読書というものの最終的な姿は、ひとりで読む、好きなものを読む、自分のペースで読む、考える材料として読む、という形です。本を読む生活が日常化している人は、通常こういう読み方をしています。
しかし、世の中には、本の好きでない子に本を読ませる工夫として、この読書の自然な形から遠ざかる読み方を教えているところもあります。子供の教育としての読書は、大人の読書生活としての読書とは異なりますから、いろいろな工夫をするのはよいことですが、あまり人工的な工夫は、かえって長続きしません。
学生時代に読書会をしたことのある人は多いと思いますが、読書会の欠点は、第一に、読むのが遅すぎることです。本というものは一挙に最後まで読んだ方が頭に入ります。難しい本の場合は、最後まで読んでそのあと再読すればよいのです。ところが、読書会では、1章を1週間かけて読むというような読み方をします。これでは、理解できるものもかえって理解できなくなってしまいます。
第二に、読む人のレベルに違いがあることです。参加する人が同じぐらいのレベルだということは、めったにありません。すると、話がはずむのは、低いレベルの話題のときだけということになります。
第三は、興味が人によって違うということです。したがって読書会は多くの場合、一部の人にだけ興味があり、ほとんどの人にはあまり興味のない本で行われるようになります。
読書は、読書会などでゆっくり読み合うよりも、自分のペースで好きな本をどんどん読んでいった方がずっと楽しく能率よく身につきます。
読書会形式が役に立つのは、その本に精通していて参加者全員よりも一段高い立場にいるリーダーとなる人が存在しているときです。これは、学校でいえば先生にあたります。つまり、いい先生がいる、参加者が大体同じレベルである、参加者の興味が似ている、というのが、読書会がうまく行く条件になります。
しかし、これは参加者と本のレベルが低いときに成り立ちやすい条件です。参加者と本のレベルが高くなるにつれて、この条件は成り立ちにくくなります。
小学校の学年で言うと、小学校2年生から4年生ぐらいまでは、読むレベルが似ているので、読書会という形式で本を読むことも可能です。しかし、小学校2年生から4年生のころは、そういう回りくどいやり方をしなくても、読む機会さえ増やせば、だれでも本を読むようになるものです。
小学校5年生以上になると、読書会はかなり難しくなります。このころになると、読める子と読めない子の差がかなり広がるので、そういう読書力の差をうまくまとめられる先生はほとんどいなくなります。そして、たとえうまくまとめられる先生がいたとしても、読書力のある子は、読書会よりも自分のペースで本を読むことを好むようになるのです。
こう考えてみると、読書会形式は、教室集団の一斉授業で、先生の工夫がカギで、参加する生徒はただのお客さん、という近代の学校スタイルの勉強を無意識のうちに踏襲しているように見えます。
未来の教育は、個人別に対応し、先生は後ろから見守るだけで、生徒が自分のペースで進めていく、というようなものになります。
読書する子を育てるという場合、どんな本をどのように読むかということよりも、まず毎日必ず読むということが大事です。毎日家庭で本を読む時間を確保すれば、それだけで本を読む子は育ちます。そのあと、初めてどのような本をどのように読むのかを考えていけばいいのです。
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中学生の場合、受験のような目標がないかぎり、子供には勉強に対する自覚がないというのが普通です。
中学生といっても、体と態度が大きくなっているだけで(笑)、中身は小学生のころとあまり変わっていません。
また、中間テストや期末テストをはじめとする中学校生活も、子供にとっては初めての経験なので、右も左もわからないままだんだん慣れていくという感じで学校生活を送っています。
勉強の仕方も、当然ですが、漠然としかわかっていません。そして、そのわかり方も大抵の場合、かなり勘違いしたわかり方をしていることが多いのです。
もちろん、中学生の生活や勉強がよくわからないというのは親も同じです。そこで、親は、「子供の方がよくわかっているのかもしれない」と、子供に遠慮してしまいます。一方、子供は子供で、「親にはわかるまい」と、困ったことがあっても親相談しません。そこで、つい勉強は学校や塾に任せてしまうということになるのです。
親も子も、どちらも中学校生活が初めて経験であると考えて、親子が協力して立ち向かうという姿勢が大切です。
親は年季があり、子供は体力があります。情勢を分析して対策を立てるのは親の方が上手です。
そのために大事なことは、親が子供の勉強の実態をしっかり見ることです。単にテストの点数だけを見るのではなく、子供の答えを見て、親も実際に問題を解いてみて、子供になぜその答えにしたのか聞く、というのが実態を見るということです。
現場に行けば、必ずその現場の問題と対策が自ずからわかってきます。現場に足を運ばずに、勉強は学校や塾に任せて、親はお金を出すだけというのでは、その子の実態に合った正しい勉強はできません。
親も仕事で忙しく、なかなか子供の勉強を見る時間はとれませんが、その大変さも1、2年の辛抱です。親が多忙なときに子供の面倒を見たということが、いずれ子供にも感謝の気持ちでわかるようになる日が来ます。
子供を上手に勉強させるいい方法というのはありません。いちばん大事なのは、「主人の足跡は畑の肥やし」というように、親が億劫がらずに毎日子供の実態に触れるということです。
しかし、親が子に密着すると、当然また新たな問題も出てきます。ひとつは、干渉のしすぎで、親の権威によって一方的に子供に指示を与えるようになると、そのときはうまく行ったように見えても、あとで別の問題が出てきます。また、逆に、親の権威がないと、子供が親に反発し親子げんかになることもあります。
しかし、こういうトラブルも、親子が互いに成長するきっかけになると前向きに考えていくことです。
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問題集読書の自習は、これまで通学クラスで、教室にある問題集を貸出する形で行ってきました。
この7月に2011年受験用の入試問題集が発売されましたので、通信クラスでも、問題集読書と四行詩の自習をスタートすることにします。対象は、小5以上の希望者です。
問題集読書の特徴
問題集読書と四行詩は、子供たちにとっては
楽しい勉強になるので、ほとんどの子が意欲的に取り組みます。
問題集読書は、受験に対応した
読解力を身につけるいちばんいい方法です。
自宅での読む学習は、先生に教わる形で国語の勉強をするよりも、ずっと
能率よく国語力がつきます。
問題集読書をもとにした四行詩を書くと、使える語彙の数が増え
表現力が向上します。
問題集読書の仕方
問題集読書の仕方は、次のようになります。
(1)まず、問題集を、お近くの書店やアマゾン書店などで購入してご準備ください。
大学入試問題集には、私立大編もあります。内容、価格ともほぼ同じですが、国公立大編の方が読みやすい文章が多いようです。(私立大編には無意味に難解な文章が時々あります)
書店に品切れの場合、アマゾン書店などで中古本を購入することもできますが、その場合は定価よりも割高になります。
(2)問題集読書の自習を始めることをウェブから登録してください。
https://www.mori7.net/mori/mdds.php (7月15日から受付開始)
この登録によって、担当の先生が毎週の自習チェックをするようになります。
ウェブからの登録ができない方は、お電話でお申込ください。電話0120-22-3987(平日9:00-20:00)
(3)登録をすると、「手引」と表紙(分冊作成用)が、言葉の森から送られてきます。
(4)「手引」の説明を見て、ご自宅で、分冊を作成してください。
(5)問題集の分冊を毎日4-6ページ読み、四行詩を毎週5-6編書き、毎週の作文と一緒に先生に送ります。
問題集読書は、毎日の読む時間が10分程度、書く時間が5分程度です。四行詩の書き方は「手引」の説明を見てください。
四行詩を書く用紙は、ルーズリーフ用紙やレポート用紙などを各自でご用意ください。作文用紙に書くと用紙が足りなくなります。
パソコン入力で作文を送る生徒は、四行詩もパソコンで入力し、作文と一緒に送ってください。
(6)先生は、四行詩をチェックして返却します。添削やコメントなどは書きません。この勉強の中身は、本人が書くことで、そのあとの評価ではないからです。
補足説明
小学5年生にとっては中学入試問題はまだやや難しいところがあるので、小学6年生から始めるようにしてもいいと思います。
言葉の森の毎日の自習で、暗唱と問題集読書の両方をこなす時間が取れない場合は、どちらか一方にしてもかまいません。(自習は暗唱と問題集読書の両方をするのが理想ですが、中学生以上で暗唱を特に負担に感じるという場合は、問題集読書の自習だけにしてもいいと思います。ただし、できる人はなるべく両方をやってください)
小学4年生以下は、将来、普通の読書をして四行詩を書く自習を行うようにしていきます。ただし、低学年では書く作業が負担になることが多いので、毎週の四行詩を、小1は1題、小2は2題、小3は3題、小4は4題というように、学年が上がるごとに少しずつ増やすようにしていく予定です。読書そのものは毎日必ず10ページ以上読むようにしてください。低学年で自分ではなかなか読めないという場合は、読み聞かせを読書と同じものとして考えてください。
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7月から、課題の長文も暗唱しやすいように、区切り番号をつけました。
課題の長文は、「課題の岩」というページでプリントアウトすることができます。
この課題の長文を見て、お父さんやお母さんも、高校生用の長文などで暗唱の練習をしてみてください。
100字の文章を30回繰り返して音読するのは、10分もかかりません。朝、出かける前に10分、暗唱の練習をして、会社や学校に出かける途中の道で何回か繰り返せば、それでもう暗唱は完璧です。課題の長文は、自分で好きな文章を見つけてきてもかまいません。
暗唱の練習をすると、頭が急速に疲労するせいか眠くなることがあります。それを利用して、夜寝る前に暗唱の練習をしてもいいと思います。
毎日10分間暗唱の練習をしていると、1ヶ月で900字の暗唱ができるようになります。ここまでやると、頭が活性化する感じが、人それぞれにつかめるようになります。
暗唱は、子供のためだけのものではなく、大人にとっても楽しくできる勉強です。また、ある意味で、大人の方が子供よりも大きな効果があるとも言えます。大人の場合は、暗唱をしていると発想が豊かになってきます。
親が一度暗唱の自習をやっていると、子供の暗唱についても的確なアドバイスができるようになります。
暗唱で挫折しやすいやり方は、次のようなものです。
(1)覚えようとして読む。(覚えることが目的ではなく、繰り返し音読する結果として自然に覚えるということです)
(2)最初に間違えて読んだためにいつまでもその間違いが残る。(最初の数回は、特に慎重に読んでください)
(3)区切りや抑揚をつけてゆっくり読む、又は、自分でも判別できないぐらい早口で読む。(聞き取れるぐらいはっきりと、しかしできるだけ早口で読んでください)
こういうちょっとしたコツも、大人が暗唱をした経験があると、子供にわかりやすく教えることができます。
「私は覚えるのが苦手で」という人がときどきいますが、暗唱は、記憶力とは全く関係ありません。繰り返すという方法さえ守れば、だれでも自然に暗唱できるようになるのです。
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「メディア」という言葉を、ここでは、世論形成に影響力を持つ理念や情報の「媒体」となるものという意味で使います。
江戸時代、貝原益軒は「和俗童子訓」を著しました。「和」は「漢」の反対で、「俗」は「雅」の反対です。つまり、益軒は、当時のエスタブリッシュメントである「漢」と「雅」に迎合しない立場を鮮明にして、教育論や人間論を著したのです。
益軒の著作は、当時台頭した版木による出版方法で、一躍日本中に広がりました。江戸時代の主要なメディアは、政治のシステムと宗教のシステムでしたが、出版という新しいメディアが、これら既存のメディアを超えて、新しい日本の文化を作ったのです。
では、現代のメディアは何でしょうか。
テレビや新聞というマスメディアは、かつて大きな影響力を持っていましたが、経営が広告料に依存するような仕組みになっていたために、次第に金権化していきました。このため現在、メディアとしての影響力は、急速に低下しています。
広告に依存するという点では、グーグルなどのネット産業も金権化する可能性を持っています。グーグルは、今検索エンジンのトップを走っていますが、そのサービスの本質はリアルなものではなく、アルゴリズムというバーチャルなものですから、今後何かのきっかけで影響力が急に減少するということもあり得ます。
出版やインターネットは、金権による影響力を排した自由な発言が可能な場ですが、これらのメディアは選択した人にしか届かないという弱点を持っています。
宗教は、昔も今も一定の影響力を持っていますが、根本的に民主主義と両立しない面があるので、日本ではある程度以上広がることはありません。
日本の政治を実質的に動かしていた官僚制は、責任の所在が不明なまま大きな影響力を持っていましたが、今後の政治改革で権限を制限されていくと思われます。
日本の表の政治は、権力の中枢が分散化していたために、統一性のあるリーダーシップを発揮できないでいました。この傾向は今後変わっていくと思いますが、まだしばらくは混乱が続きそうです。
教育もまた、ひとつのメディアとしての役割を持っています。しかし、教育を担う現在の学校は、理念という価値観が不在のまま、進学実績だけを目標にした塾や予備校と同じようなものになっています。
一方、進学の目標となっている大学も、就職予備校化するとともに、AO入試などにより学力の裏づけのない学歴を量産し、国際的な評価からはずれたガラパゴス化した教育機関になっています
日本で唯一成功したメディアは、企業による仕事を通しての教育でしたが、これは現在、派遣労働の常態化によって急速にその力を失いつつあります。
日本という国の最も優れた点は、国民ひとりひとりの知的、倫理的水準が高いことでした。
世界中のほとんどの国は、国民性悪説に基づいて政治を運営していますが、日本の政治は基本的に国民性善説に基づいて運営することができました。しかし、その土台となる国民性も、自然に任せて維持できるものではなく、日々の教育的な営みの中で初めて高い水準を保てるものです。
こう考えると、これからのメディアとして期待されるものは、新しい教育に支えられた新しい政治になるのではないかと思います。
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