作文を書くというのは、勉強の中で最も苦しい勉強だと思います。何が苦しいかというと、始めるときのエネルギーがほかの勉強に比べると何倍も必要だからです。特に、学年が上がって、考える力がついてくると、作文を書くことは更に苦しい勉強になります。
夏休みの宿題で、感想文を書く課題が最後まで残ってしまうことが多いのはこのためです。文章を書くというのは、なかなか気軽に始められないのです。
特に、学年が小5から中2のころにかけては、考える力がついてくるにもかかわらず、その考えに伴う語彙力がまだ不十分なので、書くことがいっそう苦痛になるようです。小4までは楽しい生活作文、中3からは考える小論文ということで、それなりに苦しい勉強ではあっても作文を書くことは軌道に乗りますが、ちょうどその中間の時期がいちばん大変なのです。
この作文を書く勉強を支えるのも、コミュニケーションです。
第一は、作文を書く前の取材です。そのテーマに沿った話を自分の身近な家族から聞くことによって、作文の材料が増えます。特に、小学校高学年のころは、課題に合った自分の体験実例が見つけにくい時期です。
例えば、小学校高学年になると、国語の問題に日本文化の特徴というようなテーマがよく出てきます。子供は、その文章を読んで内容を理解することができますが、その内容の裏づけとなるような経験や知識はまだありません。そういうときに、両親がそのテーマに関連した自身の経験や知識を話してあげると、それが擬似的に自分の経験や知識のように使えるようになるのです。
この取材の大切さは、小学校低中学年でも同じです。例えば、小学校中学年の身近な課題「がんばったこと」「うれしかったこと」なども、子供が自分の体験で書くだけでは、そこに深みは出てきません。単純に、がんばったことやうれしかったことを書くだけですから、どの子も似たような話になります。しかし、ここで、両親や祖父母に取材をすると、もっと味のある話を聞くことができます。そして、子供にとっては、本で読んだりテレビで見たりしたことよりも、自分の身近な家族から聞いた話の方が、子供自身の擬似的な体験として消化しやすいのです。
第二は、作文を書いたあとのコミュニケーションです。作文を書くのが好きな子と嫌いな子の差は、書いたあとの評価の差によるものです。子供の書いた文章には、必ずどこかしら欠陥があります。内容がものたりなかったり、誤字があったり、表現が不十分だったりするところがあります。
作文を書く方は、自分なりに完成したものを書いているつもりですが、それを読んだ大人が、ここもおかしい、あそこもおかしい、と欠点を指摘し始めると、子供はその後書く意欲を持てなくなります。これは、少し想像してみればわかります。例えば、絵が苦手な人に、「さあ、自由にかいてごらん。かいたあとたくさん欠点を教えてあげるから」と言われたら、だれも絵をかく気にはなれないでしょう。歌が苦手な人に、「さあ、自由に歌っていいよ。そのあとどこが下手なのか教えてあげるから」という場合も同じです。そういう欠点を喜ぶのは、ある程度自信がついて、自分が前向きに努力したいと思っているときだけです。しかし、そういう向上心がある人でさえ、欠点ばかりを指摘していると、どんどんできなくなっていくのです。
作文を書いたあとのコミュニケーションは、書いた内容について楽しく話すことです。書き方について注意するのではなく、書かれた内容について話題にしてあげることが、子供の書く意欲に結びつきます。
作文を書いたあとのコミュニケーションには、作文の発表会や文集のようなものも含まれます。発表会や文集も、それぞれの作文のよいところを見ることが大事で、他の作品との比較をすることは最小限にとどめておくべきです。
第三は、作文を書く前の自分自身との対話です。
「ミラーニューロンの発見」という本によると、だれでも、他人とおしゃべりをする方が、自分ひとりで講演をしたり、他人の講演を聞くことよりもずっと楽にできるそうです。これは、人間の脳に、他人を模倣し共感する仕組みがあるからです。(つづく)
国語のセルフ・ラーニングは、経験と知識の裾野を広げる学習です。高学年になって国語の問題の出来が悪くなったときに、その前の学年に戻って国語の問題を解いても力はつきません。その高学年に応じた知識と経験の裾野を広げることが力をつける方法になるのです。(前回までの記事)
したがって、実際に経験する、話を聞く、本を読む、知識を得るという裾野を広げる学習が、国語におけるセルフ・ラーニングになります。
しかし、それは単に漢字や単語や熟語を身につけるというレベルではなく、文章によって表されたその状況の、感じ方、考え方、受け取り方、認識の仕方、つまり状況理解の仕方を身につけるというような裾野の広げ方なのです。つまり、国語的な理解の裾野とは、単語や熟語などの裾野ではなく、より長い文脈を持った裾野なのです。
国語力を育てるセレフ・ラーニングは、状況理解の仕方の裾野を広げることで、その最も自然な形は、年齢が上がることによって知識と経験が増えるということです。
しかし、算数のセルフ・ラーニングが、学んだことによって理解が進み、わからなかったことがわかるようになるという直接的な喜びがあるのに対して、国語におけるセルフラーニングは、裾野を広げたことが理解に直接結びつくという関係にないために、学ぶこと自体に喜びを見いだしにくいという特徴があります。
そこで、国語の裾野を広げるセルフ・ラーニングの学習には、そのセルフ・ラーニングを支えるものとしてコミュニケーションが必要になってくるのです。
国語におけるセルフ・ラーニングにどのようなものがあるかというと、第一に、幼児期における語り聞かせや読み聞かせです。
第二に、学齢期における音読や暗唱という繰り返し読む学習です。
第三に、読書や問題集読書のような幅広く読む学習です。
第四に、作文という書く学習です。
子供が、語り聞かせや読み聞かせを喜ぶのは、そこに親とのコミュニケーションがあるからです。だから、語り聞かせや読み聞かせは、楽しい雰囲気で進めることが大事です。
音読や暗唱は、毎日の習慣になれば自然にできますが、それでも同じことを続けるというのは子供にとっては退屈なことです。そこで、その音読や暗唱を聞いて励ましてあげる身近な人が必要になります。これが、コミュニケーションです。
読書は、読む力のないうちは、読んでいることを励ますことが必要になりますが、ある程度の読書力がついてくると、子供が自分で進んで読むようになります。しかし、問題集読書のような難しい文章の読書は、やはり身近な人がその内容を聞いて励ましてあげることが必要になります。
そして、セルフ・ラーニングが最も難しいのが、作文を書く練習です。(つづく)