暗唱にどういう効果があるのでしょうか。
暗唱していると、発想が豊かになるという実感があります。書こうとすることに関していろいろな言葉が浮かんでくるので、文章がどんどん書けるようになるのです。
読書にも同じような効果があります。なかなか書けないとか、書くことがないという人がときどきいますが、そういう人に共通するのは、あまり本を読んでいないということです。普段本をよく読んでいる人でも、たまたまある期間本を読まないと、その間は文章を書きにくくなるようです。
字数と作文の実力との間には相関があり、長く書ける子は、書くことが苦にならず次々に書くことが浮かんでくるという傾向があります。もちろん例外はあり、短くても密度の濃い作文を書く子もいます。しかし、全体の傾向としてみると、字数と実力には深い関係があります。
なぜ暗唱をすると文章を書きやすくなるのかという理屈はまだわかっていませんが、暗唱によって、言葉が持っている意味の手足が活性化するので、次々に言葉がわいてくるという状態になるのだと思います。
実際にそういうことがあるということを、言葉の森の生徒の調査で調べてみました。それが下にあるグラフです。
12月1週から新しい暗唱法で暗唱の自習を始めました。この暗唱はオプションなので、暗唱をする人も暗唱をしない人もいました。しない人は、受験などで多忙だったり、暗唱の時間が取れなかったりした人です。
暗唱の自習オプションを選択した人は、12月4週までに900字を暗唱できるようにすることを目標にしました。約920名の生徒のうち3分の1の290名が暗唱の自習を選択し、暗唱を選択した人の2分の1の130名が900字の暗唱をほぼ完璧に言うことができました。グラフの中で、暗唱をした人となっているのは、この900字の暗唱ができた人です。
【暗唱の練習と作文の字数の関係】
| | 12月1週 | 12月2週 | 12月3週 | 1月1週 |
|---|
| 暗唱をした生徒の作文平均字数 | 842字 | 768字 | 759字 | 872字 |
| 暗唱をしなかった生徒の作文平均字数 | 829字 | 689字 | 675字 | 735字 |
| 字数の差 | 12字 | 80字 | 84字 | 136字 |
■グラフの説明
・11月4週から暗唱を始めました。
・12月1週は作文の進級テストなので、どの生徒もたくさんの字数を書きました。
・12月2週はテストが終わってほっとしたので、字数が少なくなりました。
・12月3週は感想文の課題で難しいため、字数が少なくなりました。
・12月4週は清書なので集計していません。
・1月1週は新学期の最初の課題で新鮮なので、どの生徒もたくさん書きました。
・12月1週は、字数の差がほとんどありませんでした。
・しかし、その後はどの週も、暗唱をした生徒の方が字数が多くなりました。
・ただし、これは暗唱の自習をしている期間、子供が作文の勉強に対して特に意欲的になったということもあると思います。
・まだ期間が短いので確定的なことは言えませんが、暗唱をしていると作文がよく書けるようになるという傾向はあるようです。
反復という方法を主とする教育と、理解という方法を主とする教育の対立は、これまでさまざまなところで繰り返されてきました。
以前、「数学は暗記だ」という刺激的なタイトルで、和田秀樹氏が、解法を暗記して自分のものにしてしまう数学勉強法を提唱したことがあります。この勉強法で、苦手な数学から解放された人は多かったと思います。
しかし、数学者の森毅氏は、こういう勉強法を否定して、数学は覚えるものではなく考えるものだという議論を展開しました。この議論にも多くの人が納得したと思います。
では、どちらが正しかったのでしょうか。実は、浅い反復教育と浅い理解教育の先に、更に深い反復と理解の教育があったのです。
和田氏と森氏のそれぞれの意見は、もちろん深いものでした。しかし、もっと深いところに降りていくと、両者の異なるように見える議論は実は一つにつながっていたのです。
浅い反復教育とは、単純な知識を覚えて自分のものにするような教育です。「富士山の高さは、3776メートル」という知識を覚えるのは、浅い反復教育です。この知識だけの問題が出れば正解を言えますが、だからといってこの知識が生活のほかの分野に生かされることはあまりありません。つまり、閉ざされた完成品の小さな知識のキットをたくさん持つことを目標にするような教育が浅い反復の教育です。
この教育の問題点は、反復の勉強の過程で、完成品を集めることが勉強することだと勘違いしてしまうところにあります。
文章を書くことに関して言えば、名文を覚えるのはいいのですが、それをただ暗記してオウム返しに言うだけの勉強になってしまうのが浅い反復の教育です。
浅い理解教育とは、手持ちの材料だけを使い、自分で考えて作り出すような教育です。
自分で考えるという点で、この教育は将来性があります。しかし、問題点は材料を集めることが二の次になってしまうことです。
完成品のキットを集める方法よりも、限られた材料を工夫して自分で考えるという点は創造的ですが、限られた材料であるためにある程度以上の高さのものは作れないという弱点があります。
文章を書くことに関して言えば、自分が自然に持っている語彙と実例だけで文章を書くことです。身近な生活体験を書くことはできますが、より広い社会的なテーマを論じる意見文を書くには材料が不足してしまうということになります。
深い反復と理解の教育とは、反復によって身につけた豊富な材料を生かして、自分で工夫して何かを作り出すような教育です。
数学で言えば、解法を覚えるだけでもなく、自分で考えるだけでもなく、豊富な解法を組み合わせて自分で考えるということです。
文章を書くことに関して言えば、豊富な実例や表現を駆使して、自分なりに考えて書く文章ということになります。
ところで、昔は、浅い反復教育の弊害というものはあまり問題になりませんでした。
子供たちの勉強する時間がそれほど多くなく、勉強以外の時間のほとんどで自分なりに考える遊びを豊富にしていたからです。
しかし、現代は違います。反復の学習をしてその結果を出すことだけが自己目的化してしまうぐらい勉強の時間が長くなった子が増えているのです。
九九を覚えるぐらいの反復学習であれば、その九九は材料として日常生活の中で生かしていくことができるので何の弊害もありません。
しかし、九九をどれだけ早く言えるかとか、何桁までの九九を言えるかということが、それだけを取り上げて競争するような勉強になると、反復学習の自己目的化が始まります。
九九のような単純なことだけでそのような競争が行われればだれでもそこに不自然さを感じることができますが、その単純な競争が新しい教材として提供されるようになると、単純な学習が自己目的化しているとは感じにくいのです。
そして、現代では、小学校低学年の間だけでなく、かなり長期間にわたって、このような反復による学習が有効であるように見える状態が続きます。
では、深い反復と理解の教育を実現するためには何が必要なのでしょうか。
一つは逆説的に見えますが、反復の学習をもっと徹底することです。今、小学校では教科書の音読が宿題としてよく出されています。しかし、音読の学習は、数回読んだぐらいではあまり意味がありません。もっと徹底して、暗唱するぐらいに読み続けて初めて学習の土台とすることができます。
もう一つは、反復によって身につけた材料をただ知識として再現するのではなく、新たな創造の材料として使っていくことです。それが発表の学習です。
どんぐり倶楽部の理解する教育と、公文式や七田式や百マス計算などの反復する教育は、一見正面から対立しているように見えます。
しかし、そうではありません。両者はより深いところで結びついていくものです。それを結びつけるのが発表の教育なのです。