世界経済は、大きな曲がり角に来ています。その状況を一言で言えば、返済が不可能なほどにふくらんだ借金をいったんハイパーインフレや徳政令で吹き飛ばさないかぎり、新しい時代は始まらないという状態になっているということです。
しかし、その新しい時代の見通しは、もうついています。それは、人間の実際のニーズに裏打ちされた生産活動が行われる社会です。
実際のニーズの根本には、食料やエネルギーという第一次産業があるのは当然ですが、それと同時に、工業やサービス業も、人間の実際のニーズに支えられていれば、未来の社会を支える産業になります。そうならない産業は、だれも必要性を感じていない軍需産業、本来少なくなるのが望ましい医療産業、あまったマネーを操作しているだけの金融産業などです。
では、日本の未来の産業は何になるのでしょうか。
日本は、これまで製造業立国を国是としてきました。しかし、その条件は大きく変化しつつあります。それは、中国の台頭、フロンティアの不在、電子化の流れなどが起きてきたからです。
まず第一は、中国が新たな製造業の生産国として登場してきたことです。今はまだ、中国の製造業は、いくつかの弱点を持っています。それは、比較的安い人権費に支えられてきたこと、品質にまだ信頼性がないこと、高度な技術に関してはまだ日本より遅れていること、などです。しかし、実はこの弱点は、高度経済成長前の日本の製造業が、アメリカなどの製造業と比べて指摘されていたことと同じです。
中国の製造業の有利な点は、国内やアフリカなどの途上国に巨大な市場を持っていること、現代の最新の設備で生産できる体制を整えていることです。
したがって、日本の成長を支えてきた製造業の多くは、今後、中国に追いつき追い越されていくと思います。
第二は、製造業の新しいフロンティアが乏しくなっていることです。自動車や家電製品などの耐久消費財は、日本ではほとんどの家庭に既に行きわたっているので、買い替えの需要しか生まれません。
また、これらの耐久消費財の分野で製品の高度化を目指すといっても、その程度はわずかです。例えば、より高級なテレビ、よりハイグレードな自動車などというニーズは、経済を新たに牽引する力を持っていません。日本人が、製造業に対して魅力を感じるようなニーズが現代ではなくなっているのです。
第三は、製造業に押し寄せている電子化の波です。
例えば、自動車は、複雑な内燃機関を機械的に組み立てたものから、電気自動車のように電子化された部品を組み合わせたものになりつつあります。この電子化によって、日本の製造業が持っていた技術的な優位性は、今後次第に失われていくと考えられます。
これまでの物づくりのノウハウは、主に身体的ノウハウとも言えるもので、手や目の感覚を頼りに、人間が物と対話をしながら進めていく面がありました。
ところが電子化によって、この身体的ノウハウが、知識的ノウハウになってくると、人間と物との微妙な関わりは不要になり、ある組み合わせ方をすれば、だれが組み合わせても同じ動作をするというような物づくりが可能になります。
以上のような三つの面における情勢の変化を考えると、日本の産業の未来は、自ずから明らかになります。
第一は、中国が追いつけない技術を開発することです。第二は、製造業の新しいニーズを作り出すことです。第三は、電子化の前提となっている身体的知識を生かし電子化を先導することです。
このときに日本の新しい産業に要求される技術は、知識的技術ではなく身体的技術ですが、それは、ある一つの分野に専門化した単発的な技術ではありません。新しい素材、新しい技術、新しいニーズと組み合わさった創造性のある身体的技術なのです。
これをわかりやすい言葉で言えば、職人的な技能によって支えられた最先端の総合研究所のような技術と言うことができます。惑星探査機はやぶさや、宇宙帆船イカロスなどは、新ニーズ、新技術、新素材という条件に、日本独特の身体知を組み合わせた試みだと言ってもいいでしょう。
日本の製造業は、ICを生かした組み立て産業になるのではなく、創造的な身体知を生かしてICの新しい設計図を提案するような研究開発的製造業になる必要があります。
日本の未来の産業は、この研究開発産業であり、これが日本の外需を作り出します。従来の加工組立型の製造業は、次々と中国にシフトし、それに応じて日本は研究開発型の製造業になるというのが、日本と中国が共存する未来像です。
このときに、日本の国内の需要を支えるものは、身体知を中核に、幅広く最先端の知識や技術やニーズを学ぶという学習や修行の産業です。
古代ギリシアの主要な国内産業は、学問と芸術と政治でした。それと同じように、未来の日本の国内に向けた産業は学習と修行になり、国外に向けた産業は研究と開発になると考えられます。
もちろん、かつての古い製造業は衰退しつつありますが、今はまだ主要な産業です。また、今後、世界のインフラ整備のために、日本の鉄道技術や土木技術が脚光を浴びる時代も来るでしょう。
しかし、更にその先にある日本の未来像は、修行社会と研究産業であり、日本という国そのものがひとつの人類の巨大な総合研究所になる未来です。
子供たちの勉強も、この展望のもとに進めていく必要があります。それは、教科の枠を超えた幅広い知識、多様な知識を統合する創造性、社会に貢献しようとする倫理観を伴った勉強になると思います。
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江戸時代までの日本人の頭のよさを育ててきたものは、反復する勉強法と、明るい日常生活と、日本語でした。
現代の日本人を見ると、二通りの勉強をする子供がいるように思えます。
一人は、小学校低学年から成績をよくする勉強を忍耐強く行い、頭をよくすることを忘れて、やがて受験勉強の時期を迎えます。
もう一人は、小学校低学年から頭をよくする勉強や生活を楽しく行い、成績は平凡なまま、やがて受験勉強の時期を迎えます。
やがて、その二人が本気で受験勉強を始めるようになると、成績のよかった子の成績もそれなりに伸びますが、頭のよかった子の成績は半年ほどで急上昇します。その結果、それまでの何年間にもわたる成績の差が、受験期のわずか半年で逆転してしまうのです。
先生も親も本人も驚く、このような逆転というのは、実はかなりあります。
成績が急によくなる方向に逆転する子の共通点は、読書が好き、作文が得意、熱中できる趣味があること、などです。将来は、この特徴にもう一つ、言葉の森の暗唱をよくしていたというのが加わるようになると思います。
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日本語という言語には、他の言語には見られない特徴があります。
第一は、外界を人間化してとらえる母音言語という特徴です。日本語では、自然の音を左脳の言語脳で把握します。「雨がザーザー降っている」「セミがミンミン鳴いている」という表現です。音だけでなく、様子についても、「雲がふんわり浮かんでいる」「太陽がぽかぽか照っている」と様態を母音で表します。
母音を人間世界の音、子音を非人間世界の音とすると、自然の音も含めてすべて母音の含まれる音で表す日本語は、自然そのものを人間的なものとして受け入れる言語だと言えます。日本文化におけるアニミズムは、この言語における自然の人間化と密接な関係を持っています。
この外界を人間世界と同じようなものとして受け入れる発想から、自然に対する繊細な観察眼が生まれました。日本人は、自然を、人間が征服すべき単なる外界の素材と考えるのではなく、人間に協力してくれる意志を持つ仲間のように考えます。例えば、針供養は、針を道具としてではなく、仕事の協力者として見る発想から生まれました。
自然や道具に対するこの人間化した見方が、自然や機械と対話する日本文化を生み出しました。日本の工業製品の品質が優れているのは、人間と製品の間に、人間どうしの間に見られるような対話があるからです。その対話の土台となっているものが、日本語の母音性から来るアニミズム的な発想だと思います。
第ニは、表意文字と表音文字を組み合わせて視覚的な理解を促す漢字かな混じり文という特徴です。日本語における漢字とかなは、脳の異なる部位で処理されています。漢字は、絵と同じようなものとして認識されているので、日本語の文章を読むと、文字が視覚的な映像を伴って処理されます。このため、漢字かな混じり文は、一目で全体を理解しやすいという特徴を持っています。
アルファベットのような表音文字の場合でも、文章を読む量が増えてくるにつれて、単語という文字の塊を一種の図形のように認識するようになるようです。しかし、図形化の度合いは、もともと表意文字である漢字の方が優れているので、日本語は西欧のアルファベット言語よりも、物事を理解する手段として有利な言語なのです。
また、漢字が主に名詞として概念を表すのに対して、ひらがなは主に概念と概念をつなぐ媒介としての役割を果たします。中国語が語順によって概念と概念の間にある関係を表すのに対して、日本語は語順ではなく、漢字と漢字の間にひらがなをはさむことによって概念相互の関係を表します。ひらがなが介在することによって、概念を表す漢字の組み合わせ方が自由になるというところに、日本語の発想の豊かさがあります。
日本語は、表意文字の部分で理解力を高め、表音文字の部分で創造性を高めるという不思議な特徴を持った言語なのです。
第三は、助詞や助動詞という語尾のニュアンスで微妙な差異を表現する膠着言語という特徴です。英語や中国語と異なり、日本語は、文の最後まで聞かないと、その文を正しく理解できません。例えば、「私は、明日、学校に行く……」まで聞いても、そのあと、「行くでしょう」か、「行くかもしれません」か、「行く気はありません」か、どのように続くか判断できません。
そのため、日本語は、話し言葉でなかなか句点をつけずに、いつまでも続くような形をとりがちです。「その件については、前向きに善処したいと、このように考えているわけである、と言いたいところですが、やはり、何と申しましても……」というような言い方になると、聞き手は最後まで気を緩めることができません。
この膠着語における文末の微妙さが、日本文化における微妙な差異に対する関心を生み出しました。そのため、話し言葉では、文末は、しばしばぼかされる形で微妙な雰囲気を相手の受け取り方にゆだねます。「この間は、どうも……」「はい、おかげさまで……」「ちょっと、そこまで……」などという言い方です。
話し言葉の特徴は、書き言葉にも表れます。書き言葉では、文末をぼかす形がとれないので、言い切らない表現が多様されます。「そうである。」という断定ではなく、「そうであろう。」「そうだと思われる。」「そうだと言える。」「そうだと言いたい。」などという表現です。また、ニュアンスを表すための顔文字や「(汗)」「(笑)」などが多用されるのも、相手の微妙な受け取り方を前提にして文章を書くという日本語の特徴です。
膠着語は、微妙な差異を生み出せるために、互いに相手の受け取り方に気をつかうという配慮の文化を生み出したと言えます。
20世紀の世界言語は英語でした。それは、世界共通の言語としてコミュニケーションのツールに役立つ特徴を備えていたからです。
しかし、今後は人工知能の発達によって、言語は次第に自動翻訳が可能な表現手段になってきます。
世界に何千もの言語があることを考えると、個人が学習によってそれらの言語に精通することは不可能です。英語が世界の共通語になったのは、言語の習得に時間がかかることから、言わば消去法として選ばれたという事情があります。
人工知能が世界中の言語の自動翻訳を可能にする時代に、言語に求められる役割は、もはや世界の人々とのコミュニケーションではありません。新しい時代の言語の役割は、コミュニケーションのツールではなく、理解や認識や思考のツールとしての役割です。
しかし、言語が認識のツールになるためには、その言語が個人の母語になっている必要があります。コミュニケーションのツールであれば、後天的に習得することが可能でした。しかし、ある言語が認識のツールとなるためには、その言語が母語として血肉化されている必要があります。また、バイリンガルの教育法が開発され整備されれば、母語は複数であることも可能です。
こう考えると、日本語は、感受性と理解力と創造性を育てる言語として、将来の世界共通語になる可能性があります。しかし、このことは、まだ日本人以外には、ほとんどの国の人が気づいていないと思います。
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