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対話のある勉強 as/1348.html
森川林 2011/09/07 16:23 



 7月に、言葉の森の生徒の保護者のみなさんに、家庭での自習や予習の仕方を説明するプリントをお送りしました。

 この予習法の要点は、次の週に書く課題を子供が事前に読んでおき、家庭で子供がお父さんやお母さんにその内容を説明するというものです。

 このやり方で予習を取り組む家庭が増え、子供たちの作文が充実してきました。

 言葉の森の感想文課題は、かなり難しいので、感想文の週には事前にその長文を何度か読んでいないと、先生の説明を聞いてもなかなかうまく書くことができません。事前に、家庭で子供からお父さんやお母さんに説明する形にしておくと、それだけで長文の理解が深まります。他人に説明するということは、自分なりに全体像を把握していないとできないことだからです。

 子供からの説明を聞いたあと、お父さんやお母さんがその説明に対して、似た例などのアドバイスができればなおいいのですが、そこまでしなくても、子供が自分の言葉で説明するだけでも、内容理解は格段と深まります。

 そして、こういう形での親子の対話というのが実に楽しいのです。普通、親子で話す話題というと、学校の勉強のことや近所の話題など身近なことが多く、考えながら話すということはあまりありません。ところが、長文をもとに似た例や感想などを考えて話すと、親子の間で知的な対話が生まれるのです。この知的な対話の時間は、知的な読書の時間と同じ意味があります。こういう対話を毎週繰り返していけば、子供たちの思考力はかなり深まります。

 なお、言葉の森ではfacebook上で、学年別の予習室というグループを作り、似た例のヒントとしてどんな話をしていくかという話題を交換しています。これは、課題のヒントとは別のもので、対話のヒントというようなものです。

 例えば、中1の9.1週の課題では、次のような記事を載せています。

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 中1の9.1週「私はは二十年ほど前から」は、現代の管理化された社会を考えるいい機会になると思います。

 お父さんやお母さんが似た話を話す場合は、こんな感じです。

 「昔は今ほど、社会が管理化されていないから、もっとのびのび暮らしていたような気がするなあ」

 例えば、子供時代にいろいろないたずらをしたと思いますが、社会がそういう子供のいたずらを大目に見る風潮がありました。

 今は、大人の社会でも、例えば「シートベルトの着用義務」とか、「喫煙の制限」とか、「個人情報の保護」とか細かいルールが多くなりました。

 ルールがあること自体はいいことですが、裁判員制度も含めて、国民を家畜化しようとしている感じがしないでもありません。

 もっと自由にのびのび生きられる社会にしたいですね。

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 同じく9.2週の対話のヒントはこんな感じです。

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 9.2週の課題は、「何ごとぞ花見る人の長刀(感)」です。

 お花見をする習慣というのは、日本と北朝鮮の一部にあるようです。世界中で花見をする文化というのは限られているのでしょう。

 ということで、ひとつはお花見の思い出です。花見とは名ばかりで、最初は「わあ、きれい」などとひとことぐらいは言いますが、あとは花はそっちのけで飲めや歌えやになっていたと思います。そして、そのうち桜の木に登る人がいて(笑)。桜と柿は、折れやすい木の代表選手ですから、この機会に、子供に「桜の木には登らないように」と言っておくといいと思います。ことわざにも、「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」というのがあります。桜は剪定などしなくても、どんどん枝を落としていくので切る必要はないということです。

 と脱線しましたが。(^^ゞ

 日本人どうしは、同じものを見るという形で心を共有します。テレビを見る、夕焼けを見る、映画を見る、初日の出を見る、月や星を見る、というように、並んで見るだけで心が通じ合います。お父さんやお母さんの最初のデートの場面を思い出してみましょう(笑)。

 でも、欧米人は違います。面と向かってしゃべり合わないと、コミュニケーションができないのです。かわいそうですね。ってことないか。

 相撲の見物などもそうです。取組を見るよりも、その間の仲間どうしのお喋りが楽しいというところがあります。

 今、学校で私語が多くて先生が困っているそうですが、これも、日本文化だからこそなのかもしれません。

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 facebookの予習室の中で、お父さんやお母さんどうしの対話が生まれるというのが、この予習室の目指しているイメージです。

 家庭の予習では親子の対話、facebookの予習室では親どうしや親と先生の対話、そして、将来計画しているfacebookの発表会では、子供どうしの対話が生まれるようにしていきたいと思っています。

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無の文化と教育7(最終回) as/1347.html
森川林 2011/09/06 15:41 



 無の文化は、経済や教育だけでなく、政治にもあてはめて考えることができます。

 しかし、この話は手短に書きたいと思います。



 政治体制の分類の仕方のひとつとして、アリストクラシー(貴族主義、血統主義、身分主義)と、メリトクラシー(能力主義)という分け方があります。

 アリストクラシーの欠点は、支配が固定化することによって腐敗が生まれ、その結果、社会の中に不合理が蓄積し、やがてそれが抗争に発展するということです。

 その点、能力主義は、能力のある者がリーダーとなる点で一見合理的な仕組みのように見えます。しかし、この能力主義は、容易に、能力ある者による血統主義に転化するのです。



 ところが、この矛盾を解決するヒントが、日本の政治の仕組みの中にあります。

 それは、身分の高い者がその身分に伴う倫理観を持って行動するということです。例えば、乃木希典は、高い地位にありながら常に謙虚な人間性を保ち続けました。明治維新の際、支配者であった武士階級は、自主的に禄を辞退し農民になりました。天皇の最も重要な仕事は、民の幸福を祈ることだと言われています。



 有の文化における政治では、支配する者と支配される者があり、力のある者と力のない者がヒエラルキーを形作っています。その両者をつなぐものは、命令と強制と賞罰です。この仕組みが強固であることが理想の政治のひとつの形となっています。

 そして、これが、現代の会社、学校、団体のさまざまな組織の原理となっているのです。



 これに対して無の文化における政治では、命令や強制などの作為がないこと、自然のうちに調和していること、リーダーがなくても全体がまとまっていることなどが、理想の姿と考えられています。

 支配する者も、支配される者もいず、ただみんなが集団全体の意志のようなものを感じ取る感性を持っていて、その集団の意志が求める役割を各人それぞれに果たすというのが理想の政治なのです。

 これは、ちょうど、鳥の群れや魚の群れが、誰がリーダーとなって指示するわけでもないのに、集団全体を一つの形として動いていくのと似ています。

 こういう集団では、リーダーはエゴを持たないことが第一に求められます。また、リーダー自身も、エゴを持たないことが正しい判断を下す条件であることを暗黙のうちに了解しています。

 身分間の移動はありますが、基本的には身分主義が社会の前提になっていて、各人はその身分の中で、自分が集団全体の意志によって求められている役割を果たすために自分を磨くという仕組みの社会になっているのです。



 有の文化の政治は、個人のエゴイズムを前提にしているので、多数決、三権分立、二院制など、エゴを抑制する仕組みを追加していかなければ制度を維持することができません。これが、現在の政治の複雑化と混乱の文化的要因です。



 これに対して、無の文化の政治は、リーダーとなる人がエゴを抑え、大衆に奉仕する気持ちを持ち続けることによって制度を維持するという一種の王道政治を目指しています。

 これをきれいごとと思うかもしれませんが、実は、日本の歴史ではかなりの期間、このような王道政治が行われていました。徳川幕府は300年間続きましたが、これだけの長期間の権力の固定化にもかかわらず、他の国のように、権力者が暴君になるとか腐敗するとかいうことがほとんどありませんでした。

 仁徳天皇が、民のかまどから煙の立ち上るのを見て安心したという逸話は、日本の民衆の中に、リーダーのあるべき姿の例として生きています。



 このように考えると、日本の政治の根本理念は、権力を持つ者の倫理観ということに集約されるように思います。

 日本が将来、世界に提案する新しい無の文化の政治は、民主主義に支えられた清潔な君主制になると思います。

 そのような倫理観を育て継承するのが、実は、社会科教育の本来の役割です。地理や歴史や政治経済の知識は、知識そのもののためではなく、人間が社会的にどのように生きていくかを学ぶための知識として教えられる必要があるのです。(おわり)

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無の文化と教育6 as/1346.html
森川林 2011/09/05 18:47 





 欧米の有の文化では、教材とカリキュラムを充実させることによって、教育が一部の裕福な人たちだけのものになりました。教える「物」が前面に出ると、持つ者と持たざる者の格差が生まれるのです。

 これに対して、日本では、教える方法が重視されました。「物」ではなく「事」が中心になることによって、貧富の差も男女の差もなく、誰もが自由に享受できる教育になったのです。

 これが、欧米と日本で教育の普及に大きな差が生まれた要因です。



 今、インターネットの普及によって、教える教材としての「物」は、物の性質を弱め、情報の性質を強めつつあります。これは確かに社会の進歩です。現代では、インターネットの情報に関する限り、持つ者と持たざる者の差は生まれにくくなっています。しかし、教材が書物の形からデジタル情報の形になったとしても、教材という「物」を教育の中心とする限り、その教育は有の文化の延長にあります。



 対象を重視するのが有の文化で、方法を重視するのが無の文化です。この二つの文化の違いは、欧米と日本の宗教の違いにも表れています。(ここで、少し話が横道に入りますが)



 中世のキリスト教は、ラテン語の聖書によって聖職者だけに独占されていました。このラテン語の聖書を、大衆の理解できるドイツ語の聖書に翻訳したのがルターの宗教改革の意義でした。



 このルターの改革を現代の教育にあてはめると、教材をだれでも利用できるようにインターネットで公開することと同じ意味を持っていると思います。教材や教典の大衆化というのは、社会の進歩のひとつのあり方です。



 しかし、無の文化の進歩は、そうではありません。日本では、宗教の大衆化は、教典の大衆化という方向ではなく、実践の大衆化という方向に進みました。それが、念仏であり、托鉢であり、トイレ掃除のような下座行の日常化でした。



 知識や思考は頭の一部を使うだけですが、実践は人間の全体を使います。実践という全体の反復によって曇りや汚れを拭い取り、本来の人間が持つている仏性を開花させるというのが、日本の宗教の改革者たちが目指した方向でした。

 教典の大衆化が有の文化の宗教の進歩だとすれば、実践の大衆化が無の文化の宗教の進歩だったのです。

 それは、何度も繰り返しますが、有の文化が、個人が「有り」、教典という対象が「有り」、個人がその教典を摂取するという考えを前提にしていたからです。

 無の文化は、これに対して、個人は「無く」、教典も「無く」、すべてはもともと備わっている全体の一部であり、その全体を明らかにするために更に自分も教典も無化して全体につながると考えるのです。



 この無の文化の伝統は、教育にも生きています。教材という知識を身につけることを目的にするのではなく、反復という全体的な実践を目的とし、その結果として教材が自然に身につくという方法を、江戸時代の教育は実現していたのです。



 反復という方法は、日本の型の文化とも深く結びついています。反復によって身につけるものは、反復している当のものであるよりも、その対象を入れる枠組みとなる型です。

 型を身につければ、中身は自ずから満たされるというのが、日本人の教育方法に流れている人間観だったのです。(つづく)

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