教育の意義は、これまでは個人の側にあっては福沢諭吉の言うような立身出世にありました。
社会の側にあっては、富国強兵を支えるための学力や体力を備えた人材育成にありました。
しかし、これからの教育の意義は、そういうものではなくなります。
それは、個人にあっては、社会的な競争で優位にたつための教育とは異なる別の動機が必要になっているからです。
また、社会にあっては、教育の目的は、工業時代までの誰もが同じように一定の水準の能力を達成するためのものではなくなってくるからです。
未来の教育の意義は、個人にあっては、自分が心から喜びを感じることのできる分野で創造性を発揮するための準備をすることになります。
社会にあっては、各人の創造性がそれぞれ多様に発揮できるような社会を作ることになります。
教育のレベルが低ければ、個人の喜びは、その人らしい個性的な喜びではなく、より動物的な一般的な喜びに留まります。
あらゆる面で自分の能力を育てていくことが、その人の本当に自分らしい喜びを発見するための方法になります。その方法が教育です。
自分の真の喜びに近いところで、向上し、創造し、社会に貢献することが個人の人生の目的になります。
その結果、社会全体が、個人の多様な創造性の開花によってより一層豊かになっていくのです
語彙力検定というものがあります。その学年の子が、どこまで語彙を知っているかという目安にはなりますが、そのための勉強をしたところで語彙力がつくわけではありません。
ことわざ辞典も同じです。ことわざに関する知識は身につきますが、それでことわざ力がつくのではありません。
語彙力やことわざ力は、生きた使い方をすることによって身につきます。だから、最もよい勉強法は、日常生活の中で難しい語彙やさまざまなことわざや名言を実際に使ってみることです。
知識として身につけた言葉は、知識だけで終わってしまいます。知識があるのにこしたことはありませんが、生きた言葉が第一で、知識が第二という軽重の差を理解しておく必要があります。
よく、耳にタコができるぐらい聞かされる言葉というものがあります。そういう言葉は、その言葉を身につけようとは思わなくても、いつしかその人の血や肉となり、生きた言葉になります。
そういう言葉は、話す人の深い体験に結びついていることが多いからです。
大事なことは、たくさんの知識だけの言葉を覚えることではなく、限られた数ではあっても生きた言葉を身につけることです。
そのために親のできることは、自分自身の体験を、いろいろな機会を利用して子供に話してあげることです。
そして、その体験を話すときに、その事実だけではなく、事実の背後にある本質的な概念も言葉にしようとすることです。すると、対話の中に、自然に抽象的な語彙が盛り込まれるようになります。
例えば、体験談を話したあとに、その体験談にあてはまるようなことわざを考えてみるというようなことです。また、話を楽しくさせるために、たとえを使ったりダジャレを入れたりというような工夫もしてみるといいのです。
こういう対話の機会として活用できるのが、言葉の森の毎日の長文音読と毎週の作文課題です。
親子の対話は、子供が小学校低学年のうちに始めると、自然に生活の一部になります。
子供の語彙力は、親子の対話の中で育っていくのです。