉の森と他の作文教室との違い(その2)

 第五は、言葉の森の作文指導は、作文だけの専門の指導だということです。
 作文教室という名前をつけているところでも、作文だけの指導をしているところは実は少なく、ほとんどは国語の勉強の一部として作文もやっているという形のところが多いと思います。それは、なぜかというと、国語であれば教えることはたくさんあるが、作文では教えることがあまりないからです。
 言葉の森は、それとは逆です。国語の勉強のようなことは、自分の力だけでもできる勉強です。特にだれかに教えてもらう必要などありません。
 国語の得意な生徒を見ればわかるように、それらの子供たちは国語の勉強の仕方を特にだれかに教わったから得意になったというわけではありません。学校の勉強にも、塾の勉強にも関係なく、ただ生まれつき国語が得意だったという子がほとんどです。
 しかし、実は、それは生まれつきではありません。ひとことで言えば、難しい文章を読む習慣があり、その文章を理解して考える習慣があるから国語が得意になったということです。ですから、国語力は、低中学年では多読力に、高学年では難読力に比例しています。
 言葉の森で勉強をしているとなぜ国語力がつくかというと、小学校高学年からは難しい長文を読んで感想文を書く勉強が中心になっているからです。
 そして、更に重要なことを言うと、今の中学、高校での国語の授業における国語力には、作文力はまず含まれていません。中学、高校では、作文の授業をすること自体が難しいからです。そのため、中学生や高校生で国語が得意だと思っている生徒でも、その国語力は作文力を除いた国語力であることを自覚している人はあまりいません。
 しかし、社会に出てまずいちばんに必要な国語力は、この作文力、表現力で、その次が読解力です。読解力は、正解がほぼ決まっていますから、できるできないの差があるというのは、国語の苦手な人も含んだ場合の話であって、あるレベル以上の人になれば読解力の差はなく、みんな同じように文章を読み取る力を持っています。すると、最も大きな差になるのは、作文力、表現力の方なのです。
 この作文力は、他の教科の勉強と違い、独学で身につけるのが最も難しいものです。それは、作文を書く勉強というものが、他の教科の勉強に比べて負担の大きい勉強であることもありますが、それよりももっと本質的な違いは、作文というものが自分で評価できない面を持っているからです。
 自分の書いた作文は、自分で評価することはできません。これが、正解が決まっている他の教科の勉強との最も大きな違いです。そのために、作文以外の教科の勉強は、よい参考書と問題集があれば自分ひとりの力でも勉強を進めていけますが、作文だけは第三者に評価してもらう必要があるのです。
 言葉の森が、作文指導を専門にしているのは、このような事情があるからです。そして、作文の指導をする中で、文章を読む力も自然に育っていくのです。ただし、自然に育つとは言っても、その際の最低限の条件として、毎日何らかの形で文章を読むという習慣を作っておくことは必要です。(2011年2月1日)

独自のノウハウ―言葉の森と他の作文教室との違い(その3)

 言葉の森と他の作文教室や国語教室との違いを続けて書いていきます。
 第六は、作文の添削だけではない独自のノウハウが多数あることです。
 作文の添削というものは、だれでもその人の文章力や文章のセンスの範囲でだれにもできます。そこに、特に複雑なノウハウがあるわけではありません。しかし、作文の添削ができるからといって、その添削指導を何年間も続けられるかというと、そういうことはありません。数回添削をすると、上手に書ける子については、もうそれ以上特に要求することがなくなるからです。
 小学校高学年以上になると、作文の指導が少なくなるのには、このような事情もあります。小学校低学年のころには、正しい表記に関することで教えることがたくさんありますが、高学年になると、よく書ける子にはもう教えることがなくなってくるのです。
 しかし、教えることがなくなるのは、事前の指導の目標がなく、ただ書かせたものを添削するという方法で指導をしているからです。言葉の森の指導の特徴は、事前に、どのテーマをどういう方向でどんな表現を工夫しながら書いていくかという指導があります。その指導に沿って評価をしていくので、小学生から高校生まで一貫した指導ができるのです。
 また、作文は、書く練習をするだけでは力がつかない面を持っています。読む力がない子は、語彙力も乏しいわけですから、そのような子に、書く工夫をさせるだけで上手に書かせることはできません。語彙力という土台がどれだけあるかということが、書き方を教える以前に重要です。しかし、語彙力は、ドリルのような勉強では身につきません。語彙力は、ある程度の難しさを持った文章を心を込めて読む中で身についていきます。だから、本をよく読んでいる子は、作文の勉強を始めると上達が早いのです。
 言葉の森では、この語彙力をつける練習をするために、作文に使える文章を暗唱したり、難しい語彙の文章を繰り返し読んだりするという自習を行っています。作文を書く指導だけでなく、読む指導も含めていることが言葉の森の勉強の特徴です。
 また、作文を書くことについても、言葉の森は独自のノウハウを持っています。構成をあらかじめ決めて書くというのもそのひとつです。言葉の森では、構成の仕方や表現の仕方について、いくつもの指導のパターンを持っています。これが生きてくるのは、受験の作文や小論文に取り組むときです。
 受験の作文課題には、どう書いていいか見当のつかないような書きにくいテーマが出ることがあります。しかし、言葉の森では、どのようなテーマが出されても、そのテーマをどういう切り口で書くかということを、理屈で説明することができます。その切り口が、構成の仕方なのです。例えば、「一つの意見と複数の理由」「複数の意見と総合化のまとめ」「社会問題と複数の原因」などという構成の仕方を、テーマごとにあてはめて説明することができます。
 この構成をあらかじめ決めて書くという書き方にどういう利点があるかというと、どんなに書きにくいテーマであっても、最低限の骨組みはできるということです。骨組みさえできれば、文章力のある子は、合格圏内の作文を書いてきます。合格するかどうかは、採点者の主観もからむので微妙なところがありますが、少なくとも合格圏内に入る作文は書けるというのが、この構成を重視した指導法です。(2011年2月2日)

暗唱と問題集読書―言葉の森と他の教室との違い(その4)

 言葉の森が行っている独自の指導法には、構成作文、森リン採点などのほかに、暗唱指導、問題集読書などの自習の指導もあります。
 言葉の森では、世間で音読の重要性が唱えられるずっと前から独自に長文音読の指導をしていました。しかし、真面目に長文音読をする子は実力がつくのですが、音読は飽きやすいという弱点がありました。
 そこで考えたのは、暗唱です。音読にしても、効果があるのは、同じ文章を繰り返して読み、その文章を丸ごと自分のものにしたようなときです。しかし、学校などで行われている音読のほとんどは、教科書に載っている文章を何度か音読するだけで、とても丸ごと自分のものにするところまではいきません。そこで、音読よりも、最初から暗唱を目標に文章を読むようにしたのです。
 暗唱といっても、何も方法がない中で、ただ暗唱してきなさいと言ったのでは、ほとんどの子が挫折します。言葉の森の暗唱は、毎日10分の練習だけで、例外なくだれでも1000字の文章が覚えられる暗唱です。ただし、大事なことは文章を覚えることではなく、覚えることを目標にする中で同じ文章を繰り返し読むことです。
 同じ文章を繰り返し読むことが目的ですから、方法は、読書でも、音読でも、暗唱でも何でもいいのです。しかし、黙読で同じ文章を繰り返し読むということは、その文章によほど興味がないかぎりなかなかできません。また、音読も繰り返し読むということをしっかり自覚していないとまずできません。その点、暗唱は、覚えるという目標がはっきりしているので、繰り返し読むことが自然にできるようになるのです。
 ただ、暗唱もやはり同じように毎月1000字の文章を暗唱できるようになるだけでは変化がなくて飽きる面もあります。そこで、今後は、暗唱検定のような形で成果がはっきりわかるような工夫をしていきたいと思っています。
 問題集読書も、言葉の森が独自に行っている自習です。これは、やり方自体は簡単で、問題集をばらして分冊にし、それを毎日4-6ページ読んで四行詩を書いてくるという練習です。これも、大事なことは、一回で終わるのではなく、最後まで読み終えたらまた最初から読み直し、1年間で1冊の問題集を4回以上繰り返し読んでいくことです。
 問題集読書は、ただ読むだけでは形として残らないので、自分なりに気に入ったところを選んで四行詩を書くようにしています。しかし、毎日しっかり読んでいて、考える力のある子は、毎週優れた四行詩を書いてきますが、勉強の自覚があまりない子は、問題集を読むよりも、形に残る四行詩だけを書いてくるということになりがちな面もあります。そこで、今後は、いちばんの目的は毎日読むことで、四行詩はその副産物だということを徹底させていきたいと思っています。(2011年2月2日)

小学生から高校生までの一貫指導―言葉の森と他の教室との違い(その5)

 第四は、小学校1年生から、高校3年生までの長期間の展望を持って作文指導をしていることです。
 言葉の森は、もともと大学生の文章指導の教室からスタートしました。それを、高校生や中学生や小学生の作文指導にも広げていったのです。ですから、最初のころの小学生の指導は、かなりレベルの高いものでした。小学校4年生のぐらいの子に、今の6年生が勉強するのと同じようなことを教えていました。しかし、当時の子供たちはなぜか、どの子も文句を言わずに勉強していました。
 今、学校や他の国語教室などで教えている作文は、その学年で上手に書くことを目的にしたものが多いと思います。小学生が、小学生のときに上手な作文を書くことももちろん大切ですが、もっと大切なのは、中学、高校に進んだときに必要な力をつけていくことです。
 わかりやすい例で言うと、生活作文における情景や心情の描写力は、小学生のときには高い評価を受けますが、中学生や高校生になったときに書く意見文や論説文の文章ではあまり書く機会が出てきません。意見文や論説文で重要になるのは、社会実例を幅広く入れる力や、自分の意見に対する反対意見を考える力などです。
 一般に、女の子は、会話やたとえや心の動きなどを上手に書くことができます。男の子は、そういうことにはあまり関心がなく、それよりも、数字や名前など堅い説明を書くことに関心を示します。これは、文章力の差ではなく、興味や関心の差なのですが、小学校の間は、女の子的な作文の方がずっと高く評価されます。
 しかし、言葉の森では、中学生や高校になったときの展望があるので、数字や名前や説明中心の味気ない男の子の作文にも、将来優れた意見文を書く素質があることを見抜きます。学校の先生やお父さんやお母さんが、決して上手だと思わないような作文の中に、実は将来伸びる可能性があるのを見ることができるのです。(2011年2月3日)

高校入試の作文試験 合格体験記

 高校入試の作文試験に合格したO君が体験記を書いてくれたので紹介します。
 これから作文試験を受ける人は、次の点を参考にしてください。まず第一は、過去問をもとにして自分で書いた作文を繰り返し読んでおくことです。第二は、受ける学校に関連した本を読んでおくことです。(大学入試なら受験する学部に関連した本、高校入試や中学入試なら学問や人生に関する本)
 これから少子化が進むと、受験の形態も次第に、時間をかけてじっくり評価する小論文や面接が中心になってきます。普段から本を読んだり文章を書いたりする習慣を持つことが大切です。

合格体験記  中3 渓翡翠 (名前はペンネームです)
 第一志望の高校に合格した。
 しかも、難しい前期選抜でだ。
 他人に自慢できるような内申点があったわけでもないのに、なぜだろうか? やっぱり、作文がよかったのだろうか!?
 私が受けた試験の内容は、午前中に作文試験、午後に面接試験だった。
 この、高校に行って最初に始まった作文試験。普通の人なら、かなり緊張してしまって、なかなかいい文章を書くのは難しいと思う。しかし私は、事前に作文試験の過去問題をゲットし、練習していて、言葉の森の先生に添削して貰ってかなり自信をつけ、しかもその作文を持っていって、それを読みながらシミュレーションしていたので、まったくといって良いほど緊張しなかった。試験官の、「はじめ」という声を聞いて、「アー始まっちゃったな、よしがんばろうっと」という具合である。
 しかし。一生が決まるといっても過言ではない高校入試は、甘くはなかった。作文用紙を見て私は愕然とした。
 なぜか。驚いた点は簡単に言って2つあった。
 1つめ。時数制限があり、800字しか書けなかった。800字くらいだと、逆に喜ぶ人もいるかもしれない。「やった!! 僕作文苦手だけど、800字くらいなら何とかなるかも!!」というふうにである。しかし、私は違った。普段から言葉の森で1200次以上の作文を書き、その時数に慣れっこになってしまっていた私は、かなり困った。過去問で練習した時も、「まぁ、時数制限なんてないだろうから、書けるだけ書きまくってやる」と考えて、1200字くらいの文しか書いていなかった。そのせいで、考えや書きたいことを短くまとめるのが大変だった。実際、書きたいことが、かなり書けなかった。それでも、言葉の森で使う要約の技術なんかを駆使して、何とか800字に収めることが出来た。
 2つめ。作文のテーマが、過去のものと大きく違っていた。私の受けた学校は商船の学校で、作文試験のテーマも「船員として広がる私の夢」だとか、「君にとっての船」といった、「自分の夢や考え」を強調しやすいものだったのだ。だが、私が受けた作文試験のテーマは「船・自動車・鉄道・飛行機・世界・環境、これらの言葉を使ってあなたの意見を書きなさい」。正直、どんなことを書けばいいか分からなかった。自分の考え、というよりもいろんなデータを重視する試験内容だからだ。でも、よいことがあった。言葉の森の先生に、「出来るだけたくさん、船の話や本を読め」といわれて、そのとおりにしていたので、読んだ本のデータなどを基にして、データとともに自分の考えをうまく書くことが出来た。言葉の森でいろんな練習をつんでいたおかげで、急に変わった試験内容と環境にも対応できたのである。
 かくして、私は合格した。(2011年2月7日)

これから必要になる作文力―そして、作文教室の選び方

 「作文力がこれから必要らしいけど、それはどうして」「どの教室がいいの」などということにお答えする記事です。
 日本の戦後の教育を特徴づけているものは、○×式試験中心の学習による学力の低下という問題です。
 ○×式試験は、知識を詰め込めば、だれでも何とか成績が上がるという試験で、これがこれまでの日本の教育の中心になっていました。
 例えば、現在、日本の小中学校、高校で行われている試験の中には、子供たちの学力に結びつかないどころか、受験にさえ役立たないような瑣末な知識問題が出されることがあります。これは、結局、教える先生が○と×で生徒の成績の差をつけやすくするためだけに出すようなものです。
 これは、学習塾でも同じで、進学塾での勉強の中には、受験には必要のないものもかなりあります。しかも、それぞれの教科の担任が自分の教科だけを考えて宿題を出したり試験を行ったりするので、子供たちの多くは時間不足に追われています。そして、子供らしい生活を犠牲にしてまで勉強することにより、塾の中での成績は上がるが、本当の実力はついていないという事態が生まれているのです。それは、勉強の中身が○×試験に対応したものになっているからです。
 大学入試でも、事情は同じです。予備校などのデータをもとに高度な情報戦として行われる大学入試は、よい成績を上げるためには、膨大な知識をいかに効率よく習得するかというテクニックの競争になっています。
 東大、早稲田大、慶応大など、優秀な生徒が行くと思われている大学でも、与えられた答えを見つけることは得意だが、自分で問題を発見したり創造性を発揮したりすることは苦手だという学生が増えています。一部の大学では、小論文の入試を導入していますが、受験の合否を決めるのは、やはり知識の量になっているからです。
 既に、企業の中では、学歴と知識はあるが、仕事をする実力がない社員が問題になっているようです。それは、これまでの学力が知識の量で測られるものであり、それが受験体制の完成に伴ってますます強化されるようになってきたからです。知識はあるが実力がないという若者たちは、この受験体制に過剰適応した結果なのです。
 今後の日本の教育では、この○×式の詰め込み勉強の見直しが急速に行われていくと思われます。
 その理由の一つは、少子化の進行で入学試験の採点に余裕ができるため、知識の有無を試すような問題から思考力を見る問題に試験の内容が変わってくるからです。
 これはすでに、公立中高一貫校の作文試験や、高校入試における作文試験の導入、大学入試への推薦小論文の広がりなどで見られるようになっています。
 作文力がなぜ必要かというと、書く勉強することによって、読む力や考える力をつける勉強も自然に必要になってくるからです。
 これまでの教育で評価されていた○×式の学力は、与えられた答えをいかに見つけるかという要領のよさを競うような学力でした。これから必要になる学力は、与えられた条件から自分で問題を発見し、それを創造的に解決するという学力です。
 このような世の中の動きを反映して、小学生向けの作文教室や作文講座も増えています。しかし、こういうところで紹介されている面白そうな教材は、導入部の教材ですから、一見楽しそうに見えてもそれがそのまま作文の学習につながるわけではありません。語句や短文を埋めるようなやりやすい勉強と、自分で600字から1200字を書く作文の勉強とでは大きな違いがあるのです。
 なぜこういうことが言えるかというと、昔、ある大手の通信教育の作文講座を担当する人が、言葉の森に作文の指導法を聞きに来たことがあるからです(笑)。こちらは別に秘密にすることもないので、持っている資料を全部渡して説明してあげました。つまり、指導する中身があって作文講座を作ったというわけではないのです。
 言葉の森のホームページは、指導のノウハウをすべてオープンにしています。ですから、言葉の森の教え方を参考にして指導している教室も全国にはたくさんあります。しかし、本当の実力をつけるなら、やはりオリジナルな教材のある言葉の森で始めることがいちばんの近道です。
 実際に、言葉の森では、これまで、中高一貫校の作文試験や、高校入試の推薦作文試験、大学入試の小論文試験などに多くの実績をあげています。小学校の1年生から始めて、中学生、高校生(大学生、社会人の生徒もいますが)までの作文指導を専門的に行っている教室は、全国でもほかにはないと思います。
 しかし、これから必要になる作文力とは、単に目の前の作文試験のためだけに必要なのではありません。将来、自分でものを考えて創造的に表現する力をつけるために、作文を書く勉強を低学年のうちから進めていく必要があるのです。(2011年2月14日)

作文の勉強で親子げんか―親はもっと子供のよいところを見て

 言葉の森を始めてまだ間もない小学校高学年の生徒のお母さんから相談がありました。子供が作文が書けないというので、親子でけんかになってしまったようです。あらあら( ▽|||)\( ̄ ̄*)
 しかし、これは作文の勉強の問題ではなく、親子のコミュニケーションの問題です。作文がなぜ書けないかというと、課題が難しいからという理由もありますが、もう一つ大きな理由が、作文を書くと必ず何かしら注意されるので書くことを嫌になるということがあります。
 「何でも自由に好きなことを書いてごらん。書き終わったあと、たっぷり欠点を注意してあげるから」と言われて、喜んで書く子はひとりもいません。
 これは、お父さんやお母さんが何かを表現する場合を考えてみるとよくわかると思います。例えば、「何でも自由に好きな歌を歌ってください。歌い終わったあと、欠点をたくさん注意してあげますから」と言われて、のびのびと歌う人はまずいないでしょう。
 作文の勉強は、○×式の評価をする勉強とは全く違うのです。この子も場合も、たぶん作文を書き終えたあと、お父さんやお母さんに、表現のおかしいところなどをいろいろ注意されたのだと思います。
 よく保護者の方から、「褒めるばかりでなく、もっと直してほしい」とか、「こういう表現がよいと、先生が手本を示してほしい」というような要望を受けることがあります。
 しかし、手本を示すようなアドバイスは、教える先生の自己満足になるだけで、子供には何も身につきません。また、作文の表現を直すのは簡単ですが、直すことによって作文が上手になるわけではありません。それよりも、直す指導ばかりをしていると、ほとんどの子が作文を書けなくなってしまうのです。
 直す指導は、先生と生徒の間に信頼感があり、生徒に直すことを受け入れるだけの自信があることが条件になります。作文の勉強は、機械的に○や×をつけるものではありません。勉強しているのは先生と生徒という人間どうしなのですから、様子を見ながら進めていく必要があるのです。
 よいところを褒めることによって作文の実力はつきます。しかし、指導法がなくただ褒めるだけでは、作文は上手にはなりません。
 言葉の森の作文指導でなぜ実力がつくかというと、褒めることが中心の指導であっても、進度が進むにつれて難しい課題が自然に出てくるので、それを消化するする中で必ず実力がついてくるからです。
 また言葉の森では、読む勉強にも力を入れています。作文という表面にあらわれた花の部分を直すのではなく、読む力という根の部分から直していくことが大事です。
 作文を上達させるコツは、
1、言葉の森の課題に沿って書いていく(小5から課題は急に難しくなります)
2、子供が書いたものを親は常によいところを見て褒める
3、その一方で毎日の読書や暗唱の自習を続ける
ということになります。
 たまに、作文を書くのが大変だからと、小学校3、4年生で作文の勉強をやめてしまう子がいます。これは、かなりもったいないことです。小学校の3、4年生は、作文も読書もいちばんはかどる時期です。この時期に作文を書くのが負担だというのは、何か大きな勘違いのある勉強法をしているからです。
 作文の勉強が難しくなるのは、小学校5年生からです。この時期からは、書くことが負担になるのはやむをえません。しかし、ほとんどの子供たちは、この苦しい勉強を自分自身の実力の向上と結びつけてがんばって取り組みます。
 小学校高学年になると、塾の時間との兼ね合いで、作文の勉強が時間的に両立できなくなる子も出てきます。その場合は、いったん休会して、受験が終わって中学生になってからまた再開すればいいのです。作文を書く勉強は学年が上がるほど、考える力を必要としてきます。
 これからの時代に最も必要になる思考力と表現力と創造性を育てるために作文を勉強するのだという長期的な展望を持って取り組んでいきましょう。(2011年2月17日)

中学入試、高校入試の志望理由書の書き方

 志望理由書の書き方ということで、書店にはいろいろな本が出ています。書く内容は、それらを参考にしていただくことにして、ここでは、それらの本にはあまり書いていないことを説明したいと思います。
 第一は、子供任せにしないことです。志望理由書は本人が書くという建前になっていますが、小6や中3の子供に任せて、いいものが書けるはずはありません。と書くと言いすぎですが、ここはやはり親が全面的に協力して内容を煮詰めていくことです。
 第二は、明るい内容、面接で話題にしてほしい内容に絞ることです。明るさというのは、志望理由書以外に、作文の試験の場合も重要です。文章がうまければよいというのではなく、自分の好ましい人柄がにじみ出るように書いていくことが大事です。
 第三は、勉強の話を中心にしていくことです。学校は勉強をするところです。それなのに、部活や友達や趣味の希望をたっぷり書いてしまう人がいます。学校で青春を楽しみたいという気持ちはわかりますが(笑)、勉強をしにいくのだという原点を大事にしておかなければなりません。その学校に入ったら、どんな勉強を何のためにどういうふうにやっていきたいかということを書いていくことです。
 第四は、書くスタイルです。よく直接鉛筆で書いて、手書きの原稿を推敲している人がいますが、それでは十分な推敲はできません。まず最初に、自分が普通に書くぐらいの字の大きさで、読み手にとって見ににくない程度の文字で2、3行手書きで書いてみます。そして、1行の平均的な字数を数えます。そのあと、その字数と行数に合わせてパソコンで下書きを書いていきます。パソコン上で推敲を十分に行ってから、最後は手書きで清書をするようにします。
 第五は、書いたものは、必ず書いた本人以外の他人に見てもらうということです。本人がアピールしたいと思っていることと、相手に実際にアピールすることとは違います。どういう内容がアピールするかというと、ひとつは挑戦したことがわかる話、もうひとつは継続したことがわかる話で、これらに客観的な裏づけのあるデータを入れて書きます。客観的なデータとは数字や固有名詞のことで、例えば、「○年間、○○の委員長を務め、○○という工夫をして、○○パーセントの成果を上げた」というような書き方です。
 志望理由という言葉から、自分の希望を中心に書いてしまいがちですが、未来の話はだれも同じようなものになりがちです。自分らしい過去の実績を盛り込みながら書いていくことが大事なのです。(2011年1月20日)

国語、作文の苦手はあとあとまで続く―小1から国語、作文を得意に

 小学校1年生の国語の勉強は、まだ初歩的なものでだれでも楽しくできると思っています。ところが、このだれでもできる国語の勉強で、小学校1年生に既に大きな差がついています。それは作文を書いてみるとわかります。
 小学校の低学年では作文をじょうずに書く必要はまだないのですが、作文を書くと、その子の国語力がその作文に表れてきます。
 低学年のころは、漢字も読解もやさしいので、国語力の差は出てきません。だれでも同じようにできるので、だれでも国語の力があると思ってしまいます。しかし、実は表面に出ない大きな実力の差があるのです。
 なぜかというと、子供たちの家庭での日本語環境の差があるからです。毎日本を読んでいる子と、毎日テレビしか見ない子とでは、日本語の語彙力に大きな差があります。ところが、低学年の国語の勉強はやさしいので、どの子も同じようにできてしまいます。
 しかし、やがて学年が3年、4年と上がり、読む文章の質が変わってきます。すると、もともと国語の得意だった子は、国語の勉強が楽しくなりますが、あまり国語の実力がなかった子は、次第に国語が苦手になってきます。
 学年が5年生以上になると、国語力の差は決定的になってきます。しかし、このころに国語の勉強を始めようと思っても手後れです。というのは、国語の勉強は成果が出るまでに時間がかかるので、いったん苦手意識を持った子は、その苦手意識を得意意識にまで変えるのはかなり難しくなるからです。
 これが、算数数学や英語など、ほかの勉強と違うところです。算数数学や英語の勉強も、力をつけるために時間がかかるのは似ていますが、やり方さえよければ、中学生になってからでも2、3ヶ月の集中学習で苦手を得意にすることもできます。しかし、国語の勉強は、そういうわけにはいきません。
 ときどき、短期間で国語の成績を上げるという宣伝をする塾がありますが、実は少しだけ国語の成績を上げることは簡単です。読解のテストのコツを教えると、だれでもすぐに成績が上がります。しかし、その上昇は、本人の実力のあるところまでです。実力そのものを引き上げるというのは、決して短期間にはできないのです。
 国語の読解力については、それでも実力を徐々に上げていく方法があります。時間はかかりますが、毎日難しい文章を繰り返し読む練習をすることで、読解の実力は少しずつついていきます。しかし、作文力を上げるのはもっと大変です。作文の苦手な子が作文が得意になるのは、読解力をつけるよりも更に難しいのです。
 最近、通信指導の教室や学習塾などで、低中学年から作文を教えるところが増えてきました。教材はビジュアルで一見楽しく勉強できそうです。しかし、悪口を言うわけではありませんが(笑)、果たしてこれで国語力や作文力がつくのかというと疑問です。
 確かに、作文を提出すれば、赤ペンの添削がついてくるでしょう。しかし、赤ペンでただ褒めるだけの添削では上手にはなりません。また、赤ペンでただ間違いを直すだけの添削でも次第にやる気がなくします。また、このようにただ書かせて赤ペンで直すだけの指導では、子供が作文を提出するという意欲を持てなくなります。
 すると、結局、楽しそうな感じがして始めてはみたものの、やはり続かなかったということになり、しばらくやっていた期間は何のプラスにもならなかったということになります。
 国語、作文の勉強は、方針を決めて取り組む必要があります。言葉の森の作文の勉強は、小学校1年生から高校3年生まで一貫した教材で行っています。そして、実際に、小学校低学年から大学受験まで言葉の森で勉強を続けられてよかったという子がかなりいます。国語、作文のようにあとまで響くものほど、最初にしっかりした方針で勉強をしていく必要があるのです。(2011年2月9日)

幼児教育の理論と方法について

 「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」という言葉があります。小学校1年生で学校に上がるとき、子供の能力には既に大きな差ができています。しかし、その差は先天的なものではなく、主に幼児期の教育によるものです。教育というとオーバーなので、幼児期の環境によるものと言ってもよいでしょう。
 もちろん、人間の成長は幼児期に決定されるものではありません。人間は動物と違い、成長してからも自分の能力を変容させる柔軟な可塑性を持っています。しかし、それでも、幼児期における土台の形成は、人間のその後の成長に大きな影響を及ぼします。
 幼児期の教育が重要だというのは、このような理由からです。
 さて、幼児教育について考える前に、教育というものの社会における役割について考えてみます。
 人間は、社会的に生きています。幸福な人生を送るためには、社会が個人の幸福を支えるものになっていなければなりません。
 ところで、現代の社会では、社会の最も主要な枠組みは、国際社会でも地域社会でもなく国家社会です。日本に生きている個人は、日本の国家全体が幸福になるのに比例して幸福になっていきます。
 日本の国家をよくするために最も重要な役割を担っているものは政治です。政治がビジョンと実行力を持てば、日本はたちまちよい国になります。しかし、今の政治は、ほぼだれもが認めるように、また国際社会でも認められているように、ビジョンにも実行力にも欠けています。
 こういう政治を許しているのは、私たちの世論です。その世論を形成する中核となっているものは、マスコミです。つまり、日本のテレビと新聞が、日本人の民度を低くしているのです。その方法は、ひとことで言えば、肝心でないことには正しい報道をするが、肝心なことについては報道をしないというものです。だから、日本人の大多数が知的でありながら、その知性に匹敵しない政治が存続しているのです。
 では、なぜこのようなことが行われてきたかというと、それはマスコミのトップが腐敗させられているからです。日本のマスコミは、多数の良心的なジャーナリストにもかかわらず、肝心なことについては真実を報道しないという体制で運営されています。
 しかし、現代は、マスコミを超えた情報ネットワークが次々と生まれている時代です。これからの社会に必要なのは、多様な情報を取捨選択する能力と意志を持った個人が増えていくことです。
 そのためのひとつの役割を担うものが教育です。これが、教育の社会における役割です。教育は、個人にとっても価値あるものですが、それと同時に社会にとっても価値あるものなのです。
 バランスのとれた教育がバランスのとれた世論を生み出し、その世論がビジョンと実行力のある政治を生み出し、その政治が豊かな社会を生み出し、その社会の上に個人の豊かな可能性が開花するというのが未来の日本の姿です。
 さて、教育は、大きく三つに分けられます。
 第一は、学校教育です。第二は、社会教育です。第三は、家庭教育です。
 学校教育は、教育の最も目につきやすい部分です。したがって、教育予算のほとんどはこの学校教育に投下されています。しかし、今、学校教育は大きな曲がり角に来ています。その理由のひとつは、これまでの教育の前提であった工業化社会が過去のものになるにつれて、欧米から輸入された一斉教育の限界が明らかになってきたためです。もうひとつの理由は、受験教育が、中国のかつての科挙のような末期症状を示すようになってきたためです。
 社会教育は、目立たないところで重要な役割を果たしています。社会教育とは、別のことばで言えば、教育に対する文化的影響力です。
 子供たちの教育は、その社会が何を価値あるものかと考えているかによって大きく左右されます。ドイツが科学技術の先進国であったのは、ドイツの社会に学問や学者を尊重する文化があったためです。日本にもかつて学問を尊重する文化がありました。しかし、今の日本は、科学技術や学問よりもスポーツや音楽や芸術を高く評価する文化になりつつあります。
 イチロー選手が活躍するのは悪いことではありません。歌と踊りのうまいタレントが人気者になるのも悪いことではありません。しかし、子供たちが自分の将来の理想の人間像をスポーツ選手やタレントに見るという社会は、やがて衰退します。スポーツや音楽や芸術は、あくまでも枝葉であり、幹となるものは、科学や技術や学問です。言い換えれば、社会の理想が、消費する文化ではなく、創造する文化であることによって、社会は発展することができるのです。
 家庭教育は、学校教育や社会教育と重なって存在しています。子供たちの年齢が上がるにつれて、家庭教育の役割は縮小していきます。しかし、子供が誕生してから保育園や幼稚園や小学校に行くまでの期間は、家庭教育の独壇場です。
 小学校時代が、家庭教育40%学校教育60%ぐらいの割合で進むとすると、0歳から3歳までは、家庭教育がほぼ100%の時代です。しかし、問題は、この時期が家庭教育という自覚と方法のないままに過ごされてしまうことです。
 そこで、幼児教育の理論と方法が必要になってくるのです。

 幼児教育の本質をひとことで言えば、インプリンティング(刷り込み)の教育だということです。ここから出てくる最も重要な条件は、バランスを重視しなければならないということです。学齢期の教育のように、何かを付け加える教育であれば、あとから修正することは容易ですが、インプリンティングの教育のように、枠組みを作る教育は、いったん作られるとあとから修正することがきわめて難しくなります。生まれたばかりの雛鳥は、最初に目についたものを親だと認識して、それが犬や猫であれバケツやヤカンであれ、自分が親だと考えたもののあとについていきます。同じことが、程度の差はあれ人間の幼児期についても言えるのです。
 だから、幼児期には何でも吸収できるからということで、ある特定のことを吸収させると、それは幼児の人間形成の中にその特定の枠組みを作ってしまうことになります。単に付加された知識であれば、他の知識と共存することができますが、いったん作られた枠組みは、他の枠組みを排除するので、よりよいものに取り替えるということができません。この枠組み形成が、その子供の個性を作り出します。
 ここから出てくるもうひとつの重要な条件は、幼児教育はその子の個性に応じて、個性的に行われる必要があるということです。しかも、その個性は、単にいくつかのパターンがあるという予測可能な個性ではなく、本質的に予測不可能な面を持っています。だから、幼児教育は、その子と密着した母親又は父親によって、常に軌道修正を行いながら進めていく必要があるのです。
 本質的な予測不可能性ということから、教育の逆説というものも生じます。人間は、最良の条件だからといって最良に成長するわけではありません。逆に、最悪の条件にもかかわらず最良に成長することもあります。では、なぜ予測不可能かというと、人間の成長は、線形の成長ではなく複雑系の成長だからです。砂山に砂を一粒ずつ追加していくと、いつかある一粒によって砂山が大きく崩れます。しかし、いつ、どの一粒でそうなるかはだれにも予測することができません。ある働きかけを行えばある結果が出てくるというだけでなく、その出てきた結果がもとの土台を変容させ、働きかけの効果を変容させていきます。幼児教育には、個性に応じたシミュレーションが必要になるために、その幼児と密接にかかわる両親が教育の主体になる必要があるのです。
 インプリンティングの教育とは、別の言葉で言えば、絶対感覚が育つ教育です。幼児は、単に何かを吸収するだけでなく、自分がこれから生きていく世界に適応するための自己形成を行っています。だから、幼児に与えられるものは、大人にとっては単なる教育であっても、幼児にとっては世界そのものです。
 幼児教育においては、何を学ばせたいかというよりも、その子供がどういう世界に生きてほしいかということを考える必要があります。例えば、ある知識を学ばせるときに、親が叱りながら教えれば、子供はその知識を吸収するだけでなく、自分がこれから生きる世界を「叱られる世界」として適応するために自己形成していきます。親が、子供に幸福な人生を歩んでほしいと思って教えることが、そのやり方によっては子供の絶対的な不幸感覚を形成することになるかもしれないのです。しかし、人間の成長は複雑系の成長ですから、どんなに叱られてもたくましく生きていく子もいれば、ひとことの注意で深く傷ついてしまう子もいます。大事なことは、親が、子供の絶対感覚を育てているのだと自覚して教育を行っていくことです。
 こう考えると、これまでの幼児教育の中には、重大な錯誤に基づいているものもあります。
 例えば、幼児期の外国語学習です。外国語の枠組みを身につけることによって、母国語の枠組みが正常に育たない子供になる可能性があります。特に、日本語は、世界中の他の言語と比べて全く異質な母音言語という特質を持っています。英語圏の幼児がフランス語やドイツ語も習得するというのとは根本的に違います。日本語を母語として持つ幼児がどのようにして外国語もバランスよく身につけられるかということはまだ実験の段階にあることなのです。
 また、CDやビデオなど、機械を利用した学習にも問題があります。機械によって何かを吸収することを繰り返しているうちに、人間に適応せず機械に適応した子供になってしまうことがあるのです。テレビなどをつけっぱなしの環境で育てられた幼児は、人間的な感情を持ちにくくなると言われています。面白くなくても笑い声が聞こえ、悲しくなくても泣き声が聞こえるような環境が日常的にあれば、幼児は感情を遮断して生きることによってその環境に適応しようとするからです。
 また、実際の世界との関わりが希薄な中で行われる知識の教育にも問題があります。例えば、戸外に出て実際の花を見ながら、花にはめしべとおしべがあって、チョウやハチが飛んできて受粉するということを教えるのであれば、子供の世界は知識によって豊かに広がります。しかし、図鑑などで花の図を見せながら同じことを説明しても、子供の世界は豊かにはなりません。それどころか、そのような現実との関わりのない教育を繰り返していると、子供は、バーチャルな世界に生きることに適応するようになります。その子が成長して、戸外で花やチョウを見ても、その子にとっては、単に図鑑の説明が咲いていて、図鑑の説明が飛んでいるように見えるかもしれません。自然との関わりの中で喜びを感じるというのは、人間の幸福感の大きな要素ですから、知識だけの知識が先行することによってその幸福感の可能性が閉ざされてしまう可能性もあるのです。
 また、逆に言語を軽視した教育にも問題があります。人間の脳が進化の最も後期になって発達させたものは、言語を駆使する能力です。だから、言語能力を発達させることによって、言語以外のほかの能力も言語に引っ張られて発達します。先天的な心身障害を持つ子供が、幼児期からの言語教育で言語能力が発達するにつれて身体の運動能力も回復したという例があるというのはこのためです。
 幼児期の教育に自覚がないと、幼児は放任しておいても育つものだと考えがちです。その結果、小さいころは、まず体力をつけて、情操を豊かにして、のびのびと育てることだと思ってしまいます。そのこと自体はよいのですが、言語による教育は小学校に上がってからで十分だと考えて、言語的に乏しい環境で幼児期を過ごしてしまうと、言語以外の能力、つまり体力や情操も豊かに成長しなくなるのです。
 幼児期の教育は、子供の絶対感覚を育てる教育です。その子が、どういう世界に生きるかを選択して自己形成をするための教育です。
 だから、親は、子供がどういう世界に生きてほしいかという価値観を持って教育を行う必要があります。その価値観は多様ですが、大きく共通するものとして挙げられるのは、現実の自然のある世界で(バーチャルな世界ではなく)、人間とともに(機械とともにではなく)、言語を豊かに使って(腕力や雄叫びによってではなく)、愛情を持って(攻撃と防御に身構えながらではなく)、自由に創造的に(制限された柵の中でではなく)生きることだと思います。
 言葉の森では、今後、幼児教育に力を入れていく予定です。その際に、以上のような観点を持って教育開発を進めていきたいと考えています。(2011年3月3日)

読書の習慣をつけるには。課題作文が負担。暗唱を黙読で覚えるが。(父母アンケートより)

▼(小2父母)読書の習慣がなかなかつきません。暗唱が精一杯で本は気が向いたら読むという感じです。書くことは好きなので楽しく取り組んでいます。読書する時間を毎日うまくとるにはどうしたらよいでしょうか。
●読書が進まないのは、まだ読む力がないからです。その子の読む実力よりも難しい本を読んでいるのではないかと思います。次のようにしていくと読む力がついてきます。
1、面白いやさしい本を中心にする。
2、何しろ毎日読むことを続ける。
3、本人の読書と並行して、お母さんからの読み聞かせも続ける。
 本人が読んでいるときに、何気なく横から、「よく読んでいるね」「本、好きなんだね」などと認めてあげる声かけをするといいと思います。
▼(小4父母)課題の中に書きたいものがなく負担になっているようです。先生と話しているときはいい雰囲気なのですが、電話のあとが続きません。
●書けないのは、課題のせいというよりも、作文の実力のせいです。小4以上は、自由な題名にすると、最初はよくてもそのうちにかえって書けなくなります。題名課題や感想文課題の作文を書くコツは次のとおりです。
1、課題が難しくなっているので、字数は短くてもよいと言う(驚くほど短くてもかまいません。例えば100字程度でもよい)。
2、書けたら、「難しいのをよくがんばったね」と認めてあげる(たとえ100字ぐらいであっても)。
3、書き出せないときは、お母さんが言ってあげたとおりに書かせてもよい。(事務局に電話をして追加の説明を聞かせてもいいです)
 つまり、何しろ形だけでも書かせて、「できた」という実感を持たせることが大事です。
 こういうふうにやれば、だれでも書けるようになります。簡単です。家庭だけで悩まずにご相談ください。
▼(小3父母)暗唱を、音読ではなく黙読で覚えてしまいます。毎朝やることになっていますが、たまに忘れると週末に一気に覚えるときもあります。
●小3のうちは、暗唱力もあり、文章自体も読みやすいので、そういう形でもできます。しかし、文章が難しくなるにつれて、音読でないと覚えられないようになってきます。また、毎日でないと覚えられないようになります。
 毎日やるというのを子供の責任にするのではなく、子供の継続力をつけるための親の責任と前向きに考えて取り組んでいくとよいと思います。しかし、それが親にとって負担だと感じられる場合は、続けにくい自習を無理にすることはかえってよくありません。その場合は、毎日の暗唱はやめて、もっと続けやすい毎日の読書だけを確実にしていくといいと思います。(2011年3月7日)

底辺を広げるだけの知識テストから、頂点も高くする論文テストへ

 3.11の東日本大震災は、日本人の意識を大きく変えました。
 それは、3.11をきっかけにして出版された書物の多さにも表れています。
 ひとことで言えば、日本と世界と地球をよくすることが、多くの人にとって、自分自身の問題として改めてとらえ直されたということでしょう。自分の身近な問題より先に、日本全体の問題があるという集合意識が生まれたと言ってもよいと思います。
 ブログやtwitterやfacebookで、数多くの優れた意見やコメントが書かれ、考える力を持つ日本人の層の厚さがあらためて確認されました。
 しかし同時に、日本の大衆のレベルの高さと全く隔絶したかのようなリーダーのレベルの低さに、多くの人があらためて驚いたのも事実です。ひとことで言えば、戦略的な決断のできない人が、政治家や官僚や大企業のトップを占めていたことが明らかになったということです。
 これと全く同じ構図が、かつての太平洋戦争でもありました。日本が戦争に突入し敗北したのは、当時のリーダーが戦略的な決断をしないまま、ずるずると情勢に引きずられていったからです。
 リーダーが三流で大衆が一流という日本社会の構造が、戦前と同じように戦後もそのまま続いていたのです。
 この原因は、リーダーが選出される日本的な文化の仕組みの中にあります。
 日本人の特質は、平等意識と相手に対する思いやりが豊かにあることです。これは、庶民の日常生活のレベルでは、社会生活の質を高めるのに役立っています。
 しかし、同じ文化が、リーダー選出の際にも適用されると、異なる意見や立場を調整することにたけた人だけが、リーダーになるための階段を登る仕組みになるのです。つまり、AにもBにもCにも万遍なく目を配り、毒にも薬にもならない調整案を提示して全体をまとめられる人が、リーダーの候補として残っていくということです。
 組織のパワーを三角形の面積で表すとすれば、底辺は幅広い知識をカバーする人材になります。そして、高さは、独創性の点で突出した人材となります。つまり、底辺を漏れなくまとめることのできる官僚層と、創造的に時代を切り開くリーダーシップを持つ政治家が組み合わさって、その国の政治のパワーが決定していくのです。
 ところが、日本は、リーダーの選出過程が、調整型の人材が生き残るための減点法で行われることによって、底辺だけはやたらに広いが、頂点が著しく低いという組織が生まれやすかったのです。この傾向は、大きな組織になるほど顕著になり、その結果が、リーダー不在の日本を生み出す文化的背景となっていたのです。
 日本では、学問の世界でも、似たような文化が見られます。日本の学術研究では、関連資料を幅広く集め、それらの資料を数多く引用した人が優れた研究者と見なされます。学者の世界は、大きな組織と同じように外部から閉ざされているので、その組織の中で底辺を広げることだけに時間をとられ、肝心の創造的な研究にまで手が回らないという状況が生まれやすいのです。その結果、引用文献だけが多く、オリジナルな中身のない書物が量産されているという面があります。
 平等意識と思いやりの日本文化は、大衆のレベルを向上させることには有効でしたが、リーダーを育てる点ではマイナスの機能しか果たしていませんでした。
 では、どうしたらいいのでしょうか。
 優れた人材がリーダーになる方法は、それぞれの組織の当事者が、実態に合わせて考えていくものですが、教育の分野については、次のようなことが考えられると思います。
 これまでの教育、特に受験を目的とした教育では、覚えた知識を○×で答えさせる形が主流でした。だから、日本の社会の仕組みと同じように、欠点が少なく、言われたことを素直に聞く、独創性のない子の方が、成績の上位を占めやすいという傾向がありました。
 基礎学力はもちろん必要ですが、基礎学力というのは底辺を広げることですから、今の受験は底辺の広さだけで生徒を評価していたということなのです。
 今後は、底辺×高さという形の評価が求められるようになるはずです。すると、底辺の知識だけでなく、その知識を使って、読み、書き、考える力、つまり創造性を評価する仕組みが必要になってきます。
 今後の試験は、入学試験も、入社試験も、昇進試験も、第一段階では学力テストのようなもので選抜されるとしても、本当のトップを絞るための第二段落では、論文テストや面接テストが主流になってくるでしょう。
 このように、底辺だけでなく高さも加味した評価がなされることによって、はじめて日本が、大衆のレベルにふさわしい真のリーダーを持つことができるようになるのだと思います。(2011年7月6日)

ソーシャル・ネットワーク時代の新しい教育

 言葉の森は、5月からfacebookを始めましたが、facebookのようなソーシャルメディアは、宣伝のためでなくつながりのためにあるということがあらためてわかってきました。そのつながりが結果として宣伝につながることもありますが、宣伝を目的にするとつながりという大元の土台が崩れてしまいます。
 そのつながりとは、具体的に、「いいね」ボタンを押すつながり、コメントを書くつながり、グループで投稿するつながりなどです。共通の話題や価値観で一致した人が、グローバルでありながらきわめてパーソナルなつながりを持っているのが、facebookのようなソーシャル・ネットワークのつながり方の特徴です。
 では、このつながりの中で、何が求められているのでしょうか。それは、自然の中にあるつながりと似ています。森林を考えてみると、そこに生きる動植物は、自らの作ったものを相互に与え合うことによって豊かな生態系を作り出しています。今西錦司は、この自然の姿を棲み分けととらえましたが、もう一歩進めて考えると、それは、相互にぶつかり合わないための棲み分けであるよりも、もっと積極的に、相互に相手にないものを作り出すための棲み分けとも考えられるのです。
 今話題になっているシェアの世界も、この森林の持つ共生の世界と似ていますが、シェアには二つの面があります。ひとつは、所有のシェアです。これは、カー・シェアリングに見られるように自分の持っているものをシェアし合うという、いわば昔からある古い形のシェアです。これに対して新しいシェアは、所有のシェアではなく創造のシェアです。つまり、自分が相手にないものを作ることによってそれを相互にシェアするという考え方です。
 これからの世界を待ち受けている危機には、自然災害、戦争や暴動、新しい感染症、経済破局などが考えられます。人間にできることは、これらの危機が起こらないようにすることであるとともに、それがやむをえず起こった場合でも被害を少なくするように工夫することだと思います。
 その方法はひとことで言えば、自然災害に対しては早めに避難することです。戦争や暴動に対しては止めることです。止めることの中にはそのために敢えて戦うことも含みます。感染症に対しては我慢することです。明るい気持ちで免疫力を強化して耐えるというのが基本です。経済破局に対しては、助け合うということに尽きます。
 そして、今、直近で最も起こる可能性の高いものは何かというと、それは経済破局ではないかと考えられます。ちょうどこの記事を書いているときに、高島康司さんのブログを読むと、そこにコルマン博士の最新の記事が紹介されていました。
http://ytaka2011.blog105.fc2.com/
===引用ここから====(アンダーラインはこちらでつけました)
では、統合意識について、もう少し詳しく見ておこう。ワンネス、あるいは統合意識は、しばしば、心理的な観念に過ぎないもので、私たちの心の中にしかその存在を認識できないものだと考えられている。一部の教師たちは、量子力学的な意味でもつれ合っているのだから、私たちはワンネスだ、と述べている。私は、そのような言い分は、取るに足らない、意味のないものだと思う。もちろん、人類は全て同じ実在から生み出されたものであり、その実在の中では全員が繋がっている、という意味では、私たちはみな一つである。(訳注:これは生命樹との関係を意味している。)だが、観念やスピリチュアルな洞察を心理的に認識するだけでは、実際にワンネスを経験し現実化していく上では不十分なのである。統合意識とは、私たちが、この第9の波の助けを受けながら作り上げ、実践して行かなければならないものであり、それは国際的な通貨崩壊の後で初めて可能になるのである。誤解してはならないことは、ワンネスとは私たちが個人として備える属性ではなく、私たち相互と、そして私たちと神性とのあいだにおける関係性なのだ。
通貨システムの役割と、それが現在はどのように働いているかを調べてみよう。現代の世界では、「銀行」と呼ばれるものがあって、多くの人々が銀行のコンピューターの中に、いわゆる「口座」を持っている。コンピューターの中の口座は、あなたがどれだけの「お金」を持っているかを測る数字なのである(これは、たとえばアメリカではドルを単位にしている。)実際には、人類の大多数はそのような口座など持っていないが、一部の人々は、彼らの名義で、口座の中に1万ドルを持っているだろう。中には、1千万ドルとか、100億ドルを持っている人もいるだろう。それ以上に、多くの人々の口座は、銀行から借りているためにマイナスの数字になっているのだ。このように、どこでも、だれもが大体同じ時間を労働に充てているのに、口座の中の数字には莫大な開きがあるのだ。時には、地球に仕える行為に応じた報酬もあるかもしれないが、そうではないことが遙かに多い。実際には、最も地球を傷つけた人々が最高額の銀行預金を持っているのだ。とにかくも、この銀行のコンピューターの中の数字こそが、他の何にも増して権力の構造を決定していることに気付くべきだろう。高い数字を持つ者が、低い数字の者を支配しているのだ。お金とは、現実の存在ではない。しかし、社会を規制する法律によって、コンピューターの中の数字が支配するシステムが維持されているのだ。
このような銀行のコンピューターの中の数字こそが(ストックやファンドにも当然同じ事が当てはまる)、私たちの社会の権力構造を決定し、そして私たちが地球上において種としての営みや生活の中心を置いている、ほとんどあらゆる人間関係をも決めてしまっているのだ。いくらかの例外は勿論あるにしても、大局では、銀行のコンピューターによる判断が(金のあるなしが)、一人の人間の人生全体を決定してしまうのだ。このような通貨システムの許では、本当の意味の統合意識が存在し得ないことは明らかであろう。なぜなら、銀行のコンピューターに巨大な数字を持つ者が、そうでない者を支配し、支配される者が何をして、どのように時間を過ごすのかを決めているのだから、そのような支配は、ワンネスと相容れないのだ。現在の通貨システムは、第9の波が、とくにその「昼」が発展させる統合意識とは相容れないがために、私は、世界的な財政崩壊は「昼」に、とりわけ第5の昼に起こるだろうと予想している。また、この通貨システムの崩壊が起こることによって、私たちは、初めて魂に最高の地位を与え、そして私たちが創造しようとしているものに総体的に責任を負うことになるのだろう。銀行のコンピューターが支配する権力構造が崩壊したときには、それを非難したりネガティヴに捉える人はいないだろう。これから発生する出来事に対しては、私たち全員が、個人としての行為だけでなく、人類全体として、全責任を負うことになるのである。そのような道を歩む人々にとって、責任を負うべき行為は、神性と、そしてそのあらゆる生命の創造と響き合う統合意識から、発するのだろう。
====引用ここまで====
 これから起こる経済破局は、さまざまな現象として現れるでしょうが、その本質は、マネーを基準にして回っていた経済が回らなくなることです。お金という抽象的なつながりがなくなることによって、リアルなつながりが断ち切られるというのが経済破局の姿です。では、お金というつながりによって表されていたものは何なのでしょうか。
 それは、簡単に言えば、需要と供給が価格を通してつながっていたということです。このつながりは、需要と供給がグローバルになればなるほどますます抽象的になっていきます。逆に、グローバルの反対のローカルになればなるほど、お金が表していたつながりは抽象的なものから次第に具体的なものに変わっていきます。
 それは、例えば、このようなことです。見知らぬ人どうしが物を交換するためには、お金という抽象的なつながりが双方の信頼の支えになります。しかし、ごく親しい身近な人どうしで、例えば家族の中であれば、お金という媒介がなくても、お互いに顔を見て言葉を交わせば相手のほしいものがわかり、それを提供し合うことができます。
 そして、facebookのようなソーシャル・ネットワークは、このローカルな関係をワールド・ワイドに作り出しているとも考えられるのです。
 ここで、問題を子供たちの教育にあてはめて考えみると、次のようなことが、お金という媒介がない中でもできると考えられます。
 子供たちは、教育を必要としています。それは、人間が衣食住を必要とするのと同じような意味においてです。しかし、お金という抽象的なつながりがなくなったとき、教育はどのように提供されるのでしょうか。民間の教育機関である学習塾や通信教育は費用がかかるので、お金がなければサービスを受けることはできなくなるでしょう。しかし、公教育においても事情は同じです。国や地方自治体が先生の給与を払えなくなれば、無償で教えてくれる先生はいなくなるでしょう。
 しかし、そのときに、先に書いた創造のシェアがあれば、お金など何もなくても教育は見事に復活するのです。例えば、学校も、塾も、先生も、教材もなくなった世界で、子供の教育を始める場所は、その子供たちの住む地域です。
 地域のすべての人が、地域(を中心とした世界)のために、地域のすべての子供たちの教育を支えるというのが、新しい教育システムです。しかも、そのバックボーンには、ワールド・ワイドなネットワークがあります。
 そのネットワークのシステムには、まず、教材の作成のグループがあります。(facebookのグループのようなものと考えるといいでしょう)。教材を創造できる人が、それぞれ自分の得意分野で子供たちの教材を作ってシェアするのです。次に、授業のグループがあります。これはyoutubeなどを利用して、授業を創造できる人がシェアすればいいでしょう。授業だけでわかりにくい場合は、補習のグループがあってもいいでしょう。また、学習が終わったあとの評価には、発表のグループがあります。生徒それぞれの発表に対して相互にコメントを書きあい、その結果を、最初の教材作成のグループにフィードバックしていくのです。
 ネットワークで作られた教育のインフラをもとに、地域で実際の教育を行うのは、その地域で多くの人から人格者だと見なされている人になるでしょう。教師という専門職は、必ずしも必要ありません。なぜなら、教えるという専門職が必要でなくなるぐらい、教材を作り直していけばいいからです。
 地域の子供たちの教育は、学校や塾という機能的な組織によってではなく、地域や家庭という共同体的な組織によって担われていきます。特に、教育の地域性が発揮されるのは、教育の成果である発表の場においてです。例えば、作文の勉強であれば、子供たちが書いた作文を地域の公園に張り出して、地域の人たちがそれを見にくるというような形です。
 以上のシステムは、言葉の森で既に一部実現しています。今後、このシステムを更に広げていけば、ネットワークと地域を中心にした新しい教育が、作文の学習において行われるようになります。
 そして、作文の学習という指導しにくい分野できたことは、すぐに他の教科の教育にも広げていくことができます。
 更にまた、教育という分野でできたことは、同じように社会生活のさまざまな分野でできるようになるでしょう。こうして、お金という抽象的な媒介を必要としない経済が、やがてお金を必要とした世界よりも広範に行われるようになるとき、本当のワンネスの世界の準備ができるのだと思います。
 しかし、繰り返していえば、そのときに必要なものは、自分の所有しているものをシェアすることではありません。新しく創造したものをシェアするということです。
 人間は、だれでも社会に貢献したいと思っています。また、そのシェアのための仕組みもソーシャル・ネットワークの中でできつつあります。しかし、心構えや仕組み以上に大事なものは、ひとりひとりが自分の得意分野で新しい何かを創造し、その創造をシェアすることです。
 そのような社会ができたときに初めて、人間の文化は、自然の森林と同じような豊かさ持つようになるのだと思います。(2011年7月20日)

「桃太郎」を例にした感想文の書き方

 みんながよく知っている「桃太郎」を読んで感想文を書く練習です。このような形で書いていけば、読書感想文は簡単です。
 感想文のコツは、似た話を長く書くことです。1日に書く分量を400字ぐらいにしておき、3日か4日で全部仕上げるようにすれば負担がありません。
 以下は、小学校5、6年生ぐらいで書く感想文の例です。
▼1日目
 緑の山と青い川、桃太郎が生まれたのは、こんな自然の豊かな村だった。しかし、その村は、毎年来る鬼のためにとても貧しい村だった。(情景などがわかるようにして書き出しを工夫する)
 ある日、いつものように、おばあさんが川で洗濯をしていた。すると、川上から大きな桃がドンブラコッコ、ドンブラコッコと流れてきた。(物語の序盤から引用する)
 ぼくは、一年生のころ、父と母と弟でキャンプに行った。キャンプ場には、きれいな川があり、その川の近くでぼくたちはバーベキューをした。食べたあとのお皿を洗うと、川の流れがすぐに汚れを運んでくれる。ぼくは、昔の人はこんなふうに川で洗濯をしたのかなあと思った。(自分自身の体験を書く)
 さて、その川のキャンプでのいちばんの思い出は、冷やしておいたスイカがいつの間にか流されてしまったことだ。夜冷やしておいて、次の日に食べようと思っていたスイカが、朝起きてみるとなかった。一緒に冷やしておいた父のビールはそのまま残っていたので、たぶん夜のうちに川に流れていってしまったのだろう。
 ぼくは、ふと、桃太郎の生まれた桃も、上流でだれかが冷やしておいたのではないかという気がしてきた。(この感想は主題に関係なくてもOK)
▼2日目
 桃から生まれた桃太郎は、一杯食べると一杯分、二杯食べると二杯分大きくなった。しかし、桃太郎はいつまでも食べては寝るだけで何もしようとしなかった。(物語の中盤から引用する)
 ぼくの小さかったころの話を、父と母に聞いたことがある。最初三千グラムで生まれたぼくは、一年たつころには、もうその三倍の十キログラム近くになっていたそうだ。ぼくの今の体重は三十五キログラムなので、生まれたときの約十倍になっている。そんなに大きくなるまで何杯ご飯を食べたかはわからないが、たぶん最初のころの桃太郎と同じようにぐんぐん大きくなっていったのだろう。(身近な人に取材する)
 母に聞くと、ぼくは小さいころ、自分から言葉をしゃべろうとせず、まるでお地蔵さんのようにいつもにこにこ人の話を聞いているだけだったそうだ(「まるで」という比喩は文章を個性的にする)。母は、そのことを少し心配していたらしい。たぶん、そのときの母の気持ちは、いつまでも食べて寝るだけの桃太郎を見ておじいさんやおばあさんが感じた気持ちと同じではなかったかという気がする(「たぶん」という推測は自然と感想になる)。
▼3日目
 やがて成長した桃太郎は、犬と猿とキジを連れて鬼を退治に出かけた。犬は噛み付き、猿は引っかき、キジは目を突っつき、桃太郎は鬼を投げ飛ばした。(物語の終盤から引用する)
 ぼくは、この戦いぶりを見て、ふとぼくたちのサッカーチームを思い出した。サッカーには、もちろん、噛み付きや引っかきはない。まして目を突っついたりしたらすぐに退場だ。しかし、足の速い次郎君、シュート力のある和田君、ピンチのときでもみんなを笑わせるケンちゃんなど、ぼくたちのチームは、それぞれの得意なところを生かす点で桃太郎のチームと似ているのではないかと思った。
 このことを父に話すと、父は、こんなことを言った。
「桃太郎がいなかったら、鬼には勝てなかったけど、桃太郎が四人いても、やはり鬼には勝てなかっただろうなあ」(長い会話をそのまま書くと味が出る)
 ぼくは最初、桃太郎だけが主人公で犬や猿やキジは脇役だと思っていたが、次第に全員がそれぞれの役割で主人公なのだと思うようになった。どうしてかというと、みんなそれぞれの長所があり、その長所でお互いの短所を補い合っているからだ(「どうしてかというと」などの接続語を使うと感想も長くできる)。(結びは、本の主題に関する感想を書く)
▼4日目
 鬼を退治し、宝物を持って村に帰った桃太郎は、それからどうしただろうか。きっと、もう鬼の来ない平和な村で、豊かな自然に囲まれて楽しく過ごしたにちがいない。おばあさんが洗濯をしているきれいな川の横で、犬や猿とキジと水遊びをしている桃太郎の姿が思い浮かぶ。(書き出しと結びを対応させる)
 いま、ぼくたちの街に、桃太郎が戦うような鬼はいない。しかし、ぼくたちの街には、桃太郎が暮らしていた緑の山や青い川もない。もし、桃太郎がいまここにいたら、人間にとって戦う相手は鬼ではなく、きれいな自然を取り戻すことになるかもしれない。そして、その桃太郎とは、たぶんこれからのぼくたちなのだ。(「人間」という大きい立場で考え、自分のこれからの行動に結びつける)(2011年7月21日)

国語力と作文力のつけ方(家庭での読書と対話)

 言葉の森の体験学習を希望される保護者の方から、「国語だけが苦手なんです」というような質問をよくいただきます。
 国語力を向上させるコツはあるのですが、多くの人が勘違いした勉強の仕方をしています。なぜ勘違いするかというと、今、学校や塾で評価される国語力というものが、問題を解くような形で行われていることと関係があります。
 国語のテストを受けて、その点数が低かった場合、ほとんどの人は、その点数に目を向けて、点数をよくするためにはどうしたらよいかということを考えます。その結果、国語の問題を解くような形の勉強をしてしまうのです。
 数学や英語や他の教科の勉強であれば、問題を解くような形の勉強がそのまま次のテスト対策にもなりますが、国語の場合はそうではありません。国語の問題を解いて、それができたからといって、次の国語の問題ができるとは限らないからです。
 つまり、国語の実力というのは、もともと問題を解くテストのような形で測られるものではないということです。
 では、国語の実力は、どういう形で測られるかというと、いちばん確実なのは、話を交わすことによってです。こちらの言っていることを的確に理解して、自分なりの考えを述べられる子は、国語力のある子です。それは、口数が多いということとは別で、話すことは少なくても、しっかりと受け答えのできる子は国語力のある子なのです。
 しかし、学校ではそういう形のテストはできません。そこで、やむをえず問題を解く形のテストをしているということなのです。他の教科は、問題を解くことがそのまま勉強の中身ですから、問題を解く形の勉強でいいのですが、国語は、問題を解く勉強をしても、実力はつかないのです。
 では、どういう形で実力がつくかというと、それは、読書と対話によってです。しかし、易しい読書と易しい対話では、その易しさのレベルまでしか力はつきません。難しい読書と難しい対話になるにつれて、その難しさに応じて国語力がついてくるのです。
 人間の頭は、難しいものでも、繰り返し接することによって自然にその内容を消化する力を持っています。この繰り返しというのが勉強の基本です。しかし、それは繰り返しやって何かを覚えるという勉強ではありません。
 子供に読書をさせるとき、お母さん方の中には、ちゃんと読めているかどうか問題を出したがる人がいます。そういうふうに、何かを覚えているかどうかというのは、国語力ではなく、もっと表面的な単なる記憶力です。
 国語力というのは、難しい文章を繰り返し読むことによって、その内容を丸ごと理解する力です。理解したものごとは、必ずしもその内容を正確に反復できるわけではありません。逆に、自分なりの言葉で解釈しながら説明するので、書いてある内容のとおりではないことの方が多いのです。
 国語力をつけるいちばんいい方法は、家庭で毎日、難しい文章を読み、できればそれをもとにお父さんやお母さんと難しい対話をすることです。国語力は、家庭生活の中でついていきます。
 言葉の森の勉強法は、この家庭学習を生かす形で行う作文の勉強です。だから、作文力をつける中で国語力もついてくるのです。

 先日、(言葉の森の生徒でない)保護者の方から、次のような相談を受けました。
「中高一貫校向けの塾に行っているが、作文がなかなか書けない。しかし、どう書いていいかわからない」
 子供が作文を書いたあとに添削することは、大人なら誰でもある程度できます。
 しかし、子供がどう書いたらいいかわからないで困っているときに、事前にアドバイスできる先生はあまりいません。
 また、子供が作文を書いた場合、先生の添削を受けますが、その添削は実はあまり効果がありません。一般に、作文は添削によって上達すると思われがちですが、添削は、下手なところを直す効果があるだけで、上手に書かせる効果はありません。
 作文指導というものは、書かせて添削するという形だけならば、誰でもできますが、上手に書かせる指導まではなかなかできないのです。
 では、作文力はどのようにつけたらよいのでしょうか。
 まず前提になるのは、作文力の土台となる国語力、読解力がついていることです。例えば、本をよく読んでいる子は、わずかの指導でも急速に上達します。
 だから、試験までもう時間がないという場合は、とりあえず今の読む力の範囲でいちばん上手に書けるように勉強していくということになります。
 作文の勉強の基本は、構成を意識して書くことです。テーマを出されたら、どういう方向で書いていくか大体の見当をつけ、それから書き出します。
 言葉の森のfacebookページに、いくつかの書き方のパターンが載せてあります。
http://www.facebook.com/kotobanomori?sk=app_149005838493066
 例えば、最初に意見を書き、次に理由を書き、その実例を書き、次に方法を書き、その実例を書き、最後に、反対意見にも言及し、意見をまとめる、というような書き方です。
 構成の仕方は、どのようなものでもいいのですが、作文を書きだす前に、大まかな方向を決めておくという姿勢が大事です。
 構成を考えて書くことができるようになったら、次は書きなれることです。今の作文入試は、点数の差をつけるためだと思いますが、短時間で、長い文章を読ませ、速く書かせるような仕組みになっています。時間内にある程度の字数まで書けなければ、内容がいくらよくても合格作文は書けません。
 本当は、こういう試験の仕方は邪道で、長い時間をかけて長い文章を書かせた方が実力がわかるのですが、早く採点しなければならないという試験の性格上、時間制限があるのはやむをえないことなのだと思います。
 しかし、速く長く書く力をつけるまでの余裕がない場合もあります。
 その場合は、次のような勉強します。
 まず、親子で相談して、出題されそうな課題を10本作ります。これは、題名課題で構いません。「志望理由」「私の家族」「私の夢」「○○学校時代の思い出」「がんばったこと」「思いやり」「協力の大切さ」などというテーマです。
 そして、それぞれのテーマについて、構成を考え、実例を工夫し、表現も工夫し、漢字もしっかり書けるようにして、最高傑作を書いておくのです。その最高傑作を何度も読んでいるうちに、似たテーマであれば、同じような内容の作文がすばやく書けるようになります。
 学校によってはこういう形の勉強では対応できないように、ひとまとまりの作文ではなく、設問を何問かに区切って作文課題を出すところもあります。
 しかし、その場合でも、ひとまとまりの作文を10本書く力があれば、設問に合わせて中身を埋めていくことはずっと簡単にできるようになります。
 最高傑作を書く上で、大事なポイントになるのは、その子自身の体験実例を書くということです。また、その実例の中身も、個性、挑戦、感動、共感があるようなものを中心に書くようにします。
 子供は、どういうものが個性、挑戦、感動、共感のある実例か自分ではわかりません。親や先生が、第三者の立場でアドバイスしてあげるといいと思います。(2011年9月9日)

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