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記事 485番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/6/11
円と直径と球(四行詩) as/485.html
森川林 2009/05/10 08:51 

 人は何のために生まれてきたのか。

 円は、自分のことを知りたいと思い、直径に尋ねた。
 しかし、直径の答えには、どこまで行っても割り切れなさが残った。
 ある日、円はふと気づいた。
 直径が先にあるのではなく、僕が先にいたんだと。

 人生の目的が先にあるのではなく、人生が先にあったのだと。

 円は、考えた。
 だから大事なのは、無限にある直径の可能性の中でどういう直径を選ぶかということだ。
 その直径を軸として回転をすれば、円はひとつの球になるだろう。
 球の中で、円は無限に存在する。

 人が学ぶのは、球になる可能性を求めて、直径を引く場所を探すためだ。

 孔子は、十五にして直径に志し、三十にして球になるために立った。

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四行詩(13) 

記事 484番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/6/11
作文教育の意義と方法(その2) as/484.html
森川林 2009/05/09 10:26 
 作文教育には、個人における教育としての面と、社会における文化としての面の両方の面があります。


 個人の教育としての面は、知的創造性を育てるための準備という面です。
 その方法として、言葉の森では四つの面からの勉強を考えています。
 第一は吸収力をつけるための音読と暗唱の自習、第二は読解力をつけるための多読と復読の練習、第三は構成図を書くことによって思考力を育てる練習、第四は構成的な作文によって表現力をつける練習です。
 この中でも、特に暗唱という自習が、読解力の元になる吸収力をつける、思考力をつける、表現力をつけるという三つの面から重要な練習だと考えています。
 暗唱は、野球や剣道などで行われている素振りの練習に相当します。暗唱の学習は、社会の様々なところで行われています。例えば、九九を覚えるというのも、暗唱を利用した学習です。また、日本の社会では昔から論語の素読のような暗唱を学習に生かす文化がありました。英語や古文の練習でも、暗唱を生かした勉強がよく行われています。
 暗唱による勉強は、だれでも多かれ少なかれ行ったことがあると思います。しかし、従来の暗唱の勉強には、いくつかの前提がありました。ひとつは一般に、一度に覚える量がそれほど多くないということです。もうひとつは、一度覚えたらそれで目標が達成されたことになるということです。さらにもうひとつは、暗唱は子供時代に行うものだと思われていることです。
 作文教育に生かす暗唱は、従来の暗唱とは異なります。ひとつは、より長い文章を暗唱できる力をつけること、もひとつは、暗唱が完成したあとも継続してその暗唱を繰り返すこと、そしてもうひとつは、子供時代の学習としてだけではなく、成長してからも学習を続けることに意義があることです。
 暗唱の土台の上に、読む力、考える力、書く力をつけるというのが、創造性を育てるための作文教育の中身になります。

 社会における文化として作文という面では、教育の場よりも発表の場が重要になります。
 2008年の総務省の調査によると、世界中のブログに使用されている言語の中で、日本語の使用率がかなり高いという結果が報告されています。この調査の結果が正しいとすると、日本人は文章を発表することが好きな民族なのだと思います。この発表の場を、プログ、SNS、又は様々なコンクールなどを利用して広めていくことが文化としての作文の広がりを作っていきます。
 これからの社会では、新しいものを創造する力がますます必要とされるようになります。仕事においても、右のもの単に左に移すような仕事は、これからは人間ではなく機械が自動的にやってくれるようなものになるでしょう。
 知識においても同様です。伝達するだけの知識ではない創造する知識がこれから求められるようになります。その創造する知識は、学校によって教え込まれるようなものとは性格が違います。社会に自由に発表する場があることによって初めて創造的な知識が広がっていきます。
 その自由な発表の機会を育てていくというのが、作文教育の文化的な中身になります。

 社会や文化においても、創造的であるところにその社会や文化の存在する意味があります。
 日本の社会と日本の文化を守り発展させていく道は、日本が世界に対して知識の面でも仕事の面でも創造的であり続けることになると思います。

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作文教育(134) 

記事 483番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/6/11
作文教育の意義と方法(その1) as/483.html
森川林 2009/05/08 11:44 

 文章を書くことについて、与え手と受け手の多少で次のような歴史が描けます。

    ┃受け手
    ┃多┃少
━━━━╋━╋━
与え手多┃3┃4
   ━╋━╋━
   少┃2┃1

1、昔は師が弟子に直接口頭で教えました。(与え手少、受け手少)
2、書物によってより広く教える方法が生まれました。(与え手少、受け手多)
3、インターネットの時代は、多く人が多くの情報を検索して学ぶことを選べるようになりました。(与え手多、受け手多)
4、将来は、構成図と作文によって書くことが学ぶことになり、相対的に書き手が読み手より多くなります。(与え手多、受け手少)
 このそれぞれの段階を、文章を書く意義にあてはめることができます。文章を書く意義も、人生の意義と同じように、人間の幸福や向上や創造や貢献とつながっています。

 さて、作文教育の重要な意義の一つとして、創造というものを取り上げてみます。
 創造的な文章の反対は、伝達の文章です。自分の知っていることを、知らない人に伝えるという役割の文章が伝達の文章です。右のものを左に移すような伝達の文章にもその役割がありますが、それは個人の役割というよりも、主に社会におけるメディアの役割になります。
 創造的な文章が個人の文章の主な役割だと言っても、文章における創造は、必ずしもその個人の中だけでの創造とは限りません。文章における創造は、社会全体の中での創造として考えられるべきものです。つまり、他の人の創造の材料を提供することも、創造の一つの要素になります。
 創造的な材料を書くためには、真実を書くことが大切です。ベーコンは、「読むことは人間を豊かにし、書くことは人間を正確にし、話し合うことは人間を役に立つものにする」と述べました。ここで言われている書くことの正確さが文章の真実性で、その正確さが社会全体の創造の足がかりになるということです。
 したがって、作文教育には、個人における教育としての面と、社会における文化としての面の両方の面があります。
(つづく)
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を、音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
 記事のもととなった構成図です。

(急いで書いたのでうまくありません)

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作文教育(134) 

記事 482番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/6/11
簡単にできる暗唱カウンター as/482.html
森川林 2009/05/07 11:27 
 家庭で長文を暗唱するときに、タイマーを使うことが多いと思います。
 しかし、タイマーだと人数が多いときにかえって不便です。また、自分が今どれくらいまで読んでいるかわかりにくいということもあります。
 そこで、紙で簡単に作れるカウンターを紹介します。
 このカウンターで100字の文章を30回読むと、10分間読んだことと同じになります。カウンターを使うと、読んだ回数が目に見える形で残るので励みにもなります。
 暗唱は、覚えることが目的ではありません。同じ文章を繰り返して読むことによって読みの吸収力をつけることが目的です。毎日30回を目標に長文の暗唱をしていきましょう。(ただし、300字の場合は1日10回が目標になります)
1、A4ぐらいの大きさの紙を用意します。新聞のチラシなどでも可。2、物差などで4分の1ぐらいに切ります。これで4人分又は4日分作れます。
3、縦に二つ折りにします。4、裏返して1センチぐらに折りたたんでいきます。5、どんどん折りたたみます。
6、15回ぐらい折ると完成です。7、暗唱を1回読んだら1回開きます。手に持っていても机の上に置いておいてもいいです。8、全部開くと15回読んだことになります。
9、開いたのをまた折りたたむと往復で30回になります。10、時間のかかるものは途中に回数を記録しておいてもいいです。11、往復の場合も途中に回数を書いておくことができます。

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暗唱(121) 

記事 481番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/6/11
曇りを取る教育はどのようにして可能か(その3) as/481.html
森川林 2009/05/06 08:56 
 通常の人間の脳は、次々と雑多なものを受け入れています。この雑多なものを受け入れすぎないようにコントロールするために、吸収力そのものに曇りがかかっています。つまり、あまりにいろいろなものがたくさん入ってくるので、すべてを浅く吸収して、どれにでもすぐに対応できるようにしているということです。それは、重要な大魚を確実に捕まえられるように、たくさん来る小魚は軽く見逃しておくというような対応の仕方です。
 動物は、自分の生存に必要なものしか認識しないので認識が透明です。例えば、ライオンは、獲物のシカしか見ていません。ライオンが目の前のタンポポや空に浮かぶ月や星をしみじみと眺めるというような光景は、絵本の中でしか考えられません。
 ところが人間は、シカもタンポポも月も星もどれも同じように見て同じように認識しています。この人間の持つ知的に物事を認識するという能力自体が、曇りを生み出しています。もし曇りがなければ、自分の生存に必要でないものを見すぎてしまうからです。
 アルキメデスは地面に図をかいて考えているとき、その図を踏みつけた兵士に注意して殺されました。このようなことにならないように、人間は、様々な情報を軽く受け流して、肝心な情報をいつでもしっかり受けとめられるようにするという能力を身につけてきました。
 アルキメデスと同じようなことは、子供時代には多くの人が経験しています。子供のころには、何かの本に熱中していると近くで呼んでも聞こえないということがよくあります。そういう状態が曇りのない状態です。関心を持つものに対して吸収力が全開状態になるので、ほかのものが目や耳に入らなくなるのです。
 ニュートンは、考え事をしていて、卵の代わりに時計をゆでてしまいました。これも認識の曇りのない状態です。
 南方熊楠は、八歳のころから、読んだ本をそのまま思い出して書き出せるほどの優れた記憶力を持っていました。しかし、伝記を見ると奇行というほどのものではないとしても、やはり常人とは違うバランス感覚のあまりない生活をしていたようです。
 サヴァン症候群では、特定の分野に異常に優れた記憶力を持つ人が多いことが知られています。
 ところが、これらの例に見られるように強い吸収力を持っていると、生きる上で非効率的です。その結果、吸収力をほどほどに抑えておくために曇りというフィルターを通して物事を認識する能力が育っていったのです。
 しかし、先天的に曇りのない状態が成長後もそのまま続くとすると確かに不都合なことが多くなりますが、既に成長後の曇りのある状態になった人間が後天的に曇りを取ることができれば、それはバランスのある生活を伴った吸収力を育てることになります。
 この曇りをとる方法が、情報を遮断する方法です。ところが、人間にとって情報の遮断というのは難しいので、一つの情報だけに集中して他の情報は見ないようにするという方法が考えられます。「葉隠」に、無心というのは、心が一つのことに集中していることだ、というような話が出てきます。情報を遮断するというのは、一つの情報だけに集中することです。
 ライオンの関心がシカにしかないように、人間も例えば、一つの物事だけに集中することによって、ほかの物事に対する関心を遮断することができます。
 この、一つの物事に集中して、ほかの情報を遮断し、情報の吸収力を初期化する方法の一つが暗唱だと思います。
 こう考えると、暗唱は覚えることが目的ではないことがわかります。貝原益軒の百字百回の暗唱というのは、覚えることを目的にしているのでは回数が多すぎます。通常、百字の文章は十数回の音読で十分に覚えられるからです。しかし、なぜ百回繰り返すかというと、残りの八十数回分が認識の曇りを取って吸収力を強化する練習になっているからだと思います。暗唱は覚えることではなく、暗唱する過程そのものが一つの目的になっているのです。

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教育論文化論(255) 

記事 480番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/6/11
曇りを取る教育はどのようにして可能か(その2) as/480.html
森川林 2009/05/05 04:55 
 ハイポニカ農法は、最初に植物の苗を困難な環境で育てて根を張らせるところに一つのポイントがありました。
 群馬県のある養鶏場では、鶏のヒナの時期に硬い餌を食べさせるということが健康な鶏と卵を作る一つの重要な要素になっています。
 先進国では、豊かな環境が日常化しています。豊かであるのはもちろんいいことですが、初期の豊かすぎる環境は、かえって生物の吸収力を阻害してしまうおそれがあります。
 しかし、人間は他の動物たちとは違い、初期の状態に規定されているわけではありません。生涯の途中の時期からでも小食が体質の改善に役立つように、教育においても、一種の飢餓状態を作ることが教育の方法として考えられるのではないかと思います。

 曇りを取る教育によって、必要な知識を大量かつ高速に吸収することができます。しかし、これは、教材が大量に与えられるということではありません。外部からの教材によってではなく、内部からの力によって大量に吸収する能力が育っていくということです。
 現在の教育環境では、教育というと、教科書と先生と授業があるような形を思い浮かべがちです。ところが、ハイポニカ農法の発想においては、農業によって最も大事だと思われていた土が実は植物の成長の阻害要因になっていたという考えがありました。同じことを教育に当てはめてみると、一斉授業と一人の先生と一冊の教科書という形が、人間が物を学ぶことにおいて一つの阻害要因になっているのではないかということが考えられます。
 エジソンは小学校の低学年のうちに、学校を退学しましたが、図書館で本を読むという勉強法で学校にいるよりも多くのことを学びました。これからの教育で大切なことは、そのような学び方を可能にするような環境と能力を作っていくことです。
 環境面に関しては、図書館がなくても、インターネットの利用でふんだんに必要な知識が与えられるということがすでに可能になりつつあります。
 もう一つの吸収する能力を育てるということが、今後の課題です。
 もしこのような吸収力を育てる教育ではなく、現在の教育の延長上に、より多くの教育を行おうとすれば、細分化と複雑化をさらに進めるような方向しか考えられません。すると、四十人学級で一人の先生が教えるのでは不十分だからもっと少人数の教育を行う必要があるとか、さらに、もっと先生を増やして個別指導を行う必要があるとか、さらに進んで生徒一人に対して複数の先生がつくというような方向に進む可能性があります。しかし、この道は、途中までは効果があったとしても、ある段階からは投入するコストに反比例して効果が減少していくのではないかと思います。

 教育方法に吸収力を利用するということですぐに思いつくことの一つは受験です。受験勉強というチャンスは、人間に一種の飢餓状態を与えるという点で教育的な効果があります。受験勉強の1年間は、それ以前の数年間よりもずっと密度が濃いというのは多くの人が経験することです。
 しかし、ここから、テストで強制した勉強を考えるのでは教育的な方法とは言えません。内部から吸収力を育てるのではなく、テストという強制で無理やり吸収力を引き出すとすれば、それはテストがなければ勉強しないというより大きな弊害を生み出します。
 吸収力を育てるには、もっと本質的な方法があるはずです。

 知的な飢餓状態というのは、情報が与えられないことだけではありません。同じ情報だけが、延々と与えられるという状態も一種の飢餓感を生み出します。実は、それが暗唱の一つの大きな要素です。
 貝原益軒は、百字の文章を百回暗唱するという教育方法を提唱しました。塙保己一は、約三百字の文章を百回暗唱するという勉強法を自分に課しました。このように同じ文章を過剰に繰り返し暗唱している状態で、一種の情報に対する飢餓状態が生まれるのです。
 同様の方法は、日本の文化の様々なところに流れています。例えば、日本では素振りという練習方法があります。これは、同じ動作を繰り返すことによって、動作の飢餓状態を作ることです。飢餓状態によって初期化された動作は、どのような動作にも対応できる万能性を持つという考えがそこにあるのです。
 同じことは、念仏や座禅のように、同一状態を反復する文化の根底に流れている考え方です。
 人間以外の動物は、動きも鳴き声も関心を持つ外界もほぼ固定化しています。それに対して人間は、動作も音声も話す内容も関心を持つ内容も、動物よりはるかに自由度が高いという特徴があります。その自由度が、人間にとって動作や認識の曇りとなっていくのです。日本文化は、その自由であることから生まれる曇りを取り除くために、固定した状態を作るという型の文化を生み出したのだと考えることができます。
(つづく)

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教育論文化論(255) 

記事 479番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/6/11
曇りを取る教育はどのようにして可能か(その1) as/479.html
森川林 2009/05/04 05:03 
 曇りを取る教育とはどのようなものでしょうか。曇りを取り除くことによって、乾いた砂に水がしみ込むように、物事を吸収する能力が現れる、そういう方法があるのではないかということです。
 中村天風は、チベットでの修行で人間な面でも心身の能力の面でも大きく成長しました。天風の獲得した能力は、右脳の活性化の結果とも言われていますが、科学的なことはまだわかっていません。その能力は例えば、一目見ただけで細部まですべてを覚えてしまう記憶力や、同時にいくつもの知的な作業を並行して取り組める集中力です。
 ところが、この天風の例に見られるように、これまでの人間の知的な能力の開発には、修行という方法しかありませんでした。天風も、世界中の当時の最先端の科学、医学、哲学などで目指すものが得られないことがわかったあとに、チベットの師に出会ったのです。しかし、修行は、科学的な裏づけがないために宗教的な主観性と結びつきやすいという弱点を持っています。しかも、ほとんどの場合、その修行は一部の人にとってしか成果をもたらしません。
 一方、宗教の主観性を排して科学的な方法で人間の能力を開発させようとするやり方は、往々にして、その能力の開発に人間性の向上が伴わないという弱点を持っています。例えば外部から何かの刺激を与えることによって能力を開発するというような方法は、生活の技術として利用するには有用ですが、そのことによって必ずしも人間性が向上するとは言えません。
 人間の心身の能力を開発を考えるときには、この宗教の持つ非科学性と、科学の持つ非主体性をともに克服する方法を考える必要があります。その方法が教育的な方法です。

 さて、人間の認識の曇りを取り除くということで、いろいろな分野の例が示唆を与えてくれます。
 クローン羊のドリーの研究によると、羊の乳腺細胞にある遺伝情報は、その細胞が既に乳腺という固定した役割(曇り)を担っているために、そのままでは遺伝情報として抽出できないものでした。この乳腺細胞を万能な胚細胞に変化させたのは、その細胞を飢餓状態にするという方法でした。
 ボース・アインシュタイン凝縮という現象において、原子の運動量が極端に低下すると、個々の原子の持つ波動が全体の一つの大きな波動に統合されるということが知られています。これは、極低温下で運動量が極端に低下したことによって、個々の原子の持つ個別性(曇り)が消えて全体に調和する性質を持った考えることができます。
 人間の健康法に関して、断食小食療法というものがあります。昔は、病気になると栄養をつけて治すという時代もありました。しかし、現代は、過剰な栄養がむしろ人間の健康にとって阻害要因(曇り)となっている時代です。食事を減らすと健康になるというのが、この断食小食療法の原理です。これは、現代になって初めて出てきた理論ではなく、既に江戸時代の水野南北が提唱しています。ただし、食事や睡眠のように人間が日常生活の中で意識せずに行っていることは、意識的に行っていることに比べて変更が難しいので、こういう考えは世間ではまだ一般的ではないようです。ともあれ、この小食という健康法は、少ない栄養が身体のバランス回復に役立つということを示しています。

 さて、これらの現象が示していることは、一種の飢餓状態が、その物事の初期化、健全化、万能化、調和化に役立っているのではないかということです。
 知識や情報に関して考えてみると、豊富な読書環境が必要とされる時代や地域というのも確かにあります。しかし、初期のうちに、あまり読むものが多いと、それが情報に対する満腹状態を生み出し、同じものを繰り返し読むという読み方を阻害する要因になることもあるということです。幼児期にテレビ漬けにすると成長がかえって阻害されるというのも、このことに関係があります。
 勉強において飢餓状態を作るということを単純に考えると、勉強の意欲を持たせるためには、勉強させない状態を作るということになります。これはやや無謀な考え方ですが、しかし例えば、大学1年生でいったん社会に出て勉強の必要性を感じさせ、それからもう一度学校で勉強をさせるというような仕組みはもっと考えられてもいいと思います。
 たくさんの食事を早く食べるのではなく、少ない食事をよく噛んで食べるというのが、食事の吸収力を高める方法です。情報の吸収力を高めるためには、少量のものを何度も読むということが役に立ちます。これは、速読の多読とは正反対の教育観です。
(つづく)
(この文章は、構成図をもとに音声入力した原稿をamivoiceでテキスト化したものです)
マインドマップ風構成図
 記事のもととなった構成図です。

(急いで書いたのでうまくありません)

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教育論文化論(255) 

記事 478番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2025/6/11
曇りを取る教育(その3) as/478.html
森川林 2009/05/03 18:37 
 学習には臨界学習期があると言われています。例えば、日本人が英語のRとLの発音の区別を学べるのは、幼児期までです。ある時期を越えると、RとLの発音の区別をすることができなくなります。したがってほとんどの日本人はRとLの発音の区別ができません。しかしもちろん、それで困ることはあまりありません。言葉にはそれを伝えるときの文脈があるので、LiceとRiceを区別できなくて困るという場面はまずないからです。
 ところで、この臨界期というのは、若いときにはできる能力があったのに、年をとったらできる能力がなくなったということではありません。年をとることによって、若いときにできていた能力に曇りがかかってできなくなったということなのです。若いときに何かを学ぶ手段となっていたものが、その手段であることに磨きをかけることによって、その手段によって学ぶ以外のものを学びにくくさせる障害になっていったという関係になっているのです。
 RとLの発音に関して言えば、日本語でも人によってさまざまな「らりるれろ」の発音があります。男性の言う「らりるれろ」と女性の言う「らりるれろ」では当然音色が違います。幼児期には、それらの音色の違いをすべて聞き分ける能力があるのですが、それらを聞き分けていると能率がよくありません。同じ意味内容の言葉を違う音色として聞き分けるのは能率が悪いので、判断の能率をよくするためにRに近い「らりるれろ」もLに近い「らりるれろ」も同じと見なすという聞き方を選択するようになったのです。この選択するという手段に磨きがかかることが同時に、聞き分けることに対する曇りになっていったのです。これが臨界期の意味です。

 このように考えると、複雑化と細分化で行き詰まりつつある現在の教育を打開する方法が見えてきます。未来の教育の方法論として求められるものは、曇りを前提としてさらに細分化を重ねていくような方法ではなく、その曇りを取り除くような方法なのです。

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