米欧から始まると見られていた金融破綻は、「公的」機関がマネーを大量に印刷し金融機関に注入する形で回避されました。その結果、ギリシアのバブル、EUのバブル、アメリカのバブルなど世界のさまざまなバブルが、より大きな世界的バブルに統合される形でふくらみ続けることになりました。やがて、ここに中国のバブルなども加わるようになるでしょう。
この新しいバブルによる景気の上昇がしばらく続いたあと、この世界最大のバブルはどういう形で収束されるのでしょうか。バブルというのは、結局真のニーズがないところに、思惑だけの架空のニーズがふくらんでいくことです。だから、その思惑がはずれたときにはいずれ破綻するものです。その破綻を回避するためには、より大きな新たなバブルを作るか、真のニーズを作るかしなければなりません。しかし、今回のバブルは、世界規模のバブルなので、これ以上新たなバブルを上乗せすることはできません。新たな真のニーズを、今、世界中が模索しているところなのです。
その第一は、世界のインフラ開発です。例えば、砂漠の緑化などの世界的な開発事業を行えば、それはバブルを真のニーズに転化することができます。しかし、その開発が終わったときにまたニーズの不在という同じ問題が繰り返されることと、世界規模の開発は国際的な利害がぶつかり合う可能性があるという理由から、必ずしも現実的で有効な対策とは言えません。
第二は、大戦争です。これは、物を破壊することですから、物を建設する以上に大きなニーズを生み出します。しかし、バブルのたびに戦争を起こしていたのでは、それは人間がいかに愚かかということを証明するにすぎません。また、すべての戦争は、国民どうしの対立ではなく、その戦争で利益を得る何者の都合で行われていることに多くの人が気づき始めている今日では、もう大規模な戦争は起こせなくなっています。
第三は、ハイパーインフレです。金融機関に注入された大量のペーパーマネーは、やがて市中の生活の中に溢れ出てきます。インフレは、資産を持つ者の犠牲によってバブルを収束させる方法です。これは、対策というよりも、対策がないことから引き起こされる結果ですが、今日の状況を見ると、これが最もあり得そうな結果です。しかし、この場合、生活に必要なマネーと、金融機関のバブルの救済のために使われるマネーは、何らかの形で区別されることによって、一般の国民の生活はそれほど極端な破局には見舞われないと考えられます。
世界規模のバブルが、今後どういう形で終息するかは、前例のないことなので誰にも確実な予測はできません。しかし、経済の基礎的な実力を考えると、日本が、資産の上では最も大きな損失を被りながら、バブル崩壊の被害から最も軽症で立ち直ることが予想されます。
問題は世界のバブルが終息したあと、人類の巨大な生産力に対応するニーズを今後どこに作り出していくかということです。軍事費という選択肢は、国家間の争いの背景がわかることによって、もうなくなっていくでしょう。社会保障費は、本当に必要なものだけに絞られ、不自然で過剰な福祉はなくなっていくでしょう。公共部門や利権部門に淀んでいたニーズは、そういうところに依存する空しさを多くの人が感じることによって次第に減少していくでしょう。途上国をこれから豊かにする消費財は、量的な大きさはあるものの、既にほぼ完成した工業生産技術によって、実はそれほど大きなものではなかったということに多くの人が気づくようになるでしょう。
新しい真のニーズは、世界的なバブルの崩壊からいち早く立ち直るはずの日本が提案していくと思います。それは、インフラも完成し物財もほぼ十分に行きわたった先進国日本で、新しく生まれる創造文化産業のニーズです。そこで生まれる新しい消費は、単なる消費のための消費ではなく、自らが創造し生産する側に回るための消費、つまり投資的消費です。しかも、その投資が、これまでの工業生産の投資のように飽和状態にならないのは、文化の創造がその生産を担う個人の個性によって無限に多様化する性格を持つからです。
このように考えてくると、これからの政治、経済、社会における歴史的大変動に対応するために必要なことは、個人個人が自分ひとりの力で社会に貢献できる何か(能力や技術)を育てていくことです。もちろんすぐにはそういうものは育ちません。だから、今大事なことは、自分が社会に貢献できる力を持つために必要な勉強をできるところから始めていくことなのです。
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しばらくほかの記事が続いてしまいましたが、教育は、人間の幸福、向上、創造、貢献と結びついているという話の続きです。
第三は、創造のための教育です。この創造のための教育が、教育の最も重要な柱になります。というのも、人間の人間たる所以はこの創造の中にあるからです。
ところが、創造については、二つの誤解があるように見えます。ひとつは、ただ成績がよいとか勉強ができるとかいうことに創造力があるという言葉をムード的に使う傾向があることです。もうひとつは、創造のようなものは本来教育として教えたり学ばせたりできるものではないという考えです。
これらの考えのいずれも、創造というものを正しく定義していないことから来る誤解です。創造とは、世の中にまだないものを作ること、そしてそれが他人にとっても価値あるものであることです。
世の中にまだないものというのは、創造の芽です。創造の芽は、根本的には人間の個性の中にあります。だから、人はだれでも個性があるという点で、本質的に創造的です。
しかし、個性がそのままで創造になるわけではありません。個性が価値ある創造になるためには、個性に磨きをかける時間が必要です。この時間をかけるということもまた、人間という身体的な存在にとって特徴的な本質です。
わかりやすく言えば、個性×時間=創造と考えることができますが、これはまだ創造の可能性です。実際に個性が価値ある創造になるためには、ふたつの要素が必要になります。ひとつは、個性を磨こうとする心構えです。その心構えを支えるものは、個性を尊重する社会の価値観です。
そして、もうひとつは、個性を磨く練習です。その個性を磨く練習のひとつが作文になるのです。
作文が、他の芸術活動である絵画や音楽に比べて優れているのは、特段の練習や器具の準備がなくてもほとんどの人が文章を書くことができるという点にあります。
また、これからの人類の創造には知的な側面がますます重要になってきます。学問がまだ進歩していなかった時代には、創造は感覚的や身体的なところだけでも十分に発揮することができました。しかし、これからの社会は、あらゆる分野に学問が発展していき、その知的な土台の上にすべての創造活動が行われるようになります。その点で、作文という知的な活動は、今後の創造教育の中心になるものなのです。。
ところで、言葉の森で子供たちに作文を書かせると、時々、「書くことがない」という子がいます。勉強は比較的よくできるのに、少し変わった題名や感想文になると、「書くことがない」とあきらめてしまう子です。この原因は、現代の勉強がまだ受け入れること中心になっていることにあります。現代のただ知識を吸収する勉強に適応しすぎた子は、成績はそれなりによくても、自分から新しく何かを作り出すということが苦手になってくるのです。創造は苦手だが再現は得意というのでは、人間ではなくロボットに近い教育を受けていると言っていいでしょう。知識の吸収はほどほどにして、その吸収した知識を前提として何を創造するかということを教育の柱にしていく必要があるのです。
創造する教育という点で、プログラミング教育も、創造教育のひとつの重要な教科になります。これからのコンピュータ教育は、ワードやエクセルやパワーポイントの使い方を勉強するようなものではなく、プログラミングの少数のルールから自分で個性的なプログラムを作り出すという喜びを伴うものにしていく必要があります。
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「日本と世界はこう激変する」(李白社)という本の中で、長谷川慶太郎さんが次のように書いています。
====引用ここから。====
(企業は大学新卒者を採用する際に、潜在能力の高い人を採用するという話の続きで)
その場合に潜在能力の高い人材を採用するには、新卒者のどのような能力をチェックすればいいのか。この点について日本企業の中でもとりわけ人材不足が叫ばれている金融機関を中心に注目しているのが国語能力です。
具体的には、きちんとした文章が書けるかどうかを入社試験で厳しくチェックします。そこに注目する最大の理由は、日本においては小中高を通じて国語に対する教育が不十分だからです。つまり、国語能力が不足しているから大学生の能力も下がっているという判断です。
入社を希望する大学生に作文の試験を行うと、立派な作文を書ける受験者はわずかで、ほとんどがいったい何が書かれているのかさっぱり分からないような作文を書く受験者ばかりだそうです。作文がろくに書けないようでは、いくら他の試験の成績が良くても不合格になります。逆にいえば、立派な作文が書ければどんな企業の入社試験にも受かるということでしょう。
====引用ここまで。====
知識を覚えることが中心の教科の成績は、あまりあてになりません。物知りであっても判断力のない人はたくさんいます。
作文力は、じっくり見れば、その人の潜在能力がはっきり表れます。だから、小手先の対策で作文の力を上げることはできません。それまでに読んだ本、考えたこと、書いた経験の総合力が作文という形で表れますから、文章はその人自身でもあるのです。
今の社会の風潮として、読書や作文などを気長にやるよりも、目の前にあるテストの成績をまず上げることだというものがあります。これが特にはっきり表れるのが、中学生のころの勉強です。定期的にあるテストのために塾に通い、少しでも点数を上げようとすると、読書や作文などは後回しになります。そして、後回しにした方が実際にテストの点数にはプラスになるのです。
ところが、そういう目先の点数中心の勉強をしている子は、本当の実力をどんどん低下させていきます。一方、読書の時間を確保しながら勉強している子は、その読書が特に成績のプラスになるわけではありませんが、確実に実力をつけていきます。そして、何年かたつと、読書の時間を確保していた子の方が理解力も思考力もついているので、いつの間にか成績も逆転してしまうのです。
中学生のころの子供のものの見方は近視眼的です。塾の先生は立場上、近視眼的な成績重視の勉強をさせざるを得ません。しかし、親は、将来の子供にとって何が重要なのかということを考えて判断していく必要があります。何でも塾にお任せで目先の成績だけを見ているようではいけないのです。
その点で感心するのは、言葉の森で受講している生徒の保護者です。時々保護者と話をする機会がありますが、自分なりの考えを持っている人がとても多いのです。自分で判断することには不安ももちろんありますし、試行錯誤もあるでしょう。しかし、これからの世の中は、この自分で判断するということがますます重要になってくると思います。
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小学校低学年では、学校で日記の宿題が出ることがあります。毎日書くことによって文章を書きなれることと、日常生活の中から書く価値のあるものを見つけてくることが練習の目的です。
しかし、子供によっては、「書くことがない」と悩んでなかなか書き出せないこともあります。確かに、毎日の生活はそれほど変化のあるものではありません。いつも同じように学校に行き、同じように勉強したり遊んだりして家に帰ってくるのですから、書くことがないという気持ちになるのはやむを得ない面もあります。
ここで大事になるのが、何をどう書くかという目標です。
言葉の森では、作文を書くときに、子供たちにいろいろな目標を指示します。例えば、「書き出しを工夫する」「中心を決める」「お母さんやお父さんの似た話を聞いてくる」「会話を思い出す」「たとえを入れて書く」などです。
学校の日記の宿題をするときも、こういう目標が役に立ちます。子供たちが作文を書くときにいちばんの助けになるのが、「会話を入れる」という目標です。会話を入れて書こうとすると、自然にその出来事を描写的に書くようになります。作文が長く書けてしかも内容が面白くなるのは、出来事を具体的に描写するからです。説明や感想だけで書いてしまうと、長くも書けませんし、内容もいつも同じようなものになってしまいます。
例えば、「今日もサッカーをして遊んだ」「昨日もサッカーをして遊んだ」という説明だけでは、いつも同じことしか書けません。しかし、そこに会話を入れると変化が出てきます。「けんちゃんが、『なんでパスしないんだよ』と言いました」とか、「じろうくんが、『ナイスシュート』と言いました」など、そのときの場面を具体的に書くようになると毎回違ったことが書けるようになるのです。
会話と並んで、日記を個性的にするのは、たとえ(比喩)です。たとえを入れて書こうとすると、作文の中にその子らしい見方が出てきます。しかし、読書量の少ない子は、個性的なたとえがなかなか出てきません。ありきたりのパターン化されたたとえを書いて済ませてしまうこともあります。そのときは、家庭でお父さんやお母さんが、一緒にたとえを考えてあげるといいのです。身の回りのものを見ながら、「おなべがことこと何かつぶやいているみたいだね」とか、「今日は風がないから、鯉のぼりが干物みたいになっちゃったね」などと話すと、たとえを見つける練習ができます。
たとえよりも見つけやすいのがダジャレです。身の回りのものからダジャレで表せるものを見つける練習をすると、たとえと同じように言葉の感覚が磨かれてきます。
日記を書く練習の主な目的は、書きなれることで、頭で考えたことがスムーズに手につながるようにする練習です。そして、考えたことがそのまま自然に書けるようになったら、今度は考えることそのものを豊かにしていくことが大事な練習になります。その練習法は、本を読むことです。日記の練習は読書の練習と結びつけて行うことによって本当の力がついてくるのです。
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ありがとうございました。
息子の10分間作文に少し助言してやろうと思います。
10分間作文は、続けていると飽きてくると思いますから、田舎のおじいちゃんやおばあちゃんに手紙を出すような形で続けていくといいと思います。
大変、参考になりました。作文って、「自由に書いていい」と言われると、それがかえって窮屈になったりしますよね。そこに、「会話を入れる」、「たとえを入れる」といった制限がかかることで、逆に書きやすくなることがあると思います。
思考ラーさん、こんにちは。
今の作文指導の多くは事前に制限をせずに自由に書かせるから、事後に赤ペンをたくさん入れるようになっているのだと思います。
日記は毎日かかさず書いてまーす
ミッキーちゃんのニッキだねー。( ^o^)ノ
どうやって書けばいいか分かりません
よくわかりました。
参考になりました!!
大変分かりやすいです!
こんにちはミッキーさんは日記を毎日かかさずかいているなんてすごいです
できれば日記の書き方を教えてください。
日記はその日にあったことを書くと考えるよりも、その日の会話を書くとか、その日のたとえを書くとか、又はダジャレを書くとかすると面白い。
文章を書くのが好きな四年生の長男が日記を書くと言い出し、何かプラスのさりげないアドバイスができたらな、と思いたどり着きました。よとても参考になりました。文章がとても苦手な二年生の次男にも声をかけてあげられそうです♪
大事なのは、書くことを負担に思わせずたのしい勉強と思わせることです。いつもいいところだけ褒めてやっていくといいと思います。
私は、小学校5年生で出される宿題の中で、嫌いというわけではありませんが、5w1hという言葉を思い出しました。これからは、このアドバイスを参考にし日記を書いていきたいなと思います。
凄いです
参考になりましたぁ
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低学年で、作文を驚くほど長く書く子がいます。これは、長く書くことがうれしいからです。
小学校1年生のころは、まだ手と目と頭がうまく連動していません。そのため、作文を書くといっても、2、3行がせいぜいという状態が続きます。
しかし、だんだんと頭で考えたことがそのままスムーズに手に伝わるようになると、その力を使うことが楽しくなってくるのです。
そのため、小学校2年生ぐらいの子は、長く書くことに燃えます。学校などで一斉に作文を書く機会があると、字数の競争のようになり、「○○ちゃんは、○枚も書いたからすごい」という評価をするようになります。
伸びつつある能力を使うのは楽しいので、小学校2年生のころは、2000字も3000字も書く子が出てくるのです。
しかし、この長い字数はそのうち収まります。小学校3年生になると、言葉の森の作文は題名課題や感想文課題になります。
すると、ただ長く書くだけでなく、構成を考え、題材を考え、表現を考える必要が出てきます。それまでの作文が朝起きてから寝るまでの一本調子の作文だったとすると、今度は、今日の話を書いたあとに去年の話を思い出したり、お母さんやお父さんに聞いた話を盛り込んだり、構成が複雑さを増していきます。すると、自然と長く書くことよりも、まとまりのあるいい表現の作文を書くことに関心が向いてくるのです。
小学校3、4年生のころは、面白い表現や題材を書くことに関心が向く時期です。面白さが第一で字数は第二という関係になってきます。
運動の場合も、感覚を身につける時期、筋力を身につける時期、持久力を身につける時期と年齢によって重点が変わるように、作文も、学年によって少しずつ重点が変わってきます。
言葉の森がそういう学年別の重点を考えた指導をしているのは、高3の大学入試小論文まで指導する展望があるからです。
世間で行われている作文通信講座の多くは、小6の中学入試作文までが目標です。言葉の森は、中学入試はもちろん、高校入試、大学入試の作文小露文まで指導しています。
だから、小学生の作文を見る場合でも、小学生の作文として上手かどうかということよりも、将来、中学生や高校生になったときに上手に書く力がついているかを見ることができます。
例えば、小学生の作文は、一般に女の子の方が男の子よりも、上手に書きます。それは、女の子が、会話やたとえや心の動きなど、描写的なところに関心を持って作文を書くからです。
それに対して男の子は、数字や名前や事実の経過など、説明的なことに関心を持って作文を書きます。どこかに出かけたときの作文でも、何時何分の何という名前の電車に乗って、どこの駅に着いたというようなことを一生懸命書くのです。こういう作文は、小学生の作文としてはいい評価は得られません。しかし、将来その子が中学生や高校生になり、説明文や意見文を書くようになると、そこにこういう説明的な力が生きてくるのです。
高校3年生になって優れた文章を書き、学力もあり、東大、一橋大、早稲田大、慶応大、上智大などの難関大学に合格するような子たちが小学生のころにどういう作文を書いていたかというと、意外にもみんな普通の作文しか書いていないのです。共通しているのは、真面目にしっかり書いているということで、特に上手な作文を書いていたわけではありません。
しかし、与えられた課題で、構成や題材や表現や主題を考えながら書くことによって学年が上がるにつれて上手な文章を書くようになっていったのです。
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