無の文化は、日本の社会の中でしか存在することができません。無の文化と有の文化が遭遇すると、無の文化は、有の文化によって一方的に収奪され消滅してしまうからです。
かつて無の哲学が生まれたインドや中国においても例外ではありません。極東の端にあり海から隔てられた日本だけが、かろうじてユーラシア大陸の有の文化とは距離を置いた無の文化を保ち続けてきたのです。
しかし、日本は、これから好むと好まざるにかかわらす国際化していきます。しかも、その国際化が、これまでと違うのは、従来の国際化が、日本の工業生産物を海外に輸出する、あるいは人間が海外に学びに行くという外に出る国際化であったのに対し、これからの国際化は、海外からの移民が日本に入ってくるという内に入る国際化であることです。
有の文化に住む人間にとって、無の文化に住む人間は、一種のカモです(笑)。笠地蔵がのんびりと平和に暮らしている里に、次々とハゲタカがやってくるというのが、これからの国際化のイメージです。穏やかな文明人の老人が暮らしているところへ、武器を持った野蛮な若者が押し寄せるイメージと言ってもよいでしょう。
古代の日本の社会では、これまでも同様の移民の流入がありました。しかし、海に囲まれた日本には、流入する人口に制約があったために、年月を経るうちに、少数の侵略的な有の文化は、日本の無の文化の中に解消し、有の文化の知的技術的な刺激だけが日本の文化の中に取り込まれていきました。
ところが、今後予想される海外からの移民は、これまでとは規模が異なります。そのような中で、日本は、自国の無の文化をどのように守り、発展させていったらいいのでしょうか。
鎖国という選択肢は、進歩を否定することにしかなりません。日本が自らも有の文化に変身するという選択肢は、日本のよさを否定することです。優しい文明国の老人の無の文化が、武力を持った野蛮な若者の有の文化を包み込む中で、有の文化も生かした無の文化を作っていくことがこれからの課題です。
有の文化が、なぜ一方的に無の文化を収奪することができるのでしょうか。それは、有の文化が、相手を対象物として見ているのに対して、無の文化は、相手を自分と結びついた全体の一部として見ているからです。
相手を利用の対象と考える文化と、相手を共感の仲間と考える文化では、利害関係の相違は、そのまま支配被支配の関係につながります。正直者のインディアンは、策略を弄する白人の前で、多くの場合無抵抗で居住地を奪われ文化を滅ぼされていきました。
有の文化が無の文化を一方的に支配できるのは、有の文化には、無の文化があまり持っていない独自のツールがあるからです。そのツールの一つは策略で、もう一つは強力な武器です。
有の文化は、互いの抗争の中で、武器を発達させることに強い関心を持ってきました。しかし、無の文化は武器を発達させることにはほとんど関心を持ちませんでした。
織田信長の時代、日本は、ヨーロッパよりも優れた鉄砲の技術と戦術を持っていました。しかし、天下が統一され無の文化が復活すると、鉄砲の技術は発達を停止し、日本刀の芸術的な面だけが進化していきました。
武器を持たない平和な無の文化が、優れた武器を持つ野蛮な有の文化を包容し、正直な無の文化が、策略にたけた有の文化を包容するためには、何が必要なのでしょうか。(つづく)
人間の脳には、かなり高い可塑性があるようです。脳力は、生まれつきという面ももちろんありますが、その後の教育の仕方で大きく変わる面も持っています。
生物の成長には臨界期というものもありますが、人間の場合は、その臨界期もある程度修正できるようです。
「赤ちゃんに読みをどう教えるか」(グレン・ゴードン)という本の中で、いくつかの参考になる実例が挙げられています。
一つは、脳の生まれつきの障害で、大脳の半球を切除した子供たちのその後の経過です。特別の教育をしたわけではないのに、成長してから平均以上の知力を示した子が何名もいました。また、中には、きわめて高度な知能指数を持つようになった子もいたそうです。
もう一つは、教育によって、生まれつきの脳障害が著しく改善した例です。生まれながらの重度の脳障害で、2歳のとき、医者から、将来歩くことも話すこともできないだろうと診断された子が、3歳から両親の話しかけ、読み聞かせ、そして文字を読ませる教育によって、5歳になったころには、健常児よりもすぐれた理解力を示すようになり、6歳には普通の子同じように歩けるようになったということです。
これらの例を見ると、脳は決して能力の貯蔵庫のようなものではなく、一種のアンテナのようなもので、脳の細胞の数に比例して脳の力が決まってくるというようなものではないようです。
以上は、脳に障害のある子の例でしたが、器質的な障害がある場合にも、その後の教育によって脳の機能が大きく改善し障害を克服できるとしたら、健常児の場合も、教育によって更に大きな進歩があるはずです。
世間でよく言われる頭のよい子というのも、決して生まれつきのものではなく、読み書きの教育によって成長する能力なのだと思います。
また、脳の活性化は、子供の教育ばかりではなく、大人の教育や更には老人の介護にも役に立ちます。
肉体の機能は、使わなければ退化していきます。走る練習をすれは、筋力や心肺機能が鍛えられるように、脳の力も、脳に適した方法で働かせることによって、より鍛えられていきます。
脳の運動として、最も活発な運動を必要とするものは、やはり、進化的に脳の最も最後になって発達した言語の機能です。
老人の脳の活性化のために、子供の教育と同じような方法が使えるとすれば、話しかけること、質問すること、読み聞かせをすることなどが脳の運動につながります。
このような理由で、本を読む生活、文章を書く生活をしている人の脳力は、いつまでも若々しい状態を保っているのです。