日本の作文教育の特徴は、小学校低学年から作文の指導があるということです。これは、実は世界的にはかなり珍しいことなのです。
日本語は、音声と文字の一致する言語なので、「わとは」「おとを」「えとへ」などの例外を除けば、話す言葉がそのまま書く言葉になります。
例えば、日本語では「おかあさん」という音声は、そのまま「おかあさん」という文字になります。しかし、英語では、例えば「レリビー」という音声から「Let it be」という文字は出てきません。だから、欧米では小学校低学年での作文指導ができないのです。
もちろん、日本における小学校低学年での作文指導にも問題はあります。それは、先の「わとはの区別」のような場面で、読む学習を伴わないまま作文の学習だけを先行させると、単なる間違い直しのための作文指導になってしまうことがあるということです。
さて、小学校低学年で盛んだった作文指導が、日本では、中学、高校になると途端になくなってしまいます。少なくなるどころか、ほとんどなくなってしまうのです。あるとしても、夏休みの宿題として、税金作文や人権作文といった中高生にはあまり興味の持てない課題が出されるぐらいです。
それは、なぜかというと、中学、高校では、先生が生徒の作文を読んで評価するだけの時間が物理的にとれないからです。評価する時間がとれないから、指導する時間もなくなるという関係になっているのです。
では、どうしたらいいのでしょうか。
言葉の森の作文指導の特徴は、小学校低中学年では項目指導、小学校高学年から中学生高校生にかけては構成指導を中心にしていることです。実は、ここに、日本の中学高校における作文教育の不足を克服するための鍵があります。(つづく)
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勉強の中で最も大事なものは、暗唱、読書、作文だと思います。
暗唱は、理解力を育てます。読書は、思考力を育てます。作文は、表現力を育てます。
暗唱をすると、記憶力が育つ面もありますが、それ以上に、物事の全体を把握してすばやく理解する力が育つようです。
読書が育てる思考力は、読む思考力とも言うべきもので、自分が理解したものを頭の中で構造化する力です。
理解力と思考力は、相互に独立していて、理解力は主に学校の成績に関係し、思考力は主に勉強の学力に関係しています。
理解力と思考力は相携えて成長していくものですが、成長の途中の過程では拮抗関係になることがあります。例えば、小学校低学年のうちはだれでも暗唱が得意ですが、中学になって思考力がついてくると逆に暗唱が苦手になる、というような関係です。だから、この両者をバランスよく成長させていく必要があります。
作文が育てる表現力は、書く思考力とも言うべきものです。思考力は物事を構造化する力ですが、読書が読み取ったものを構造化することであるのに対して、作文は自分がこれから書こうとするものを構造化することです。
この「暗唱、読書、作文」という勉強は、これまで漠然とその重要性は指摘されていましたが、具体的な勉強が進めにくいという面がありました。暗唱や読書や作文については、「馬を川に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない」というような言い方がいちばんぴったりするような勉強だったのです。
これまでは、暗唱、読書、作文について、それらを勉強として身につけさせる方法がほとんどありませんでした。しかし、今は、それらの勉強を強力に押し進めることのできるツールと方法ができています。言わば、馬を川に連れていくだけでなく、川で水を飲ませることもできるようになったのです。そして、水を飲むことができるようになれば、だれでも、今度は自分から進んで川に行けるようになります。生き物には、そのように自ら向上する力が自然に備わっているのです。
この暗唱、読書、作文という日本語力の総合的な土台の上に、今後、日本の自然、文化、歴史と一体化できるような力をつける勉強も進めていく必要があります。
このように勉強の内容が変わるとともに、これからは勉強の形態も変わってくることが予想されます。これまでの教育は、解く勉強、教える勉強、競争させる勉強、勝ち負けのための勉強という面を強く持っていました。これからの勉強は、読む勉強、学ぶ勉強、発表する勉強、向上のための勉強という面が強く出てきます。向上のための勉強は、同時に、創造や貢献のための勉強にもつながっています。
このような新しい形態の勉強は、学校や塾の専門化した分業体制に任せるようなものではなく、自主学習や家庭学習を中心にしたものになります。その家庭学習が集まって、地域での自主学習を作り上げるようになるでしょう。今後、予想される経済危機に対しても、地域での自主学習が行われていれば、教育に関しては自給自足経済で対処していくことができます。
しかも、現代は、だれもがインターネットで広い世界につながることのできる時代です。
地に足のついた自主学習と、ネットでのオープンな情報交換によって生まれた新しい教育の土台の上に、正しく民意を反映した新しい政治が行われるようになれば、そこから本当に人間の新しい歴史が始まるのだと思います。
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言葉の森新聞7.3週号でお知らせした「問題集読書と四行詩の自習登録」のページができました。
https://www.mori7.net/mori/mdds.php
問題集は、各自でご用意ください。
このページで自習登録をすると、言葉の森から、「問題集読書と四行詩の手引」と「分冊作成用の表紙」が送られてきます。
自分で分冊を作成し、毎日4-6ページ読み、四行詩を1つ書いて、作文と一緒に先生に送ります。
そうすると、先生の方で自習チェックをするようになります。
問題集読書は、小学5年生から受け付けていますが、実は5年生にはまだ少し難しいと思います。しかし、5年生でも、いい詩を書いてくる子はかなりいます。
毎日4-6ページ読み四行詩を1編書くのにかかる時間は、大体15分です。このわずか15分の勉強で、読む力も書く力もつきます。
問題集なので、問題を解きたくなる人もいると思いますが、問題を解く勉強というのは多くの場合時間の無駄です。国語の勉強は、読む力をつけるという正攻法で取り組んでいくものです。
四行詩は、作文と一緒に先生に送るので、ルーズリーフのようなものに書いていくといいと思います。返却された四行詩をファイルしておくと、あとでいい思い出になると思います。
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読書というものの最終的な姿は、ひとりで読む、好きなものを読む、自分のペースで読む、考える材料として読む、という形です。本を読む生活が日常化している人は、通常こういう読み方をしています。
しかし、世の中には、本の好きでない子に本を読ませる工夫として、この読書の自然な形から遠ざかる読み方を教えているところもあります。子供の教育としての読書は、大人の読書生活としての読書とは異なりますから、いろいろな工夫をするのはよいことですが、あまり人工的な工夫は、かえって長続きしません。
学生時代に読書会をしたことのある人は多いと思いますが、読書会の欠点は、第一に、読むのが遅すぎることです。本というものは一挙に最後まで読んだ方が頭に入ります。難しい本の場合は、最後まで読んでそのあと再読すればよいのです。ところが、読書会では、1章を1週間かけて読むというような読み方をします。これでは、理解できるものもかえって理解できなくなってしまいます。
第二に、読む人のレベルに違いがあることです。参加する人が同じぐらいのレベルだということは、めったにありません。すると、話がはずむのは、低いレベルの話題のときだけということになります。
第三は、興味が人によって違うということです。したがって読書会は多くの場合、一部の人にだけ興味があり、ほとんどの人にはあまり興味のない本で行われるようになります。
読書は、読書会などでゆっくり読み合うよりも、自分のペースで好きな本をどんどん読んでいった方がずっと楽しく能率よく身につきます。
読書会形式が役に立つのは、その本に精通していて参加者全員よりも一段高い立場にいるリーダーとなる人が存在しているときです。これは、学校でいえば先生にあたります。つまり、いい先生がいる、参加者が大体同じレベルである、参加者の興味が似ている、というのが、読書会がうまく行く条件になります。
しかし、これは参加者と本のレベルが低いときに成り立ちやすい条件です。参加者と本のレベルが高くなるにつれて、この条件は成り立ちにくくなります。
小学校の学年で言うと、小学校2年生から4年生ぐらいまでは、読むレベルが似ているので、読書会という形式で本を読むことも可能です。しかし、小学校2年生から4年生のころは、そういう回りくどいやり方をしなくても、読む機会さえ増やせば、だれでも本を読むようになるものです。
小学校5年生以上になると、読書会はかなり難しくなります。このころになると、読める子と読めない子の差がかなり広がるので、そういう読書力の差をうまくまとめられる先生はほとんどいなくなります。そして、たとえうまくまとめられる先生がいたとしても、読書力のある子は、読書会よりも自分のペースで本を読むことを好むようになるのです。
こう考えてみると、読書会形式は、教室集団の一斉授業で、先生の工夫がカギで、参加する生徒はただのお客さん、という近代の学校スタイルの勉強を無意識のうちに踏襲しているように見えます。
未来の教育は、個人別に対応し、先生は後ろから見守るだけで、生徒が自分のペースで進めていく、というようなものになります。
読書する子を育てるという場合、どんな本をどのように読むかということよりも、まず毎日必ず読むということが大事です。毎日家庭で本を読む時間を確保すれば、それだけで本を読む子は育ちます。そのあと、初めてどのような本をどのように読むのかを考えていけばいいのです。
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中学生の場合、受験のような目標がないかぎり、子供には勉強に対する自覚がないというのが普通です。
中学生といっても、体と態度が大きくなっているだけで(笑)、中身は小学生のころとあまり変わっていません。
また、中間テストや期末テストをはじめとする中学校生活も、子供にとっては初めての経験なので、右も左もわからないままだんだん慣れていくという感じで学校生活を送っています。
勉強の仕方も、当然ですが、漠然としかわかっていません。そして、そのわかり方も大抵の場合、かなり勘違いしたわかり方をしていることが多いのです。
もちろん、中学生の生活や勉強がよくわからないというのは親も同じです。そこで、親は、「子供の方がよくわかっているのかもしれない」と、子供に遠慮してしまいます。一方、子供は子供で、「親にはわかるまい」と、困ったことがあっても親相談しません。そこで、つい勉強は学校や塾に任せてしまうということになるのです。
親も子も、どちらも中学校生活が初めて経験であると考えて、親子が協力して立ち向かうという姿勢が大切です。
親は年季があり、子供は体力があります。情勢を分析して対策を立てるのは親の方が上手です。
そのために大事なことは、親が子供の勉強の実態をしっかり見ることです。単にテストの点数だけを見るのではなく、子供の答えを見て、親も実際に問題を解いてみて、子供になぜその答えにしたのか聞く、というのが実態を見るということです。
現場に行けば、必ずその現場の問題と対策が自ずからわかってきます。現場に足を運ばずに、勉強は学校や塾に任せて、親はお金を出すだけというのでは、その子の実態に合った正しい勉強はできません。
親も仕事で忙しく、なかなか子供の勉強を見る時間はとれませんが、その大変さも1、2年の辛抱です。親が多忙なときに子供の面倒を見たということが、いずれ子供にも感謝の気持ちでわかるようになる日が来ます。
子供を上手に勉強させるいい方法というのはありません。いちばん大事なのは、「主人の足跡は畑の肥やし」というように、親が億劫がらずに毎日子供の実態に触れるということです。
しかし、親が子に密着すると、当然また新たな問題も出てきます。ひとつは、干渉のしすぎで、親の権威によって一方的に子供に指示を与えるようになると、そのときはうまく行ったように見えても、あとで別の問題が出てきます。また、逆に、親の権威がないと、子供が親に反発し親子げんかになることもあります。
しかし、こういうトラブルも、親子が互いに成長するきっかけになると前向きに考えていくことです。
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