これまでの工業時代の教育は、国語算数理科社会という主要教科に見られるような平均的な知識を詰め込む教育でした。
 なぜそれが必要だったかというと、人間が機械の歯車の一部として仕事をするためには、どの部分の歯車にもなれる平均的な能力が必要だったからです。
 だから、大人になってからの実生活でほとんど使うことのなかった知識――大化の改新の年とか鎌倉幕府の年とか、植物の導管と師管の区別とか、フェノールフタレイン溶液の用途とか、そういう雑多な知識をみんなが同じように学んできたのです。
 これは、否定的な意味で書いているのではありません。
 工業時代までは、そういう平均的な何でもひととおりできる学力が必要だったから、誰もがそれを目標にして勉強をしていたのです。
 そして、その成果が、現在のような豊かで便利な工業社会を生み出したと言えます。
(もちろん工業化の行き過ぎが、環境の破壊や文化の破壊につながった面はありますが。)
 しかし、今、その平均的な詰め込み教育の前提となる社会が、大きく変化しています。
 数年前、海外の入試で、スマホを使ったカンニングが問題になったことがありあます。
 また、これも海外の話ですが、大学生のレポートで、他人のレポートをコピーしたものが問題になったことがあります。
 大学側は、これらの対策として、試験会場にスマホ持ち込み禁止とか、レポートのコピーを見破るソフトの開発とかいうところに力を入れていったようです。
 しかし、本当の問題は、学生がカンニングやコピーをしたことではなく、カンニングやコピーで済むような問題で試験をしているところにあるのです。
 学生が社会に出て仕事を始めるとき、いろいろな情報を調べたり、ほかの人のいいところを真似したりということは当然あります。
 もちろん、そこに独自の創造性がなければ、社会から評価されることはありませんが、しかしその独自の創造性の前提としての調査や模倣は当然あるのです。
 だから、理想の試験とは、何を調べても写していいから、そこから自分らしいものを作り出す可能性があるかどうかということを見る試験です。
 しかし、それは、試験というよりも、むしろ直接的な実践そのものです。
 つまり、その人が世の中に個性的創造的なものを生み出しているかどうかということが、日々問われているのが、その人の人生なのです。
 そして、誰が問うのかといえば、それはその人自身です。
 なぜなら、自分が新しいものを創造することが、その人の生きる喜びの大きな部分を占めているからです。
 工業時代の教育と、工業時代のあとの教育の違いはここにあります。
 もちろん、世の中には、平均的な知識を満遍なく身につけることを個性とする人もいます。
 そういう役割は、どういう世の中になっても必要だからです。
 だから、平均的な知識を否定するのではなく、個性を伸ばすという大きな枠の中で平均的な知識を習得する教育も考えていくということです。
 では、個性を伸ばす教育は、具体的にどのようなやり方で行われるのでしょうか。
 その答えのひとつが、発表学習です。
 子供たちが、自分の好きなことを自由に研究し、それをみんなに教える(発表する)という勉強の仕方です。
 発表学習クラスの子供たちの発表を見ると、ほとんどの子が毎週、ユニークな面白い発表を行っています。
 これらの子供たちは、学力も十分にあります。
 だから、普段の勉強以上の独自の研究発表ができるのだと思います。
 しかし、発表学習は、自分の好きなものがある子なら、誰でも取り組めます。
 極端なことを言えば、ゲームの好きな子は、ゲームを研究し発表してもいいのです。
 好きなゲームをただやっているだけなら、あまり進歩や向上というものはありません。
 しかし、それをほかの人に発表するとなると、そこに個性や創造性を作り出さなければならなくなります。
 それは、個性的、創造的なものでなければ、ほかの人は興味を示さないからです。
 この構造は、実は、社会そのものの仕組みと同じです。
 社会では、誰でも、自分の好きなことを何でもやっていいのです。
 しかし、それが人に評価されるかどうかは、そのやっていることが個性的創造的かということに関連しています。
 人間は、自分の好きなことをやるのはうれしいものですが、それを人から評価されるのは更にうれしいものです。
 また、最初は人から評価されるのがうれしいから、個性的創造的にやっていたものが、やがてその創造の面白さが発展して、人の評価以上に創造の喜びが動機となって自分の好きなことを続けていくようになります。
 そのように、すべての人が自分の個性を創造的に伸ばしていくのが、未来の社会の人間の生き方になります。
 発表学習とは、そういう未来の社会を生きるために、第一に必要となる教育です。
 現在の入学試験は、多数の受験生を短期間で採点しなければならないという技術的な制約から、ペーパー試験が中心になっています。
 紙の試験で評価できるものは、基本的に知識の詰め込み度合いだけです。
 その生徒の思考力や表現力は、作文試験や面接試験である程度評価できますが、その生徒の個性や創造性を短期間で評価できる試験方法はありません。
 だから、近年の東大の推薦入試では、何か月も時間をかけて、受験生の個性的な創造を評価する仕組みにしたのです。
 この個性と創造性を評価する仕組みが、将来の試験の主流になります。
(ただし、将来は試験ということそのものがなくなっていくと思いますが、それは別の話なのでまたいつか。)
 会社の就職試験でも、会社が本当に採用したい人材は、学力は普通にまともにできている程度でいいから、個性と創造性と社会性のある人材です。
 同じように、将来の学校の入学試験も、学力は、センター試験なら8割、学校の成績ならオール4という普通の学力でいいとして、その学力の担保の上に、個性と創造性と社会性(コミュニケーション力)を見るものになっていきます。
 それは、大学入試そのものが変わるので、それに応じて、高校入試も、中学入試も変わっていくからです。
 発表学習クラスに参加する子供たちが、いろいろな入試に臨むころは、まだそういう試験は主流にはなっていないかもしれませんが、しかし、将来の教育の先取りをしている気持ちでこれからも個性的な発表をしていくといいと思います。