低学年のときの作文指導は、実は簡単です。
書き方の間違いもまだかなり多いので、それを直して、直ったことを褒めていれば作文が上達するような感じがします。
だから、学校でも塾でも通信教育でも、低学年の作文指導に力を入れていることが多いのです。
しかし、この低学年のうちに、高学年の作文につながるような指導がないと、課題がだんだん難しくなるにつれて作文が書けなくなります。
そして、たぶんほとんどの作文教室がそういう結果になっているのではないかと思います。
作文の勉強を家庭で続けていると、だんだん親子喧嘩になる場面が増えてきます。
それは、子供が、難しい課題になってくると、だんだん作文が書けなくなってくるからです。
作文を書くというのは、高学年や中学生以上の生徒にとってはかなり負担の大きい勉強です。
まず1200字の作文を1本仕上げるには、時間は1時間から1時間半かかります。しかも、その間休みをとるようなことはできません。
学校の宿題などをいろいろ片付けなければならない中で、毎週作文の時間を確保して、難しい文章を読んで考えて書くということにはかなり強い意志力が必要です。
しかし、そういう苦しい勉強を続けてきた子は、大学生になるころには、必要に応じて楽に文章が書けるようになるのです。
低学年の作文の勉強で大事なのは、作文の土台となる読書と対話にも力を入れていくことです。
そのために、言葉の森では、長文音読、暗唱検定、自主学習クラス、思考発表クラブなどのオプションの勉強に力を入れています。
そして、勉強の中で続けるのは最も難しいと言われる作文の勉強を中心にして、あらゆる教科の勉強の力をつける指導を目指しているのです。
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卒業生からのメッセージ「言葉の森の思い出」
https://www.mori7.com/index.php?e=2108
今年、慶應義塾大学文学部に合格したKMさんが、「言葉の森の思い出」という話を書いてくれました。
KMさんは、小1から言葉の森で勉強し、森リン大賞にも何度も選ばれていました。
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私が言葉の森で作文の勉強を始めたのは、小学1年生の8月でした。
やっと、電話で知らない人と、なんとか話すことができるようになったのが、そのころだったのです。
初めは、本当に、聞かれたことに「はい」と返事をするのがやっとでした。「いいえ」すらも言いにくかったので、沈黙してしまったり。そうすると、先生が「じゃあこうだったのかな?」と逆の質問をしてくれて、やっと「はい」が言えるときに口を開くというような状態でした(笑)。
それでも、先生の質問に答えるかたちで、書くことを決め、電話の後に、今度は母が同じような質問をするので、その答えを作文用紙に書いていったというような記憶があります。
できあがった、確か100字程度の作文は、作文と言えるようなものでもありませんでしたが、返却された作文を見ると、先生が、作文用紙いっぱいに花丸をつけてくれていて、たくさんの「上手!」「うまい!」「すごい!」という文字が踊っているのを見て、大変満足し、「これからも続ける!」と宣言したのでした。
低学年の間は、基本的に毎週そのような調子で気分よく書いていたのですが、字数ランキングに燃えて、ひたすら長く(内容の薄い作文を)書いていたこともありました。かなり時間もかかりましたが、「すごく長くかけたねえ!」と、先生に褒めてもらえるのが嬉しくて、とにかく長く、1000字、2000字と書いていたのです。今思うと、先生にご迷惑だったような。思い出してみると、母もいつも先生に謝っていたような記憶が蘇りました(笑)。
中学年になると、題名が決まっていたので、最初は書きにくく感じましたが、このころは、課題について、父や母や祖母に取材をするのを楽しんでいた時期でもありました。感想文課題は、内容も難しいし、書くのが大変でしたが、先生もいつもヒントを与えてくれたし、両親も、協力してくれました。
5年生になると、長文の内容はさらに難易度が上がり、そのときの私にとって、「難しい」というより「分からない」文章になってしまいました。しかし、たとえ長文全体をよく理解できなくても、感想文を書くことができるように説明してもらえたし(実際、それでなんとか形になっていたと思います)、また、何度も音読をしているうちに、最初は全く分からなかった文章が何となく理解できるようになる、という経験もできました。おかげで、難しい文章に取り組むのが怖くなくなったというか、落ち着いてくり返し読めば分かる、と信じて読めるようになりました。この経験は、その後の中学受験でも、大学受験でも役に立ったと思います。
また、私は、低学年のころから自分でパソコンで作文を書いていたのですが、「今読んでいる本」の欄を利用して、担当の先生と雑談をしたこともいい思い出です。例えば、当時流行っていたドラマの原作小説を読み、それを読書欄に書くついでに、お気に入りの主演俳優の話を書くと、先生も講評の中で返事をくれて、翌週の電話でまた好きなアイドルの話をしたり……といった具合に盛り上がったのも、とても嬉しかったです。言葉の森では、学校の先生よりも長く一人の先生に習うこともあるので、そのような交流が深まるのも楽しいことだと思います。
中学受験を挟み、言葉の森をお休みした時期がありましたが、再開後に取り組んだ勉強は、より具体的に受験小論文に役立ちました。小論文の構成を教えてもらって、どんな形で、どんな順番で書いていけばいいのか、という枠を決められるようになり、中学3年間で勉強した書き方で、ほぼどんなテーマにも対応できる自信がつきました。
実際の第一志望校の小論文課題は、制限字数が短かったのですが、基本的には、言葉の森で教わった「構成」「題材」「表現」「主題」を意識することで、対応できました。そのおかげで、他の教科の勉強に多くの時間を割くことができ、また、例えば、英語の長文を読む際にも、言葉の森の勉強で身につけた日本語読解力に助けられたと思うので、やはり、作文の勉強は、多くのアドバンテージを与えてくれたと思います。
本当に感謝しています。ありがとうございました。
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昨日、小学生のころから言葉の森を始めて高3になる生徒が、最後の作文を書いていました。
難しい課題の作文でしたが、説明を聞いて、いつものようにさらさらと1000字近く書いて、
「4月からもう来ないと思うと、なんか寂しい」
などと言って帰っていました(笑)。
簡単なように見えますが、与えられた課題で人に読ませる文章を書くというのは、大人でもなかなかできません。
作文の勉強というのは、続けていれば必ず上達するということを改めて感じた日でした。
作文は、教えてすぐに上達する子と、なかなか上達しない子がいます。
しかし、どんな子でも、続けていれば最終的には必ず上達します。
言葉の森の通学教室で高3まで作文の勉強を続けていた子供たちの中には、最初から得意な子もいましたが、最初はかなり苦手だという子もいました。
それぞれみんなそれなりに途中のスランプなどもありましたが、最終的にみんな楽に上手に書けるようになっていきました。
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言葉の森の通学教室の生徒で、プログラミングをやるようになった人はかなり多いです。
小学生のころから、パソコン入力をしていたので、自然にそういうことに親しんだからだと思います。
しかし、このプログラミングは、システムエンジニアなどの仕事としてやる場合は、かなり大変です。
私自身(森川林)、言葉の森の仕事に使うプログラミングをやっていたとき、「これが、もし人に頼まれた仕事だったら絶対にやらないだろう」と何度も思いました。
それぐらい、ストレスの多い、ある意味で不毛な時間の多い仕事なのです。
では、なぜプログラミングの勉強が必要かというと、それはプログラミングを仕事にするのではなく、何か別に自分のやりたいことがあった場合、その仕事にプログラミングが使えるからなのです。
このことは、ほかの勉強についても言えると思います。
英語が得意なので、英語を仕事にする人がいます。それは、やはり大変な仕事だと思います。
英語が得意なら、それを自分のやりたい仕事に生かす英語として使っていくのです。
数学でも、国語でも、何でも同じです。
昔、ゴルフの得意な若者が、ゴルフの道に進むか、ビジネスの道に進むか迷っていたとき、ある人がアドバイスをしました。
「ゴルフのプロもいいが、ゴルフもプロ並みの社長の方がいいぞ」
勉強は、何でもできた方がいいのです。
しかし、目的は勉強ができることではなく、自分の本当にしたいことのために、その勉強を使うことなのです。
……と、この一週間、サーバーの文字化けを直していてふと思いました。
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サーバーがやっと直ったので、今日は宴会だ。
違うだろ。
得意な勉強を仕事にするのではなく、自分のしたいことに得意な勉強を生かすという考え方が大事です。
今システムを勉強している若い人は、それをそのまま仕事にしてもいいのですが、その技術を生かして、自分の本当にしたいことに使うという展望を持っていくといいと思います。
自分の夢実現のために、勉強をし続けたいですね。
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成績を上げるためには、解法をどんどん覚えてしまうのが最善です。
一つの問題を解くために何時間もかけるというのは、最も能率の悪い勉強法です。
しかし、それで成績を上げることが、その子の実力を育てることにはなりません。
答えのある問題は、答えを早く見つけることが大事ですが、世の中に出てからの大半の問題は答えのない問題です。
その答えのない問題に遭遇したとき、遠回りの勉強が生きてくるのです。
遠回りの勉強とは、自分で試行錯誤して、様々な失敗や回り道を経て到達する答えを見つける勉強です。
その遠回りの勉強の感覚を身につけた子は、大きな問題が出ても自分で考えようとします。
そういう自分で考えることの好きな人たちが、世の中の歴史を進ませてきたのです。
小中学校時代の義務教育の勉強は、基本的に難しいものは何もありません。
誰でも当然できるようになるべきものが教えられています。
しかし、それでは試験で差をつけることができないので、入試用のパズルのような問題が作られています。
その入試用のパズルの問題を解くことが実力をつけることではありません。
そういう問題は、どんどん解法を覚えておけばいいのです。
そして、本当に大切にするのは、答えのないことを、自分なりに、ああでもないこうでもないと考えることです。
そのためには、特に、小学生時代は、遠回りの勉強をしていくといいのです。
そういう勉強が、実験や経験や読書や遊びや親子の対話です。
問題集を解くような勉強は、一応はやっておいて実力と成績のバランスはとります。
しかし、成績の方にだけ目を向けてしまうと、肝心の実力が育ちません。
子供自身は、そういう大局的なことはわかりませんから、親がそのバランスを考えていくことが大切なのです。
【話は変わってサーバーの移転に伴うトラブルについて】
3月16日にサーバーの移転を行いました。
久しぶりの移転のため、対応できないソフトなどが多く、今でも文字化けの現象が出ています。
そのため、いろいろなページを今作り変えているところです。
当面、最も重要なのは、作文を送信する「作文の丘」と、評価を見ることのできる「山のたより」のページなので、この二つのページを改良しているところです。
もうしばらくお待ちください。
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「勉強は、すぐわからないところが面白い」
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キャノンの社長だった賀来龍三郎さんは、高校生のとき、尊敬する数学の先生に、「数学は公式から自分で考えて解け」と教わったそうです。
大学入試でも、その教えを忠実に守って公式から自分で考えて解こうとしたために、時間不足で不合格になりました。そのときは、その数学の先生を恨んだようです。
しかし、その後、社会人になって、根本的に考えることの大切さを何度か経験するうちに、その先生の偉大さを改めて感じるようになったということでした。
今の世の中は、どの分野も複雑化しているので、能率を上げるために、根本から考えるよりもまず操作できればよいという考え方が主流になりつつあります。
家電製品などでも、故障すると、昔は電気屋さんが中を分解して故障を箇所を見つけたのですが、今は、ブラックボックス化したICチップをまるごと取り替えるような修理の仕方になっています。
能率は大幅に向上したのですが、このまるごと交換という対応の仕方からは、工夫も発見も生まれません。
算数数学の問題でわからない問題があったとき、まず大事なのは、自分で考えてみることです。しかし、それではあまりに時間がかかるというときは、解答を見てその解法を理解します。
学校で勉強するような数学の問題は解けることが前提に作られているので、解法を見れば誰でもわかるようになっています。
しかし、それでも理解できないとき、つい人に聞きたくなります。しかし、そこで人に聞いてわかりやすく教えてもらうと、それはICチップをまるごと交換するような勉強になってしまうのです。
すぐわかったつもりになることは、かえって自分の力として定着しません。能率よく理解する度合いが強ければ強いほど、実力はつきにくくなるのです。
世の中の価値ある仕事の多くは、無駄な遠回りを積み重ねて作られています。
今の世の中の風潮は、能率を重視し、最小のコストで最大の効果を上げることに向かいがちです。
しかし、本当の楽しみは、苦労して自分なりにつかむという経験の中にあるのです。
自由な時間のある子供時代にこそ、そういう無駄な遠回りをする楽しさを味わうことが大切だと思います。
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久しぶりの記事になりました。
15日は全館休館で、16日はサーバー移転。
その後、移転に伴うトラブル続出で(笑)大忙しでした。
こちらが対応できない分を、いろいろカバーしていただいたみなさん、ありがとうございました。
今日の記事は、「教育の本質は遠回り」ですが、これを仕事にあてはめてみると、開発の本質は遠回り、仕事の本質は近回りと言えそうです。
サーバーのトラブル対応、引き続きがんばりたいと思います。
「数学は暗記だ」という和田秀樹さんと渡部由輝さんの本を読んで、数学が急に得意になったという人は多いと思います。
これを批判していたのが数学者の森毅さんでした。森さんの考えは、数学は考える勉強だというものでした。
しかし、実は両方とも正しいのです。
勉強はすべて、成績を上げるためのものと、実力を高めるためのものと分けて考え、両方をバランスよくやっていくことが大事なのです。
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国語力をつけるというと、漢字の書き取りの練習をするようなことしか思いつかない人が多いと思います。
それは、定期試験の前にでもやれば、ある程度の一夜漬けでも間に合うことです。
そのため、日常的に国語の勉強をしている人は少ないのです。
しかし、国語力は、漢字の書き取りのようなものではありません。
本当の国語力は、思考力のことで、それが読解力の差となって表れてくるのです。
2020年の大学入試改革で、国語の試験をどうするかということがやや迷走しているようですが、大きくは思考力や表現力を問うような問題に進んでいくと思います。
実は、その中心となるのは人工知能を生かした採点の導入です。
50字の記述問題の採点を人間がやるのは大変だとかどうだとかいう話は、やがて時代おくれになるでしょう。
先日、新聞のコラムに、英語と日本語の通訳の人の話で、語順が異なる二つの言語を同時通訳するためには、相手の言いたいことを予測して通訳することが必要になるという話が出ていました。
そして、そういうことはコンピューターではできないだろうというようなことが書かれていましたが、本当は、そういうことこそ、人工知能の得意とする分野です。
人工知能は、言葉を逐語的に解釈し、それを文法にあてはめて理解するというような方法はとりません。
言葉の集合全体を雰囲気のようなものとしてとらえ、その雰囲気が、他の言語のどういう雰囲気に対応しているかということを膨大なデータの蓄積をもとに類推していくというような方法をとるのです。
この人工知能を利用した国語の読解力と表現力の採点が実用化されてくると、本当の国語力とは思考力であるということが更にはっきりしてくると思います。
国語の試験問題を、当たった外れたというレベルで考えているうちは、国語力はつきません。
すべて理詰めで解いて、国語の試験こそ満点を目指すという気持ちで解くと、国語力は急速についていきます。
先日も、高校生の生徒で、センター試験の国語の解き方の記事を読んで理解した生徒が、それから国語の読解問題が常に満点になったという話を聞きました。
国語力を思考力だと考えて取り組めば、これは、決して珍しいことではないのです。
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「理詰めで解く国語――センター試験を例にして」
https://www.mori7.com/index.php?e=2334
国語の問題というのは、感覚で解くのではありません。すべて理詰めで解くのです。
理詰めで解けない問題は悪問です。そういう悪問もたまにはありますが、原則としてすべての問題は理屈で考えて答えを出せるようになっています。
ある年のセンター試験の問題で、高校生の生徒が、「これはどうして5が正解なのかわからない」という選択問題がありました。
設問は、「『そのような日常言語は、人によってニュアンスが異なり多義的である』とあるが、『そのような日常言語』の具体例として最も適当なものを選べ」というものです。
選択肢は、五つです。うち二つは明らかに×とわかるものなので、微妙な三つを載せると、
1、山に登ると水は貴重だ。ペットボトルの水が半分残っているのを見て、ある人は「まだ半分ある。」と思うし、別のある人は「あと半分しかない。」と思う。水の分量は同じであっても、その受け止め方は人それぞれだ。
2、略
3、略
4、友人とデパートの入り口で待ち合わせた。約束の時間に現れないので携帯電話に連絡すると、別の入り口にいた。「デパートの入り口で……。」という同じ言葉であっても、それぞれが思い浮かべた場所は違っていたのである。
5、最近、家を新築したおじが、「駅から近いよ、歩いておいで。」といって、手書きの地図をくれた。「近い」というので地図をたよりに歩いたところ、かなり歩かされた。「近い」といっても人によってはだいぶ差がある。
正解は、5です。
1も4も5も、同じようなことを言っているので、なぜ1と4が正解でないかわからないという人も多いと思います。
1は、「ペットボトルの半分の水」と実物が対象ですから、日常言語が対象になっているのではないということで、消去法的に×なのです。
4は、「デパートの入り口」というのはニュアンスではなく、定義が曖昧だっただけで、北の入り口とか南の入り口とか言っていれば解決したことですから、これも消去法的に×なのです。
5は、「駅から近い」という日常言語のニュアンスが対象になっているので、特に間違えているところはありません。
この結果、最後に残った5が正解になるということです。
こういう理詰めの解き方を身につけるだけで、国語の成績は短期間で上がります。
しかし、これは国語問題の解き方のテクニックであって、本当の国語力ではありません。
本当の国語力とは、思考力のことです。だから、国語力を見るためには、小論文と口頭試問のようなことが必要になるのです。
今後の大学入試は、そういう方向に向かっていくと思います。
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よく理系向きの子、文系向きの子という言い方がされます。
理系の子は数学が得意で、文系向きの子は国語が得意だと思われていることが多いのですが、理詰めの国語から考えると、実は理系向きの子の方が国語の力はつきやすいのです。
しかし、理系の子は、読書をあまりしない傾向があります。
だから、読書好きの理系の子が最強なのだと思います。
国語力をつけることは大事ですが、本当は読解問題で満点を取ってもそれほど嬉しいものではありません。
それは、答えのある勉強で、答えを見つけたということに過ぎないからです。
本当の面白い勉強とは、答えのない勉強です。
だから、国語力のある子は、国語の問題を解くよりも、作文や小論文を書く勉強の方が好きなのです。
量をこなすより、質の時代ですね。
国語力は、全科目の成績を上げるためにも大切ですね。国語力があるからこそ、問題の意図を読み取ることができそうです。
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子育ては、傍から見ていると簡単そうに見えます。しかし、当事者はなかなか大変です。
それは、「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を飲ませることはできない」ということを日々実感しているからです。
確かに、子供がごく小さいころは、無理矢理にでも水を飲ませてしまうことができなくはありません。
しかし、そういう時期はほんのわずかです。
難しくなるのは、子供に自立心が出てくるころからです。
子供の自立心と自律心を育てながら、親の望む方向に導くためには、ある程度のコツが必要です。
しかし、誰にとっても親となるのは初めての経験で、子育ては初心者ですから、初めはうまく行かないのが当然です。
昔は、それが祖父母や地域の集団活動の中で自然に伝えられてきた面がありました。
今は、孤独な母親がひとりで試行錯誤をしながら子育てをしているのが現状に近いと思います。
子供の学力は、学校や塾や習い事の中で育つのではなく、基本的に家庭の中で育ちます。
そういう子育てのいろいろなコツを、保護者どうしのコミュニケーションの中で伝えていけたらいいと思っています。
言葉の森の作文指導も、教育における家庭の関わりを生かす形で進めていく予定です。
その一環として、今後、自主学習クラスや思考発表クラブやオンライン作文で、保護者との面談や懇談の時間を定期的に確保していく仕組みを作っていこうと思っています。
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「勉強は追加すればだらだらやるようになり、早めに終えれば集中力がつくようになる」
https://www.mori7.com/index.php?e=2111
勉強が予定よりも早く終わると、親はつい、
「そんなに早く終わるのだったら、もう少しほかのこともやっておこう」
と言ってしまいます。ところが、それがよくないのです。
子供は、自分なりに、与えられた課題を早く仕上げて、お母さんに褒めてもらいたい、又は、早く勉強を終えて遊びに行きたいと思っています。
ところが、早く終わったことによって、その早く終わったことに対する罰であるかのように、新しい勉強が追加されるのですからたまりません(笑)。
そういう勉強の追加をやると、子供はそれからだらだら勉強するようになります。早く終えない方が得だということを学習してしまうからです。
犬の躾にも、似たようなところがあります。広いところで犬を放して遊ばせたあと、「おいで」と言ってもなかなか戻ってこないことがあります。何度呼んでも戻ってこないので、やっと戻ってきたときに、飼主は犬を叱ってしまうのです。
「どうして早く戻ってこなかったの。ゴツン」
すると、犬は、戻ってくると叱られるのだということを学習してしまいます。その結果、ますます戻ってこない犬になるのです。
どうしたらいいかというと、自分の都合で考えるのではなく、相手の立場になって考えるということです。それは、相手が自分よりも弱い立場にいるときほど必要なことです。
しかし、こういう間違いは、多かれ少なかれ誰でもしています。だから、そういう失敗を経験した人が、そのあとの人にその経験を伝えていけばいいのです。昔は、その伝える役割を大家族の中で祖父母が行っていました。これからは、地域あるいはネットの中で父母どうしが子育ての共有をするようになっていくと思います。
では、勉強が予定よりも早く終わったらどうしたらいいのでしょうか。
その前に、勉強は時間でやるのではなく、分量でやらせることが大事です。「○分の勉強」ではなく、「○ページの勉強」というように目標を決めるのです。
その「○ページの勉強」が見積もりよりもかなり早く終わった場合、親は、「わあ、すごい。早く終わったね」と喜んでおしまいにしておくのです。
そうするうちに、だんだんと、その子の実力に応じた分量がわかってきます。しかし、その場合でも、目一杯の分量ではやらせずに、少しものたりないぐらいの分量で続けていくことが大切です。
少なめの分量であれば、子供は自分で勉強の仕方をコントロールすることができます。時間で決められたり、多すぎる分量を与えられたりすると、自分で自分の勉強をコントロールできなくなります。
このコントロールする力が自律心です。
犬の躾の場合は、別に書かなくてもいいかとも思いますが(笑)、犬に長いリードをつけて遊ばせます。そして、「戻っておいで」と言いながら、リードを少しずつ引っ張ります。そうすると、犬は当然引っ張られて戻ってきます。そこで、「えらい、えらい」と褒めてやるのです。
できなかったことを叱るよりも、できるようにさせてできたことを褒めるのがコツです。
しかし、ここでもう一つ大事なコツがあります。
それは、叱るときには、ごくたまに厳しく叱ることです。いざというときには厳しいということがわかっているから、優しく褒められたときに嬉しくなるのです。
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よく、そのうちの兄弟全員の出来がよいという家庭があります。
それは、生まれつきがよいのでも、その子の通っていた学校や塾がよいのでも、使った教材がよいのでもなく、親の子育ての方法がよかったのです。
その方法のほとんどは、普遍的なものですから、誰でも真似ができます。
しかし、本を読んで伝えれるようなはっきりしたマニュアル的なものではなく、微妙なコツのようなものがあるのです。
そういうことを、保護者どうしのコミュニケーションの中で伝えられるようにできたらよいと思っています。
子育てのコツは、作文指導のコツとかなり似ています。
教え方の上手な人は、どんなに苦手で作文が嫌いな子でも、すぐに作文を書くことが好きになるようにさせてしまいます。
しかし、それはマニュアルではなかなか伝えることができません。
その先生の教え方を実際に見てみないとわからない面があるのです。
習慣、メリハリ、家庭での愛情を大切にしていきたいですね。
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