今のテストは、入れた知識の量で測られているが、
本当は、入れる容器の大きさで測られるべきだ。
そうすれば勉強も、知識を詰め込む教育から、
容器を大きくする教育に変わる。
例えば、子供が同じ本を繰り返し読んでいるときは、知識を増やしているのではなく、容器を作っているのです。
知識の量に目を向けると、同じ本を読むよりも、違う本を読んだ方がいいように思いがちですが、本当は、同じ本を繰り返し読む子の方が読む力がついていきます。
しかし、そのためには、その子が自ら進んで繰り返し読みたくなるような本に出合うことも大切です。
特に、小学校低学年で、繰り返し読みたくなるような知的な面白さのある科学の本が、今の日本にはほとんどありません。
知識を伝えるような科学の本ではなく、原因や理由や方法という知的な面白さに目覚める科学の本をもっと作る必要があります。
そして、それも自助の文化で、お父さんやお母さんが自分の子供や近所の子供たちのために作ってあげればいいのです。
ということで、今日のテーマは、容器を作る。
1、容器についてひとこと、
又は、
2、「いれ、も、の」で五七五、
又は、
3、何でも自由にどうぞ。
これから、世界が大きく変動し、詰め込んでいた中身がこぼれてしまっても、入れ物さえあれば、また何でも中に入れられます。
自分の今持っている入れ物に磨きをかけて、今日もいい一日をお過ごしください。
(写真は「SOZAIjiten」より)
入れ物と中身。(ちょっと違うか)
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ときどき保護者の方から、教育相談のお電話をいただきます。
その中で、「(これまでは国語のテストの成績がよかったのに)、最近の国語のテストで悪い点数を取ってきた」という話がたまにあります。
つい先日、小学3年生の生徒のお父さんから、「この前の塾のテストで成績が悪かったが、どうしたらよいか」という相談を受けました。
そのときは、ちょうど私に時間があまりなかったために、一般的な説明しかできませんでした(どうも失礼しました)。しかし、こういう場合の保護者の対処の仕方は実は簡単なのです。
それは、その悪かったという国語のテストの問題を1、2時間かけて親も解いてみるのです。これは、小学生の場合だけではありません。中学生でも、高校生でも同様です。(さすがに、高校生ではそういうことはあまりないと思いますが)
英語や数学のテストと違って、国語(現代文の読解問題)は、何の準備がなくても大人ならだれでも解けます。
そして、実際に解いてみて、子供の間違ったところを見てみると、おのずからどこに問題があるのかわかってくるのです。これは、不思議とわかります。
具体的な要領は、こちらの「国語の勉強法」というところをごらんください。
https://www.mori7.com/bennkyou.html
国語の問題で高得点を上げるためには、難読と速読に慣れておく必要があります。つまり、学年相応よりも難しい文章を読むことに慣れていて、長い文章を読むことにも慣れているということです。
そのような読む力を前提にしたうえで、実際に解くときには、理詰めに解くことが大事です。例えば選択肢を選ぶ問題のときも、漠然と合っていそうなものを選ぶのではなく、厳密に、どの選択肢のどこが違っているかということを逐一挙げていき、最後に残ったものを選ぶというような解き方です。
また、入試問題は、難関校になるとかなり長い文章の問題が出されることがあります。長い文章を読ませておいて、その文章のどこかに答えらしきものがあるというような問題が出されます。その場合、最初に問題文を読むときにじっくり味わいながら読み、自分が面白いと思ったところなどに線を引いておくと、答えの場所をすぐに見つけることができます。
国語のテストは、英語や数学など他の教科のテストとは違う面があります。国語以外の教科では、知っているか知っていないか、又は、できるかできないかという黒白はっきりした答えが要求されます。
ところが、国語の場合は、浅くも読めるし深くも読めるという問題ですから、易しい問題であればだれでもできますし、難しい問題でもできないことはないという性格の問題になります。
ここで、解くときの気合いが大事になります。国語の成績のいい子に共通しているのは、「絶対にいい点を取るぞ」という気構えです。難しい問題になればなるほど、この気迫の差が点数の差になってきます。難しい問題は、浅く感覚的に読めば間違えるが、理詰めで厳密に読めば正しい答えになるという作り方になっているからです。
しかし、更に言うと、将来、こういう国語の問題はすたれていくと思います。
本当の国語力は、そういう、多少テクニックを必要とするような国語の読解問題で測られるものではないからです。それは、学力が上になるほどそうです。
本当の国語力にいちばん近いのは、作文力や対話力です。だから、将来は作文や面接や討論が国語の問題の中心になっていくと思います。
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植物が、根を広げ、葉を茂らせ、花を咲かせ、実を実らせるように、
人間の成長にも順番がある。
昔から、習い事は6歳の6ヶ月からと言うが、
それは、6歳から花を咲かせることではない。
6歳は、根を伸ばし、葉を茂らせる時期。
小学校1年生は、作文を書いても2、3行、読書も大きい字の本をやっと読むぐらいです。
しかし、ここで、上手な作文を書かせようとしたり、読書だけでなく国語の問題をやらせようとしたりするのは、1年生の子に花を咲かせることを要求しているようなものです。
この時期に大事なことは、毎日することを決めることと、できたところまでで褒めることと、何をやっても楽しく済ませることです。そのためには、長時間勉強させないことも大事です。
かといって、全く勉強させないというのではありません。
単純に続けられることを毎日欠かさずやる習慣をつけておくことです。
毎日ということで、いちばん簡単なのが読書です。
そして、できるだけやっておきたいのが、同じ文章を繰り返し読む練習としての音読と暗唱。
それから、親子の対話の習慣と簡単な作文。
小学校1、2年生のころは、子供は大人の思いのままに動きます。
だから、花を咲かせようと思えば、花を咲かせてしまいます(笑)。
でも、中学生、高校生の後半になってぐんぐん伸びる子は、小学校低学年のときに根を伸ばしていた子なのです。
ということで、今日のテーマは、根と葉と花と実。
1、根葉花実についてひとこと、
又は、
2、「ね、は、み」で五七五、
又は、
3、何でも自由にどうぞ。
4月から小学校1年生になる子は、いろいろな可能性を持っています。
このころは、勉強をさせれば、みんな勉強ができるようになります。
何でもできるようになるので、ついできるだけやらせようとしてしまいがちですが、ここで親の微妙な判断が必要になります。
その微妙な判断の基準は、親がその子をよーーーーく見ることだと思います。
1月、2月は、新しいことを始めたくなる季節です。
この雰囲気がこれから春までずっと続いていくのでしょう。
それでは、今日も新しい希望の根を広げながら、いい一日をお過ごしください。
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点数で励ませば、
点数が下がれば意欲も下がる。
共感で励ませば、
長続きする意欲が育つ。
他人との競争でがんばらせるよりも、その勉強の中身を見てあげよう。
例えば、国語の成績が返ってきたら、点数を見るよりも、どういう問題でどういう答えをしたのかを見るのです。
そこで見る子供の実力が本物です。
場合によっては、点数が悪くても、「この問題は別にできなくてもいい」ということもあります。
また、逆に点数がよくても、「これはちょっと対策を立てないと」というのもあるでしょう。
そして、子供の国語の実力は、普段、家庭で子供と話をしていればおのずからわかってくるものです。
実力がまだ足りないと思ったら、国語の問題集をやらせるよりも、まずもっと本を読ませて、もっと知的な対話に時間を使うようにすればいいのです。
そして、国語の勉強というのは、もともと全部できて当然のものであるはずなのに、今の競争社会では子供たちの間に差を作りそれで意欲を引き出そうとしています。
むしろ、国語の勉強は、作文を書かせることによって、その書かれた内容に共感する形で伸ばしていけばいいのです。
ということで、今日のテーマは、点数より共感。
1、共感についてひとこと、
又は、
2、「きょ、う、かん」で五七五、
又は、
3、何でも自由にどうぞ。
子供たちの世界は、大人の世界の縮図です。
限られたパイをめざして競争に勝つという社会から、各人が自分の創造で世の中に貢献するという社会に、今世界は大きく変化しようとしています。
子供たちの勉強も、その大きな流れの中で考えていく必要があります。
そのためには、まず大人自身が、毎日の生活の中で小さな創造と共感を積み重ねていく必要があります。
それが例えば、親子の対話です。
子供がいなかったり大きくなってしまったりした人は、facebookの対話です(笑)。
それでは、今日も対話と共感のあるいい一日をお過ごしください。
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曇りかけていた空が静かに晴れてきました。
今日も、おだやかないい一日になりそうです。
今年は、文字どおり新しい年になるでしょう。
日本も、世界も、いい方向に大きく転換するのが今年2012年です。
目の前にある困難は、大きな山や広い川のように行く手を阻んでいるように見えますが、それらが見えたということは、克服する道もこれからの人間の英知で開けていくということです。
言葉の森は、今年、森林プロジェクトという新しい企画の運動を広げていきます。
これからの社会は、ひとりひとりが自分の手で、本当に自分が求めているものを創造し、それを互いに共有することで豊かになっていく社会です。
これまでの、ゼロサムの果実を互いに奪い合う自己中心の競争が世の中を引っ張ると思われていた社会は、やがて静かに終息していくでしょう。
新しい時代のキーとなる概念は、人間の創造性を生かすということです。
植物が生まれつき光合成という能力を持っているように、人間はだれでももともと創造性という力を持っています。
その創造性は、人間が、ある意味で不自由な身体と言葉とを持っているところから来ています。
ここからは、頭の中の思考だけの話になりますが、もし人間が、自分の身体を自由に超越できていたとしたら創造性は必要ありませんでした。
例えば、遠くに欲しいものがあったとき、手がマジックハンドのようにビヨヨーンと伸びてそれを取ってこられるとしたら(笑)、人間は、交通や流通の手段を発明する必要性すら感じなかったでしょう。
だから、この不自由な身体、寒いときには服を着て、暑いときには日陰に入り、ころんでけがをしたときにはバンドエイドを貼るような不自由な身体が、創造性の不可分の前提となっています。
また、人間が思ったことを百パーセント相手に伝えられるとしたら、今日の何十万語もある言葉そのものを発明しなかったでしょうし、その言葉の組み合わせ方でよりよく伝わる工夫もしなかったでしょう。
更に、言葉と言葉を組み合わせて、本来ないものを表現する方法、例えばダジャレや冗談なども思いつかなかったでしょう。人間が笑える動物であるというのは、この言葉を通して世界を見ることと深く結びついています。
しかし、これまでの工業社会では、人間は自分の身体と言葉を、あたかも道具であるかのように使ってきました。
手足は、重いものを持ち上げたり、書類を書いたりするための道具でした。言葉は、向こうのものをこちらに伝える正確なモールス信号のようなものでした。そして、頭脳は、言われたことをしっかり記憶して必要なときに再現できるコンピューターのようなものでした。
人間の身体と言葉と頭脳は、そのようにももちろん使えますが、その使い方にとどまっていては、本来の使い方を発揮したことにはなりません。
本来の使い方とは、身体と言葉と頭脳を、新しいものを創造するための土台として使うということです。
未来の教育は、この人間の創造性を育てるということを最も大きな目的として新しく作り直されていくでしょう。
今年は、その新しいことがいろいろな形で日本中に生まれてくる年になると思います。
2012年(平成24年)が、みなさまにとってよりよい一年になりますように。
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