言葉の森の暗唱は、まず第一に、単なる音読とは異なります。音読も、回数を重ねれば暗唱と同じようなものになりますが、いちばんの大きな違いは、音読は飽きやすい勉強だということです。それに対して、言葉の森の暗唱は達成感のある勉強です。
第二に、言葉の森の暗唱は、文化としての暗唱とは異なります。文化としての暗唱は、文章の内容を覚えることが目的になります。そのため、文化的に権威の確立したものを暗唱することが中心になります。例えば、「憲法前文」、「枕草子」、「じゅげむ」、「平家物語」などが暗唱の対象としてよく取り上げられます。これらは、これらでもちろんよいのですが、言葉の森が追求しているものは、このような文化としての暗唱ではなく、教育としての暗唱です。
その教育としての暗唱には、三つの意義があります。
第一は、暗唱力をつけるということです。言葉の森の暗唱で文章を覚えることができるようになると、同じ方法で何でも暗唱できるようになります。「古代への情熱」の中でシュリーマンは、音読を繰り返しているうちにどんな文章も数回読めば暗唱できるようになったと述べています。こういう能力をつけることが言葉の森の暗唱の目的です。つまり、暗唱することが目的なのではなく、暗唱力をつけることが目的だということです。
第二は、暗唱によって発想力をつけることです。「群書類従」を著した塙保己一は、般若心経約300文字を毎日百回、千日間暗唱しました。これは、文章を覚えるという目的を超えて、頭のトレーニング又はウォーミングアップという意味で暗唱をしていたということです。
暗唱が頭の訓練になるという仕組みは、まだ解明されていませんが、右脳の活性化、Θ波によるリラクセーションなどが関係していると考えられています。実際、暗唱をしていると、いろいろなアイデアがわきやすくなるという効果が実感できます。その点で、言葉の森の暗唱は、大人の勉強としてやっていってもよいものだと思います。
暗唱の意義は、第三に、作文力をつけることです。そのため、言葉の森の暗唱は、生徒がその学年で書くような課題に合わせた文章を中心にしています。作文教育のための暗唱ということが、内容の暗唱を目的とする文化の暗唱と異なる点です。
そして、現実に、暗唱に取り組むことによって、子供たちの作文力が向上しているという結果が出ています。暗唱をしている生徒は、暗唱をしていない生徒に比べて、作文の字数が増える傾向にあります。
ただし、文章には好みの問題があります。そこで、言葉の森では今後、暗唱長文の選択の幅を広げていく予定です。具体的には、毎週の課題の長文にも100字単位の区切りの番号をつけて暗唱できるようにしておくということです。
ただし、課題の長文のような説明的な文章になると、暗唱することは急に難しくなります。それは、事実中心の文章と比べると、説明文や意見文には、イメージ性とストーリー性がないからです。
そこで、言葉の森では、イメージ性を補うために、イメージ記憶という方法を使っています。例えば、「しかし、文化が……」という出だしで始まる文を覚えるために、「シカがブンブン飛んでいる」などとイメージ化します。ここで、ダジャレの精神が必要になります(笑)。出だしさえ思いつけば、そのあとに続く文は、百人一首の上の句と下の句と同じように、半ば条件反射的に出てきます。また、イメージ記憶では、ストーリー性を補強するために、身体の位置を利用します。例えば、「頭のてっぺんで、シカが……」という覚え方です。
このやり方をすれば、説明文や意見文の文章でも、事実文と同じぐらい容易に暗唱ができるようになります。しかし、これらのイメージ記憶は、あくまでも便宜的なものです。勉強は、「とりあえず、できた」という達成感を持つことが、継続するコツです。しかし、暗唱の本当の目標は、音楽を覚えるように文章を覚えることです。文章の知的な内容を理解するのではなく、文章の流れを音楽として覚えることが暗唱の学習で大事なことです。
そのための暗唱の方法が、「早口で」「大きな声で」「暗唱用紙を使って反復し」「説明文の場合はイメージ記憶を使う」という言葉の森の暗唱法なのです。
▽この文章は、下記の構成図をもとに音声入力したものをテキスト化して書きました。
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言葉の森の構成図とマインドマップは、似ているが異なります。このことは、既に2009年5月の記事に、くわしく書きました。(
https://www.mori7.com/as/498.html )
しかし、言葉の森の勉強を新しく始めた方も多いので、再度わかりやすく説明したいと思います。
構成図は、帰納法的なものです。マインドマップは、演繹法的なものです。
構成図は、考えを広げるために書きます。マインドマップは、考えを整理するために書きます。
構成図は、作文のシミュレーションという位置づけです。マインドマップは、知識の分類を目的としています。
現実的なところでは、構成図は、紙と鉛筆があればすぐに書けます。マインドマップは、準備にも書く過程にもかなり時間がかかります。
構成図は、作文に生かすことを目的としています。マインドマップは、マインドマップを書くこと自体が目的です。
では、構成図を書くことと書かないこととでは、どのような違いがあるのでしょうか。
構成図を書くと、作文のスピードアップが図れます。作文には、思索の過程と表現の過程があります。構成図は、思索の過程を独立させたものなので、構成図を書いたあとに、表現の過程だけを独自に追求していくことができます。これは、将来、音声入力などをする際に大きく役立ちます。
構成図を書かない形の従来の作文は、思索の過程と表現の過程が融合しているので、書くのにかなり時間がかかります。つまり、考えながら書き、書きながら考えるというのが従来の作文です。
事実中心の生活作文のように、書く内容を熟知しているものについては時間はあまり変わりませんが、考える内容を含む意見文の場合は、構成図を書くことで考える時間が大幅に短縮されます。
構成図は本来、無地の紙に自由に書くものです。しかし、最初は枠がある方が書きやすいので、言葉の森では、構成図という用紙を渡しています。
下記に表示するのは、無地の紙に自由に書いた構成図の例です。A4サイズのルーズリーフ用紙に書いていますが、用紙が足りなくなれば2ページ、3ページとページをを増やしていくことができます。書くことが少なくて済めば、1ページに数種類の構成図を書くこともできます。マインドマップと違って、紙の無駄がありません(笑)。
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△この構成図は、明日アップロードする「暗唱の意義と方法」の記事(約1800字)のもとになったものです。
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ちょっと脅かすようなタイトルですが。(^^ゞ
高校2年生から3年生になるときの春休みに、志望する学校についての過去問を答えを書き込みながらでいいので、少なくとも1年間分は解いてみます。自分の得意な科目だけではなく、また、まだ勉強を始めていない科目も含めて、ひととおり解いていくのです。センター試験を受ける予定があれば、センター試験の過去問もやってみます。
春休みにそれができなかった人は(大部分の人がそうだと思いますが)、今度の連休には必ずやっていきましょう。
過去問を解くことと並行して、受験勉強に関する本や、同じ志望校を受けた人の合格体験記なども、全部で10冊ぐらいを目安に読んでいきます。
大学入試は、これまでの中学入試や高校入試と違って、先生に教えてもらってやるものではなく、自分で工夫して取り組んでいくものです。
過去問に取り組んだあと、参考書や問題集を決めて、どういう予定で勉強するかを決めていきます。
大学入試は、情報戦です。ただ努力すればいいのではなく、志望校の傾向と自分の実力に合わせた努力をすることが大切です。
ところが、以上のことをいくらわかりやすく説明しても、自分の力で春の間に過去問をやり、本を読み、作戦を立てたという人は、今まで数えるほどしかいませんでした。
ここで、登場してほしいのは父親です。会社で部下に仕事を指示するつもりで、夏休み前に必ず過去問に取り組ませることが大事です。それも、「やっておいた方がいいぞ」というような言い方ではなく、スケジュールを決めて半強制的にやらせるのです(笑)。
過去問さえこのようにやっておけば、高校生は、あとは大体自分の力で勉強していけると思います。
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未来の仕事は、どうなるでしょうか。
それを考える前提となるのは、現代の社会がとても豊かだということです。では、豊かな社会でなぜ失業者がいるのかというと、働きたくても働けない人がいるほと社会が豊かになっているということの裏返しなのです。
原始時代とまで行かなくても江戸時代には、だれもが、子供も含めて働かざるを得ませんでした。しかし、江戸時代はそれなりに豊かな社会だったので、武士階級という生産活動に携わらない人も多数存在しました。現在は、それよりも更に豊かになっているのです。
では、社会の豊かさがなぜ個人の貧しさとして現象するのかというと、流通しているお金を、その流通の過程から引き上げてしまう人がいるからです(笑)。生産が10あって、その生産をするために労働が10必要で、また消費が10であるならば、生産と消費の循環は永続的に進みます。しかし、やがて生産の技術革新があり、10の生産をするために8の労働しか必要ない状態になれば、本来ならば豊かさはそのままで、余暇だけが増えるということになります。しかし現実は、必ずしもそうはならず、新たに生まれた豊かさが消費に結びつかない形で、生産と消費のサイクルから引き上げられていくのです。その引き上げられた形が、昔なら武士階級のような存在で、現在ならば軍事費のようなものだと思います。
さて、このように本当は社会が昔よりもはるかに豊かになっているということを前提に考えると、現在1日8時間の労働で週に5日働いているような仕事も、将来は、1日4時間で週2日も働けば十分だということになってきます。すると、そこで従事する仕事は、フルタイムで働くような大きな仕事である必要は必ずしもなく、趣味の内職のような仕事でも可能になるということです。この趣味の内職が、自分の好きな分野を高度に専門化した起業ということにつながるのです。
すべての人が自分で立ち上げた仕事を持つことが可能になるというのが、未来の仕事の姿です。なぜなら人間は、多数のさまざまな興味と得意の分野を持ち、しかもそれらを組み合わせれば無数の新しい事業分野が可能になるからです。また、身体的な技能や知識は、熟練するために何千時間も必要とするので、その人だけの独自性のある技能や知識として保持することができます。アイデアだけで始めた仕事は、同じことをやる人がすぐに現れますが、時間をかけて腕を磨くという形で始めた仕事は、続ければ続けるほどその人だけの独自な仕事になっていきます。
このような状態が出現したのが江戸時代で、その時代に日本では、多様な「道」化された文化が生まれました。しかし、当時生まれた文化で、現代に伝わっていないものもかなりあります。なぜかというと、さまざまな「道」文化の創始者は、自分の技を磨くことに専念していたので、それを後進に教育するような体系を作る余裕がなかったからです。そのため、当時の教育は、「師の技を盗む」という方法で行われていました。もし江戸時代があと数百年続いたら、さまざまな「道」文化の教育体系ももっと整備されたかもしれません。
未来の職業は、この江戸時代に庶民の間から生まれたさまざまな文化と同じように、創造性に価値を置くものになります。売上が多いとか、利益が上がるとかいうことよりも、創造的でわくわくできる仕事かどうかということが未来の仕事の大きな関心になっていきます。現在、中国で生まれている巨大な需要と生産の多くは、既に欧米や日本で行われたことのある過去の需要と生産です。そのような過去の需要と生産を通り越した日本でこそ、未来の需要と生産が生まれる可能性があります。
教育は、社会から離れて存在するものではありません。すべての人が創造的に仕事をし、豊かに消費する社会と結びつく形で、教育もまたわくわくしたものになっていきます。未来の学校は、勉強を教えるとともに、その勉強を自分の仕事にどう生かしていくのかということも教える場所になると思います。
さて、では、今の若者は、それまでどうしたらいいのでしょうか。毎日、仕事に追われる多忙な生活の中でも、自分の好きなことを大事にし、そこに、時間をかけなければ身につかないような技能化、身体化の過程を結びつける工夫をすることです。映画鑑賞が好きだといっても、映画をただ見ているだけでは技能化にはなりません。ただ好きなことをするだけでなく、その好きなことを自分なりの生産活動に結びつけ、やがては他の人に提供できるような完成度の高い商品にする展望を持って追求していくことです。
これまでのローカルな社会では、自分の好きなことを共有できるような同じ関心を持つ人は多くありませんでした。しかし、インターネットの世界では、世界中の同じ関心を持つ人に結びつくことができます。
人が何かの分野に熟達するためには、4000時間費やすことが一つの目安になると言われています。逆に言えば、それは、特に今は何も目立った才能がないと思っている人でも、自分の好きな分野で毎日1時間で約11年間、技を磨けば、その道のプロとして通用することが可能になるということです。現代は、このように明るい可能性がだれにも開かれている時代です。そして、この傾向はこれからますます加速していくと思います。
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「未来は、えらべる!」という、バシャールと本田健さんの対談を読みました。参考になる点がいくつかありました。
本田健さんは、バシャールに対してアメリカに住み、自分の子供をサドベリー・スクールに通わせています。サドベリー・スクールとは、子供たちが自分の好きなことをしながら自然に勉強をしたくなるのを待つという教育法を実践している学校です。
本田さんは、カリキュラムがなく子供たちが好きなことをできるのがよいのではないかと質問をしました。バシャールは、カリキュラムはあってもよいが、子供の興味を引き出すようなものになっていることが大事と答えました。つまり、カリキュラムの有無というのは、本質的なことではないということでした。
また、本田さんは、子供が時間をかけて自分の好きなことを見つけるのが大事ではないかと質問し、その例として、5年間釣りだけをしていた子が、その後勉強をして立派な社会人になったという例を挙げました。それに対して、バシャールは、その釣りをしていた子供の例は特殊な一例で、時間をかけることは必ずしも必要ではないと答えました。大事なことは、勉強が楽しいと子供に教えてあげることだということでした。
更に、本田さんは、サドベリー・スクールのような学校を日本にも広げたいと自分の希望を述べました。それに対して、バシャールは、どの学校でも、また家庭でも、勉強の楽しさを教えることができる、大事なのは、子供が学ぶ対象に興味を持てるようにすることだと答えました。
私は、この対談を読んでいて、バシャールの本質をついた的確な返答に感心しました。もちろん、そういう返答を引き出す、本田さんの優れた質問にも感心しました。
さて、バシャールは、わくわくして学ぶためには、体験を通した学び方をすることだ大事だと述べています。その例として、子供が自分で仕事を立ち上げる、そのための勉強をするという仕組みを作っている学校が既にあると説明していました。
今の教育では、確かに、学んだことをどう人生に生かすかという視点がありません。学んだことを生かすという教え方をすれば、数学の方程式も現実の仕事の中でどのように役に立つかということを実感するような教え方をすることができるでしょう。
ところで、江戸時代の寺子屋教育という優れた勉強法は、決してわくわくした学び方ではありませんでした。そこで教えられた方法は、四書五経の素読や手本となる文字の書き写しでした。
しかし、この勉強法は、勉強の方法ではなく生活の方法だったのだと私は思います。朝起きて、顔を洗う、歯を磨く、掃除をするということと同じ感覚で、人生の前提となる基礎教育が行われていたのです。生活と同じ感覚で行われている勉強は、苦痛でも我慢でもありません。音読や暗唱や読書というのも、勉強としてではなく生活の一部として取り組んでいくものだったと思います。
そして、江戸時代は、この優れた基礎教育の大衆的な普及の上に、さまざまな知識や技能の「技を盗む」という形の職業教育が行われていました。しかし、その「技を盗む」教育というのは、それらの知識や技能が高度であったために、体系的な教育法にまで手が回らなかったことからくる暫定的な方法論だったのではないかと思います。
さて、体験を通して学ぶということを作文にあてはめると、作文には、バシャールの言う「知識の現実への適応」と同じ面があることがわかります。自分の書いた作文が他人に読まれて喜ばれるということは、自分が作った製品が、他人に買われてうれしいという感覚と同じです。
言葉の森が、これまで考えていたのは、次のような勉強法です。
中学生の作文で、歴史実例という項目があります。これをただ作文の上で自分の知っている歴史実例を入れるという書き方をするのではなく、あらかじめ歴史の学習をして歴史の本を読み、そこから作文に書く自分の意見にふさわしい歴史実例を引き出すという書き方をするのです。これは、歴史の知識を、生きた作文に適用するという学び方です。
同じようなことは、英語、数学、理科、社会などの勉強にもあてはめることができます。このように、知識を学びながら、それを作文という現実に生かすという勉強の仕方を、これからの言葉の森の勉強法にしていきたいと考えています。
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