幼児期に豊富な言語環境を与えるという場合の豊富さとは、同じ文章を繰り返し聞くという意味の豊富さです。しかし、これをテープやCDで繰り返し同じ物語を幼児に聞かせるようにしたらどうなるでしょうか。
機械による繰り返しの言語環境によって生まれた絶対言語感覚は、知的な面としては確かにすぐれたものになるでしょう。例えば、聞いたことをすぐに覚えてしまい、それを同じように再現できるというような能力です。こういう能力があれば、勉強は楽にできるようになります。しかし、そのために、言葉を楽しんだり、言葉で癒されたりするという人間的な面が逆に阻害されるようになる可能性があります。
ところで、日本には、「三つ子の魂百まで」「習い事は六歳から」という二通りの幼児教育に関する言葉があります。絶対音感の形成が6歳以前、日本語脳の形成が6歳以降ということから考えると、どうやら3-5歳の時期の人間の成長と、6-8歳の時期の成長とは、質的な差があるようです。
しかし、いずれにしても、幼児期という可塑性の高い時期には、特定のことをやりすぎないということが大事です。小さいころにある特定の分野で優秀になりすぎると、成長してから幸福な人生を歩む上でかえって困難を感じることが多くなるようです。
そのためにも、人間の教育は、他人や機械に任せるのではなく、その子供に最も密着した親が自身の身体を使って行うことが大事なのだと思います。(おわり)
読み聞かせや語り聞かせが親にとって苦痛なのは、そこに創造性がないからです。
子供に絵本を読んで聞かせるということは、大人にとっては何の難しさもない、誰にでもできる退屈なことです。そして、読み聞かせを始める前からそういうことがあらかじめわかっているがゆえに、大人は読み聞かせというものに意欲が持てないのです。易しすぎてやる気になれないのが、大人にとって読み聞かせです。
しかし、幼児は、その読み聞かせの反復を、自分の知的能力の発達のために何よりも求めています。
そこで考えられのは、その読み聞かせの物語を親が暗唱してしまうという方法です。
言葉の森の暗唱自習の方法であれば、2、3分の文章は、すぐに暗唱できるようになります。ストーリーのある話であれば、さらに容易で、5分や10分の暗唱による語り聞かせは誰にでもできるようになります。
現代の新しい読み聞かせは、親が持っている幾つもの暗唱物語のレパートリーの中から、子供が希望するものをその時々の雰囲気に応じて聞かせてあげるというやり方です。
親はその物語を暗唱しているので、その日の気分によって登場人物を微妙に変化させることができます。例えば、「桃太郎」の話で、おじいさんとおばあさんを実際の田舎のおじいちゃんとおばあちゃんにしたり、主人公の桃太郎を聞いているその子供にしたり、サルや犬やキジを近所の友達にしたり、というようなことが自由にできます。そういう創造的な工夫ができると、読み聞かせは急に楽しいものになってきます。
人間はもともと、創造的でありさえすれば、話すことが大好きな動物です。それは、長電話がいつまでも終わらないことを考えるとよくわかります。
母親は楽しくおしゃべりをする感覚で物語を聞かせてあげ、子供はその話を聞いて絶対語感を身につけるということが、これからの幼児教育の新しい姿になると思います。
しかし、ここで大事なことは、どんなにいい方法であっても決してやりすぎないことです。(つづく)