これからの世の中を考えると、さまざまな不安が思い浮かびますが、不安を前提として考えるのではなく、希望を前提として考えることが大事です。
なぜなら、人類の生産力の発展をとってみても、人間の精神性の向上をとってみても、自由な情報の広がりをとってみても、新しい科学技術の発達をとってみても、どれもよい条件が年々増えていることがわかるからです。
悪い社会が来ることを前提として固く萎縮していれば、悪い社会は加速してやってきます。
よい社会が来ることを前提として前向きの行動をとっていれば、よい社会もまた加速してやってきます。
よい社会を加速させる上で大きく役立つのが、創造性を育てる教育です。
基礎学力は寺子屋方式で身につけ、余裕のできた時間を創造性の開発に向けるという大きな方向が、これからの教育に求められてきます。
創造性を育てる要になるのが、日本人にとっては日本語です。
日本語による音読、暗唱、対話、読書、思索、作文が、これからの創造性を育てる学力の中心になってきます。
私たちの意識は、まだ人間の幸福を勝ち負けで考えているところがあります。
他人よりもよい生活をして、のんびり楽に暮らしたい、という勝者の平穏のような状態が、人生の漠然とした目標になっているのです。
しかし、勝ち負けを前提にした幸福は相対的なもので、すぐに飽和状態がやってきます。
生活の心配なく、毎日砂浜に寝転んで、飲んだり食べたり遊んだりしていることが永続的な幸福になるかというと、そういうことはありません。
真の幸福は、自分の好きなことをすると同時に、それが創造的なものであり、結果として社会に貢献することになるということが条件になります。
そして、人間の社会は、すべての人が自分の好きなことを、生活の心配なく楽しくできて、毎日が創造的であるという生活をする方向に向かっています。
それを、遠い未来のあてのない夢物語と考えるのではなく、この現実の人生の中で、できるだけその社会に近づけていくことが大切なのだと思います。
私(森川林)が子供のころ、物心ついたときには既に、家に犬とチャボとアヒルがいました。横浜の普通の都会の話です。
父が動物好きで、いつも何かしらの生き物を飼って、家の中や周囲に放し飼いにしていました。だから、私自身も、そういう生活が普通のものだと感じていました。
昔は、街なかに野良犬などもよくいたので、小学生のころは、友達と近所の野原で野良の子犬を飼っていたこともあります。
中学生になると、急にジュウシマツを飼いたくなり、つがいを買ってもらい、次々に雛を育て手乗りにしました。
動物が近くにいると、何かほっとする気持ちになります。
後年、「ソロモンの指輪」という本で、正確な文は定かではありませんが、「動物との生活を知らない人には、人生の幸福の半分は隠されている」という一節を読み、妙に納得するところがありました。(その分、ほかの幸福を増やせばいいのだとも言えますが。)
そこで、自分の子供が生まれたころ、何よりも犬を飼うことを最優先にしました。子供が保育園のころ、秦野市のブリーダーから1ヶ月半のゴールデンレトリバーを買ってきて、家の中で飼うことにしました。
その後、子供が、近所の公園から野良猫を拾ってきたり、夏祭りですくってきた金魚を飼ったり、カニを飼ったり、カタツムリを飼ったり、やがて野良猫が子供を産んだりと、にぎやかな家になりました。
下の子は、ぜんそく気味でしたが、動物が増えて家の中が汚れてくるにつれて免疫ができたせいか、ぜんそくも自然に治ってしまいました。
子供たちは、もともとみんな動物が好きです。しかし、いろいろな理由で犬や猫を飼えないという家庭も多いと思います。
子供の情操教育というか、自然の人間らしい感情を育てるためには、動物と一緒に暮らす生活は大いに役立つと思います。
この4月に、近所のペットショップから、オカメインコと文鳥の1ヶ月の雛を買ってきました。
動物と共感する感情にも、臨界期というものがあるようで、幼児期から小学校低学年の時期に動物と一緒にいる時間があると、心から動物好きの子になるような気がします。