読解マラソンのページが新しくなりました。
7月のテーマは、海の中です。
6月までの記録は、現在見られませんが、あとで過去の記録を見ることのできるページを作る予定です。
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読解マラソンのページを7月の新学期に向けて工事中です。
工事が長引いて、7月に入ってしまいましたが。^^;
もうしばらくお待ちください。
さて、このお知らせだけではつまらないので、今日は言葉についてひとこと。
人間の言葉が不思議なのは、自然界にないものを作り出すことができる点です。
普通、動物たちは言葉を持たないので、仲間どうしのコミュニケーションを一種のテレパシーのようなもので行っています。オオカミが協力して獲物を追いかけるときなどがそうです。人間のように、「おい、おまえはあっちへ行け。おれはこっちに行くから」などという言葉は使わずに、お互いにピピピと相手の考えていることを自分も同じように感じながら行動しています。
ところが、人間は言葉を発明したために、そういうピピピという感じ方ができなくなってしまいました。そして、その分、更に言葉によるやりとりが洗練されるようになっていったのです。
しかし、言葉はいったん発明されると実体のように扱うことができるので、言葉どうしを組み合わせることができるようになりました。これが言葉の創造性です。
例えば、「空飛ぶ猫」などという実際にはありもしない現象を言葉で簡単に作ることができます。もちろん、ネコを放り投げると一瞬そういう状態になりますが、通常ネコを空を飛びません。
この「空飛ぶ猫」ぐらいでは、創造性といっても大したことはありませんが、もっと複雑な概念と概念を結びつけると、自然界にある以上の価値あるものを生み出すことができます。しかし、その反対に、自然界に決してないような否定的なものも生み出すことができます。
言葉によって価値あるものを生み出すときの材料となるものが長文や読書です。
いい文章をたくさん読んで、自分の頭の中に将来の創造性の材料をたくさん蓄積していってください。
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豊かな人は、他の人に何かを与えることができます。愛も同じです。豊かに愛されている人は、その愛を同じように他の人に分けてあげることができます。
貧しい人は、相手から愛をもらおうとします。愚痴をこぼす、ため息をつく、人を恨むなどは、すべて愛をもらいたいという心の現れです。
そして、私たちは全員、それほどひどく貧しくはないが、それほど大いに豊かでもない、そこそこの人生を歩んでいます。だから、多くの人は、たまに愚痴をこぼし、たまに人を褒めたり優しくしたりしながら生きています。
私たちにできることは、その愚痴の度合いを少し減らし、人に優しくする度合いを少し増やすことです。
そのコツは、第一に、嫌なことがあったら、その分、宇宙の汚れが自分を通してきれいに濾過されたと思うことです。そうすると、嫌なこともよかったことのような気がしてきます。(笑)
第二は、人に優しくしてあげるときは、自分が優しくしようと思うのではなく、宇宙の愛が自分を通して相手に優しさとして送られると思うことです。そうすると、他人を褒めたり優しくしたりしても自分もその分豊かになったような気持ちになります。
しかし、人間は有限な生き物ですから受け入れ可能な容量というものがあります。自分の濾過の容量を超えてまで汚れをきれいにすることはできません。また、自分の容量を超えてまで宇宙の愛を他人に送ることはできません。
だから、第三のコツは、濾過も愛も、自分が楽にできる身近なところでまず実行するということです。身近なところで実行しているうちに、だんだんと容量も大きくなり、更に遠いところまで広げていけるようになるでしょう。
さて、身近な実例です。お母さんが子供について、お父さんの前で愚痴をこぼします。「○○ちゃんがまたテストで悪い点を取ってきたのよ」。お母さんは、愚痴をこぼすことによって、お父さんから愛を補給しているのです。しかし、お父さんの愛が豊かでなければ、お父さんもどこかから愛を補給しなければなりません。そこで、お父さんは、お母さんの育て方に文句を言うことによってお母さんから愛を補給します。こうして、家庭の中で愛の奪い合いが始まるのです。
最初に愛を奪われていたのは子供です。テストで悪い点を取ったということで、子供はどこかから愛を補給したいと思っています。お母さんが豊かであれば、明るく「大丈夫。テストなんか気にしない」と言うことができます。お父さんが豊かであれば、明るく「それじゃあ、そのテストをお父さんと一緒に見直そうか」と対応することができます。こうして、家庭の中で愛を与え合う関係にもなることができるのです。
テストの点数は単なる物です。形として見えない愛の方が、テストの点数よりもずっと大事なものなのです。
以上、もう一度まとめて言うと、人から愚痴をこぼされたら、宇宙の汚れが自分を通して濾過されてその分自分もきれいになったと思うことです。そして、宇宙の愛を自分を通してその人に送ることによって、その分自分の愛も増えたと思うことです。
このことを、これまでのいろいろな場面にあてはめて、ぜひシミュレーションしてみてください。「あのとき、ああいう愚痴をこぼされたので、つい自分もああいう対応をしてしまったけど、実はこういう対応ができたのだなあ」と。
あなたの周りに貧しい人がいるのは、あなたがそれだけ豊かだからなのです。
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言葉の森の教室は、ビルの屋上のようなところにあるので、よくカラスやハトやスズメが遊びにきます。
その中でいつも来る二羽のカラスはよく慣れていて、人間のすぐそばまでやってきます。
お菓子をやると、屋上に作ってある小さな池のところに運んでいって、水にひたしてやわらかくしてから食べます。
それだけならいいのですが、毎日どこからかニワトリの骨をくわえてきては、池にひたして食べるのです。そして、そのまま骨を置いていきます。ちょっと不気味です。
だから、この前、カラスに言いました。
「おまえ、骨を食べるのはいいけど、ちゃんと片付けろよな」
カラスの返事、
「アホー」
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授業の渚を放映するようになってから、通学教室の授業風景もかなり変わってきました。
先生が説明をする前に、みんなそれぞれパソコンに向かって授業の渚を開き、その週の授業を見ています。
音声があちこちから流れると騒がしいので、パソコンにつけた電話機でそれぞれに授業を聞くようにしています。
中には、まちがえて隣の席のパソコンについている電話機を耳にあてて、「先生、聞こえないよ」と言う子も。
また、先生がドジったNGの部分だけを何度も繰り返し見て笑っている子も。
更に、授業の渚を見ないで、youtubeを見ている子も。(これは高校生)
そんなふうに楽しく勉強をしてくつろぐせいか、教室から帰るときのあいさつが、
「行ってきまーす」
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言葉の森の教材がある団体で、そのままその団体の副教材のようなかたちで使われていたそうです。
同じような例で、国語の勉強法が書いてあるホームページの内容が、言葉の森のページの内容とほとんど同じだったことがあります。
もちろん、両方のケースとも、それらの団体から言葉の森の方には何の連絡もありません。ただ黙ってこちらの作った内容をそのまま利用しているだけです。
しかし、この件について、私(森川林)は次のように考えています。
第一に、よいものはいくら制限をしたり隠したりしていても、自然に広がっていきます。それをとどめようとすれば、いろいろ不自然な無理をしなければなりません。そういう無理をするよりも、割り切って、よいものは多くの人が利用できればよいというふうに考えたいと思います。こちらがオリジナルに作った教材やノウハウであっても、それを利用したい人がいれば、利用してかまわないということです。その分、こちらは更にオリジナルなものを作っていけばいいだけです。
第二に、教材やノウハウがたとえ表面的に同じであっても、本当に大事なのはそれを実際に活用するところです。活用というのは、たとえば長文を読んだり、毎週作文を書いたりすることです。教材は真似できても、そのような実践の部分は真似ができません。ですから、教材の本当の価値は、その活用の部分にあると思います。
以上、他の団体が言葉の森の教材を無断でそのまま使うことは、無断という点で信義上の問題はあると思いますが、基本的には何も気にしていません。
これからも、もっといい教材を作り、よりよく活用できるようにしたいと思っています。
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言葉の森新聞に、これから毎週おもしろい話を一つ書くことにしました。
最近、元気のない人が多いようなので、笑いで元気を取り戻してもらうためです。
さて、今週の一笑。
バスケットボールの試合の打ち上げで、レストランに行き、みんなでにぎやかに食事をしていました。
I君が、おいしそうにスープを飲んでいます。
「おまえ、何飲んでんだよ」
「これ? フカヅメスープ」
そりゃ、違うだろ。
(実話)
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読みやすい文章を書く人の文の長さの平均は40−45字です。
文の長さの平均が短い人は、文章を書くときにあまり深く考えていません。ですから、小学生の文章では、文の長さの平均が自然に短くなります。もちろん、これがよくないというのではありません。生活作文などの事実中心の文章では、文の長さは自然に短くなるからです。
哲学者の書く文章などでは、文の長さの平均が60字前後になることがあります。密度の濃さを感じさせる文章ですが、読みやすいとは言えません。また、平均が長い文を書く人は、よく考えて書いているとは言えますが、その分、文章を書くスピードが低下します。
文の長さの平均以外に、長さのばらつきも読みやすさの重要な要素です。同じような長さの続く文章は単調な印象を与えます。しかし逆に、あまりに長い文と短い文が混在している文章は、読みにくさを感じさせます。
長い文と短い文が適度に混在していて、平均が40−45字の文章が、長さという点で言えば読みやすい文章ということになります。
しかし、文章を書いているときに、いちいち字数を数える人はいません。どうしたら適度な長さの読みやすい文章を書けるかというと、それは、頭の中にあるこれまでに読んだ適度な長さの文章のリズムを思い出すことによってです。そのためには、そういう文章を読む必要があります。
夏休みの読書感想文の図書を探すために、しばらく前に、いろいろな本を読みました。主に、最近出版された小学校高学年向けの物語です。どれも、子供たちが興味を持って読み進められるような優れた内容の本でしたが、一つ一つの文が短いことと、文体がわざとざっくばらんに書いてある本の多いことが気になりました。その一方で、芥川龍之介の「杜子春」などを読むと、使われている語彙は古いものの、文体のリズムはやはり洗練されています。子供向けの文章を選ぶ際には、この文体も重要な要素になってくると思いました。
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