あけましておめでとうございます
年末から年始にかけて、いろいろ本を読みました。
そのひとつが、「インドの聖者アマチ」の本です。これは、日本ではあまり知られていませんが、マハトマ・ガンジーやマザー・テレサと同じような人です。
その本を読みながら考えました。
インドでは、アマチのように、自分のエゴを克服して大きな愛で世界に貢献している人がいます。その裏づけとなっているものは、インドの思想です。同じようにマザー・テレサの裏づけとなっているものは、キリスト教です。
アマチは、言います。「私たちには聖典があります。日本人も自分たちの聖典を大事にしてください」
しかし、日本にある聖典とは何でしょうか。日本のオリジナルなものということで言えば、古事記や万葉集です。しかし、そのどこに、人類に対する愛の大切さが書いてあるでしょうか。あるいは、四書五経も日本人の聖典に入るのかもしれません。しかし、本居宣長は言いました。「日本に、インド仏教や論語孟子のような大思想が生まれなかったのは、日本の人民のレベルが高かったので、そういう思想をわざわざ必要としなかったからだ」と。
では、どうして、聖典のような思想的な裏づけを持たない日本人が、愛と調和のある社会を築いてこられたのでしょうか。そこに、私は、家庭教育における生活習慣の教育を見たのです。
インドでは、愛を説く思想を学ぶ人が、カースト制度のもとで暮らしています。食べたあとの食器を片付けるのはスードラ(奴隷)の仕事です。ごみを片付けるのもスードラの仕事です。愛を学ぶ一方で、自分の足元で身分制度の差別に虐げられている人を前提とした生活をせざるを得ないのです。
日本では、人類に対する愛を唱える思想はありません。しかし、親は子供に言います。食べたものは自分で片付けなさい。そして、レストランに行ったときでも、レストランの人が片付けやすいように食器を整えてイスをしまって出てきます。旅館に泊まるときでも、泊まった部屋を片付けて出てきます。これは、旅館の従業員が仕事をしやすくするためです。決して、スードラのする仕事だから散らかし放題でいいとは思いません。
思想として愛を学ぶことと、日常の生活として思いやりを学ぶことの違いがここにあります。
人類に宗教が必要なのは、人類のレベルがまだ劣っているためです。一人ひとりが日常生活に思いやりの気持ちを持てれば、宗教のような大思想は必要ないのです。
キリストは、「あなたたちの中で罪のない人は、石を投げなさい」と言いました。こういう偉大な言葉が必要だったのは、その当時の社会で、罪人に平気で石を投げる人が多かったからです。今、私の身の回りを見渡してみると、罪人に平気で石を投げるような人はほとんどいません。たとえいても、周囲の大多数の人が止めます。だから、キリストはもういなくてもいいのです。
あるホームページで、「私たちは愛51%エゴ49%にならなければならない」という記事を読みました。そのときは、なるほどと思いましたが、あとから考え直しました。愛とエゴは、限られたパイを取り合うゼロ・サムの関係にあるのでしょうか。愛が52%になったら、エゴは48%になるのでしょうか。
日本には、だれでも知っているすばらしいことわざがあります。「よく学び、よく遊べ」。愛もエゴもできるだけ豊かに生きる。おいしく食べて心から感謝する。そういう生き方の方が、より明るくより建設的なものなのではないかと思ったのです。
しかし、話はここで終わりません。
宗教のような大思想を必要としない社会が来たあとに、人類が必要とする新しい大思想は別の形であるはずです。
それを考えるのが、これからの人間の課題だと思います。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。
読解力をつけるための最短コース
「読解マラソン」
「読解力をつけるにはどうしたらよいでしょうか。」
「塾の授業はまじめに受けているのに国語だけ成績が上がりません。」
「毎日、国語の問題集を解いているのに、点数に結びつきません。」
↑
言葉の森では、これまでに、このような相談を何百件も受けてきました。
残念ながら、塾の授業を受けても、問題集を解いても、読解力はつきません。
では、どうしたらよいのでしょうか。
それは、ひたすら読むこと。
「ええ、それだけでいいの?」と驚かれるかもしれませんが、まずはそれだけやってみてください。
記述問題の書き方、空欄補充問題の考え方、選択肢問題の選び方など、確かにコツはありますが、それらは読解力さえついてしまえばたいしたことではありません。まずは、ひたすら読みましょう。読む量を増やさないことには話になりません。
なぜなら、読解力がないのは、読む量が不足しているからです。
中には読書は好きなのに、国語のテストはできないというケースもありますが、これも同じく読む量が不足しているのです。
なぜなら、物語のような読みやすいものばかり読んでいても読解力は育たないからです。
言葉の森は、25年以上にわたって、小学生から高校生までの国語の指導にあたってきました。中心となる勉強は作文ですが、作文も含めて国語の勉強の基盤は読むことなのです。
そこで、言葉の森では、これまでも、書く勉強と並行して、少しむずかしいくらいの文章を繰り返し読む勉強を勧めてきました。まじめにやった生徒は、学校や塾の国語の成績に結果を出しています。
しかし、中には、勉強法があまりに単純すぎるせいか、問題を解くような勉強に戻ってしまったり、途中で飽きて挫折してしまったりする生徒も少なくありませんでした。
また、「ひたすら読む」とは言っても、何をどうやってどれくらい読んだらよいのかわかりにくい面もありました。
そこで、この読む勉強をシステム化して、勉強しやすくしたのが「読解マラソン」です。
「読解マラソン」では、学年相当より少し難しい長文の音読を毎日繰り返し、最終的には一冊の長文集を4回以上読むことを目標としています。1日の音読時間は10〜15分ぐらいです。
「読解マラソン」を始めて、数ヶ月経つころには、音読の効果が現れてくるはずです。(もちろん、まじめに毎日続けていればの話ですが……。)
読解力は、国語のみならず、すべての教科に必要なものです。また、読解力は、暗記して身につけるような力ではないので、一度身につけてしまえばずっとその力を維持できます。読解力に自信があれば、受験前の追い込みの時期に国語の勉強をする必要がないので、他の科目の勉強に集中できるというメリットもあります。
さらに、読解力は、子供たちの今後の人生のさまざまな場面で役に立つものです。
読解力は成長とともに自然に身につくものではないという点は注意が必要です。放っておくと、ますます差がついてしまいます。もちろん、一夜漬けも効きません。
「読解マラソン」で一生の宝となる読解力を身につけましょう。
言葉の森では、作文の勉強と並行して読解マラソンの勉強をすることができます。
電話指導だから自宅で受講できる無料体験学習受付中
|
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
熊本市の成松です。兄弟でお世話になっています。四月から読解マラソンが始まり、朝食前と夕方に計三話ずつ読むことを習慣にしました。最初は抵抗があったようですが、ここは長期戦で構える覚悟で臨みました。学校の宿題に読解マラソンだけという日も多々ありました。それまでは、国語のテストの苦手意識、または教科書内容に沿わない文章題の問題は途中で投げ出すことも多かったのですが、上の子が最近二回ほど、こう言うのです。国語のテストが分かるようになった、文の意味がすぐ分かる、国語が好きになったと。それまでは文章題のドリルを一日一枚しても苦手意識があり、解いて、答え見たら終わりだったのが、それを止め読解マラソンに切り替えただけで・・。
先日、私も四年の兄のを読んでみました。結構難しく、脳を連動させながら口に出すという感じで、これは文章の内容の濃さを語ってるなあと感じました。只、これは子供任せより、親の目配り気配りが効果をアップさせるのではと思います。これからも読解マラソンを何はともあれ一番で取り入れていこうと思います。宝が隠されている文集フォルダですね。
コメント、ありがとうございます。
次学期の読解マラソン集は、ルビ付きとルビなしの両方を入れてあります。ルビ付きが2ヶ月ほどで読みなれてきたら、あとの1ヶ月はルビなしに挑戦されると、更に高度な勉強になります。
難しいものをやりとげると、子供にも自信がついてきます。お母さんの役割は、やらせ続けることと褒め続けるになります。実は、お母さんがいちばん大変です。
がんばってください。
<<え2006/302jみ>>
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。