昨日の「江戸時代の模倣という方法を現在の作文の勉強にも生かすことができる」という話のつづきです。
文章を模倣する練習というのは、家庭や学校のような場所でなければなかなかできません。民間の学習塾などが文章指導と銘打って、ただよい文章を書き写す練習をしていたのでは、人が集まらないでしょう。
しかし、そういうことを言ってもいられません。言葉の森では、現在、約千字の文章を暗唱する練習をしていますが、これを今後、暗唱から暗写へという形の練習に発展させていきたいと思っています。
文章の暗唱の成果というものは、すぐに出てくるわけではありません。その文章を暗唱したことを忘れたころに、暗唱した文章の雰囲気が作文の中に表れてきます。
先日、小学校5年生の生徒たちの「痛かったこと」という作文の課題で、子供たちが構成図を書いたあとに、その痛かった場面の描写を特に詳しく書くようにアドバイスしました。
ちょうど1年ほど前に、水泳の文章の暗唱で、ごく短い時間の話を詳しく描写するような文章を暗唱する練習をしていましたが、その文章の雰囲気と同じような盛り上がりのある描写が、今回の「痛かったこと」の作文の中に自然に書けていました。書く対象が違うので、表現する言葉は全く違いますが、そのピークに向かって盛り上がるという雰囲気がとてもよく似ていたのです。
暗唱の成果というものは、このように文章の雰囲気が似ているという形で表れてきます。ですから、暗唱の成果がすぐに出るのではなく、それがすっかり自分の中に消化されて、その文章を暗唱したことなど忘れたころに、自分の書く文章の中に暗唱の経験が生きてくるのです。
本の好きな子は、その本の文体と似た文章を自然に書くようになります。読む練習は、書く練習と深く結びついているのです。
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江戸時代の寺子屋の教育は、一斉指導でも個別指導でもありませんでした。それは、子供たちの自学自習をもとにして成立していました。
勉強の方法は、先生が何かを教えるという面は少なく、子供たちがある手本を真似することによって自ら学ぶという形でした。
真似をする学習というものは、その真似がすっかり自分のものになるまではあまり面白い勉強とは言えません。しかし、完璧に真似ができるようになると、その真似を表現することが楽しくなってきます。
徹底した真似は、初歩的な個性発揮よりもはるかに程度の高いものです。
欧米が個性と才能と天才の文化だったとすれば、日本の文化は、模倣と技能と熟練の文化だったと言ってもよいでしょう。
この模倣という方法を学校での作文の勉強にも生かすことができます。
日本の学校教育における作文指導は、二つの問題点を持っているように思います。
ひとつは、小学校低学年で作文指導をしすぎるという問題です。読む力がまだ不十分で、作文の書き方(表記)の基礎を身につけていないのに、自由に作文を書かせて間違いを直すというようなところに力が入れられすぎています。小学校低学年のころは、よい文章を繰り返し読んで、読む力をつけることによって書く力の土台を作ることが大事で、書くことをそのものを追求するのは、多くの子供にとって先取りしすぎた指導になっています。
問題点の第二は、小学校低学年での作文指導のしすぎとは反対に、小学校高学年から中学生高校生にかけての作文指導の不足です。この原因は、作文という生徒の個性を発揮する学習に対して、先生の評価や講評が追いつかないという理由によるものです。この場合も、生徒が模範となる文章を模倣して書き写すという練習を中心にしていけば、文章を書く機会は今よりももっと飛躍的に増やすことができます。
この手本の模倣というのが、江戸時代の寺子屋教育の中心で、この方法によって日本では当時の世界最高の識字率と手紙普及率が育っていったのです。(つづく)
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昨日、突然、高校3年生の子が慶応大学文学部の推薦小論文入試の書き方を教えてもらいたいというのでやってきました。
そこで、持ってきた過去問の課題を見て、書き方を説明しました。その際に、「結びの意見には、『反対意見に対する理解』を入れていくのがコツだよ」という話をしました。その子は、「何でそんなものを入れるのか」と納得できないような顔をしていましたが、その後実際に書いたものを見てみると、反対意見に対する理解が文章の印象をよくするのにかなり役立っていました。
受験の作文小論文のコツは、文章をよく見せるだけでなく、書いている自分自身をよく見せることです。ただ自分の考えを述べていればいいというのではなく、こんなに深く考えて述べているということもアピールする必要があるのです。
もちろん、こういうコツは、ある程度書く力があることを前提としていますから、実力がまだ伴っていない生徒の場合は、実力をつけることをまず最初に優先しなければなりません。
受験生をおおまかに分けると、まず実力のある子と実力のない子がいます。更に、実力のある子の中に、上手に書ける子と上手に書けない子がいるということになります。
日本では、中学高校での作文小論文の指導はほとんどありませんが、そのわりには、かなりの子が一定の文章力を持っています。
話は少し変わりますが、 フランスの調査会社が2010年2月にツイッターで使われている言語を調査した結果によると、英語が50パーセントで第1位で、日本語がそれについで14パーセントで第2位だったそうです。
日本人がいかに文章を書くことが好きな民族であるかがわかると思います。この原因は、日本語が漢字かな混じり文という視覚的な言語であることが大きな理由になっているように思います。日本語は、喋るよりも書いてみたときの感覚が美しくて楽しいという気持ちを持ちやすいのです。
この日本語を書く人口が多いということは、これからの日本の社会の可能性を大きく広げています。
近代の社会では、マスコミが情報を作り出し、一般大衆はそれを受け入れるだけという構造で運営されてきました。ところが、インターネットの普及によって、日本の場合は一般の人が情報を作り出す力があるということが次第に明らかになってきました。
これまでの工業社会は、今後次第に創造社会に移行すると思われます。このときに、国民ひとりひとりが自ら情報を作り出すことができる日本と日本語は、新しい時代を作るうえで世界の中で最も有利な位置にいると思います。
さて、言葉の森では、受験作文小論文コースは入試の5ヶ月前からということにしているので、9月から受験作文コースに切り換える生徒が多くいます。
作文の実力はこれまでの練習の中でつけているので、この受験コースは仕上げという位置づけの勉強になります。つまり、今ある実力の中でどれだけ上手に書くかということを中心にした指導です。このため、講師は生徒に対して、普通の練習では注意していないようなところまで注意します。
これまでの作文の練習では、生徒の努力を評価していましたが、受験作文小論文の指導では、努力よりも結果を評価します。例えば、いい表現を入れようとして書いているだけでは不十分で、実際にいい表現になっていないとだめだということです。教える方は簡単ですが、書く子供の方は大変です。(^^ゞ
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作文の勉強は、作文小論文の試験には直接役立ちます。会社のエントリー試験、大学入試の小論文、高校の推薦入試の小論文、そして、最近では公立中高一貫校の試験でも作文の課題が出されています。
言葉の森の生徒の多くは、受験のために勉強を始めたのではなく、ただ面白そうな勉強だからという理由で作文の勉強を始めた人が多いようです。そして、受験する学年になって、結果として作文の勉強が役に立ったという人がかなりいます。
そのため、何年も作文を書く練習をしているので、入試で書きにくい課題が出されても、自分には何とか書けるはずという自信があり、実際にどのようなテーマが出ても目標の字数まで書いてきます。
また、言葉の森では、作文の勉強の前提として読む学習に力を入れています。小学校5年生以上は、題名課題よりも感想文課題の方が多くなります。また、暗唱の自習や問題集読書の自習なども行っているので、言葉の森の生徒は、長文を読む力がついてきます。これが、国語の読解力の成績向上にもつながっています。
国語力は、問題を解かせて答えあわせをして解説を聞くという勉強では力がつきません。解説で点数が上がるというのは、もともと持っている実力までは上がるということです。実力自体を上げるのは、問題を解くことではなく、実際に読む学習を続けることによってです。
言葉の森の作文には、このように受験にも役立つ面がありますが、言葉の森の生徒は、受験などを意識しない小学校低学年から作文を始めていることも多いのです。それは、多くの保護者の方が、目の前の成績を上げることよりも、本当に子供の成長にとって役立つ勉強をさせたいと思っているからだと思います。
では、言葉の森の作文の勉強によって、どういう力がつくのでしょうか。
一つは、読む経験です。毎週、長文を何度も音読したり、感想文の練習をする中で長文を読んだりしているので、読んだ内容が確実に自分の中に残ります。言葉の森の勉強で読んだ長文が、大学生や社会人になっても生きて使える実例や意見として残っています。
もう一つは、当然ですが文章を書く力です。言葉の森の生徒は、大学生になってレポートを提出するときなども書くことが苦になりません。しかも、いきたりばったりに書くのではなく、構成を考えて書くという習慣がついているので、計画的に文章を書くことができるようです。
OECDの学力調査によると、日本の学生の苦手な分野は、読解力や記述力など多様な答え方が可能な中で自分なりの考え方を述べる分野でした。
社会に出てから出合う問題は、問題と答えが一対一で対応しているようなものはほとんどありません。多様な読み方ができる材料と、多様な答え方ができる対策の中で、自分なりにひとまとまりの考え方を述べることができるというのが本当の読む力と書く力です。言葉の森で勉強をすることによって、そういう社会に出てからも役立つ力がついているのだと思います。か
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何年か前、夏祭りの模擬店で焼き鳥屋さんをやり、煙を吸いすぎてひどい目にあったことがあります(笑)。ところで、そのときに感じたことは、夏祭りに来ている人たちで、いちばん生き生きとしているのが模擬店を開いている人で、その反対に、お客さんで買いに来ている人はそれなりに楽しそうだがお店の人ほど生き生きとしてはいないということでした。
人間は、ただ消費するだけよりも、何かを創造しているときの方が生き生きとするのだと思います。「こんなことやらされて大変だ」と口では言うものの、それがそれなりに楽しいというのが人間がもともと持っている性質です。
ところが、現代の社会における仕事は、そのような喜びに結びついたものではありません。どちらかといえば、給料のために苦しい仕事を我慢してやるというようなものになっています。なぜ、そういう仕事になったかといえば、現代の社会ではまだ豊かさが不足しているために、人よりもいい収入を得たければ人よりもいいポジションにつかなければならないという事情があったためです。
このいい仕事につくための努力が、勉強においては、いい学校に入るための勉強、そして、そのためにいい点数をとるための勉強になっていました。そこで、逆に、みんなにいい点数をとらせずに差をつけてふるいわけをするために、間違えやすい問題を出しそれを解く訓練をするというような勉強が主流になってきたのです。
これからの社会は、もっと豊かさが普遍的なものになる社会です。その豊かな社会で、人間が単に消費の中で喜びを見出そうとすれば、その社会は進歩のない停滞した社会になるでしょう。
しかし、人間は、もともと喜びをもって仕事をしたいと思う存在です。未来の社会の勉強は、豊かな社会の中で自分らしい仕事を見つけるために学ぶというものになってくると思います。
その未来の勉強は、三つの方向で考えられます。一つは、世の中の情勢を理解し把握するための勉強です。これは、これまでの学校教育で行われてきた英数国理社などの勉強とほぼ同じです。違う点は、差をつけるための勉強ではなく、自分にとって役立つための勉強になっている点です。
もう一つは、自分らしい創造をするための勉強です。
そして、三つめは、その自分らしい創造を表現し、ほかの人に伝えるための勉強です。
創造の勉強は、音楽、絵画、工作など、いろいろな素材によって異なりますが、言語による創造というものが重要な位置を占めます。同様に、表現の勉強についても、音楽、絵画、工作などさまざまな手段がありますが、言語による表現が重要な方法になってきます。もちろん、理解と把握のための勉強も、これまでと同じように言語を通しての学習が中心です。
この言語による創造と表現が、これからの作文に求められる目標です。したがって、未来の勉強は、人よりも早く難問を解くという勉強ではなく、自分なりに新しい何かを創造し表現する、そのためにさまざまな知識や技能を身につけるというものになってきます。言い換えれば、自分らしい章を書くために、幅広い教養を身につけるという形です。この作文を中心にした国語力と学力を育てることが、未来の教育の姿になってくると思います。
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