国語の試験問題を解く時も、自分の興味を元にした傍線の引き方は有効です。テストの問題文で自分が面白いと思ったところに線を引き、次にその傍線を引いた箇所だけを飛ばし読みすると、その問題文の全体像が頭の中に入ってくるのです。
読書の場合も同様です。一回目の読書は傍線を引きながら読むので、分速600字で読むとしても1冊の本を読むのにかかる時間は3、4時間です。そして、2回目にその傍線の引かれた箇所だけを飛ばし読みすると、その2回目の読みは15分くらいで済みます。しかし、繰り返し読書はこれで終わりません。2回目にも自分なりに面白いと思ったところに線を引きながら読みます。すると、傍線が二重になるところも出てきます。
多くの本はこの段階で終わりますが、内容を確実に消化したい本の場合は、3回目の繰り返し読書をします。3回目は傍線が二重に引かれた箇所を中心にノートに書き出すのです。そして、さらに確実に内容を自分のものにしたい本の場合は、その書き出しを元に抽出した箇所ごとに自分の考えを書いていきます。
この作業を繰り返し読書の4回目とすると、本を確実に自分のものとして消化するには3回から4回繰り返して読む必要があると分かってくるのです。
繰り返し読書のスタートは本に線を引いて読むことです。そして線を引いて読むための哲学的基礎は『本は読むものではなく頭に入れるものだ』という考えなのです。
では、図書館で借りてきた本など、自分のものでない本に関してはどうするのでしょうか。そのやり方は傍線ではなくミニ付箋を貼ることです。繰り返し2回目の読書で二重付箋を張った箇所を元にノートに書き出しをすれば、傍線を引いた本と同じようなまとめ方になります。
ところで、以上述べたことは頭に入れたくなるような文章で書かれたものですから、その文章は主に説明文の本と国語のテストの問題文です。
小中学生がよく読んでいる本は物語文のことが多いですから、特に頭の中に入れる必要はありません。だから、傍線を引く必要もほとんどありません。
では、物語文の本はどういうふうに読めばいいのでしょうか。その方法は味わいながら読むことです。その本の中に没頭し、自分がその本の中で生きて経験しているような感覚で読んでいくのです。こういうなりきった読み方が物語文の本を把握するコツです。
物語文の読書が多い小中学生には、本に傍線を読むことの大切さを実際の読書生活の中で教える機会がなかなか持てません。だから、国語のテスト問題などを利用して、内容をしっかり把握したい文章には傍線を引いて読むということを教えていくとよいのです。
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いつも勉強になります(^o^)
きょうさん、ありがとう。
今度、こういう勉強法のコツのようなものをみんなで共有できるといいですね。
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小学生から高校生たちの生徒に学校や塾での国語のテストを見せてもらうと、そのほとんどが問題文に線を引かずにきれいに読んでいます。これは小さいころから、ノートには必要なことだけを書き落書きなどはしてはいけないというルールの中で子供たちが育ってきたからです。まして、読んでいる本に落書きをしたり線を引いたり書き込みをしたりするのは厳禁というような雰囲気があるのでしょう。
私ももちろん、子供のころはそう思っていました。しかし、ある時、「本は読むものではなく頭に入れるものだ」ということをどこかで知り、それから本を読むときは印象に残ったところに線を引くようになったのです。
そして、そのように線を引いて読んでみると、その効果がかなり大きいことが分かりました。一番の効果は再読が容易になったことです。本の内容というものは一回読んですべてが頭に入る訳ではありません。理解できて自分のものになるのは、ほんのごく一部です。ほとんどは、その時は理解できたように思えても、やがて忘れて頭の中から消え去ってしまうのです。
知識が人間の頭脳に定着するのは、同じことを繰り返すことによってです。その繰り返しの回数は、勉強に関する知識なら4回から5回、数学の難問の解き方を定着させるのも4回から5回というのがこれまでの実感です。
新しい知識は2回や3回繰り返すだけでは頭の中に定着するところまではいきません。繰り返しが少ないとその時だけの理解で終わってしまうのです。まして1回読むだけでは、ほとんどが頭の中から漏れていってしまいます。繰り返しが3回目になるあたりから次第に頭の中に残るようになり、4回でほとんどが頭に入り、5回で完璧になるという感じなのです。
このように知識の内容理解は4回から5回が目安ですが、文章を字句どおりに覚える暗唱となると、その繰り返しの音読の回数が100字で30回ぐらいになってきます。これも25回目あたりの繰り返しから、急に頭の中に文章が丸ごと残るようになり、30回でほぼ完璧に定着するのです。
しかし、この30回の定着は翌日になるとほとんど忘れています。この30回の繰り返しを日をおいて3、4回繰り返した回数になると。つまり、100字の文章を100回ぐらい繰り返すと、日をおいても固定した記憶になります。これは貝原益軒が四書五経の素読の回数の目安にした100字100回と同じです。ということはこの100回という目安は、多くの人にとって共通するものがあるのでしょう。
勉強の知識や数学の解法の理解定着は5回、文章のまるごと暗唱は100回が繰り返しの回数の目安だと言えるかもしれません。そして、読書における自分なりの重要箇所の把握と消化は、私の場合3回ぐらいという感じがします。
その3回の内訳は以下のとおりです。1回目は線を引きながら本を読みます。線を引くのは重要なところというのではありません。本は自分が消化するために読むのですから、その本が重要だと述べているところではなく、自分自身が面白い、あるいはよく分かった、あるいはよく分からなかったという箇所、つまり自分の感情が動いた箇所に傍線を引くのです。
不思議なことに、自分が面白いと思ったところに傍線を引いたにもかかわらず、その傍線の箇所だけを飛ばし読みすると、その本の重要なところも、全体の文脈の中で自然に頭の中に入ってきます。自分の興味関心を中心にしているにもかかわらず、その本の内容も把握できるようになるのです。(つづく)
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読書と勉強はどちらも大切ですが、うまく両立させるためには、時間設定をすることが必要になります。
勉強は、既に答えの分かっている世界ですから、あまり面白いものではありません。そしてその割りにややこしいものが多いのです。これに対して読書は、新しい未知の世界が開けていくという喜びがある一方、楽に始められるという面があります。
勉強はつまらないがエネルギーが必要で、読書は面白くてエネルギーがほとんど必要ないのですから、これをうまく組み合わせていくことがコツになるのです。
そのやり方は、勉強を始める前に短い時間、例えば5分間だけ読書をすることにして、その時間をタイマーで予め音が鳴るようにしておくのです。
昔、言葉の森の作文教室で子供たちがパソコンで作文を書いていたころ(今はパソコン入力は清書の時だけで、普段の作文は手書きで書いていますが。)教室に来るとパソコンの中にあるゲームをひとしきりやって、それからおもむろに作文を書き始めるという子がよくいました。
最初に軽くやりやすい遊びのような所からスタートし、そこで加速をつけてから重い勉強に取り掛かるのです。
しかし、読書やゲームにはそのまま熱中してしまうという落とし穴もあります。そこで始める前に5分のタイマーをセットしておくのです。楽しいことは始める前に「終わりの時間」を設定し、苦しいことは終わる時に「次に始める時間」を設定しておくというのが勉強と遊びをうまく両立させるコツです。
これに対してよくないやり方は、ただ漠然と取り掛かりやすい読書をさせて、途中からそろそろやめなさいという指示を出すことです。
よいやり方は、読書をする前に5分間本を読んだら勉強を始めようね、と言って本を読ませることです。このコツをつかむとスタートの時だけでなく、勉強の合間の休憩もうまく取ることができます。
例えば、30分たったら5分休憩、60分たったら10分休憩のように、勉強の時間と休みや遊びの時間を組み合わせていくと、長い時間の勉強もスムーズにできます。
これは山道を登る時も同じで、最初の体力があるうちに休まずにどんどん進んでいくと、途中で疲労してしまいますが、最初から休憩の時間を決めておけば長い距離を歩き続けることができるのです。
5分間の読書休憩を挟む時は、本に小さな付箋を貼っておくと便利です。しおりのような自由に移動させられるものよりも、小さい付箋のように固定したものの方が、始めと終わりのメリハリがはっきりしてくるという効果があるのです。
しかし、近い将来は子供たちもキンドルを利用して、蓋を開ければいつでも読みかけのページが開くというようなものになると思います。
スタートの読書は加速をつけるためです。休憩の読書はエンジンをかけたまま、アイドリングで休憩するためのものです。
では、本格的な読書はいつするかというと、勉強が終わって何もすることがなくなってからたっぷりとしていくのです。
本を読んでいると面白くなり途中で止まらなくなることがあります。その時は寝る直前まで本を読めるようにしておきます。
これがもし逆に読書を先にたっぷりして、その後勉強するというような流れにすると、読書が長引いてしまうことが必ず出てくるので、あとの時間が圧迫されて勉強の時間がなくなってしまうのです。
小学生のころの家庭学習は、読書第一勉強第二ですが、時間の順序としては、勉強を先に読書を後に、でやっていきます。
この、勉強のあとのたっぷり読書が、小学生のころの子供たちの成長の最も大事な栄養となっていくのです。
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もともとあまり読書習慣がなかった私ですが、このところは朝家事や仕事を始める前に少しだけ読書します。
そうすると、ちょっとした休憩のときテレビをつけずにまた読書をするようになります。
いいサイクルに入っております。
読書の習慣がなかなかつかない、という相談を生徒さんのお母様からよく受けます。この「勉強の始めに5分間読書」というのは、頭の切り替えにもいい方法だと思いました。
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中学生の生徒に定期テストの結果を見せてもらうと、その子がどんな勉強の仕方をしているのかよく分かります。多くの子が、作業的な勉強の仕方をしています。つまり、できる問題を何度も解いてみたり、数多くの問題を通り一遍にしかやらなかったり、というような勉強の仕方です。
こういう勉強を外から見れば、いかにもよくやっているように見えます。机に向かって何時間も手を動かしているのを見れば、親は、しっかり勉強しているのだと思ってしまいます。しかし、その多くは、形だけの中身の薄い勉強なのです。
親のいうことをよく聞く素直で真面目で性格のよい子ほど、この作業的な勉強に陥りがちです。作業的な勉強をしている子は、学年が低いうちは成績がよいのです。しかし、学年が上がり、難しい問題がちらほら入ってくると、急に成績が伸びなくなってきます。
なぜ、作業的な勉強をしてしまうかというと、親や先生に何をやるのかという勉強の内容を指示されて勉強してきたからです。勉強の内容を指示すると、子供は自分の頭で考えなくなります。だから、易しい問題は省略して、難しい問題は重点的に繰り返すというような自分なりの工夫をせずに、ただ言われたとおりに易しい問題も難しい問題も同じように作業的にやってしまうのです。
では、作業的な勉強ではなく、自分で工夫した勉強をするようにさせるにはどうしたらよいのでしょうか。それは、親や先生が、勉強の内容を指示するよりも前に、勉強の目的を伝えていくことなのです。
ごく短期的な目的でいえば、勉強の目的は、よい成績をとることです。このことを自覚するだけでも、勉強の仕方は大きく変わってきます。
そして、もっと長期的な目的で言えば、勉強の目的は、自分が成長して社会に貢献できるような人間になることです。こういう目的を自覚した子は、どんなに進められてもカンニングなどはしないでしょう。
学校の先生や塾の先生は、仕事として子供に勉強を教えているので、こういう目的を伝えることはなかなかできません。だから勉強の目的を話してあげることは、主に家庭における親の役割になります。
子供が小学校低学年のころは、勉強の内容だけを指示してやらせた方がずっと簡単で能率もよいのですが、この簡単に指示できる時期から、遠回りのように見えてもいつも勉強の目的を自覚させるように接していくことが大切なのです。
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昔の人工知能は、「強い人工知能」として作られていました。それは、「こういうことがあったら、ああいうことをする」という入力と出力のプログラムを人間がしっかり作り込むような人工知能だったのです。しかし、それでは、結局人間が予想できる程度のことまでしかできません。
今の人工知能は、「弱い人工知能」として作られています。それは、正しいことも間違ったこともランダムに多様に行い、そこから確率的によい結果を生み出すものに次第に行動を収斂させていくという人工知能です。このやり方によって、人間が予想もできない優れた知能を発揮する人工知能が作られるようになってきたのです。
今、スマートフォンでネットを検索すると、音声入力でかなり正確な入力ができるようになっています。なぜこのように正確な変換ができるかというと、それは言葉を正確に聞き取れるようになったからではなく、大量のデータベースをもとに文脈的にあり得そうな言葉を選択できるようになったからです。
大量の知識や情報をもとに、最も妥当な判断をするという方向に、今の人工知能は発展しているのです。
すると、近い将来、人工知能が人間の頭脳に取って代わる分野が出てくることが考えられます。それは、大量の知識をもとに、正しい判断をするという分野です。
この大量の知識をもとに正しい判断するというのは、人間の優れた能力のように思われがちですが、実は人間にとってはあまり得意な分野ではありません。
このためには,まずたくさんの知識を吸収しなければなりません。そして、その大量の知識を必要に応じて引き出してこなくてはなりません。要するに、頭がいいと言われるような人が得意なことと考えればいいのですが、そういう頭のよさは訓練しなければ育ちません。人間のもともとの自然に反して、たくさんの知識を覚えてそれを再現するという無理な練習をすることによって初めてできる能力なのです。
無理な練習だから、人間には、勉強のよくできる人と、あまりできない人との差ができます。よくできる人は、その知識と判断を生かせる分野に進もうとします。
例えば、今の時代で、大量の知識を吸収しそれらを必要に応じて引き出して判断することが必要な頭のよさが求められる分野は、大学の学部で言えば、法学部や医学部でしょう。だから、これらの学部は入るのが難しいと言われているのです。
ところが、このような頭のよさは、弱い人工知能の最も得意な分野です。最初は大量のデータをもとにランダムな試行錯誤で判断するので、間違いも多いはずですが、やがて急速にその精度が増してきます。そして、やがて人間のその分野の最高に頭がよいと言われる人よりも、速く正確な判断ができるようになるのです。
法律の条文を大量に記憶し、それを必要に応じて組み合わせて判断するというのは、人間よりも人工知能の方が得意になる分野です。同じように、疾病の現象や原因や治療法を大量に記憶し、それを症状に応じて判断するというのも、人間より人工知能の方が得意になる分野です。
では、逆に、人間にできて人工知能にできない分野とは何でしょうか。法律で言えば、現在の世の中の問題に即して新しい法律を作り出すことです。医療で言えば、疾病の治療ではなく、人間の新しい健康を作り出すことです。つまり、創造する法律、創造する医療が、人工知能にはない問題意識を持つ人間だけができる分野なのです。
同様のことは、他のすべての学問や仕事についてもあてはまります。これまでの「よくできる人」の「よくできる」能力ほど、人工知能に代替されやすい能力です。
逆に、これまでは、「面白いことを考える」とか「ユニーク」とか「ちょっと変わっている」とか言われた、人間の能力のおまけのような個性と創造の分野こそが、人工知能に代替されない最も人間らしい能力として前面に出てくるようになります。
では、そういう創造の能力は、どのようにして育つのでしょうか。それは、自分の欲望にこだわることによってです。
今の世の中は、まだ完全とは言えないまでもセーフティネットに守られています。油断していたら、明日食べるものも手に入らないとい野生の動物のような世界ではありません。
すると、その中で、ほどほどの満足でいいと思う人は、何も創造する必要を感じないでしょう。本当は、もっと辛いカレーを食べたいが、売られているものの最高がこの程度なら、それで満足しようと思える人は、より辛いカレーを創造する必要性を感じません。
しかし、カレーについては、ほとんどの人はそれでいいのですが、人間は本来自分だけのこだわりを持つ分野を誰でも個性的に持っています。そのこだわりを大切にするということが、これからの教育の最も大事な要素になるのです。
創造力を育てるためには、子供が多様な経験をする機会を作る必要があります。主要五教科だけがしっかりできていればいいというのではありません。学校の勉強に一見関係ない無駄な時間のように見えることも含めて、いろいろな経験を積ませる必要があるのです。
そして、その子がこだわる分野を、ほどほどに抑えずに納得行くまで進ませることも必要になります。バランスよく生きるよりも、あることに熱中して生きる方が尊重できるという気持ちを持たせるようにするのです。
また、世の中はそんなに甘いものではないとか、自分の分をわきまえろとか、みんながやっているのと同じ安全な道を進めとかいう価値観を植え付けずに、がんばれば誰でもできる、人のやっていないことをやれ、雨だれ岩をもうがつ、という価値観を子供のころから育てていくのです。
そういう生き方の根本があって初めて、知識としての勉強もバランスよく取り組むということが必要になります。
これまでは、知識だけが重視され、生き方が不問に付される環境に子供たちは置かれていました。それは、これまでの時代が、より豊かな社会を目指すという社会全体の共通の価値観に沿って動いていたからです。
しかし、これからは違います。社会全体の共通の価値観は、これまでのような形ではありません。唯一あるとすれば、それは創造を大切にするという価値観です。
これからは、創造する人間を育てるという大きな目標を念頭に置きながら、子供たちの教育を考えていく必要があるのです。
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