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受験作文小論文コースの作文の書き方 as/1272.html
森川林 2011/05/16 16:52 



 言葉の森では、作文小論文試験の5か月前から受験コースの作文課題を選択できるようにしています。中学受験、高校受験、大学受験とも同じです。ただし、受験コースは、定員があるので、現在在籍している生徒が優先です。

 受験コースは、志望校の過去問に合わせた問題で練習する形の作文指導で、指導の内容も、普段よりも少し難しくなります。例えば、通常の課題では、時間制限や字数制限などあまり厳しくは言いませんが、受験コースでは時間と字数は評価の重点になります。

 しかし、普段の作文の課題が普通にできていれば、受験コースの課題も同じようにできます。難度自体には、普段の課題も受験コースの課題も大きな差はありません。



 言葉の森の作文の課題は、通常の課題も受験コースの課題も、かなり難しいので、ヒントなしに書くことはなかなかできません。

 しかし、ヒントを見て書ける生徒は実力がある生徒ですから、ヒントのとおりに書ければ合格する力があると考えていいのです。ヒント以上の自分のオリジナルな内容を盛り込むことまでは要求しません。



 時間制限は、最初のうちは守ることができません。学校によっては、大人でも書けないようなスピードを要求するところもあります。それは、そのスピードと字数によって点数の差をつけることが目的ですから、まともに書けなくても心配することはありません。

 最初は、目標の字数まで埋めることを優先し、時間についてはどのぐらいかかったか記録だけしておきます。試験の1、2か月前になったら、時間制限の範囲で書くようにします。

 速く書くコツは、(1)途中で考えない、(2)途中で読み返さない、(3)途中で書き直さない、です。普段の練習でも、できるだけ消しゴムは使わずに、先へ先へと文章を進めるように書いていきます。

 そのためには、書きだす前に簡単に構成メモを書いておく必要があります。最初に構成メモを数行書いておき、作文を書き始めてから途中でどう書き進めていいかわからなくなったときに、構成メモを見直して書き続けるという形で書いていきます。

 文章は、最初と最後の大きな枠組みが合っていれば、途中の過程の筋道は、読み手にはあまり印象に残らないものです。細かいところでつじつまを合わせようとするよりも、大きな流れができていればよいと考えて書いていきます。



 作文を採点する試験官は、何編も同じような文章を見て頭が疲労しています。そのときに、構成のわかりやすい文章を見ると、ほっと安心します。構成のわかりやすい文章とは、結論が最初にある文章、構成を予測させる言葉のある文章、段落ごとの長さが同じぐらいで見た目のバランスがとれた文章です。

 例えば、「私は、……と思う。その理由は……」などと書いてあるのは、結論が先にあるので読みやすい文章です。逆に、「……は……である。だから……と思う。」となっているのは結論があとにあるので、読みにくい文章ということになります。

 構成を予測させる言葉とは、「……その方法は、三つある。第一に……」というような、「方法」「理由」「原因」「○つある」「第一に」「第二に」などの言葉です。自分が何を書こうとしているかを、早めに理解してもらうように書いていくのが、読みやすい文章を書くコツです。



 受験コースの練習の仕上げの時期になると、表現をもうひとひねり工夫する練習をしますが、ここであまり難しく考えると自信をなくしてしまいます。時間内に、必要な字数まで書ければ、とりあえず合格圏内には入っていると思っていればいいのです。

 言葉の森で作文の勉強をすると、構成のしっかりした文章を書くことができます。これは、受験に限らず将来どのような文章を書くときにも役に立ちます。

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facebook(フェイスブック)と日本語のコンテンツ―もうすぐ来る日本語の時代 as/1271.html
森川林 2011/05/14 21:50 


 2007年2月の調査で、世界中のブログで使われている言語のうち日本語が37パーセントで、英語の36パーセントよりも多いという結果が出ていました。

 その後、ブログの言語別人口で同じような調査が行われていないのは、日本語の割合が更に増えているだけなので、調査に興味がなくなったためだと思われます。



 twitter(ツイッター)でも同じような調査が行われ、2010年2月の時点で、日本語が14パーセント、英語が50パーセントという結果が出ていました。しかし、2010年1月の時点で、世界のツイッターユーザーに占める日本人の割合は1パーセントわずかに上回る程度でしたから、おおまかに言うと、日本語は、英語など他の言語に比べて14倍も情報発信力があるということだと思います。



 facebook(フェイスブック)では、まだ日本人の割合が少ないし、同様の調査がないようなので、どうなるかはわかりませんが、私はたぶん、ブログやツイッター以上に日本語の占める割合が大きくなるのではないかと思っています。その理由は、ブログの利用は、自分で何かの情報を発信したいという人に限られていただけですし、ツイッターの利用は、ある程度時間の余裕のある人に限られていたと思いますが、facebook(フェイスブック)は多くの人にとって日常生活に必要なプラットフォーム(土台)になっていくと思われるからです。



 なぜ日本語にこういう情報発信適性のようなものがあるかというと、ひとつには、日本語が英語など他の言語と比べると、1文字あたりに盛り込める情報量が多いからです。ツイッターの利用者の中に、日本語と英語で同じ内容を別々にツイートしている人がいます。日本語は日本人の知人向け、英語は英語圏の知人向けと使い分けているようです。その日本語と英語の140字以内の文章を見ると(ツイッターの文字制限は140字)、ざっと見て、英語では日本語の半分の内容しか盛り込めていません。つまり、日本語を使えば140字の内容が書けることを、英語を使うと日本語の70字ぐらいの内容のものしか書けないということです。

 もし、日本語のツイッターが70字という文字数制限になったとしたら、利用の度合いはもっと減るでしょう。70文字だと、何かを論じるというよりも、文字どおり「つぶやく」とか「さえずる」とかいう程度のことしかできなくなるからです。

 しかし、70字という文字数制限であったとしても、日本には31文字の和歌の文化がありますから、日本人は意外にもその文字数に適応してしまうかもしれません。文字の持つ情報量の面だけでなく、どうやら文化の面からも日本語は情報発信適性があるようなのです。



 facebook(フェイスブック)で、先日、会員数が多いと言われるコカコーラの会員になってみました。すると、コカコーラのfacebook(フェイスブック)ページから、ときどき宣伝用の投稿が入ってきます。そして、その投稿のコメントが世界中から瞬く間に1000件ぐらい入ります。

 私もコカコーラの投稿記事にコメントを書いてきましたが、日本語で書いてある投稿はほかになく、すべて英語など欧米の言語によるコメントでした。しかし、それらのコメントの内容は大部分が、叫び声のような感じを受けたのです。日本人が普通コメントという言葉で連想するような味のある内容はあまりありませんでした。しかし、それも、文字の持つ情報力が日本語の2分の1だと考えると、納得できるような気がします。



 インターネットというインフラは、アメリカが中心になって世界中に広がりました。アメリカは、このほかにも、民主主義の政治体制と市場主義という経済体制を世界中に広げることを自分の使命としていたようです。私は、このアメリカの役割を、織田信長の天下布武と同じような性格を持つものだと思いました。天下に共通のレールを敷く、そのために、抵抗する既存の旧勢力は有無を言わさず排除していく、そういう役割だと思ったのです。



 では、アメリカが世界中に共通のインフラというレールを敷き終えたあと、そのレールの上を走るものは何なのでしょうか。そのレールの上を走る中身こそ、文化というコンテンツで、その文化を運ぶ列車にあたるものが言語です。

 こう考えると、日本語の持つ情報発信力は、同時に文化発信力でもあると言えるのです。



 言葉の森のfacebook(フェイスブック)ページの中で、今、毎日、作文の勉強会を開いています。(これは、だれでも自由に参加できます。facebook(フェイスブック)で「教育の丘コミュ」というグループを検索して参加ボタンを押してください)

 作文の勉強会と言っても、ちょっとした言葉遊びのようなもので、比喩の練習とか、名言の練習とかいうものを、半分以上お笑いネタでやりとりしていくものです。

 私は、この言葉遊びをしながら、わずか数語か十数語で読み手をうならせるような味のあることが書ける文化というものは、日本以外にはほとんどないのではないかと思いました。



 facebook(フェイスブック)の利用者に日本人が増えてくると、こういう文化のコンテンツがますます広がっていきます。facebook(フェイスブック)における日本語の占める割合は、ブログやツイッター以上のものになるでしょう。

 世界中に流れる情報のかなりの部分(たぶん英語と匹敵するぐらいの部分)が日本語になり、しかも、その日本語の情報の中身が単なる伝達や連絡のようなものだけではなく、文化的な創造を伴ったものだということになると、どうなるでしょうか。

 まず、世界中のエリートから、「これからは、子供に日本語を学ばせておかないと、世界の新しい文化に乗りおくれることになる」という意識が生まれてくると思います。ビジネスにおける打ち合わせは、世界共通の英語で行うとしても、文化的な創造を伴うものは、日本語を学んでいないと遅れをとるということが次第に世界中の知識人の共通認識となっていくのです。



 しかし、それは同時に日本語の危機になる可能性もあるのです。

 先にも書いたように、アメリカの文化は、標準化の文化です。アメリカ文化が生んだ自動車、コンピュータ、インターネットなどは、いずれも入れ物や通路というインフラでした。また、コカコーラ、マクドナルド、ケンタッキーフライドチキンなども、その本質は売られている商品の中身というよりも、売り方のシステムでした。つまり、アメリカの文化は、大量生産化、ブランド化、フランチャイズ化、マニュアル化というビジネスモデルや方法の文化だったのです。

 この標準化が、言語に関しても行われるようになると、日本語は情報発信性のある言語だから世界中の人がもっと使いやすいように標準化しようという動きが出てくる可能性があります。例えば、日本語50音表のうち、タチツテトの部分は、タティトゥテトとツァチツツェツォに分けた方が合理性があるとか、ワ行は新たにワウィウゥウェヲという言葉にしようとかいう案です。

 この標準化の圧力に対して、言語の持つ文化性を保つ力はどこにあるかというと、文化性を主張する中にあるのではありません。標準化の主張と文化性の主張が対立して議論した場合、その議論そのものがすでに標準化の発想の枠内にあるからです。



 文化性は、言語の持つ芸術性の中にあります。日本には、万葉集や古今和歌集などに見られるような大衆的な言語芸術の伝統があります。

 しかし、現代日本語には、まだそのような大衆性のある芸術は生まれていません。

 日本語が世界言語となる時代に大事なことは、日本人が現代日本語による新しい大衆性のある芸術を作り出していくことなのです。

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touko 20170310 77 
日本語(日本人)情報発信力は、すごいですね!

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インターネット(25) 

記事 1270番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/4/26
言葉の森の方針は、過去をふりかえらずに未来に目を向けること as/1270.html
森川林 2011/05/13 04:03 



 世界は、これから、自然災害の多発と、戦争の危険性の拡大と、経済破綻の進行と、新しい感染症の拡大という困難な方向に進むことが予想されます。



 しかし、その一方で、この大きな混乱のあとに、明るい未来がやってくるはずで、今、その準備が着々と進んでいるのだと思います。

 そして、多くの人の見方によると、その新しい未来を作るキーになるのは、日本や日本文化や日本人であるらしいのです。



 前回のホームページの記事「創造のコンテンツは日本から」でも書きましたが、これから来るのは、インフラの時代ではなくコンテンツの時代です。確かに、インフラは表面的には大きな比重を占めます。たとえば、アフリカ大陸を近代化するというだけでも、膨大なハードのインフラ需要が生まれます。しかし、そこで生まれる近代化した中国やアフリカの未来は、想像の枠内でもう既に織り込み済みの未来です。

 それに対して、これから生まれるコンテンツの未来は、まだほとんどの人の目に明らかになっていません。



 ここで大事なことは、私たちは、この未来の方向に向かって行動することを最優先していくということです。

 言葉の森のホームページに、私は、3月の中旬までは地震や原発の記事を何度か書きましたが、それはそのとき、日本の歴史上最悪の危機が起こる可能性があったからです。

 しかし、この危機は、3月の末には基本的に回避されたと思いました。だから、3月22日に、「日本の新しい産業(その1)」という記事を書いたのです。地震や原発の問題はこれからも継続しますが、もう最大の問題ではありません。各人の心構えと対策を決めたら、これからは、未来の方向への行動を進める時期なのです。

 だから、私はもう地震や原発の話は一切どこにも書いていません。それは、その分野に詳しい人に任せておけばいいのです。日本は、いくつかの紆余曲折はあっても、原発廃止の方向に大きく進んでいくと思います。その路線をしっかり支持し、被災地の人たちのこれからの生活を日本全体で支えていけばいいのです。



 さて、地震、原発の話はそういうふうに考えたとしても、多くの人の心の中に、まだ漠然と不安感や不幸な未来への予感のようなものが残っている気がします。先日、近所のファミリーマートにあった雑誌「プレジデント」を見ると、その特集が、「幸せになる練習。希望格差社会の実態」でした。こういう特集が組まれるということは、多くの人が、不安感や不幸感を持っているということだと思います。

 先日も、あるサイトに、漠然とした不安を感じて仕方ないというような書き込みがありました。そういう気持ちは、だれでも、よくわかると思います。言葉で言えるはっきりした問題ではなく、漠然と、しかしかなり継続的に未来への不安を感じているという状態です。

 しかし、私は、今はこう思っています。不安を感じているのは、まだ覚悟ができていないからで、いつ何がどうなってもいいという決心さえつけば、あとは明るくなるしかないのです。まだ不安を感じているというのは、これから来る未来の時代に乗りおくれているということです。今は、自分個人の不安につぶされそうになっている場合ではなく、そういう不安に負けそうな他人を励ます役割をしなければならない時期です。



 こういうことを書くとノーテンキだと思われると思いますが、私はもうKY路線でやることに決めたのです。不安や心配でいっぱいで過去と現在にしか目を向けていない人には話を合わせないことにしたのです。

 先日、twitterにそのようなことを書いたら、昔の生徒で今、大学四年生になっているM君が、しっかリツイートをしてくれました。

 こんな内容です。

====

mokaha 中根克明(森川林)言葉の森

言葉の森は、過去も現在ももうふりかえらずに、未来に向かってまっしぐらに進む路線です。今は既に、地震が、原発が、政治家が、マスコミが、と怒ったり心配したりしている時期ではありません。

もちろん、そういう怒りや心配は必要ですが、それはあくまでも二義的なもので、私たちは新しい未来を作るために前進しなければならないところに来ているのです。

これから、まださまざまな困難や混乱がやってくるかもしれませんが、そこだけにとらわれずに、その先の明るい未来をめざしてがんばっていきましょう。

====

 若者は、こういう感覚がわかるのだと思います。この感覚がわからない人は、気持ちの上で老人になっているのです。



 さて、話をもう少し個人的なことに向けると、地震や原発の過去にこだわるのと同じ心理が、身近な人に対する人間関係にも反映します。それは、相手の過去や現在に対する不満や批判や怒りです。

 なぜ身近な人に不満や批判を感じるかというと、それは、そういうことを感じる自分自身を克服するためなのです。人間は、結局だれでも同じような人生を歩んでいて、自分も過去のいつかにその不満や批判の対象となる人と同じような生き方をしてきたことがあるし、またいつか将来、その不満や批判の対象となる人と同じような生き方をするのです。そういう過去の自分と未来の自分を克服して、より新しい課題に到達するために、今目の前に嫌な人がいると考えればいいのです。

 だから、その嫌な人を、嫌だと思うままでいれば、その課題はずっと続きます。その人が目の前からいなくなっても、また新しく同じような嫌な人が登場します。なぜなら、それは相手の問題ではなく、自分の課題だからです。

 私は、だから、相手に不満や批判を持っている人に対しては、こうアドバイスをしたいと思います。「その課題は早くクリアして、もっと別の新しい課題に取り組んだ方がいいんじゃない」と。



 以上の話に共通するのは、過去や現在に目を向けず、未来に目を向けようということです。

 そして、更に重要なことは、言葉の森のこれからの活動は、新しい未来の創造にとても近いところにあるということです。

 未来の日本、そして世界を支えるものは、新しい教育です。新しい教育の中で、ひとりひとりの人間が、幸福と向上と創造と貢献の人生を生きていくことが、これからの社会作りの土台になっていきます。

 そして、この新しい教育の中心になるものは、新しい作文教育なのです。

 これからの教育に求められる重要な4つの定義は、「受験のための教育から、実力のための教育へ」「学校や塾での教育から、家庭と地域での教育へ」「点数を目指す教育から、文化を目指す教育へ」「競争を目標とした教育から、自身の独立を目標とした教育へ」というものです。

 これらの新しい教育の定義に深く結びつくのが、作文教育における「正解から対話へ」「強制から自律へ」「記憶の再現から創造の発表へ」「孤立した競争から相互の交流へ」という新しい流れです。この新しい流れを作るのが、これからの言葉の森の活動になっていくと思います。

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創造のコンテンツは日本から as/1269.html
森川林 2011/05/12 05:34 



 インターネットのコンテンツは、今後、個々のホームページからソーシャル・ネットワーキング・サービスに移行していくようになると思います。

 なぜかというと、クラウド化の流れの中で、自社サーバーの中にコンテンツもプログラムも全部入れてきっちりと管理運用することは時代後れになりつつあるからです。(容量の限界、プログラム開発の限界、スペックアップの限界、検索しやすさの限界などのため)

 ワールドワイドのインターネットのクラウドの中に、どのコンテンツも全部投げ込んで、それを検索エンジンで探していくか、又はフェイスブックなどのつながりを拠点にして探していくかという形になってくと思います。



 この流れを別の言葉で言うと、Consistency(一貫性)から、Eventually-consitency(結果オーライ)への流れということになります。

 途中の過程で論理的に無矛盾の一貫性を保つ必要はなく、結果的につじつまが合えばいいということです。だから、どこかのページを探す場合も、「AからBに行ってCをクリックすれば確実に行けます」という形ではなく、「あのへんで探すか、このへんの人に聞けばわかるんじゃないかなあ」でいいということです。



 こういうアバウトな発想は、日本人ではまずできなかったと思います。しかし、グーグルの処理が1日2万テラバイトを超え、百万万台のサーバーにデータを分散している状態では、途中経過の一貫性などはもう望めません。そして、こういう規模のスケールは、今後多かれ少なかれどの企業にもやってきます。



 このクラウド化の流れの先にあるものは、コンテンツの創造の世界です。



 インターネット技術では、日本は大きく立ち遅れていました。その最も大きな原因は、日本語処理の難しさから(文字コードが4種類もあり、どれも多少不備がある)、若い人がコンピュータの世界に入る最初の敷居が高すぎるところにあったと思います。

 しかし、インターネットの技術は今後も発展していくでしょうが、もうすでにコンピュータのソフトやハードでできる世界は、量子コンピュータなども含めて見通しを想像できるものになっています。

 人間は、未知のものに最も惹かれますから、たぶん世界の最も優秀な頭脳は、もうだいぶ前からコンピュータやインターネットの世界とは別の科学分野の研究を進めていると思います。



 そういう優秀な頭脳を持たない人にとっても、コンピュータやインターネットのソフトとハードの世界は、もう既に日常生活のインフラになりつつあります。ちょうど、家の前に舗装道路があるとか、家の中で水道や電気が使えるというのと同じ感覚です。大昔は、自分で山の中に人の通る道を作ったり、近くの川に水を汲みに行ったり、まきを拾ったりしたのでしょうが、今はそういうことはすべて基本的なインフラとして提供されています。人間のすることは、そのインフラを前提にして豊かな生活をすることです。

 ところが、その「豊かな生活」というものが、これまでのアメリカ型消費社会の発想では、豊かな消費生活でしかなかったのです。おいしいものを食べて、いい服を着て、広い家に住み、テレビでのんびりスポーツ観戦を楽しむとか、たまに家族で海外旅行に行くとかという消費生活は、確かに魅力あるものです。しかし、そういう生活のもたらす満足感には限界があります。



 消費文化の国々では、内心満たされないものを感じながら、そのような消費生活を更に豊かに続けるという方向にしか進みようがありませんでした。より豊かな食事、よりきれいな服、より長い休日、より豪華な自動車や住居、あるいはより激しい刺激という方向です。

 しかし、日本人は、豊かな生活のよさは認めても、その先に限界があることをすぐに理解できるだけの文化を持っています。それは、縄文時代や江戸時代の長い豊かな生活をすでに何度も経験して、その中で人間が幸福に生きる方法を模索してきた歴史があるからです。

 逆に言うと、日本以外の国々では、豊かさの限界を大衆的なレベルで歴史的に経験したことがないので、いまだに豊かな消費生活の幻想から脱却することができないのです。



 インターネットは、これからコンテンツの時代に入ります。

 しかし、そのコンテンツの内容は、これまでの消費生活の延長にあるコンテンツではありません。言い換えれば、検索エンジンで探して手に入れるという消費のコンテンツではなく、ソーシャルサービスで自ら作り出して友達と共有するという創造のコンテンツと言ってもよいでしょう。

 その創造のコンテンツの文化を世界で最も豊かに持つ国が、この日本なのです。まだ、だれもそのことに気づいていないようですが(笑)。

 しかも、創造のコンテンツは、日本の過去の文化から引っ張り出してくるだけではありません。日本人は創造の文化というものを経験しているので、現代の環境に合わせた創造のコンテンツを新たに作り出していくことができます。

 その創造のコンテンツを作り出すプラットフォームが、今、フェイスブックなどを中心に世界中に広がっているソーシャルサービスなのです。





(注)創造のコンテンツ

 日本における創造のコンテンツとは、例えば、折り紙を折ったり、綾取りをしたり、短歌や俳句を作ったり、百人一首をしたりするような文化に象徴されるコンテンツです。

 これらのコンテンツの特徴は、

(1)習得するために時間がかかるという向上の要素がある(折り紙や綾取りや百人一首には学習が必要)、
(2)決まった枠内で行うというルールのようなものはあるがその中身は自由に工夫できる(例えば、折り紙は1枚の紙で、綾取りは1本のひもで、短歌や俳句は決められた字数で)、
(3)個人が創造したものは個性や交流を楽しむ面が強く、勝敗や優劣に還元されない(百人一首も家庭で行う場合は交流のため)、
(4)一般庶民から支配階級までの格差がなくどの階層でも共通している(費用をかけて行うようなものは少ない)、

などです。

 これに対して、欧米の文化は、一方で、学習や習得をあまり必要としないトランプゲームのような大衆的な娯楽があり、他方で、プロを目指して勝敗や優劣を競う学問や芸術やスポーツやビジネスの分野があるという形で文化が二極化しています。これは、欧米のこれまでの歴史のほとんどが、支配と被支配の格差に基づいたものだったからです。

 このように考えると、世界に創造のコンテンツを広げるのが、これからの日本の役割になると思います。

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コンテンツの時代と日本人 as/1268.html
森川林 2011/05/10 21:31 



 インターネットのクラウドは、次のように発展してきました。まず、Yahoo!に代表されるポータルの時代、次に、googleに代表される検索の時代、そして今は、ブログやfacebookに代表される交流の時代と言ってよいでしょう。

 それぞれのクラウドで、前の段階における競争は、後の段階によって意味を消失させられてきました。そして、競争は新しい性格のものとして生まれかわっていきました。



 ショッピングのサイトで、楽天とアマゾンとヤフーがあるとします。最初は、どこのサイトでショッピングをするかという顧客の獲得が競争の焦点になっています。

 しかし、やがて価格.comのようなものが登場すると、消費者は、どこのサイトで買うかということを意識せずに、買いたい商品にだけ関心を持つようになります。

 すると、企業にとって競争は、消費者の獲得から別のものに移っていきます。今後の競争の焦点は、いかに消費者を獲得するかということよりも、いかにいい売り手を獲得するかという方向に変わっていくと思います。

 この傾向は、インターネット企業に限らず、一般の企業でも次第に前面に出てきます。これからの企業は、いかに顧客を獲得するかということよりも、いかにその企業で一緒に仕事をする人が居心地よく仕事ができるかという競争の方に移っていくのです。



 品物の買い手から売り手へ向かう流れは、情報の分野にもあてはまります。

 ブログやfacebookに代表される交流の時代も、最初のうちは交流を消費する側に重点が置かれています。つまり、これまでマスメディアに乗らなかったようなマイナーな情報にも接することができるとか、友達と交流が持てるとかいう価値が前面に出ています。

 しかし、このあとやがて、重点は、情報を消費する側から情報を生産する側に移っていきます。

 最初は、互いの交流自体が楽しいのですが、やがて、単なる交流の楽しさから、そこで何を交流するのかという、「何」のコンテンツが問われるようになってきます。交流の重点が、交流の受け手から、交流の送り手に変化していくのです。



 そのような時期になって初めて生きてくるのが、日本文化におけるコンテンツ性です。

 インターネットのこれまでの発展は、大きなビジョンの枠組みとそれに伴う技術の発展でした。このビジョンの枠組み作りに、日本人はほとんど参加していません。だから、逆に、そういう中で、ブラウザの仕様に縦書きやルビふりの要素を導入した日本人は、孤軍奮闘の中で本当によくがんばったと思います。



 なぜ、日本人がビジョン作りや枠組み作りのような分野になると活躍しないのかいうと、たぶん日本人には、それまでの流れを無視して一から作り直すというようなKY的なことをしたくない心理があるからだろうと思います。

 しかし、そのかわり、日本人が得意なのは、いったん決まった枠組みで、その中身を作る仕事をしていくことです。

 短歌や俳句は、日本独特の短詩形の文学です。これまで数多くの短歌や俳句が作られてきましたが、枠組みを変える試みはほとんどなく(石川啄木が3行で短歌を書いたとか、種田山頭火が定型を崩したとかいう以外に)、だれもが定まった形式を前提に、中身を埋めることにだけ関心を持ってきました。



 ブログという概念は、日本の技術者の多くが考えていたはずですが、それを実際に提案して広めたのはやはりアメリカ人でした。しかし、そのブログが広まったあとに、ブログで情報発信を行う中心になっていったのは日本人でした。



 同様のことが、今はまだ日本人の参加が少ないfacebookでもこれから起こるはずです。それは、facebookが交流という消費のツールから、コンテンツの創造という生産のツールに変化していくことです。それに伴って、facebookで使えるアプリも、これから質的に変化してくると思います。



 インターネットの進化は、もう終点に来ています。このあとに来るのは、システムのこれ以上の進化ではなく、コンテンツの進化です。

 インターネットの速度も容量も、これから更に発展していくでしょう。昔、私がニフティのパソコン通信を始めたころのモデムの通信速度は、1200bpsでした。今10MBで通信ができるとすると、その差は約1万倍です。昔のハードディスクの容量はキロバイトという単位ではなかったかと思います。今はメガバイトを超えてギガバイトになっています。

 しかし、1万倍の差といっても単なる量の差ですから、これから更にインターネットやコンピュータが進化して、量子コンピュータができ、ハードディスクの容量が無限大になっても、そこで現れる世界は今の世界の延長で大体予測できます。



 人間の創造力は、予測のできる未来には魅力を感じません。人間が、本当に生きがいを感じるのは、まだ姿の見えていない未知の分野に関してです。

 枠組み作りの時代が終わり、中身の時代が始まろうとしている今、コンテンツの創造に大衆的に参加する文化を持つ日本の役割は実はかなり大きいのだと思います。

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手書きの作文と講評はここには掲載していません。続きは「作文の丘から」をごらんください。

主な記事リンク
 言葉の森がこれまでに掲載した主な記事のリンクです。
●小1から始める作文と読書
●本当の国語力は作文でつく
●志望校別の受験作文対策

●作文講師の資格を取るには
●国語の勉強法
●父母の声(1)

●学年別作文読書感想文の書き方
●受験作文コース(言葉の森新聞の記事より)
●国語の勉強法(言葉の森新聞の記事より)

●中学受験作文の解説集
●高校受験作文の解説集
●大学受験作文の解説集

●小1からの作文で親子の対話
●絵で見る言葉の森の勉強
●小学1年生の作文

●読書感想文の書き方
●作文教室 比較のための10の基準
●国語力読解力をつける作文の勉強法

●小1から始める楽しい作文――成績をよくするよりも頭をよくすることが勉強の基本
●中学受験国語対策
●父母の声(2)

●最も大事な子供時代の教育――どこに費用と時間をかけるか
●入試の作文・小論文対策
●父母の声(3)

●公立中高一貫校の作文合格対策
●電話通信だから密度濃い作文指導
●作文通信講座の比較―通学教室より続けやすい言葉の森の作文通信

●子や孫に教えられる作文講師資格
●作文教室、比較のための7つの基準
●国語力は低学年の勉強法で決まる

●言葉の森の作文で全教科の学力も
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