問題を解く形の勉強がなぜ身につかないかというと、問題を解いて正解だったときはそれはもともとわかっていたことですからその問題を解く時間は無駄だったということになるからです。
何時間勉強しても、その勉強時間のほとんどが問題を解いて正解だった場合、その勉強時間は何もしなかったと同じことなのです。それよりも読書をしていた方がずっと多くのことが身についたはずです。
では、問題を解いて不正解だったときはどうかというと、この不正解の問題は、日を置いて四回から五回繰り返す必要があります。不正解というのは、本来そのように根が深いものなのです。
ところが、小学校低学年のときの不正解は、一度ですぐにわかるものがほとんどですから、学年が上がっても、ほとんどの子供は不正解をそのまま確認して勉強を済ませてしまうのです。
したがって、本来の勉強の仕方を取り戻すためには、問題を解く形の勉強を改善する必要があります。
それには、まず第一に、問題を解くのではなく読む勉強を勉強の中心にすることです。それは、読書、長文音読、そして問題集読書です。この形の残らない勉強を勉強の中心とすることです。
第二に、問題を解く場合は、本人が答えと照合しながら問題を解くぐらいにフィードバックを早くし、不正解だったり理解が不十分だったりした問題には△印をつけ、その不正解の問題を四回でも五回でも繰り返せる仕組みを作っておくことです。
そして第三に、不正解の問題がなくなるまで、一冊の問題集を完璧に仕上げることです。
勉強というものは、これまでは勉強する「物」としての教材が重要な役割を果たしていました。よい教材があれば、それがそのままよい勉強結果に結びついていたのです。
しかし、これから重要になるのは、勉強する「事」」としての勉強の仕方です。
経済においてと同じように教育においても、供給過剰の時代には、物から事へと重点が移ってきます。
では、正しい勉強の仕方はどのようにして身につけたらよいのでしょうか。それは、正しい勉強の仕方を知っている人に、子供の勉強の仕方を見てもらうことです。
勉強を見てもらうのではなく、勉強の仕方を見てもらうのです。
勉強の仕方さえわかれば、子供は自然に勉強するようになります。その結果、テストの成績も上がるようになります。
テストを目的とした問題を解く勉強をやめて、勉強を身につけることを目的とした問題を読む勉強を中心にしていくことです。
言葉の森では、今、寺子屋オンエアという企画で、家庭における自学自習をチェックする仕組みを作っています。それは、この本当の勉強の仕方を身につけてもらうためです。
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ベネッセ教育総合研究所の「小中学生の学びに関する実態調査」によると、「上手な勉強のやり方がわからない」という子供が、小学生で40%、中学生で55%もいるということです。(調査対象の小学生は小4~小5、中学生は中1~中2)
「上手な勉強のやり方がわからない」から、「やる気がおきない(小40%中56%)」し、「勉強に集中できない(小33%中44%)」し、「勉強したことをすぐ忘れてしまう(小28%中40%)」し、「テストでよい点数がとれない(小25%中53%」ということなのです。
では、なぜ、上手な勉強のやり方がわからないのでしょうか。
それには、小学校低学年からの勉強のやり方が影響しています。
勉強とは、教科書に載っている知識や技能を身につけることです。だから、教科書あるいは教科書的な参考書を何度も繰り返して自分のものにすればよいのです。
ところが、今の社会では、勉強の結果がテストとして評価されます。その最終的な形が受験というテストの評価です。
こういうテストによる評価を目にしていると、親も子も、ついテストの点数をよくすることが勉強の目的だと思ってしまうのです。
テストの点数というのは、勉強の目的ではなく勉強の結果です。勉強がしっかりできていれば、テストも自然によい結果になります。
だから、勉強に力を入れればよいのですが、テストを勉強の目的のように考えてしまうと、本当の勉強ではなくテスト的な勉強をしてしまうのです。
テスト的な勉強というのは、問題集の問題を解く勉強です。
問題を解く勉強というのは、形がはっきりしているので、子供に取り組ませやすいという事情があります。そして、解いたあとがやはり形として残るので、勉強をしたという実感がわきます。
こういう勉強法は、小学校低学年のときにはうまく行きます。低学年のころは、身につける勉強の中身がまだ単純なので、問題を解けばそれがほとんどそのまま身につきます。
その結果、この小学校低学年のときにうまく行った「問題を解く」という勉強がその後も続いてしまうのです。
しかし、やがて、いくら勉強をしても、そのわりに成績が伸びないという時期がやってきます。同じように勉強しているつもりなのに、その勉強をしている子供どうしの間で成績の差が出てくるのです。
これが、その後の「上手な勉強のやり方がわからない」という調査結果につながります。(つづく)
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入学時の偏差値より、卒業時の偏差値を確実に上げている学校があります。
その学校の勉強のさせ方のコツは、「毎日の」「復習」だそうです。
復習というのは、学校で習ったことを家でもう一度復習するということです。
要するに、同じ教材を何度も定着するまでやるということです。
難しいのは、それを「毎日」やらせることだそうです。
小中学生のほとんどは、勉強に対する自覚はありません。親や先生に言われているからやっているだけで、自分の内面から勉強をするという動機は出てきません。
だから、毎日勉強させるというのは、実はかなり難しいことなのです。
多くの子供子は、宿題があるからやる、テストがあるからやる、やらないと叱られるからやる、という勉強の仕方をしています。
それは、逆に言えば、宿題がなければ、テストがなければ、叱られる心配がなければやらないという勉強の仕方です。
テストの前などにたまにがんばって長時間勉強するというのは、テストには役立ちますが、実力をつけるのには役立ちません。
だから、結局長い目で見ればテストにも役立ちません。
毎日の勉強の習慣は、低学年のうちに作られます。低学年のうちに、毎日の勉強の習慣をつけておくのです。
毎日ですから、平日も土日も同じように毎日やることが大切です。
大人の世界では、平日は仕事をするから土日は休みという発想になりがちですが、子供の勉強生活はそうではありません。
子供のころは、1日の例外もなく毎日同じようにやっていく方が楽にできるのです。
家族で旅行に行くときも、毎日の勉強の教材のうち幾つかは持っていきます。
そして、旅行先でも、たとえ分量は少なくしても同じ勉強を同じようにしていきます。
こういう毎日の必須の勉強として取り組みやすいのは、長文音読と読書です。ただ開いて読むだけですから、どこでも気軽にできます。
この音読と読書を軸にして、毎日の勉強の習慣をつけておくとよいのです。
子供たちの毎日の勉強を支援する仕組みとして、言葉の森が今考えているのは、寺子屋オンエアのシステムを普及させることです。
これは、子供たちが自宅にいながら、都合のよい時間帯にインターネットにアクセスして、先生に自習を見てもらうという仕組みです。
こういう勉強の仕方をしていると、学力がつくだけでなく、勉強をするということに対して自覚が出てくるのです。
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暗唱と音読でかかる時間で比較すると、暗唱は100字の文章を30回読むのに約10分かかります。音読は1200字の長文を1回読むだけですから3、4分で読めます。
しかし、この3、4分というのが、意外と長いのです。音読は、毎日続けていれば力はつきますが、この毎日ということが難しいので、週に何回か読んで音読をしたことにしてしまう子が多くなってきます。
音読の場合は、毎日やってもやらなくても、それは自分でしかわかりません。親でも先生でも確かめようがありません
しかし、暗唱の場合は、毎日やっているかどうかということは結果を見ればすぐにわかります。毎日やっている子は、一度もつっかえることなく楽に暗唱ができます。結果を見れば、その過程がわかるのが暗唱です。
しかし、この暗唱にも弱点があります。その一つは、電話指導による暗唱チェックだと、どうしてもチェックが不十分になるということです。
もう一つは、1ヶ月で約1000字の文章が暗唱できたとしても、それで終わってしまったのでは、やはり定着度が低いということです。
1ヶ月かけて暗唱できるようになった文章も、次の1ヶ月の暗唱ができるようになるころには、もうかなり忘れています。本当は、無意識のうちに口ずさむことができるようになるぐらい定着するのがいいのですが、1ヶ月ごとに終わっていたのではなかなかそこまでは行きません。
そこで、今考えているのは、第一に、寺子屋オンエアなどで画面を共有する形で暗唱をチェックできるようにすることです。
第二に、毎月の1000字の暗唱を1年間かけて合計12000字まで通して暗唱できるようにすることです。
暗唱をすると、どういう力がつくかというと、第一に作文力です。どんなテーマが出ても的確な表現と内容の伴った文章を書くことができるようになります。
第二は読解力です。理解の枠組みが大きくなるので、全体の内容をすばやく読み取れるようになります。
第三に、これは付随的なことですが、覚えることが苦にならなくなります。今の勉強のほとんどは記憶力を必要としますが、記憶することが負担にならなくなります。
第四に、これがいちばん大事なことだと思いますが、思考力が育ってくるのです。暗唱の力がついてくると、一つの言葉からいろいろな連想が生まれるようになります。そのために、個性的な考えが生まれやすくなるのです。
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言葉の森の音読は、1週間毎日同じ長文を音読するのが原則です。
同じものを読むのは退屈ですから、毎日の音読に飽きてくると、早口で読んだりわざと文章の一部を変えて読んだりする子も出てきます。しかし、そのように飽きてふざけて読むのは、その子に創造性がある証拠です。
ふざけて読んでいるのを見たら、「面白い読み方しているね」と笑って感心していればいいのです。どのような読み方をしていても、毎日読めば必ず力はついてきますから、明るく楽しく続けていくことが大事なのです。
毎日音読していると、文章の一部は、見ないでも読めるようになってきます。覚えようとして読むわけではありませんが、繰り返し読んでいると、自然に覚えてしまうのです。
この自然に覚えた文章の一節が、将来自分が作文を書くに、自然に出てくる語彙やリズム感になります。
繰り返し読んでいると自然に覚えてしまうという読み方の延長に、暗唱があります。
暗唱は、文章を覚えるのが目的ではありません。繰り返し読むことそのものが暗唱の目的です。
繰り返し読めば暗唱できるというのは、実は、やってみた人でないと、なかなかその実感がわきません。
今のお父さんやお母さんは、子供のころ文章を暗唱したという経験がないと思います。
もう二つぐらい上の世代の曾祖父母のころの人たちは、子供時代に暗唱をした経験のある人がかなりいます。その当時の人達は、勉強の基本が音読と暗唱だったのです。
音読と暗唱という勉強の仕方は、江戸時代の貝原益軒までさかのぼります。益軒は、四書五経などの文章百字ずつ百回空に読み空に書くという勉強の仕方を提唱しました。
こういう繰り返しの勉強法が、寺子屋の勉強の基本になっていました。
繰り返しや反復というと、理解や思考の反対のように考える人もいると思いますが、そうではありません。繰り返して身につけたものの土台があるから、思考力も伸びるのです。
それは、例えば、次のような比喩で考えるとわかりやすいと思います。文章のひとまとまりを暗唱できるぐらいに繰り返し読むと、その文章のまとまりが、一つのバケツに入ります。
普段、人間が考えるのは、言葉というバケツで、そのバケツを組み合わせることが文章を書くとか考えるとかいうことになります。大きいバケツを持っている人は、小さいバケツを持っている人よりも、より大きく速く考えることができるのです。
この大きいバケツの話は、作文力について言えるだけではありません。読解力についても同じことが言えます。
ひとまとまりの文章を何度も音読していると、それが難しい説明文のようなものであれば特に、新しい文章を読み解くときにその音読した文章の枠組みを使って理解することができるのです。
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暗唱へのハードルが高いという人は、まず音読からですね。
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