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記事 1268番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/4/28
コンテンツの時代と日本人 as/1268.html
森川林 2011/05/10 21:31 



 インターネットのクラウドは、次のように発展してきました。まず、Yahoo!に代表されるポータルの時代、次に、googleに代表される検索の時代、そして今は、ブログやfacebookに代表される交流の時代と言ってよいでしょう。

 それぞれのクラウドで、前の段階における競争は、後の段階によって意味を消失させられてきました。そして、競争は新しい性格のものとして生まれかわっていきました。



 ショッピングのサイトで、楽天とアマゾンとヤフーがあるとします。最初は、どこのサイトでショッピングをするかという顧客の獲得が競争の焦点になっています。

 しかし、やがて価格.comのようなものが登場すると、消費者は、どこのサイトで買うかということを意識せずに、買いたい商品にだけ関心を持つようになります。

 すると、企業にとって競争は、消費者の獲得から別のものに移っていきます。今後の競争の焦点は、いかに消費者を獲得するかということよりも、いかにいい売り手を獲得するかという方向に変わっていくと思います。

 この傾向は、インターネット企業に限らず、一般の企業でも次第に前面に出てきます。これからの企業は、いかに顧客を獲得するかということよりも、いかにその企業で一緒に仕事をする人が居心地よく仕事ができるかという競争の方に移っていくのです。



 品物の買い手から売り手へ向かう流れは、情報の分野にもあてはまります。

 ブログやfacebookに代表される交流の時代も、最初のうちは交流を消費する側に重点が置かれています。つまり、これまでマスメディアに乗らなかったようなマイナーな情報にも接することができるとか、友達と交流が持てるとかいう価値が前面に出ています。

 しかし、このあとやがて、重点は、情報を消費する側から情報を生産する側に移っていきます。

 最初は、互いの交流自体が楽しいのですが、やがて、単なる交流の楽しさから、そこで何を交流するのかという、「何」のコンテンツが問われるようになってきます。交流の重点が、交流の受け手から、交流の送り手に変化していくのです。



 そのような時期になって初めて生きてくるのが、日本文化におけるコンテンツ性です。

 インターネットのこれまでの発展は、大きなビジョンの枠組みとそれに伴う技術の発展でした。このビジョンの枠組み作りに、日本人はほとんど参加していません。だから、逆に、そういう中で、ブラウザの仕様に縦書きやルビふりの要素を導入した日本人は、孤軍奮闘の中で本当によくがんばったと思います。



 なぜ、日本人がビジョン作りや枠組み作りのような分野になると活躍しないのかいうと、たぶん日本人には、それまでの流れを無視して一から作り直すというようなKY的なことをしたくない心理があるからだろうと思います。

 しかし、そのかわり、日本人が得意なのは、いったん決まった枠組みで、その中身を作る仕事をしていくことです。

 短歌や俳句は、日本独特の短詩形の文学です。これまで数多くの短歌や俳句が作られてきましたが、枠組みを変える試みはほとんどなく(石川啄木が3行で短歌を書いたとか、種田山頭火が定型を崩したとかいう以外に)、だれもが定まった形式を前提に、中身を埋めることにだけ関心を持ってきました。



 ブログという概念は、日本の技術者の多くが考えていたはずですが、それを実際に提案して広めたのはやはりアメリカ人でした。しかし、そのブログが広まったあとに、ブログで情報発信を行う中心になっていったのは日本人でした。



 同様のことが、今はまだ日本人の参加が少ないfacebookでもこれから起こるはずです。それは、facebookが交流という消費のツールから、コンテンツの創造という生産のツールに変化していくことです。それに伴って、facebookで使えるアプリも、これから質的に変化してくると思います。



 インターネットの進化は、もう終点に来ています。このあとに来るのは、システムのこれ以上の進化ではなく、コンテンツの進化です。

 インターネットの速度も容量も、これから更に発展していくでしょう。昔、私がニフティのパソコン通信を始めたころのモデムの通信速度は、1200bpsでした。今10MBで通信ができるとすると、その差は約1万倍です。昔のハードディスクの容量はキロバイトという単位ではなかったかと思います。今はメガバイトを超えてギガバイトになっています。

 しかし、1万倍の差といっても単なる量の差ですから、これから更にインターネットやコンピュータが進化して、量子コンピュータができ、ハードディスクの容量が無限大になっても、そこで現れる世界は今の世界の延長で大体予測できます。



 人間の創造力は、予測のできる未来には魅力を感じません。人間が、本当に生きがいを感じるのは、まだ姿の見えていない未知の分野に関してです。

 枠組み作りの時代が終わり、中身の時代が始まろうとしている今、コンテンツの創造に大衆的に参加する文化を持つ日本の役割は実はかなり大きいのだと思います。

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科学(5) 

記事 1267番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/4/28
子供との対話で深まる作文の勉強 as/1267.html
森川林 2011/05/09 19:54 



 通学教室で、生徒に、「今日は、どんな課題で、どんなことを書くの」と最初に聞くようにしました。これまでは、既に課題の準備をしていることを前提に、先生がすぐにその日の課題を説明していたので、中には準備をしていない子もいました。

 子供たちに説明をさせると、最初は、みんな、「えー!」と驚いていましたが、すぐに熱心に持ってきた課題フォルダを読み始め、それぞれ自分の理解した範囲で説明を始めました。中には、見当違いの読み方をしている子もいましたが、ほとんどの子は的確に内容を把握して読んでいました。



 その中に1人、中学1年生の生徒で、課題フォルダをあらためて開くこともせずに、すぐに長文の内容を説明してくれる子がいました。その週の課題の長文がすっかり頭の中に入っているようでした。

 試しに、「じゃあ、実例はどんなふうに書くのかなあ」と聞くと、最近の時事的な話を盛り込んで、自分の書こうとする実例を説明してくれました。「よく考えてきたね」と褒めると、その子は、お母さんと長文を読んでいろいろ考えてきたのだと教えてくれました。



 作文の勉強を充実させるいちばんのポイントは、作文に書くことを準備してくることです。つまり、予習です。

 その予習のときに生かせるのが親子の対話です。小学生の課題には、「似た話、聞いた話」という項目があり、自分の体験だけでなく、似たような父母の体験を聞いて話題を広げる練習があります。ときどき、この「似た話、聞いた話」で、とても面白い話を取材してくる子がいます。たまに、両親ではなく、祖父母に取材した話を書いてくる子もいます。

 感想文の課題の場合、この親子の対話は更に重要になります。感想文がうまく書けるかどうかは、似た話がどれだけ思い出せたかにかかっています。しかし、小学生の子供は、読んだ本をすぐに自分の似た体験に結びつけられるほど多くの経験を持っていません。本当は、似ていそうな話はたくさんあるのですが、子供が自分でそれを考えつくことはなかなかできません。

 そういうとき、身近な両親が子供と話しながら似た話を探していくと、子供の理解力はかなり深まるのです。読書を通して読んだ実例よりも、身近な両親の話を聞いて理解した実例の方が、子供の心に深く残ります。それは、本で読んだ実例よりも、父母から聞いた実例の方が生きた実例になるからです。



 予習の大切さは、学年が上がるほど高まってきますが、小学校低学年の作文も、予習の有無で大きく変わってきます。小学校1、2年生のころは、毎日が新鮮は体験の連続なので、書くことに困ることはまずありません。しかし、予習をしてこない子は、毎回同じような放課後の遊びの話や、家に帰ってからのゲームの話を書いてしまうことも多いのです。



 この自習は、子供の勉強にとって大きな力になりますが、それだけではありません。実は、子供と一緒に作文の中身や似た例を考えるというのは、大人にとってもかなり楽しいことなのです。

 現代の社会では、親子の対話の機会が少なくなる一方で、テレビやゲームなど、対話の機会を更に減らす環境に囲まれています。作文の課題をもとにした対話は、自然に知的になるので、テレビを見たり、本を読んだりするよりも、実ははるかに頭を使う時間になることが多いのです。

 言葉の森では、今後、この家庭での対話がそれぞれの家庭で軌道にのるように、いろいろなアドバイスをしていきたいと思っています。

 その手段の一つとして、現在、facebookのページ作りに力を入れています。

 作文の勉強は、他の教科の勉強とは違い、教材だけを与えてもなかなかこなしていくことができません。親と子の対話、先生と親子の対話という形で、勉強の中に対話を取り入れた指導をこれからしていきたいと思っています。



 ここまで読むと、お父さんやお母さんの中に、「わあ、大変だ」と思う方も多いと思います。大体、子供に説明をさせるというのが大変で、果たして素直にそういうことをするのだろうかというのが最初に考えることだと思います。

 しかし、これは、やってみるとわかりますが、子供は結構楽しく素直に説明を始めます。

 子供のころ、学校ごっこをした人がいると思いますが、先生の役というのは、結構人気があります。生徒の役は、ただ聞いていて、たまに手を挙げて答えるぐらいですからあまり面白くありません。しかし、先生は、やさしく説明したり、いばって命令したり、褒めたり、叱ったり、突然チョークを投げつけたりと、いろいろな変化ができるからです。

 同じように、人の説明を聞くのはあまり面白くありませんが、人に説明してあげるというのはなかなか面白いものです。特に、ふだん子供が親に説明するような場面はあまりありませんから、子供が先生役のような立場で親に長文の内容を説明するというのは、子供にとっては新鮮なことなのです。

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対話(45) 

記事 1266番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/4/28
言葉の森のクラウド論4 as/1266.html
森川林 2011/05/08 06:13 


 クラウド論は、3で終わるつもりでしたが、最後の方の創造の部分がわかりにくいと思いましたので、追加の話を書くことにしました。



 クラウドの本質は、よく言われるように、自社サーバーで行っていた仕事をアマゾンやグーグルが提供するサーバーの中に移し替えるという、形の上だけの話ではありません。

 クラウド化の本質は、インフラの共通化という雲に包まれることによって、それまであった境界が消失し、それに伴って差異も消失していくということです。

 このクラウド化は、インターネットによって加速されていますが、決してインターネットの世界に限られたものではなく、今日の文化、経済、政治も含めた大きな歴史的動きなのです。



 共通化の雲という言葉から連想するのは、ワン・ワールドという概念です。世界は、これまで一貫して境界と差異の消失という方向で発展してきました。自由化というのは、経済における境界と差異の消失です。英語が世界の共通語として広がっているのは、言語コミュニケーションにおける境界と差異の消失です。

 インターネットの世界では、今、ショッピング、検索エンジン、ソーシャルサービスなどの分野で多くの企業が競い合っています。リアルの世界では、場所や人という境界に基づく差異から、ナンバー1の企業ばかりでなく、ナンバー2も3も4も、そしてはるかに下位の企業も、それなりに存在する余地がありました。

 例えば、鮮度という商品の性格から消費者に近接したところでないと成立しない八百屋や魚屋は、昔はひとつの街に必ず1軒はありました。鮮度によって、場所が境界となっていたからです。しかし、現在では宅配便などの流通産業の広がりによって、より大きな商圏でナンバー1にならないと生き残れない状況が生まれています。



 インターネットの世界では、そこでやりとりされるコンテンツが主に情報的なものであるという理由から、競争は更に過激になり、現在では世界中でナンバー1の1社しか生き残れないという状態になりつつあります。そして、更に、ショッピングのナンバー1と、検索エンジンのナンバー1と、ソーシャルサービスのナンバー1が、相互の境界を消失させて、ひとつのクラウドの中でインターネットそのもののナンバー1を競う状況がこれから生まれてきます。

 競争の世界で圧倒的なナンバー1が生まれることは、競争自体の消失を意味します。ワン・ワールドというのは、言語も、文化も、政治も、経済も、ひとつに統合された世界の構想です。これまで空想の中だけで考えられていたひとつの世界国家、世界政府という構想が、インターネットの発達によって現実的な可能性を持つようになってきたのです。



 ところが、境界と差異の消失した世界で、人間の歴史の前史は終わり、本史が始まると単純に考えることはできません。

 人間以外の生物は、もともと境界と差異のない世界で暮らしていました。イルカやクジラは、人間と同様に高い知能を持つ生物ですが、争いも奪い合いもない世界で、平和なワン・ワールドを築いていました。しかし、その平和は究極の平和ですから、これから何億年たっても、何十億年たっても、イルカやクジラはたぶん今のイルカやクジラのまま平和に暮らしているだけでしょう。

 これに対して、人間が、このイルカとクジラと同じように、ひとつの世界政府のもとで永遠の平和を享受すると考えることはできません。なぜなら、人間は、イルカやクジラと違い、世界から分離する自由を持つ生物としてこの世界に登場したからです。



 イルカやクジラは、何億年平和が続いても、その平和に飽きることはありません。人間以外の生物は、すべてそうです。

 忠犬ハチ公は、帰らぬ主人を迎えに行くために何年間も同じ時刻に同じ駅に通い続けました。私たちは、その話を聞くと、人間の感覚でハチに同情します。世界から分離する自由を持つ存在である人間は、あるべき姿と現実を比較することができるので、葛藤を感じたり、退屈したり、変化や刺激を求めたり、向上を目指したりします。

 しかし、動物たちにとって、現実は、あるべき理想とのギャップを持つ何かではなく、ただあるがままの隙間のない即時的な事実そのものに過ぎません。ハチ公は空虚な気持ちで主人の帰りを待っていたのではなく、待つという行動を日々充実して生きていたのです。

 ところが、人間には、動物たちのような即時的な生き方はできません。人間は、境界と差異の消失したひとつの大きなクラウドの中で、必ず新たな境界と差異を作ろうとします。ワン・ワールドは、究極の平和の始まりではなく、新たな支配と抑圧の出発点になるのです。

 人間の歴史は、過去にこのようなことを何度も繰り返し、時にはそのために最初からすべてを破壊して出発するようなことを行ってきました。

 境界と差異のないワン・ワールドが永続するためには、その世界の内部に先験的な境界と差異が組み込まれている必要があります。例えば、インドのカースト制度のようなものがそうです。未来の社会でワン・ワールドが成立する場合も、このカースト制度を模したものが作られるでしょう。

 あるいは、長期間にわたって豊かさと平和を維持した古代マヤ文明に見られるように、生贄制度などの非人間的な文化が社会の存続に不可欠の要素として組み込まれる可能性もあります。

 境界と差異のない世界が存続するためには、人間の社会では、その社会の内部に、例外的で強固な境界と差異を残しておく必要があるのです。

 そして、これまでは、この理不尽なビジョンに対して違和感を持ちつつも、そのビジョンに対抗できるほどの明確な展望を持つ人はいませんでした。それはちょうど、社会ダーウィニズムにおける弱肉強食の合理化や、マルサスの人口論における人口抑制の不可避性に対して、対案を持つ人がいなかったのと同様です。

 だからこそ、カースト制度は、賛同者よりも批判者の方がはるかに多いにもかかわらず生き残り、古代マヤ文明は、だれもが求めていない非人間的な制度を自助努力によって廃止することができなかったのです。



 しかし、そうでない歴史も人間には可能です。それは、境界と差異のない世界で、ひとりひとりの人間が日々新たな創造と発見によって境界と差異を絶えず作り出していくような世界です。

 このような世界に近い社会が、かつての日本の歴史にはありました。それは、日本の縄文時代と江戸時代です。この二つの時代は、いずれも長期間にわたって平和と繁栄が続きましたが、他の文明にあったような極端な身分格差や抑圧制度は見られませんでした。それは、この二つの時代に、それぞれの社会の中に日常的で大衆的な創造と発見があったからです。

 ところが、縄文時代や江戸時代の文明を、現代に復活させることはできません。なぜなら、現在は、日本人の間だけではなく、世界中の人が納得できるような強固な文明を提案できるのでなければ、世界的な広がりを持つワン・ワールドに対応することはできないからです。

 言い換えれば、縄文時代や江戸時代の創造文化では、世界基準になるには力不足であったからこそ、日本が、明治、大正、昭和、そして平成の現代にかけて世界との摩擦を経験する中でエゴイズムの文化に染まる必要があったとも言えるのです。つまり、今の日本であれば、世界基準の提案をできるだけの世界性がすでにあるのです。

 人間社会の未来は、社会の構成員のすべてが創造と発見の生き方をすることによって、どのような格差も抑圧も必要としない文明を、世界的な広がりで築けることができるかどうかにかかっています。



 そして、話は再び身近な現実に戻りますが、この創造と発見の生き方を、ソーシャル・ネットワーク・サービスにおける交流の基盤とすることができるかどうかが、今後問われていきます。

 SNSに代表される、消費者レベルにおけるクラウド化の広がりにおいて、参加者の交わす交流が、各人の創造と発見を基盤としたものであるならば、未来のワン・ワールドの展望は明るいでしょう。

 しかし、もし人間どうしの交流のほとんどが、新たな創造と発見に結びつかないものにとどまるならば、未来のワン・ワールドは新しいカースト制度を必要とするようになるでしょう。



 すでに、コミュニケーションのクラウドは、急速に世界中に広がっています。日本でも、ブログ、twitter、facebookなどで交流の輪が次第に広がっています。

 今はまだ、コミュニケーション自体を目的とした交流が中心ですが、やがて、日本におけるSNSの交流は、他の国とは異なり、各人の創造と発見に基づいたものを中心にしていくでしょう。

 それは、日本語によるブログの情報発信量が言語人口比で世界一であることに見られるように(2006年調査)、日本には、創造と発見を日常生活の中で追求する独特の文化があるからです。

 ソーシャル・ネットワークにおけるクラウド化の技術は、アメリカで生まれました。しかし、そこに、今後大衆的なレベルで創造的なコンテンツを盛り込んでいけるのは、日本以外にはたぶんありません。交流のツールとして生まれた技術が、これから国境を越えて創造のツールに進化していくのです。



 コミュニケーションで大事なことは、交わすことそのものではなく、何を交わすかというコンテンツの価値です。価値は、過去の時代では、主に境界と差異によって作られていました。しかし、これからの境界と差異の消失の時代の中で、最後まで残る価値は、新たに創造されたものだけです。

 これまで、マスメディアの情報に価値があったのは、知らない大衆と知っているメディアとの間に画然とした境界があったからです。しかし、インターネットの時代に、その差異はきわめて小さくなっています。そのような時代に価値ある情報とは、他人より先に知った情報ではなく、自分が新たに創造した情報です。

 クラウド化を新しい容器とすると、そこに新しい水を注ぎ込むのは、日本人を中心とした創造の文化を持つ無数の一般大衆です。

 クラウド化を生かせるかどうかは、クラウド化の本質をどう考えるかにかかっています。クラウド化とは、インフラの共通化による境界と差異の消失ですが、その消失を不毛なワン・ワールドではなく、新たな豊かさの条件とするためには、私たちひとりひとりが創造の文化を作り出す必要があります。そして、それは、私たちがかつてそういう文化を持った時代があったということを思い出すことが出発点になるのです。



 インターネットの発達は、情報の世界化、情報のポータル化、情報の検索化、情報の発信化、情報の交流化という形で進んできました。この流れを具体的な名前にあてはめれば、ネットスケープ、インターネットエクスプローラ、ヤフー、グーグル、ブログ、mixi、twitter、facebookなどとなるでしょう。この変化が、境界と差異の消失というクラウド化の進化を表していました。

 だから、今、インターネットを活用するということは、単に情報を発信するだけではなく、交流を交わすということでもあるのです。しかし、交流が交流を目的としたものだけにとどまるならば、それは、アバターがあちこちの仮想空間でコミュニケーションを交わすという以上の話にはなりません。大事なのは、交流することではなく、その交流に創造を載せていくことです。

 インターネットに象徴されるクラウド化のインフラを、単に交流のためのインフラにとどめるのではなく、日常的で大衆的な創造を交流させるためのインフラにするという観点を持つことによって、クラウド化はもう一段階新しいステージに進化することになるのです。

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言葉の森サイト(41) 

記事 1265番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/4/28
言葉の森のクラウド論3 as/1265.html
森川林 2011/05/06 15:14 



 連休中は、クラウドの話ばかり考えて、頭がクラウド状態でした。という冗談はさておいて。


 クラウドというと、定義があいまいなこともあって、多くの人は、自社サーバーで行っていたサービスを、アマゾンやグーグルなどのサーバーを使う形に切り替えるぐらいに思っているのではないでしょうか。

 表面的には、そういう現れ方をしていますが、前回にも書いたように、クラウドの本質はもっと別のところにあります。

 それは、これまで境界があり、その境界によって差ができていた世界が、クラウドに包まれることによってその境界をなくしてしまうことを意味しています。


 これまでの社会では、差というものが経済活動の動因になっていました。差を生み出していた人為的な境界がとりはらわれることによって、人間の社会がより自然に近い社会に近づいているというのがクラウドの意味です。

 例えば、インターネットの技術の発達によって、これまでアメリカなどの本国にあったコールセンターがインドに移ったとします。アメリカの消費者が電話をして説明を聞くところは、アメリカではなくインドなのですが、その違いは消費者には感じられません。このことによって、アメリカのコールセンターに勤めていた人はインドの人に合わせて賃金が低下し、インドの人はアメリカの人に近づく形で賃金が上がります。通信技術というクラウドが、アメリカとインドという場所の境界を消してしまったということです。


 この考えを延長すると、今まさに政治と経済の大きな地殻変動の起きる前夜にいることがわかります。例えば、インターネット書店の最大手はアマゾンです。アマゾンは、本以外の物品も販売するようになりました。楽天もヤフーショッピングも、インターネットで物品を販売しています。

 これまでは、どの会社がどれだけのシェアを持っているかということが重要でした。しかし、クラウド化が進行すると、1位と2位の差の意味がなくなってきます。消費者はクラウドの雲の中で、ひとつの物品を買おうとします。しかし、その消費者は、楽天で買おうとかアマゾンで買おうとヤフーで買おうとかいう選択をすることなく、ただ物品を購入するという行動をとるのです。消費者には、その物品がどこから提供されているかという違いはわからないし、わかる必要もありません。

 そして、更に言えば、消費者は、インターネットの商店で商品を検索したあと、近所のお店でその商品を買う可能性があります。アフターサービスの必要な商品などは、顔の見えないインターネットショッピングで買うよりも、近所の商店から購入した方が安心できるからです。


 このように考えると、言葉の森が今行っている学習指導のような仕事もクラウド化の影響を受けてきます。

 言葉の森は、オリジナルな教材を豊富に持っています。また、指導法や指導のシステムもオリジナルです。しかし、そのオリジナリティは、クラウド化の雲の中で、もはや差にならなくなっていくのです。消費者は、どこの教室で学ぶかということを意識せずに、ただ作文を学ぶという選択をするようになってきます。もちろん、教育の分野は、物品の分野に比べて、すぐには境界がなくなることはないでしょう。しかし、時代の流れは、境界の消失、差の消滅の方向に確実に向かっていきます。


 クラウド化は、経済の分野だけでなく政治の分野にも及びます。これまで人間社会で、支配する側と支配される側の差があったのは、両者の間に、金力の差、知力の差、武力の差などの差があったからです。しかし、クラウド化の進展の中で、これらの境界と差が次第になくなっていきます。

 例を挙げれば、これまで社会に影響を与えるほどの情報を発信できるのは、資本と人材と技術とブランドのある大手のマスメディアに限られていました。しかし、今すでに、影響力という点で大手のマスメディアと小さなグループや個人との差は急速に縮まってきています。場合によっては、ひとりの個人の影響力の方がマスメディアよりも大きくなることさえあります。このような、境界と差の消失が、社会のあらゆる面で広がりつつあるのです。


 しかし、クラウド化がどれだけ進展しても、最後まで残る差があります。それは、人間の個人個人が持っているリアルな時間に基づいた差です。facebookなどのソーシャル・ネットワーク・サービスは、世界中の友達とつながる可能性を提供しています。しかし、ひとりの人間が日常生活の中でつながりを持てる人数は、せいぜい50人や100人でしょう。twitterなどで20万人のフォロワーがいるという有名人もいますが、それは一方的にフォロウされているだけで、相互に交流のある関係としてつながっているわけではありません。


 だから、クラウド化の時代に、クラウドによって打ち消されない輪郭を持つものは、個人の交流です。AさんとBさんが交流する場合は、Aさんは、人間ならだれでもいいと思って交流しているわけではなく、ほかならぬBさんという個性を選んで交流しているからです。


 しかし、交流が、クラウド化の中で最後まで残るものかと言えば、そうではありません。人間は、単にコミュニケーションを欲しているのではなく、個性的なコミュニケーションを欲しています。そのためには、AさんとBさんの双方に、ほかの人にはない独自性があるのでなければなりません。つまり、AさんにAさんでなければできないような創造性があり、BさんにBさんでなければできないような創造性があるから、AさんとBさんの交流は、二人にとって意味を持つのです。


 これを、ビジネスの分野にあてはめても同じことが言えます。ある企業が存在する意味を持つのは、その企業が創造的であるからです。創造をやめたときに、その企業の価値はクラウドの中に消失してしまうでしょう。多様な創造と交流が社会のすべての成員に求められる社会というのは、決してストレスの多い社会なのではなく、毎日が新鮮な刺激に満ちた魅力のある社会でしょう。クラウド化の先には、そういう世界が広がっているのが予感できるのです。



 言葉の森のfacebookサイト「言葉の森作文ネットワーク」は下記のページです。(「いいね!」ボタンを押すと参加できます)
http://www.facebook.com/kotobanomori


 サイトの中には、現在、二つのコミュニティのグループがあります。


(1)教育の丘相談所(公開グループ。メンバーと発言を公開)
http://www.facebook.com/home.php?sk=group_170116223042821


(2)教育の丘コミュ(非公開グループ。メンバーのみ公開)
http://www.facebook.com/home.php?sk=group_163406370385262


 教育に関する相談は、何でも受け付けています。お気軽においでください。

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通信教育 20110509  
デザイン資格の通信教育
http://www.designlearn.co.jp

森川林 20110510  
 デザイン資格って。あまり関係ないんだけど(笑)。
 まあ、いいや。がんばってください。

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記事 1264番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/4/28
5月5日19:02にファクスを送られた方 as/1264.html
森川林 2011/05/06 09:03 
 1枚だけなので、体験学習のお申し込みではないかと思いますが、裏面を送られたようで白紙でした。
 お心当たりの方は、再度送信お願いいたします。

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手書きの作文と講評はここには掲載していません。続きは「作文の丘から」をごらんください。

主な記事リンク
 言葉の森がこれまでに掲載した主な記事のリンクです。
●小1から始める作文と読書
●本当の国語力は作文でつく
●志望校別の受験作文対策

●作文講師の資格を取るには
●国語の勉強法
●父母の声(1)

●学年別作文読書感想文の書き方
●受験作文コース(言葉の森新聞の記事より)
●国語の勉強法(言葉の森新聞の記事より)

●中学受験作文の解説集
●高校受験作文の解説集
●大学受験作文の解説集

●小1からの作文で親子の対話
●絵で見る言葉の森の勉強
●小学1年生の作文

●読書感想文の書き方
●作文教室 比較のための10の基準
●国語力読解力をつける作文の勉強法

●小1から始める楽しい作文――成績をよくするよりも頭をよくすることが勉強の基本
●中学受験国語対策
●父母の声(2)

●最も大事な子供時代の教育――どこに費用と時間をかけるか
●入試の作文・小論文対策
●父母の声(3)

●公立中高一貫校の作文合格対策
●電話通信だから密度濃い作文指導
●作文通信講座の比較―通学教室より続けやすい言葉の森の作文通信

●子や孫に教えられる作文講師資格
●作文教室、比較のための7つの基準
●国語力は低学年の勉強法で決まる

●言葉の森の作文で全教科の学力も
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●いろいろな質問に答えて

●大切なのは国語力 小学1年生からスタートできる作文と国語の通信教育
●作文教室言葉の森の批評記事を読んで
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