現代の教育を特徴づけているもののひとつは競争です。競争は、勉強の意欲づけに欠かせないもののように思われています。
競争による意欲は、数多くの意欲のきっかけのひとつに過ぎませんが、競争だけが突出して重視されているように見える原因は何でしょうか。この原因を知らずに、競争を否定することも、競争に没頭することもどちらも、正しい対応の仕方ではありません。
競争に力を与えているものは、現代の社会の中にあります。それは、限られたイスを取り合う社会の仕組みです。
例えば、なぜ人間が、よりよい学歴をめぐって競争するかというと、それはその競争に勝つことが、将来の社会生活における、よりよい職業、よりよい会社、よりよいポストなどに結びついているからです。そして、これまでの日本では、いったんよいポストにつくことは、その後の人生の安泰を保障していたからです。
競争によって社会生活のポジションが決まる社会では、教育も含めてすべてが競争の中に置かれます。だから、教育の分野だけが競争を否定することはできません。たとえ外見上の競争を抑えたとしても、それはただ競争を潜伏化させるだけです。
教育と競争の問題を考える場合、競争があることをまず前提にする必要があります。しかし、その競争に邁進していいのではありません。それは、なぜかというと、ひとつには、これまでの競争社会が崩壊しつつあるからです。そし、もうひとつには、競争を必要としない新しい社会が生まれつつあるからです。
まず、競争社会が崩壊しつつあることについてです。
現代の社会は、競争の激化によって、賃金カット、リストラ、失業などが次々と生まれています。公務員、医師、弁護士という安定しているように見える職業も例外ではありません。また、企業の盛衰も激しく、一生安泰な会社などは、もはやどこにもありません。しかも、大企業の方が今後激しい競争にさらされるおそれがあります。なぜかというと、現代の大企業は、大きく見ると過去の工業時代の担い手であったが故に大きくなってきたからです。
工業時代の経済の中心は、今急速に中国など新興国に移行しています。大企業は、今後、好むと好まざるとに関わらずグローバル化しなければ生き残れません。しかし、そのグローバル化は、その企業の内部の人にとっては激しい生き残り競争を意味します。
競争社会がこれまで機能してきたのは、逆説的に言えば、競争に勝てば一生安泰だというシナリオがあったからです。しかし、生涯、競争に勝ち続けなければならない競争社会にあっては、人間は競争そのものに疑問を感じるようになります。特に、日本人のように他人との共感に基づいて生きる文化を持つ国では、生涯にわたる競争は受け入れがたいものになってきます。
次に、競争を必要としない新しい社会が生まれつつあることについてです。
現代の社会は昔の社会よりももっと進歩しているはずなのに、失業が増えるのはなぜなのでしょうか。それは、社会が豊かになったからです。つまり、失業者がいても、その失業者以外の人にとって社会生活が円滑に営まれるほど、社会の生産力が増大してきたためです。
今日では、農業も、工業も、昔ほど多くの人間の労働を必要としません。かつて人間が行っていた労働の多くを機械がカバーしているからです。これは、ブルーカラーだけでなくホワイトカラーでも同様です。唯一、サービス業だけが雇用創出力があるように見えますが、そのサービス業も、IT化やマニュアル化によって非熟練化し、低賃金化しています。
昔の社会は、次のような仕組みで経済が成り立っていました。
まず、物財が不足しています。欲しいものがなかなか手に入りません。そして、生産手段も不足してるために生産効率が悪いので、多くの人間の労働が必要です。このような時代には、人間は、欲しいものを消費するために懸命に働き、その働きによって賃金を手に入れ、その欲しいものを購入するというマネーの流れが成り立っていました。この構造が、今の中国の急速な発展の土台となっているものです。
しかし、日本では、もはやこのような構造は、成立しなくなっています。日本では、既に物財は豊富にあります。ほとんどの家庭に、自動車、エアコン、カラーテレビなどが備わっています。そして、それらの消費財を生産するための生産手段は高度化し、省力化を極限までおしすすめ、人間の労働を必要としなくなっています。つまり、企業にとっては、働く人が不要で、賃金の支払いも不要で、一方、国民にとっては、消費するものがないという状態にあるのです。このため、日本の国内ではお金が回らないので、日本の国全体としては、生産したものを海外に輸出して富を生み出すしかない状況に置かれています。
ところが、この輸出による富の創出は、中国など新興国の登場で急速に不可能になりつつあります。そこで、今、小手先の対応として、中国などからの観光客の消費による需要で国内の経済を活性化させようとする動きも出ています。しかし、これは、過去の経済にとらわれたジリ貧の道を進む対応です。
日本は、これから、豊かになった社会にふさわしい、新しいマネーの流れを作っていかなければなりません。それが、創造産業の時代と呼ばれるものです。(つづく)
※話が長くなりそう。……
(教室のペット犬ユメと猫)
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(港南台教室から見たケヤキの向こうに昇る朝日)
これまで、未来の教育の四つの大きな流れとして、
「受験の教育から、実力の教育へ」、
「学校の教育から、家庭の教育へ」、
「点数の教育から、文化の教育へ」と書いてきました。
次回は、そのしめくくりの、「競争の教育から、独立の教育へ」を書く予定です。今日は、その予告編を。
====予告編ここから====
これまでの社会は、限られたイスを奪い合う、イス取りゲームのような社会でした。
しかし、今、日本は、この過去の社会から決別し、新しい社会に移行する一歩手前にいます。その社会の名前は、創造産業社会です。(
「日本の新しい産業(その1)」)
その新しい社会では、人は、既に用意されているイスを取り合うのではなく、それぞれが新しく自分のイスを作り出します。
教育は、これまで子供たちの勉強の意欲をかきたてる手段として競争を活用してきました。しかし、競争があたかも万能であるかのように思われてきたのは、私たちの生きている社会がイス取りゲーム社会だったからなのです。(つづく)
====予告編(ここまで)====
今日は、連休の初日ということで、いろいろ考え事をしていました。
そこで、ひとつ新しく気づいたことは、インターネットのロングテール性が今変わりつつあるということです。
インターネットは、これまでロングテールと言われきました。しかし、新しく登場しつつあるSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)は、ショートテールです。そのかわり、SNSはロングトランク(ダックスフントみたいなやつね)で、その長い胴の中で、ソーシャル(社会的な交流)が飛び交っています。
これまでのロングテールに対応した商品の売り方は、ばらばらの個人の検索者の関心に対応していると思わせられる商品を、営業力で一回売っておしまいという形でした。
一方、ロングトランクに対応した商品の売り方は、つながりのある個人の属性に対応した商品を提案し、いったんそれが少数の人に受け入れられると、ソーシャルなつながりの中で紹介が広がり、ロングトランクのほかの部分にも売れるようになるという形です。だから、営業力よりも商品力が大事になり、更に、その商品を使った人がコミュニティに参加できるようなSNS性が必要になるのではないかと思いました。
もうひとつわかったことは、リレーショナル・データベース(RDB)の限界ということです。これは、もう既にいろいろなところで言われていますが、今後、社会のあらゆる場面でコンテンツの量が増えるにしたがい、情報は1台の高機能のサーバーに蓄積され、高度なリレーショナルで関連づけられて利用されるという形から、多数のクラウドの中に分散し、その大量の情報をキーとバリューの関連で処理するという形になっていくようです。(キー・バリュー・ストア(KVS))
言葉の森も、現在、自社サーバーに蓄積した作文や課題やヒントや講評のコンテンツを、MySQLというリレーショナルなウェブデータベースでコントロールしていますが、この仕組みを今後大きく変える必要があると感じました。
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日本における作文教室の現状を見ると、満足できるところはほとんどないと言ってもいいと思います。
なぜ現在の作文教室のほとんどがダメなのかというと、ひとつは指導する方法が確立していないからです。もうひとつは、評価する方法がやはり確立していないからです。
まず第一は、指導する方法ですが、作文は書く学習を重ねるだけでは上達しません。作文の力をつけるためには、その前提となる読む力をつけていく必要があります。
言葉の森では、読む力をつけるための学習として、長文暗唱、問題集読書などを取り入れています。これは、徹底させることが難しいので、子供によっては作文の勉強が負担になるというひとつの要因にもなっています。しかし、何とか時間の都合をつけてこの自習に毎日取り組んでいる生徒は、確実に力をつけています。今のところ、作文力を確実につけるには、この自習の方法しかないのではないかと思っています。
読む力がつかないまま書く学習に力を入れようとすると、書きやすい練習を優先させることになります。穴埋め方式の作文や、短文だけの作文や、物語の続きを書かせたり、四コマ漫画を見せて書かせたり、というのは、子供の意欲を引き出す工夫にはなっていますが、実力をつける工夫にはなっていません。
実力をつけるには、その学年に応じた歯ごたえのある課題の作文や感想文で練習する必要があります。しかし、その練習は、読む力の進歩に応じてしかできないのです。
第二に、評価する方法ですが、作文にはひとつの解答というものがありません。だから、個々の作文を人間が読んで、その読んだ人の判断で評価することになります。ところが、こういう評価は、子供たちにとっては、賽(さい)の河原の石積みのように、先に進むあてのない感じがするものなのです。
ひとつの解答があり、そこにいかに近づいたかという評価であれば、いい評価であれ悪い評価であれ自分なりの達成感がありますが、人間が主観的的に判断して下す評価はそのような確実性が感じられません。そこで、ほとんどの教室では、解答のかわりにコンクールや優秀作品の選定ということを行います。
しかし、このようなコンクールは、選ばれた子だけがうれしいもので、選ばれなかった子はその優秀作品を目標にしてがんばろうとは思わないものです。また、賞に選ばれた子であっても、なぜ選ばれたかがわからないので、次の努力や向上に結びつける手立てがありません。
小学校低中学年のころは、表記ミスの指導も多いので、人間による評価でも客観的な採点ができますが、子供たちが小学校高学年になり、中学生、高校生になると、もう表記のミスはほとんどなくなります。
そこで、高学年の評価の中心になってくるのが、多様な語彙でいかに論理的な文章を書いたかという、森リン(自動採点ソフト)による文章力の評価になります。言葉の森の学習が、中高生になっても充実して続けられるのは、人間の評価に加えてこの評価の方法があるからです。
以上のように、指導と評価の両方の面における方法論の不在が、現在の作文教室のほとんどに見られます。しかし、言葉の森の指導にも、もちろん多くの弱点があります。それでも、今のところは、言葉の森でできていないことは、他の教室でもやはりできていないという段階だと思います。
言葉の森で、今何が最も不十分かというと、それは子供たちの意欲を確実に引き出す指導です。しかし、私たちは、賞や罰の外面的なもので子供たちの勉強の意欲づけをしようとは思いません。もっと意欲というものの本質を考えた取り組みをしたいと思っています。
勉強の意欲付けということで参考になるのは、セルフラーニングで子供たちの勉強の意欲化に成功している算数教室の「でき太くん」の取り組みです。
次回は、でき太くんの勉強法と言葉の森の勉強法を比較しながら、言葉の森が、作文の学習における意欲というものを今後どのように育てていこうと考えているかを書こうと思います。
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3月の森リン大賞を、4.4週の「山のたより」で発表しましたが、掲載されている森リン大賞の学年が1学年前のものではなく2学年前のものになっていました。そのため、点数が高いのに森リン大賞ベストテンに入っていなかった人がいると思います。
ちょうど3月から4月にかけての学年のかわりめだったので、プログラム上のミスがあったようです。「学年がかわるから1学年前にしないと」と思って、かえって間違えたのだと思います。ミスをしたのは私(森川林)です。(^^ゞ
どうも申し訳ありませんでした。
3月の森リン大賞は、改めて「山のたより」に掲載します。急いで見たいという方は、「森リンの丘」のページでごらんください。
https://www.mori7.net/oka/moririn_seisyo.php
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