「褒める子育て」と「高い学力」に相関関係はありますが、それは単純な因果関係ではありません。むしろ、短期間で言えば、「叱る子育て」の方が学力の伸びは高い傾向があります。
しかし、「叱る子育て」を基本にしていると、勉強はだんだん暗い雰囲気になってきます。
競争も同じです。競争のない状態よりも競争のある状態の方が、学力の伸びは高くなります。しかし、競争を基本にしていると、物事や人間に対する視野が狭くなるのです。
だから、「褒める子育て」は、経済学として考えるのではなく、人間の生き方や社会のあり方として考える必要があります。
江戸時代の教育は、叱ることや競争を煽ることを極力避けて、子供の本来の自然を伸ばすような教育でした。しかし、それで学力が低下していたかというとそういうことはなく、当時の世界最高水準の教育が実現していたのです。
子育ては、学力の面だけで考えるのではなく、人間の成熟という面で考える必要があります。
大人でも、不満や愚痴をよく言い、世の中を批判し、機嫌のいいときよりも悪いときの方が多いような人は未熟な人です。そういう大人に「叱る教育」をされて学力が伸びたとしても、その子が望ましい成長をしているとは言えないでしょう。
教育に関する客観的な調査や研究は、もっと進められる必要があります。しかし、同時にその客観的なデータの向こう側を見る人間観を持つことは、もっと大事なことなのです。
子供たちは、生き物が大好きです。言葉の森の港南台教室には、犬が1匹と鳥が4羽いて、最近はメダカもいます。教室の階段を登ってくるところには、スズメがいつも飛んでいます。教室の外にある電気メータの中に巣を作っているのです。
こういう生き物を見ると、子供たちはすぐさわりたがります。犬や鳥は迷惑そうにしていますが、子供たちは生き物が大好きです。
さまざまな動物と人間との交流が描かれている「ソロモンの指輪」という本には、動物と一緒の生活をしたことのない人には人生の喜びの半分が隠されている、というようなことが書かれています。犬や猫や鳥を飼っている人には、こういう言葉は実感を持って感じられると思います。
この動物と接する喜びの感情というのは、人生の初期に形成される気がします。
私(森川林)の場合は、物心ついたときから、家には犬とチャボとアヒルがいました。それらの動物が家族と同じような感じで暮らしていました。
また、昔は野良犬がよくいたので、小学生のころは、近所の友達と一緒に近くの野原で野良犬を半分飼っていました。飼うといっても、野原で一緒に遊びときどき餌をやるという程度でしたが。
中学生になると、親に頼んでジュウシマツを2羽買ってもらい、生まれた雛を何羽も手乗りにして遊んでいました。
そういう小動物が近くにいると、それだけで何となく幸せな気持ちになるのでした。
そこで、自分の子供が生まれたときにも、できるだけ早く動物を飼おうと思いました。
幸いというか何というか、子供が小学校に上がる前のころ、近所の公園から野良猫を1匹連れてきました。そのうち、その野良猫が家に居つくようになり、やがて子猫が何匹も産まれました。
同じころ、ゴールデンリトリバーの子犬を飼うようになり、猫と犬と人が共存する不思議な暮らしになりました。ゴールデンリトリバーは温和な性格で躾もよくできたので、海や山に遊びに行くときもいつも一緒に連れていきました。海では子供たちと一緒に泳ぎ、山ではテントで一緒に寝るという生活が、ちょうど子供たちの成長に合わせて十数年続きました。
人間になつく動物というのは、一緒にいるだけで幸福な気持ちになれます。
今ふりかえると、自分が子供にしてあげた中でいちばんのプレゼントは、この犬を飼ってやったことではないかと思うのです。
※現在の住宅環境では、犬を飼える家は少ないと思います。そういう家では、文鳥やオカメインコなどを手乗りにして飼うといいと思います。(ただし、オカメインコはコードをかじったり、パソコンのキーボードをはずしたりします。)
日本の教育は、諸外国と比べれば総体ではうまく行っていると思います。しかし、教育の本来の理想から見れば、不十分なところが数多くあります。
第一は、受験のための枝葉の知識の詰め込みに追われ、真に実力をつける教育になっていないことです。
第二は、学校や塾という外部の機関に依存し、家庭や地域に根ざした教育になっていないことです。
第三は、点数化されるものだけを重視し、文化を伝える教育になっていないことです。
第四は、競争に勝つことが目標になり、独立と創造を目標にした教育になっていないことです。
これらを克服する新しい教育方法として言葉の森が提案するのが寺子屋オンエアです。
これは、インターネットを利用して子供が家庭で自由な時間に勉強し、それを講師がリアルタイムでトータルに見守り必要なアドバイスをするという教育方法です。
リアルタイムでというのは、子供が勉強している間、常に実際の先生が近くにいるということです。
現在のネット教育の多くは、子供の勉強の結果を機械が処理するだけで、人間の先生はネットの向こう側にいます。
だから、子供の興味をひくいろいろな工夫がなされているように見えても、それで意欲を持続できる子は少ないのです。
トータルにというのは、子供が勉強している様子が、そのまま先生には手に取るようにわかるということです。
通常の通信教育では、先生には勉強の結果が伝わるだけで、その子がどのような状況で勉強したかまではわかりません。
勉強の結果と同時にその過程も見られるので、勉強だけでなく、勉強の仕方や、勉強以前の生活の工夫のようなこともアドバイスすることができるのです。
更に大事なことは、寺子屋オンエアは、家庭での自学自習を勉強の基本としていることです。
今の子供たちは、学校でも塾でも人に教わることに慣れています。しかし、教わっている間は本当の実力はつきません。
教わったあと、自分なりにその勉強を身につける学習をすることによって初めて実力がつきます。
勉強の基本は自学自習で、手取り足取り教えてもらうのではなく、わからないときだけ質問できる人がいれば、それが最もよい勉強環境なのです。
この寺子屋オンエアの講師になるためには、どのような能力が必要でしょうか。
第一は、バランスが取れていること、明るく前向きなこと、どのような子供に対してもそのよい面を引き出そうとする姿勢を持っていることです。
第二は、学力です。しかし、社会人になってからも、子供と同じような全教科の勉強のレベルを維持している必要はありません。必要があればできるということでいいのです。
学力のいちばんの基礎は、国語の読解力です。センター試験の現代文でコンスタントに8割取れる力があれば、小中学生の英数理社は必要に応じてできると考えてよいのです。
第三は、新しいことに対する適応力です。寺子屋オンエアは、パソコンとインターネットを使うために、新しい技能を習得する場面が数多くあります。
しかし、パソコンやインターネットにあらかじめ詳しい知識や技術を持っている必要はありません。適応力と読解力さえあれば、努力次第で誰でもできるようになるからです。
日本の教育は、家庭から変えていく必要があります。
家庭での学習さえできていれば、学校はその結果をときどきチェックするぐらいでも十分なのです。
しかし、家庭学習を親と子だけで進めようとすると、途中で必ずと言っていいほど行き詰まることが出てきます。それは、親自身が子供に勉強を教える方法を試行錯誤で進めなければならないからです。
だから、寺子屋オンエアで客観的な教育方法のフォローを受けながら、親と先生が二人三脚で子供の教育にあたるというやり方が最も理想的なのです。
寺子屋オンエアの講師は、一般的には、既に子育てを終えた年配の人が理想です。もちろん若くて情熱のある人も、そのよさを生かせばよい教育ができます。
しかし、講師には、ただ勉強ができるだけでなく、社会生活の経験の豊富な人の方が向いています。社会的な経験のある人は、勉強の面だけでなく生活面や文化面でも自然に子供に大事なことを伝えることができるからです。
言葉の森が考えている日本の教育改革のイメージは、全国の子育てを終えた高齢者が、自分の社会生活の経験を生かして、全国の子供たちの家庭学習をインターネットを通じて自宅で毎日見て上げられるようになることです。
インターネットを利用した教育ですから、遠方の子でも海外の子でも、どの時間帯でも、毎日勉強を見ることができます。
また、勉強だけでなく、ネットを利用した子供たちの交流もできますし、時には集合場所を決めて実際に集まって交流することもできます。
言葉の森は、こういう新しいバランスの取れた自然な教育を、低価格で日本中に広げていきたいと思っています。
寺子屋ってのは、江戸時代の諸藩が、次の時代の藩政を担う人材を育てることを目的に、一堂に会して切磋琢磨させることが原点だとしたら、この企画は、なんか得心に至らないです。
発案者の方には、批判的で申し訳ありませんが、わたしの率直な感想です。すみません。