小中学校、つまり義務教育の勉強には、本質的に難しいものはほとんどありません。
1冊の薄くてよくまとまった教材があり、それを繰り返して百パーセント自分のものにするという方法を実行すれば、あとはかけた時間に比例して勉強はできるようになります。
その勉強を続けるもとになるものは、本人の意欲で、その意欲は、健全な競争心、仲のよい友だち、好きな先生、将来の夢などによって作られます。
小中学生の勉強には、本質的に難しいものはないはずなのに、受験勉強になると、難しいものがあるように見えるのは、受験というものが点数の差をつけるために、本質的ではないところで難しい問題を作っているためです。
本質的でない難しさとは何かというと、人間の自然の身体的感覚を離れたところから来る難しさです。
例えば、理科の天体の問題は、3次元の立体の動きが中心になっています。人間は、2次元の平面的なところでものを考えることに慣れているので、立体化された問題はわかりにくいのです。
しかし、これはただわかりにくいというだけで、本質的な難しさではありません。この一見難しい問題を、わかりやすい形に還元して考えるのに慣れることが勉強のテクニックです。
同じように、人間の短期記憶は同時に7つぐらいまでのところしか把握できません。8つ以上になると急に混乱してきます。難しい問題と言われるものの中には、人間の短期記憶の容量を超えているから難しいというものもあります。
これも、対処の仕方は、8つ以上の情報を、7つ以下の情報にまとめるのに慣れるということです。
こういう非本質的な難しさが、勉強を難しいものに感じさせていることが多いのです。
子供のころは、このような非本質的な難しい勉強に時間をかけるよりも、その分、たっぷり遊んだり、読書をしたりしている方がいいのです。
このことは、特に低学年の勉強について言えます。低学年のころに、難しい勉強をさせても、勉強に対する否定的な感情を育てるだけにしかならないことが多いのです。
それは、低学年のころの問題の難しさというものが、例えばややこしい文章題の問題のように、本質的でない難しさであることが多いからです。
もちろん、勉強の中には、本質的に難しい勉強というものもあります。
そのひとつが、日常生活の語彙を超えた抽象的な語彙を使って考える勉強です。
その前段階の勉強が、物事の原因や結果や理由や方法という構造的な説明を理解する勉強です。
そういう勉強は、小学校低学年のころは、主に両親との対話と読書によって培われていくのです。
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英語教育は、さまざまな専門家がいて、さまざまな教材があるために、かえって誰に頼り、何をしたらいいのかわからなくなっている面があります。
そして、いろいろな教材に手を出しているうちに、結局どれも中途半端になり、時間をかけたわりに実力がつかないという、今の国語や算数数学など他の教科と同じようなムダの多い勉強になっていくような気がしています。
英語学習の能率のよい方法を考える場合、それを英語だけに絞らず語学一般にあてはまるものと考えていく必要があります。
そう考えるのは、今の日本の英語教育ブームと同じぐらい、やがてアジアや世界で日本語教育のブームが起きると思うからです。
外国の人に、日本語の勉強の仕方を尋ねられたとき、自分の英語学習の仕方をそのまま外国人の日本語学習の仕方に適用できれば、英語を学習した以上の成果を得たことになります。
そこで、外国人で日本語の学習を短期間で成功させた人の勉強法を調べてみると、そこには一つの共通点があるようです。
それは、
1、基本となる教科書は1冊から3冊程度に絞り、いろいろなものに手を出さない。
2、そのかわり、その数冊を何回も繰り返し百パーセント自分のものにする。
3、自分のものにする方法は、その教科書のCD音声を聞いてそっくり真似できるようにする。
4、その教科書の文章を全部暗唱する。
5、その教科書の文章を全部暗写する。
という方法です。
簡単な方法に見えるかもしれませんが、この繰り返して百パーセント自分のものにするという勉強が、ほとんどの人はできません。
大抵は、8割ぐらいできたら飽きてくるので、次の新しい教材に移るという勉強をしているのです。
これは、算数数学でも、国語でも、同じです。
問題集を解く形の勉強は、こういう飽きっぽい勉強法を助長しています。
問題集を解いて、その問題が○だったとしたら、本当はその問題はする必要のなかった問題です。解いただけ時間の無駄だった勉強なのです。
ところが、ほとんどの人は、問題集を解いて○をつけて、それが勉強だったと思っています。
本当の勉強は、×のついた問題を、そのあと何度も繰り返し解いて確実に○にするところにあります。
だから、問題集は、問題集自体に答えを書き込むのではなく、別のノートに計算過程と答えを書き、問題集には○×をつけるだけにとどめておくことが大事なのです。
この「繰り返して百パーセント自分のものにする」という勉強を、英語だけでなく、すべての教科に広げていくことが必要です。
英語でも、算数数学でも、国語でも、勉強の基本は同じ、「1冊を繰り返して百パーセント」なのです。
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感染症は、どのように困難に見えるものであっても、やがては人間の英知が克服する日が来ます。
戦争の危機は今も残っていますが、戦争を起こさせたい人よりも、起こさせたくない人の力の方が日に日に強くなっています。
自然災害は、人間の意識と深く関わっていいます。希望を持つ人が増えれば増えるほど、自然災害は遠ざかっていくでしょう。
これから起こる可能性の高い問題は、経済の変動です。
破綻を回避するために行われた金融緩和は、出口の見えないまま拡大し、やがて人間の手ではコントロールできないものになるでしょう。
コントロールできないときに打つ最後の手は、徳政令のようなものになるかもしれません。
その先に、これまで過去の歴史で行われていたようなさまざまな政策が行われるでしょう。
しかし、歴史は単に繰り返すのではなく、新しい社会が生まれてきます。
お金のない時代の経済は、物々交換でした。
しかし、これからは、単なる物と物との関係に戻るのではなく、新しく人と人との関係が生まれてきます。
そして、人と人との流れに乗らない経済は、新陳代謝によって自然に消滅していくのです。
社会のすべての分野で、本質的なものだけが残ります。
だから、大事なことは、本質的なことを再優先して生きていくことなのだと思います。
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これまでの社会は、奪い合うことによって発展してきました。
ある人が強力な矛(ほこ)を作れば、ある人はそれ以上に強力な盾(たて)を作るというのが、世の中の進歩の姿でした。
ある人が鍵を作れば、ほかのある人がその鍵を壊す方法を考えるというのも、かつてはひとつの進歩でした。作ることと壊すことが相まってGDPを高め、社会を豊かにすると考えられていたのです。
しかし、そこで作られた豊かさが、果たして人間の幸福に結びついているかと考えると、誰もが疑問に思わざるを得ないような状態が増えてきました。
鍵を作ったり壊したりするよりも前に、鍵の要らない社会を作った方がよいのではないかと、多くの人が感じ始めたのです。
そして、それまでの作ったり壊したりするために費やしていた時間を、もっと別のことに向ければいいのではないかと思い始めたのです。
しかし、それは、政策としてできることではありません。
強力な政府が、賞や罰で強制しても、奪い合うことを前提に発達してきた社会は変わりません。
一人ひとりの心が変わることによって、新しい社会は生まれてきます。
しかし、心を変えることができるのは、宗教ではありません。
人間の心は、命令によってではなく自覚によって変わらなければならないからです。
これまでは、そういう理想の社会は、遠い夢のような話と思われてきました。
しかし、今、身近にいくつもそんな理想の片鱗を見ることができるようになっています。
奪い合うことによって豊かさを追求してきた社会は、やがて静かに過去のものになるでしょう。
そして、与え合うことによって豊かになる社会が、それと入れ替わっていくのです。
子供たちの教育も、奪う力をつけるものから与える力をつけるものへ、これから静かに変わっていくのだと思います。
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小学校低学年の子は、作文でも、勉強でも、読書でも、遊びでも、みんな大好きです。生きていることがうれしくてたまらない時期ですから、どんなことも楽しく好きになるのです。
ところが、小学校低学年のときに、何かが苦手になることがあります。ときどきあるのは、作文が苦手になるというケースです。
その原因は、たったひとつ、早く上手に書かせようと思い、注意する量が多くなってしまうからです。
親が、注意と思っていないような一言でも、子供にとっては注意と受け止められてしまうことがよくあります。
だから、小学校低学年のころは、どんなに欠点があったり、不十分なところがあったりしても、ただひたすら褒めていればいいのです。
そして、褒める一方で、気長に長文音読と読書と対話を続けていくことです。
その音読と読書と対話も、やっているといろいろ気になることが出てきますが、全部そのまま認めて褒めてあげます。
読み方を注意したり、話し方を注意したり、読む本を決めたりすると、やがて音読も読書も対話も苦手になっていきます。
褒めるだけで上手になるのかといえば、そのとおりです。
褒めていれば、みんな上手になり、得意になっていきます。早く上達させようと思い、注意すると、苦手になり、下手になっていくのです。
人間は、繰り返していれば上達するようにできています。歩き方でも、走り方でも、喋り方でも、文章の書き方でも、続けていれば自然に上手になります。
学年が上がると、アドバイスによって急に上手になるという場面も出てきます。しかし、その場合でも、それまでの長い蓄積があるから、一言のアドバイスで上手になるのです。
だから、大事なのは、気長に続けていくことです。そのために、いつも気長に褒めていくことです。
音読も、読書も、作文も、生活の一部となるぐらいに自然に続けられるようにしていくことが大事なのです。
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低学年の作文、難しく考えてしまうと書けなくなりそうですね。私の子供時代も書き出すまでが時間がかかっていました。本を読む楽しさを実感できたらどんな人が出てくるのか、どういうお話なのか一番好きな部分はどこだったか、こちらが聞きたいなといった雰囲気で話を聞き出すことも大事ではないかと思いました。
楽しいというのがいちばん大事です。
勉強になるようにとがんばると、つい楽しくない雰囲気になります。
楽しんでいること自体が勉強だと思っているといいようです。
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