インターネットとタブレットを利用した勉強法が広がっています。
もちろん、言葉の森でも、インターネットとパソコンを使った勉強を進めています。
しかし、今のICT教育(Information and Communication Technology。情報通信技術)には、どこか軽佻浮薄な感じがあるのです。
教育の対象は子供です。子供にとっては、パソコンとインターネットが生かせる分野もありますが、それ以上にこれまで長年の蓄積がある紙ベース、鉛筆ベース、生身の人間ベースで勉強した方がよい分野も多いのです。
パソコンとインターネットの利点は、既にいろいろ言われているので、ここではその問題点を述べたいと思います。
何でもかんでもICT教育に任せるのではなく、その長所と短所を見極めて、本当に必要な分野だけに集中して利用することが大事だと思うからです。
パソコンとインターネットの問題点の第一は、手書きの感覚を忘れてしまうことです。
その手書きは、「ちょっと図を書いてみる」というような意味の手書きです。
見通しのつかない問題を考えるとき、人間はまず手を動かして考えます。答えのある勉強なら、手を動かさなくても、思い出せるかどうかで勝負はつきますが、答えのない分野は、まず試行錯誤をしてみないと先に進めないことが多いのです。
言葉の森がパソコンとインターネットを本格的に利用しだしたのは、1996年ですから、まだそういうことをする人が周囲にほとんどいなかった時代です。
このころに、小学1年生から、手書き文字変換のソフトを使って、マックのクラッシクという超古いパソコンで作文を書く指導をしていたのです。
通学教室では、ローマ字を習う小4からは原則としてパソコン書きとしていたので、このころ勉強した生徒たちは、パソコンのブラインドタッチが楽にできるようなり、社会人になってからいろいろ得をしたようです。
そのパソコン中心の環境を、手書き中心の環境に戻したのは、作文を書く前に構成図を書くようにしたからです。
作文は、小学校低中学年のときは、書きたいものがそのまま作文になるので、特に構成図を書く必要はありません。
しかし、学年が上がるにつれて、書きたいものと書けるものとの差が出てきます。それは、学年が上がると、考えながら書くようになるので、書き進むにつれて書きたい内容が変化してくることもからです。
そういう考える作業は、手書きで構成図を書かなければなかなか進みません。構成図というものでなくてもよいのですが、何しろ、ちょっと試しに書いてみるというようなことがないと、頭の中で考えていることが出てこないのです。
頭で考えてそのまま文章に表せるのは、そのことについてすっかりわかっていることだけです。
だから、簡単な文章を書く場合は、手で何かを書いてみるというようなことは特に必要ありませんが、まだ自分がよく考えていない新しいことを考えるといは、手書きであれこれ書いてみることが必要になるのです。
手書きで書けば、二次元の平面を生かした自由な散らし書きができます。また、文字だけでなく、矢印や図や絵もその手書きの延長で入れられます。更に、パソコンで入力するときのような漢字変換のわずらわしさがありません。
今のパソコンは、手書き文字認識機能も備わっていますが、まだ人間が紙にペンで書くときの操作性には追いつきません。
これが、パソコンで勉強するときのひとつの弱点になっています。
第二の問題点は、もっと本質的なものです。
パソコンは、デジタル信号で情報を蓄積しているので、コピーやペーストが簡単にできます。それが利点でもあるのですが、同時にそれが教育においては大きな弱点になるのです。
なぜかというと、人間は、物事を把握するときに、その物事の本質だけを把握するのではありません。その本質が載っている媒体と一緒に、媒体と本質を不可分の全体として把握することが多いのです。
わかりやすい例で言えば、何かを覚えるときです。紙に書いてあるもので覚えた場合は、「あの本棚のあの辺にあった本で、そのどの部分に書いてあったようだ」ということまで覚えるともなしに覚えています。だから、勉強がはかどるのです。
情報通信機器の情報として覚えた場合は、そういうことはありません。一見楽しく覚えられる工夫をしてあるように見えますが、実は、それは表面的な楽しさであることが多いのです。
今のパソコンやスマホなどの弱点の第三は、一覧性のなさです。画面が小さいので、広く並べて俯瞰する、つまり大きく眺めるということができません。
これがもしパソコンではなく、実際の机の上にカードを並べるような手作業の仕事であれば、机の大きさいっぱいに情報を並べることができます。机が狭ければ板を付け足すこともできます。
人間の目は、画面をスクロールして見るようにはできていません。全体を一瞥して全体の感じをまずつかみ、それから細部を見るというふうにできています。
この一覧性は、将来は技術的な工夫でパソコンやスマホやそのほかの機器でできるようになると思いますが、今のところ、たくさんのものを広げて眺めるという作業はパソコンには不向きな分野です。
以上のように、ITC教育には、大きな弱点として、(1)手書きの感覚が生かせない、(2)形や場所という実感が残らない、(3)一覧性に乏しい、という問題があります。
この問題点を、実際の「触れられる世界」と結びつけてカバーしていくことが、これからの必要になると思います。
港南台教室で、自習表のつけ方を説明しました。その動画です。
ウェブカメラが遠くにあったため音声が聞き取りにくくなっていますが、ご容赦ください。
なお、港南台教室では、10.1週は自習強化週間にしたので、10.2週の授業までに3日間自習表をつけてきた人には「言葉の森特製ロゴ入りシャーペン」、6日間つけてきた人にはそれに加えて福袋(笑)をプレゼントすることにしました。
この自習表のつけ方で大事なポイントは4つあります。
1、【そ】のつどつける。(まとめてつけない)
2、【や】やりかけたらできたことにする。(やりとげられなくてもよい)
3、【で】きそうなことをする。(むりなことをしない)
4、【な】なつぜんぶきめる。(勉強以外のことでもよい)
「そやでな」と覚えておきましょう。(覚えなくてもいいけど)
(2014/10/3 動画更新)
子供と犬とを同じように考えるのはやや問題があるかもしれませんが、子供としつけと子犬のしつけは、似通っているところがあります。それは、最初が肝心だということです。
人間の場合は、まだ可塑性があるので、大人になってからの自覚によって自分を変えることができますが、それでも子供時代の影響はあとあとまで残るものです。
子犬の場合は、例えば、吠えないしつけをすれば、吠えない犬になります。ストレスがたまるのではないかと考える人もいるかもしれませんが、子供時代にしつければ、そういうものだと思って不自由なく生きていきます。
しかし、最初のしつけをしないと、成犬になってからではどんなに教えても、そのしつけが定着することはありません。最初の一歩がいちばん大事なのです。
これは、暗唱の場合も少し似ています。最初にうっかり「てにをは」を間違えて音読してしまうと、その間違いはなかなか直りません。1回目の読み方が最も大事なのです。
1回めに正しく読めば、2回めにも正しく読むようになります。そして、3回、4回と繰り返すにつれて、正しい読み方以外の読み方はしようがなくなります。
これがもし1回目に間違えて読んでしまうと、2回めもそういう間違った読み方をしてしまうことが多く、3回、4回と重なるにつれて、どんなに気をつけても間違った読み方をしてしまうというようになるのです。
子供時代のしつけの中で、第一に優先することは、正直に生きることではないかと思います。
子供は、特に悪気がなく、嘘をつくような結果になることをすることがあります。子供ですから、その嘘も些細なもので、特に誰かに迷惑をかけるというものでないことがほとんどです。
しかし、ここで、嘘はいけないことで、正直がよいことだという原則をしっかりと伝えておく必要があります。
ここで大事になるのは、父親の役割です。
母親は一般に、子供の感情を汲み取ることができるので、原則よりも子供の気持ちを考えてルール違反を見過ごしてしまうことがあります。
父親はその反対に、原則を守ることに敏感で、些細なことでもルール違反は厳しく叱る傾向があります。
褒めて育てることは、子育ての中心ですが、その背景に、いざというときは厳しく叱るという原則がなければなりません。
だから、家庭では、父親の帰りが遅いことを考慮して、父と子が(もちろん母と子も)対話をする時間を1週間の生活時間の中で確保していく必要があります。
その対話の時間のひとつが、長文音読とその長文をもとにした親子の対話です。
父親が単身赴任の場合も同じです。子供の長文と同じものを父親がコピーして(又はウェブで見て)、電話で子供と話をするようにすればいいのです。
こういう対話が重要になるのは、小学校高学年からですが、高学年になってから突然対話の習慣を作るということはできません。子供がまだ小さい低学年のころから、定期的に親子である一つのテーマをもとに話をする習慣を作っておくとよいのです。
この場合、障害になりやすいのがテレビです。
家族で話をするときはテレビを消すという習慣も、子供が小さいころからつけておけば、抵抗なくできるようになります。