小学1年生のころの子供の能力はぐんぐん伸びます。
だから、なにか習い事をさせれば、すぐにそれができるようになります。それは、勉強でも運動でも同じです。
しかし、勉強面での先取りは実はあまり意味がありません。それは、学年が上がれば、誰でも同じようにできるようになることだからです。
知識的なことは、先に学んでも、後から学んでも、行き着くところは同じです。
それよりもむしろ、後から学べば短期間でわかることを、先取りするためにわざわざ時間をかけなければならないということも多いのです。
早めにやることに意味があるのは、主に運動面と音楽面です。
これは、運動と音楽の感覚は、知識ではなく身体の一部として身につくからです。
運動と音楽以外に大事なことは、日本語の運用能力です。
これは、日常生活の中でどの子もそれなりに行っていることなので、運動や音楽のようにははっきりとした差があることがわかりません。
また、勉強面ではできたかできないかということがすぐにわかりますが、日本語の運用能力がどの程度あるかということは、表面にはなかなか出てきません。
しかし、この日本語運用能力の差は、表面にはあまり出ない分、実はかなり大きなもので、その差は学年が上がるにつれて広がります。
では、この日本語運用能力はどのようにして身につけたらいいのでしょうか。
それは、国語の問題集を解くようなやり方では決して身につきません。
日常生活の中での読書、対話、暗唱、作文という知的な日本語を使う機会を増やす中で自然に身についていくものなのです。
この日本語運用能力が育っている子は、国語の勉強など全くしなくても国語の成績はよくなります。(国語力のある子は、一般に国語の勉強などはしていません。)
また、国語以外の他の教科の勉強も、学校の授業を聞いているだけですべて理解できます。
わざわざ勉強らしいことをしなくても、勉強はごく普通にできるようになるのです。
この日本語運用能力を育てる方法として、言葉の森がおすすめするのは、親子作文という勉強法です。
これは、勉強というよりも、親子で共通の体験や実験をし、親子で楽しく対話をし、親子で一緒に作文を書くという半分遊びのような勉強です。
この勉強法のいいところは、単に知的なことを学ぶだけでなく、親の生き方やものの考え方も自然に学べるというところです。
親子で実際に共通の体験をするのですから、予定どおりうまく行くことはむしろ少なく、予定外のことが起こったり、失敗したり、成功をしたり、発見をしたり、発明をしたりということが普通に起こります。
そのときの親の対処の仕方から、子供は人生のさまざまな知恵を学んでいくのです。
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学力の基本は日本語力です。
その日本語力の基本は読書です。
しかし、読書を中心としてやっていけるのは、子供の年齢がある程度上がってからです。
子供が小さいころの日本語力は、読書よりもむしろ親子の対話と作文で日本語力を育てていくのです。
子供が小さいころは、親はなるべく手間をかけたくないと思いがちです。
しかし、手間がかかるのは過ぎ去ってみれば、ほんのわずかの期間です。
そのわずかな期間の手間が、子供のその後の学力やものの考え方や生き方の土台になっていくのです。
だから、むしろ楽しく手間をかける方法を見つけていくことです。
そのひとつが日曜日などに親子で取り組む親子作文です。
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物事には良いも悪いもなく、ただ事実が淡々と生起するだけです。
それをとらえる人間の側に、その事実を良いものの流れとして見るか、悪いものの流れとして見るかの違いがあるのです。
人生は明るい昼で、時とき暗い夜があるが、それは明日の明るい昼のための準備に過ぎないと考える人もいれば、人生は夜で、時どき明るい昼が来るが、またすぐ夜になってしまうと考える人もいます。
これを単なるものの考え方としてだけとらえることはできません。
量子の世界では、人間の意識が事実に影響するということが明らかになっています。
それはもちろんごく微小な存在のレベルでそうだということですが、世の中の動きのほんの一瞬のことに関して言えば、その一瞬の時間の向きを変えるのも人間の意識だと思います。
物事には良い面も悪い面もありますが、良い面の方に目を向ければ良い面が次第に主要なリズムになり、悪い面に目を向ければ悪い面が主要なリズムになります。
よく子供たちでじゃんけんをすると、「じゃんけん弱いんだよなあ」と言う子もいれば、「じゃんけんなら勝てそうだ」と言う子もいます。
そういう考え方のちょっとした差が、次第にその子の人生のトーンを決めていくのです。
ただし、人間は本来生きていること自体が、たくましく生きているということですから、どんなに弱気な子でも成長の過程でさまざまな困難に出会いそれを乗り越えていくと、次第に自分の力というものに自信がついてきます。
しかし、そういう苦労をする前の準備段階として、親は子供にはできるだけ物事の明るい面を着目していくといいと教えておくといいのです。
現在のニュースメディアは、暗い話を好んで流します。
先日、キャンプに行ったときの子供たちの車中での会話を聞いていると、そういうマイナスのニュースの影響がきわめて大きいと感じました。
事故とか犯罪とか災害とか、そういう話題がひっきりなしに出てくるのです。
親は、くだらないニュースなどは子供に見せずに(笑)、親子で知的で前向きな話をするような時間を大切にしていくといいと思います。
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人間には誰でも欠点がありますが、その欠点を直そうとすると、欠点がますます重要なものに思えてきます。欠点を直せばすべてうまくいくような気がしてくるのです。
ところが、もし万一その欠点を直せたとしても、次の欠点が出てくるのが普通です。
それよりも、今ある長所を伸ばしていけば、ほとんどの欠点はかえって人間味のあるエピソードぐらいになってくるのです。
こういう肯定的な人生観を教えてくれるのが、いちばん身近にいる両親です。
動物たちはみんな前向きです。
飼っている犬や鳥たちを見ていると、彼らは、過去をふりかえったり、未来に恐れをいだいたり、自分の欠点を直そうとしたり、本当にしたいことがわからないなどと言ったりは、決してしません。みんな現在を充実して生きています。
人間ももともとはそうなのです。ただそれだけでは際限なくだらしなくなる可能性があるから、少しだけ考える必要があるというだけなのです。
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言葉の森の作文指導は、親子の対話を重視しています。特に小学生のうちはそうです。
子供の語彙力、思考力は、国語の問題集によってではなく、親といろいろな話をすることによって育つからです。
語彙力と思考力のある子は、どの教科の勉強もできるようになります。
だから、わざわざバランスよく、国語、算数、理科、社会などの勉強を家庭でする必要はありません。いろいろな教科の勉強は、学校でしているだけで十分です。
家庭の学習では、国語的なこと最重点にしてやっていく必要があります。その国語的なことが、読書、作文、対話、暗唱です。
小3から小6の生徒には、作文の準備をするための予習シートを渡していますが、それは、作文のテーマについて、お父さんお母さんに取材をするためというのが大きな目的です。
この取材の中で、語彙力、思考力が育ちます。
本を読むには、目から入る読解力が必要ですが、人の話を聞くには耳から入る読解力が必要です。そして、この両者の読解力は共通しています。その共通しているところが思考力です。
小2までの生徒は、自由な題名の課題なので、予習シートで親に取材するという形は取れませんが、そのかわりに実行課題集を渡しています。
これは、季節の行事や遊びを家庭で企画することを通して、やはり親子の対話を盛んにするためです。
予習シートも、実行課題集も、作文を書くことを前提にしていますから、対話の内容も自然に知的、論理的なものになります。「楽しくてよかったね」という話で終わらずに、「どうしてだろうね」と考えるような方向に話が進むのです。
この親子の対話で大事なことは、真面目さよりも楽しさを優先させることです。
対話の目的が、作文を書くことに結びついているので、対話は自然に真面目な方向に向かいますが、ここで親があまりにきちんと勉強的な位置づけで話をすると、子供はそれを息苦しく感じるようになります。
真面目にやりすぎることのいちばんのマイナスは、親子ともにくたびれて、長続きしなくなることです。
国語的な勉強は、読書も作文も含めてすべて長期戦ですから、何しろ長続きさせることが大事です。その長続きのコツは、楽しさを優先させて、面白おかしく、力を抜いて行うことです。
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苦しいことは長続きしません。
どのような習い事でも、成果を上げるためには、長続きさせることが大事です。
その長続きさせるコツが、楽しく肩の力を抜いて続けることです。
ところが、小学1、2年生のころの子供は、親の言うことは何でも素直に聞くので、親が真面目にやりすぎても、それについていってしまうのです。
しかし、その真面目さは無理があるので、いずれ行き詰まります。
だから、子供が小さいときほど、親は楽しさを優先させて接することが大事なのです。
「親子の対話を楽しさを優先させて」と反対のことのようですが、親子の対話は知的であることが大事です。
子供が子供のレベルで感じたまま言ったことを、親は更に知的に高いレベルで、しかし楽しく話してあげる必要があります。
そのためには、親自身がものごとを知的に考える習慣を持っていることが大切です。
子供に何か聞かれたとき、「ない」とか、「わからない」とか、「自分で調べなさい」とか言わずに、必ず何か中身のあることを話してあげる必要があるのです。
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中学入試の受験作文は、当初は身近な説明文が中心でした。
今でも、帰国子女枠の作文試験では「海外生活の思い出」のような身近な課題が中心になっています。
これは、基本的な文章表現力を見るための試験という位置づけだからです。
しかし、このような身近な説明文は、ある程度準備をして臨めば誰でも一定の水準までの作文が書けるようになります。
本当はそれでいいのですが、作文試験の目的は差をつけて選抜することにあるので、点数がバラけるような問題作りをしなければならなくなります。
そのために、次第に増えてきたのが、複数の文書を、それもかなり長い文章を読んで、それに対する設問を解き、作文を書くというスタイルの試験問題です。
こういう傾向の受験作文に対しては、通常の対策以外に、速く読み取り、速く書き上げるという字数とスピードが要求されるようになります。
こういう作文試験は、邪道だとは思いますが、実際にそのような試験問題が増えているのであれば、とりあえず対策をしなければなりません。
その対策は何かと言うと、第一に作文試験の課題として出るよ文章を読み慣れることです。
中学入試の作文試験の課題は、学問の分野、生き方の分野、言葉の分野、日本文化の分野、学校生活の分野など、だいたい範囲が決まっています。
ですから、ある程度の量を読んでいくと、最初の数行を見ただけでどういう内容が書かれているか見当をつけることができるようになります。
課題文の分野に慣れて読むスピードをあげる、というのが第一の対策です。
第二の対策は、書くスピードを上げるということです。
これは、その場で考えて書いていたのでは時間的に間に合わなくなることが多いので、既に自分が書いた十数本の作文の中から当てはまりそうな実例や表現や意見を思い出し、それらを当てはめながら書くという形になります。
いずれの対策も、練習をすれば必ずできるようになりますが、やは時間がかかります。
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そろそろ受験作文の季節です。
作文の実力というのは、なかなか上がりません。
しかし、受験は実力の問題ではなく、勝負の問題です。
今ある実力で、いかに合格する作文を書くかというのが目標になります。
そのコツは、10種類のテーマを決めて、そのテーマごとに傑作を1本ずつ書いて、そのテーマならいつでも楽に書けるようにしておくことです。
受験作文で、予想もしなかった問題が出たらどうするかというと、そのときこそ構成を意識して書く書き方が効果を発揮するのです。
「○○は二つある。第一は……。第二は……」というような書き方をすれば、難しいテーマでもそれなりに形を整えて論じることができます。
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塩谷信男さんは、次のようなことを言っています。
宇宙は、地球の自転や公転も含めて完璧な秩序の中で動いている。だから、人生も本当は完璧であるはずで、それは人間以外のあらゆる生命も含めて、完全な平和と幸福の中に本当は生きられるはずなのだということです。
私たちはつい目先のことに追われ、暑いとか寒いとか忙しいとかいうことばかりをよく言っています。そして、とりあえず、今日か明日、もう少し長くて今年か来年うまく行けばよいという考えになりがちです。
しかし、本当は、自分以外のあらゆる人間や生物も含めて、完璧な秩序と幸福の中で生きることのできる世の中を目指すべきなのです。少なくとも、その役割を持っているのが人間だと思うことなのです。
その塩谷さんの言っていたことに、「愚痴をこぼさない」ということがありました。
私は、最初この言葉を見て、「ふうん、そうだろうなあ」と思っただけでしたが、実はここに重要な意味があるのではないかということがわかりました。
話は変わりますが、松久正さんという人がいます。松果体のことを書いている人ですが、この人が次のようなことを言っていました。
それは、自分に起きたことは、それがどんなことであっても、自分が選んだことで、それがよかったことなのだと思うということです。
また、話は変わりますが、日月神示という本に次のような一説があります。
「今の自分の環境がどんなであろうと、それは事実であるぞ。境遇に不足申すなよ。現在を足場として境遇を美化し、善化してすすめ。」
私たちは、よく失敗をしたり、間違いをしたりします。又は、ほかの人からそういうことをされることもあります。また、偶然の事故や災難に巻き込まれることもあります。うっかりつまずいて転ぶとか、水の入ったコップをひっくり返すなどということは日常茶飯事です。また、朝起きたら雨が降っていたとか、乗ろうとした電車に間に合わなかったなどということもよくあります。
しかし、そういう自分にとって嫌なことだと思うことすべてを、自分が選んだことであり、それがよかったことだと思い直すのです。
小さな理屈の世界では、嫌なことは嫌なことで、それはない方がよかったことなのですが、いったん起きてしまったことに、それがない方がよかったと言っても、ものごとは何も変わりません。
その境遇を美化し、善化して進むという姿勢が大事なのです。
大きな目で見れば、人間はひとつの大きな存在のようなものです。
自分と相手がいるのではなく、自分も相手も同じひとつの存在の一部です。
自分が得して相手が損したとか、逆に自分が損して相手が得したとかいうことはなく、同じ一つの損得を自分と相手で分かち合っているということです。
そのように思うことによって何が変わるかというと、その境遇を卒業するのです。
嫌なことを嫌なことだと思い続けていれば、それはその嫌なことを卒業できていないことですから、同じような嫌なことにまた形を変えて挑戦しなければなりません。
嫌なことをよかったことだと思うことによって、その嫌なことを卒業し、今度はもっと先にあるより大きな創造に挑戦するようになるのです。
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昔の男の子は、野良猫を見れば必ずと言っていいほど石をぶつけました。団塊の世代の男の子たちです(笑)。
今は、そんなことをする子は、誰ひとりいません。
人間の意識は、年々変化していて、最近その変化がよりよい方向に加速している気がします。
加速しているから反対回りの渦もできることがあるのですが、大きな流れで見れば、その反対回りの渦も含めてよい方向に進んでいるのだと思います。
嫌なことを人にされたときの意識の切り替えは、すべてをよかったことだと思うことです。
嫌なことを人にしてしまったときの意識の切り替えも、基本は同じです。
そして、それを卒業して、新しい創造に挑戦するのです。
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