国語と算数の勉強の仕方には、大きな違いがあります。
算数は、わからなくなったら、わかるところまで戻り、わかるまでやるという勉強の仕方です。算数の難問というのは、いくつかの要素が組み合わされている問題で、易しい問題は、その組み合わせの数が少ない問題です。ですから、難しい問題にぶつかったときも、個々の要素に分解して、それぞれの要素を理解して積み上げればわかるという仕組みになっています。
算数は、教科書に書かれていることをマスターすることが勉強の目標です。受験勉強も、その延長にあります。
ところが、国語はそうではありません。小学校5年生で国語の成績が下がったら、小学校4年生の教科書まで戻ればいいというのではありません。その学年の教科書を全部マスターしたからといって、成績が上がるわけではありません。
国語の勉強は、できる子はできるし、できない子はできません。そのできるできないを分けるのは、ひとことで言えば読書の差です。読書の質と量が優れている子は、国語の勉強を特にしなくても成績はいいのです。ただし、国語でも漢字の書き取りだけは、勉強しなければできるようにはなりません。しかし、国語力の本質は、漢字力ではなく読解力です。
算数と国語の違いを、列車の旅の比喩で言うと、次のような感じになります。算数は、あるところまで来て、今いる場所がどこかわからなくなったら、前の駅に戻ればわかります。国語は、あるとこまで来て、今いる場所がどこかわからなくなったら、前の駅に戻るのではなく、周りの景色をよく見なければなりません。たとえ、前の駅に戻ったとしても、やはりそこで周りの景色をしっかりと見なければなりません。周りの景色を見るということは、日本語の日常生活を豊かにすることです。
逆に、算数の力をつけるために、日常の算数的な生活を豊かにするということは見当違いな努力になります。算数は、経験の中で身につける面ももちろんありますが、それ以上に勉強の中で身につけるものだからです。
ときどき、保護者の方から、「うちの子は作文が苦手なので、実際の学年よりもずっと下の学年から始めたい」という要望を聞くことがあります。下の学年に戻って勉強することは簡単ですが、しかし、それが上の学年に進む準備にはなりません。勉強するのは、下でも上でもかまいませんから、何しろ今その学年で読む力をつけることが重要なのです。これが、暗唱や読書の自習の意義です。そして、国語の問題に取り組むよりも、この読む勉強が、いちばん確実な国語の勉強法になるのです。
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先日、でき太くんの算数クラブの人が教室に来て、いろいろ話を聞かせてくれました。(以下わかりやすく、でき太くん)
http://www.dekita.co.jp/
私は、学習塾の関係の人とはこれまであまり知り合いがなく、塾での勉強の実際の姿というものを知らなかったので、とても参考になりました。
でき太くんの話を聞くと、言葉の森がこれまで作文の学習で行ってきたことと理念的な共通点がきわめて多くあり、正直驚きました。
いちばん納得したのは、「教え込まない教育」ということです。
でき太くんの話では、これまでの教育は、先生や親が教えることで、子供が自ら学ぶ力を阻害していたということでした。
ふりかえってみると、私自身も子供のころから人に教わることが嫌いで、自学自習で自分のペースで勉強していくのが好きでした。
自分の子供が小学生のときも、算数などで子供から何かを聞かれたら教えるが、できるだけ教え込まないようにしていました。教えるということはおもしろいことですが、教えられるということはつまらないことだとわかっていたからです。
教えないということは、この場合、長い時間をかけては教えないということです。子供に聞かれたことに対してできるだけ簡単に説明すると、子供はその場ではわかったような気がします。しかし、またすぐ同じことがわからなくなり聞いてきます。そこで、またできるだけ簡単に説明します。その際、「さっき教えたばかりだろう」などということは決して言いません。何度でも同じことを同じように明るく簡単に説明しました。
自分自身が、一度で聞いて理解するタイプではなく、何度も聞いて次第に理解するというタイプだったので、子供もそうだろうと思っていたのです。そのかわり、難しいことでも、易しいことと同じように回数さえ繰り返せば誰でも理解できると思っていました。しかし、これはある意味で、生物すべてに共通する学び方の原理なのかもしれません。
機械は、一度教えればすぐにその動作を正確に行います。だから、柔軟性もないし創造性もありません。人間を含めた生物は、一度教えてもすぐに忘れます。何度も何度も教えられる中で、次第にその動作がその教えられた回数のウェイト付けを伴いながら蓄積されていきます。
つまり、あらゆることをすべて同じように正確に理解するのではなく、あるものごとはすぐに忘れ、あるものごとはアバウトに理解し、あるものごとは正確に理解する、という理解の仕方に濃さの違いがあるのです。
もし、人間がすべての物事を機械と同じように一度で即座に理解するようになると、その人は社会生活をうまく送れない可能性があります。勉強のよくできる子には、実は、多かれ少なかれそういう傾向があります。何でも同じような一律の重要性で正確に理解して行動するので、悪いことをしているわけではないのに、なぜか周囲とぎくしゃくしてしまうことがあります。だから、勉強はほどほどにできないぐらいがちょうどいいのです。いいのか(笑)。
さて、私の子供が中学生のときの勉強法も同じで、子供は塾に行かず自宅で勉強をしていましたが、その勉強法は、本人が自分で数学の問題集を解き、自分で答え合せをして、間違えたものについては自分で解法を読んで理解して、解法を見てもわからないものだけ私に聞くというものでした。ところが、父親である私も、聞かれて即答できるわけではありませんから、解法を見ながら一緒に考えるというやり方でした。しかし、解法がくわしく書かれている問題集であれば子供が自分で理解できるので、教える人というのはほとんど必要ないと思いました。
算数・数学の勉強というのは、特に、先生が生徒に教えたがる勉強です。しかし、それを先生が教えるのではなく、子供が自力で学べるようにしたのが、でき太くんの教材の優れた点だと思います。このやり方であれば、楽しく自主的に勉強してしかも実力がつく、ということがよくわかりました。
今の教育は、教える教育なので、子供にとってはおもしろくありません。私も、子供のころ、学校でイスにすわって先生の話を聞くだけの勉強が嫌でたまらなかったのでよくわかります。小学校高学年のころの教科書は、挿し絵や図表のあるところには全ページ落書きを書いていました。落書きだけが、授業で唯一楽しいことだったのです。真似しないでね。
人間は、自分で学ぶことがいちばん楽しく、人に教えてもらうことがいちばんつまらないことなのだと思います。これは日常生活の会話でも同じで、楽しいのは自分が話すことで、つまらないのは人の話を聞くことです。カラオケでも同じです。人の歌を聴くのが好きというのは、ただ歌の下手な人だけです。私は、下手でも歌う方が好きですが(笑)。
しかし、そこで、人の話を聞いたり人の歌を聴いたりするのが好きという人は、実はかなり人間的にできた人です。子供は、そんなにできているわけではありませんから、先生の話を聞いて何かを教わるよりも、私語で喋っている方が楽しいのです。しかし、いちばん楽しいのは、自分自身で学んでいるときです。
ところが、ほとんどの学校や塾で行われているのは、このつまらない教えられる勉強で、それをテストや競争や賞罰によって煽るという勉強法です。その結果、現在の日本では、学習塾が盛んになればなるほど、子供の全体的な学力が低下するという現象が起きているのです。
でき太くんのような明確な教育の理念と方法を持った教室が増えると、これからの日本は、大きく変わると思いました。
でき太くんの教材を見させてもらうことによって、算数・数学と国語・作文の勉強の違いと共通点もよくわかりました。このことは、また別の機会に書きたいと思います。
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昨日届いた「言葉の森新聞」に「でき太くんの算数クラブ」に関する記事を見つけて驚きました。子供にも見せましたところ、「どうして言葉の森にでき太先生が…?」と不思議そうにしていました。
現在小5の娘は1年生から言葉の森にお世話になっていますが、もうひとつ「でき太くんの算数クラブ」も同じ期間受講しています。二つの通信教育には、なんとなくですが似たような理念を感じていたものですから、今回の記事を拝見してうれしく思います。
3年生のころは作文を重荷に感じていた時もあったようですが、毎回ほめて下さる先生や、無理せず長い目で見て下さるシステムのおかげで、ほとんどお休みせずに続けてこられています。豊富な読書量や暗唱能力、すぐに手を動かして(最近はキーボードですが)書き始められる表現力などは、この先も大きな財産になってくれると感じています。たとえ中身が大した作品ではなくとも(笑)、続けていくうちにゆっくり成長すると信じてこれからも見守っていきたいと思います。
> おそさ母様
コメントありがとうございます。
そうだったのですか。それは偶然というか何というか、不思議なめぐり合わせでしたね(笑)。
早速、でき太くんの先生にもお知らせしておきます。
でき太くんの教材は、とてもよく考えられているので、言葉の森も教材ももっと使いやすいものに工夫したいと思っています。
小5のお子さんに、これからもがんばってね、とよろしくお伝えください。ヽ(`▽´)/
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私は、自分のブログではあまり長い文章は書かずに、ほとんど四行詩という形式で書いています。なぜかというと、長く書くのが面倒なのと、読む人がいた場合もやはり長い文章を読むのは面倒だと思うからです。
しかし、子供たちの作文の場合、文章の実力という点では、字数の長さと内容のよさとの間には高い相関があります。
受験作文で、短時間に長く書くことを要求されることが多いのは、短い時間で長く書ける子には、上手な子が多いからです。もちろん、上手な子がすべて長く書くわけではありませんが、全体の傾向で言うと長さと上手は関連があります。
短時間で長く書く子が上手だというのは、だれでも漠然と感じていることのようで、小学校低学年の子に一斉に作文を書かせると、字数の競争になることがあります。そして、「○○ちゃんは○枚書いたんだって。すごいね」などということが子供たちの間で話題になります。ところが、字数がとびぬけて長い子の中には、「、」や「。」もなく、ひらがなばかりという子もかなりいます(笑)。
小学生だけでなく、大人になっても、長く書くことがいいことだと思っている人がいます。しかし、文章は、人に読んでもらい理解してもらうことが大事なのであって、時間をかけて長く書くことが大事なのではありません。
では、理解されやすい文章を短く簡潔に書くには、どうしたらいいのでしょうか。
一つは、ぶっつけ本番で考えながら書くのではなく、全体の構成を念頭に入れてから書くということです。長い文章を書く場合は、構成図で考えを整理してから書くということも必要になるでしょう。
もう一つは、やはり大人の文章では、読み手にわかる範囲でできるだけ簡潔に書くことが大事だと常に考えておくことです。
「葉隠」に、「武士は、十言で言うことを一言で済ませるものだ」という内容の言葉があります。短く簡潔に書くというのは、日本文化の美学でもあるのです。
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世界に新しい病気が登場すると、免疫がないので、急速に悪化し広範に広がる場合があります。しかし、やがて自然に免疫ができて、同じ病原菌やウィルスに接しても、症状が軽く済みあまり広がらないようになります。これは、人間や生物が自然に備えている力です。
口蹄疫なども、ほうっておけば自然に収束したと言われています。牛が家畜として飼われるようになる以前にも口蹄疫は何度も発生したはずですが、それで牛が地上から全滅したわけではないからです。その前に、牛を食べるというようなかわいそうなことをやめる方がいいかもしれませんが。とは言っても、先日、私もバーベキューパーティーをしましたが。
インフルエンザも、人工的なワクチンには、不純物が含まれていたり、免疫が短期間しかもたなかったり、そのわりには高額であったりするなど多くのマイナス面があります。人間が自分の力で自然に獲得した免疫には、副作用もなく、無料で、しかも一生もつという長所があります。
だから、ワクチンによる免疫の方が有効だと歴史的に確認された、結核、ポリオ、狂犬病のようなもの以外の、最近の鳥インフルエンザや子宮頸がんなどのワクチンについては、できるだけ見合わせた方がいいのです。それは、まだわからない副作用が必ずあるだろうからです。
さて、目を子供たちをめぐる社会に転じてみると、新しい娯楽が登場すると、急速に広がる場合があります。例えば、テレビ、ゲーム、インターネット、ケータイなどです。病気の場合は、病原菌やウィルスに対する免疫ですが、この場合は娯楽の魅力に対する免疫がないということです。
この新しく登場した娯楽に対する対策として、禁止ということも考えられます。例えば、現在いろいろな麻薬が禁止されているのは、たとえ麻薬の魅力に対する免疫ができたとしても、そこにいたるまでの害の方が大きいと思われているからです。同じように、子供が小さいときは、テレビやゲームには触れさせないというのもひとつの対策です。
しかし、いちばんいいのは、免疫を早く作れるようにコントロールしながら接するということです。禁止というのは無理があるので、必ずどこかで破綻します。インターネットのアクセス制限なども、技術的には簡単にできるように見えますが、そのうちに制限するための時間やコストの方が大きくなって結局徹底できなくなります。
といっても、すぐにそううまくコントロールできるようになるわけではありません。大人でも、つい食べすぎたり、飲みすぎたり、娯楽にこりすぎたり、誘惑に負けたりして、自分の弱さに後悔するというのは年中あることです。私もです(笑)。まして、子供はそうです。
しかし、そういう後悔を経て、人間は初めて少しずつ自分の弱さをコントロールできるようになります。それが精神の免疫です。
ここで大事なことは三つあります。
第一は、ルールを決めることです。時間や場所という外的な条件を決めることによって、コントロールしやすくするということです。
第二は、そのルールで決めた範囲では、心から楽しむようにすることです。しぶしぶ認めたり、遠慮しながらやらせたりするのではなく、心から満足できるように取り組ませるということです。
第三は、よりよい人生を送るという観点から、折に触れて日常生活をふりかえることです。それは、子供と人生について話をすることです。しかし、それは親が子供に言い聞かせるようなものではなく、子供としみじみ、しかし明るく語り合うという感じのものです。人間の精神に免疫を作るには、この真摯(しんし)に話し合うということがいちばん大事なことのように思います。
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先日、「構成図が書けない」と、小学校3年生の子のお母さんから相談がありました。構成図が書けないので、作文が負担になっているかもしれないというのです。
作文の勉強は楽しく書くのが最優先なので、こういう場合は構成図を書かなくてかまいません。しかし、それは次善の策です。いちばんいいのは、楽しく構成図を書けるようにすることです。
構成図は、書ける子と書けない子がある程度分かれる傾向にあります。書ける子はすぐに書けるし、書けない子はなかなか書けません。
それは、主に考え方の違いによるものです。構成図という名前から、作文の設計図を書くつもりで真面目に考えると、筆がなかなか進みません。
そうではなく、思いついたことをただ列挙するつもりで書いていきます。だから、作文の中身と関係があまりないと思われることもどんどん書いてきます。
何しろあまり止まらずに書いていき、もし書くことに詰まったら、これまで書いた別のところから枝を伸ばして書いていきます。
関係なさそうなこともどんどん書くというのは、言い換えると、テーマとは直接結びつかないかもしれない似た話も書いていいということです。
課題フォルダの10.1週にヒントの絵がかいてありますが、これだけではわかりにくい場合は、お母さんやお父さんが手ほどきをしてあげるといいと思います。
子供が、「構成図がなかなか書けない」と言ったときは、お母さんが横にすわり、構成図を一緒に埋めていきます。その場合、できるだけ気軽に、よい意味でいい加減に書いていくことが大事です。その方が、子供も気楽に書けるようになるからです。
親が子供のころ自分でやったことのないものは、どうしてもアドバイスが観念的になりがちです。ですから、構成図を書く練習は、最初はお母さんやお父さんの練習も兼ねて一緒にやっていくといいのです。
このようにして2、3回一緒に書くと、大体の子は書き方の容量がわかり、自分で書いていけるようになります。
下記のページに、構成図の書き方の例が書いてありますので、参考にしてください。
https://www.mori7.com/as/974.html
なお、構成図が考えを深めることに役立つのは、主として作文のジャンルが説明文や意見文になったときです。小学校4年生までの事実中心の生活作文では、構成図を書くことに特に大きな意義があるのではなく、高学年になったときの準備としてやっているという位置づけです。
しかし、小学校3、4年生でも、作文の字数がなかなかはかどらない場合、構成図を埋める練習をすることによって、作文がより楽に長く書けるようになります。
構成図は、気軽に書くことが大事です。なかなか書けない場合は、周りからあまり、「ああせい、こうせい」ということは言わずに、お母さんが一緒に手伝って実際に書いてみるということでやっていってください。
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