現在、私たちの周囲には、文字情報が溢れています。しかし、
このような文字情報社会は、決して昔からあったものではなく、やはり歴史的に形成されてきたものです。
過去には、例えばはるか昔の叙事詩の時代には、まだ文字だけではなく言語も未発達な時期がありました。このころに、大規模な集団が複雑な集団活動を行う場合の意思疎通は、文字はもとより、言語よりも、イメージによって行われていたのではないかという説があります。
未来もまた、現在の文字情報社会のスタイルとは大きく異なった様相になることが予想されます。
現代は情報を主に文字によって表す時代です。文字情報は、読む際には逐語的な理解の仕方が中心になります。また書くときも同様に、逐語的に書き表すという方法が中心になります。
情報量の少ない時代には、そのような逐語的な読みの方法でも十分に間に合いました。葦編三絶という言葉があるように、同じものを何度も繰り返して読むだけの余裕があったのです。
また、書くことに関しても、推敲という言葉に見られるように、一つ文章を何度も言葉を入れ替えて書き直すだけの余裕がありました。
未来の社会では、現在よりもはるかに大量の情報を読み書くことが要求されるようになってきます。
今までの読書や作文の仕方では大量の情報に追いつけなくなっていくことが考えられるのです。
大量の情報に囲まれた時代に必要な読書や作文は逐語的な方法ではなく、全体を一括して丸ごと把握するような読み方や書き方のようなものになってくると思われます。
全体を把握する読み方を学ぶ方法の一つとして、音読から暗唱へという学習の変化が考えられます。音読は、逐語的に十数文字を目で追いながら、頭で理解し、口に出し、そのつど理解を済ませながら先に進むという読み方です。
この音読の方法が江戸時代の寺子屋教育でなぜ行われていたかというと、難しい言葉、例えば子供が四書五経などに出てくるような言葉を理解するためには、黙読よりも音読の方が言葉として認識しやすかったからだと考えられます。既知の言葉は黙読でも理解できますが、未知の言葉は発声を伴わないと理解しにくいからです。
江戸時代の教育は、この音読(素読)を繰り返すことによって行われました。その結果として、文章を暗唱できるまでになった子もいたと思われますが、当時はもともと読む書物の量が少なかったので、暗唱という方法はそれ以上深く追求されませんでした。
暗唱は、暗唱した文章を丸ごと一括して一目で把握するような読み方に繋がります。これからはこの暗唱教育を進めて、一読ですべてを理解するというような読み方が学ばれるようになってくると思います。
現在、記憶術という方法で大量の情報を短時間で記憶するという勉強の仕方が流行しています。この記憶術は、使い方によっては逐語的な記憶の仕方になってしまいます。暗唱とは丸ごと全体を把握することですから、逐語的な記憶術に頼ることは暗唱の本来の目的とずれる学習になる可能性があります。
全体を一括して読むという点で、もう一つは付箋読書という方法が考えられます。付箋読書とは、まず、フォトリーディングのような考え方で、一目で全体を眺めて必要な情報を取り入れるというような読み方をします。次に、付箋をつけながら読んだ箇所を再度読み直すことによって全体を把握するという読み方をしていきます。
このような読み方で大量の情報を処理しながら、じっくり読むものは昔ながらの逐語的な読み方で読むというような使い分けがこれから行われていくと思います。
書き方についても、逐語的に書く従来の方法ではなく、全体を一括して書くという書き方が開発されています。それは、書きながら考える従来の書き方とは違い、構成図によってあらかじめ十分考えてから書くという書き方です。また、構成図で全体を把握したあとに書く方法は、手書きでもパソコン入力でもなく、音声入力で一挙に書き上げるという方法になってくると思われます。
読書や作文は、ほかの文化と同じように歴史的な存在です。未来の大きな方向を見ながら学習を進めていく必要があると思います。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。作文教育(134) 教育論文化論(255)
↑ 夏の青空とケヤキの木
これまでの教育は、知識を覚えることが中心でした。
しかし、これからの教育技術の発達によって、ものごとを丸ごと把握する力を多くの人が身につけられるようになると、知識力の差は次第に小さなものになっていくでしょう。
その後の時代に重要になるのが、人格力、創造力、表現力などです。これらは、読む練習と書く練習によって身についていきます。しかし、
読み書きの力と同じぐらい重要なものがもう一つあります。それは遊ぶ力です。
ルソーは、自分が子供のころに本を読みすぎたことが、自分の性格をアンバランスなものにしたと考えていました。その反省から、子供を自然に育てることを重視した教育論を主張しました。
ルソーの反省は、現代にもあてはまります。子供のころに読む練習に力を入れすぎると、バランスのよい発達ができなくなることがあります。特に現代は、遊び自体が見る遊びになりがちです。テレビ、漫画、ゲーム、インターネットなど、見るだけで体をあまり使わない環境に置かれていると、
勉強も読むことが中心で、遊びも見ることが中心になるという偏った生活になります。
遊びの重要な要素は、手足など体を使って、現実や他の人間と交流することです。この交流によって、読みすぎや見すぎから来るアンバランスを回復していくのです。
江戸時代の寺子屋の光景を見ると、勉強よりも遊んでいる子の方がずっと多い場面がかなりあります。この勉強と遊びを共存させる仕組みによって、江戸時代は当時の世界最高の識字率を誇りながら、人間的にバランスのとれた教育を行っていたのです。そういうことが可能だったのは、当時の勉強が、筆者や素読の反復という型を模倣することが中心だったからです。
読み書きの反復学習と遊びの共存という学習の仕方は、夏休みなどの家庭学習について、大きな示唆を与えてくれます。
今は、塾に行って授業を聞き問題を解いてくるというような勉強をする人が多いと思いますが、そのようなことに時間を使うよりも、
気の合った友達数人で遊びながら、音読や暗唱や筆写の反復学習をすれば、手間もかからず、楽しく実力のつく勉強ができます。
たぶん、将来はそういう寺子屋的な家庭学習をするところが増えてくると思います。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育論文化論(255) 子育て(117)
↑ 夜明け前の東の空
未来の社会で、これから求められる学力を考えてみました。
これまでの社会では、限られた入学定員と固定的な社会の階層構造の二つの条件から、知識力を中心とした入学試験が行われていました。その試験に合格すれば、よりよいパスポートが手に入るというような社会の仕組みになっていました。
しかし、本当は、人間の知識力に点数で差がつくような違いがあること自体がおかしいのです。学校の成績が5段階評価などで分けられるということに、多くの人は慣れて当然のように考えていますが、
本来は、ほとんどすべての子供が全教科満点になるような教育をするべきなのです。そして現在、教育技術の発達によって、人間どうしの知識力の差は次第に少なくなっています。やがて、知識の差でテストをするような競争に意味がなくなり、みんながよい成績を取れる社会がやってくるでしょう。
そして同時に、将来は限られた入学定員ということに意味がなくなるような社会が到来します。それは、インターネットの発達によって、学ぶ場所と時間という制約が大幅に緩和されるからです。そのような時代に、どのような評価が人間に対して行われるのでしょうか。
これからの知識産業社会の中では、どんな職業でも知識が必要になります。しかし、だからといって、知識が人より多ければ有利になるというわけではありません。それよりも、
人格力がその人の評価を決めるというような社会になってきます。人格力とは別の言葉で言えば、勇気や知性や愛や思いやりに溢れた人間であるという力です。そして、これは江戸時代に多くの寺子屋教育によって目指されていた教育の目的でもありました。歴史は一巡して、江戸時代の教育の原点に再び戻るような時代になっているのです。
しかも、未来の社会では、江戸時代のころの人格力にとどまらない、より豊かな学力を可能にする条件が生まれています。それは、自由な政治体制と、活力ある産業社会の中で、人間が創造力と表現力を発揮して、自分の個性を社会の貢献に結びつけることのできる社会という条件です。
現在の英語、数学、国語、理科、社会などの教育は未来の社会でももちろん続きます。しかし、それらの学力で試験の点数をつけるというようなことに意味がなくなり、誰でもどの教科にも満点近い成績を取れるような社会がやってきます。そのような時代に必要な
本当の学力として、人格力、創造力、表現力を育てていくことを今から考えていく必要があると思います。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。子育て(117) 教育論文化論(255)
↑ 池で遊ぶ、言葉の森の文鳥サクとブン(適当な名前ですが)
作文指導をしていて感じることが三つあります。
一つは、ほとんどの子が指導の初期に、見違えるほど上手になることです。苦手だった子がどんどん書けるようになるということで、先生も本人も感動する時期があります。
もう一つは、しかし、ある時期から進歩が停滞する子と、進歩が続く子がいることです。これは、あとで述べます。
そして、第三に、どんなに進歩が見えないような子でも、長く続けていると、必ず書くことに抵抗がなくなり書くことが好きになることです。
さて、
問題は、停滞する子と進歩する子の差です。その差は、ひとことで言えば読む力の差です。その学年にふさわしい読書をしている子(又は、音読や暗唱をしている子)は、その学年にふさわしい上達をしていきます。しかし、例えば、小学生のころは本をよく読み作文が上手に書けていた子でも、中学生になって中学生のころにふさわしい読書をしなければ、中学生としての作文力は伸びません。作文に要求される語彙力や思考力は年齢に応じて高くなっていくので、年齢に応じた読む力を育てていく必要があるのです。
読む力を育てるためには、これまでは多読と難読しかありませんでした。
本をたくさん読んでいる子、難しい本を読んでいる子は、例外なく読む力があり、考える力があり、作文も学年に応じて上達していきます。しかし、本をあまり読まない子に、「たくさん読みなさい」と言っても、「はい、そうですか」と読むようにはなりません。同じように、やさしい本ばかり読んでいる子に、「もっと難しい本を読みなさい」と言っても、すぐに読めるようにはなりません。
多読と難読は、正しい方向なのですが、それを実践する方法が漠然としていて実行できる人がほとんどいないのです。
そこで、多読と難読を補完するものとして考えられるのが暗唱です。
暗唱は、単なる音読ではありません。
目で文字を追いながら読む読み方と、空で読む読み方とでは、頭脳の使い方の質が違ってきます。暗唱で読んで、自分の手足のように自由に使える文章になったときに、初めてより深い理解力と表現力が育ちます。
また、暗唱は、単なる記憶ではありません。記憶力を育てるという発想をすると、記憶術のような方法で能率よく覚えた方がいいという考え方も出てきます。
文章を覚えることが目的なのではなく、文章を丸ごと把握する力をつけることが暗唱の目的です。
多読や難読が自然にできている子でも、暗唱の習慣をつければ更に理解力と表現力が高まります。多読や難読ができていない子では、暗唱以外に読む力をつける方法はないと思います。
作文の指導を一本の木を育てることと考えると、作文そのものを指導するのは枝葉や花を手入れすることです。読む力を育てるのが根を育てることです。受験までに時間がないというときは、枝葉だけの手入れだけで間に合わせるしかありませんが、長い目で考えれば、やはり根を育てることに力を入れていくことが勉強の王道です。
家庭でどのように暗唱と読書を定着させるかというと、毎日の生活時間に組み込むのがいちばんいい方法です。朝起きたら、まず音読や暗唱をしてから(場合によってはそのあとゲームを15分してよいことにしてから)朝ごはんを食べるようにします。そして、勉強が終わって夜寝る前には、読書を50ページ以上してから(そのあと、遊んでもいいし、そのまま読み続けてもいいし、寝てもいいということにして)自由に過ごすようにします。朝起きるときと、夜寝るときは、どんな日でも同じように過ごすことができるので、毎日の習慣を作るには最適の時間帯です。
勉強で最優先するのは、この音読、暗唱、読書です。
それ以外の勉強が何もできなくても、暗唱と読書だけは続けるという生活をしていけば、学力の土台はしっかりできます。この学力の土台ができた子は、いざ受験などで勉強する必要ができたというときになると、塾や予備校に通わなくても自力で成績をどんどん上げていきます。
作文力をつけるための読む勉強は、同時に学力全体を高めるための勉強にもなっているのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。作文教育(134) 教育論文化論(255)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。暗唱(121)