中学入試の受験作文は、当初は身近な説明文が中心でした。
今でも、帰国子女枠の作文試験では「海外生活の思い出」のような身近な課題が中心になっています。
これは、基本的な文章表現力を見るための試験という位置づけだからです。
しかし、このような身近な説明文は、ある程度準備をして臨めば誰でも一定の水準までの作文が書けるようになります。
本当はそれでいいのですが、作文試験の目的は差をつけて選抜することにあるので、点数がバラけるような問題作りをしなければならなくなります。
そのために、次第に増えてきたのが、複数の文書を、それもかなり長い文章を読んで、それに対する設問を解き、作文を書くというスタイルの試験問題です。
こういう傾向の受験作文に対しては、通常の対策以外に、速く読み取り、速く書き上げるという字数とスピードが要求されるようになります。
こういう作文試験は、邪道だとは思いますが、実際にそのような試験問題が増えているのであれば、とりあえず対策をしなければなりません。
その対策は何かと言うと、第一に作文試験の課題として出るよ文章を読み慣れることです。
中学入試の作文試験の課題は、学問の分野、生き方の分野、言葉の分野、日本文化の分野、学校生活の分野など、だいたい範囲が決まっています。
ですから、ある程度の量を読んでいくと、最初の数行を見ただけでどういう内容が書かれているか見当をつけることができるようになります。
課題文の分野に慣れて読むスピードをあげる、というのが第一の対策です。
第二の対策は、書くスピードを上げるということです。
これは、その場で考えて書いていたのでは時間的に間に合わなくなることが多いので、既に自分が書いた十数本の作文の中から当てはまりそうな実例や表現や意見を思い出し、それらを当てはめながら書くという形になります。
いずれの対策も、練習をすれば必ずできるようになりますが、やは時間がかかります。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
そろそろ受験作文の季節です。
作文の実力というのは、なかなか上がりません。
しかし、受験は実力の問題ではなく、勝負の問題です。
今ある実力で、いかに合格する作文を書くかというのが目標になります。
そのコツは、10種類のテーマを決めて、そのテーマごとに傑作を1本ずつ書いて、そのテーマならいつでも楽に書けるようにしておくことです。
受験作文で、予想もしなかった問題が出たらどうするかというと、そのときこそ構成を意識して書く書き方が効果を発揮するのです。
「○○は二つある。第一は……。第二は……」というような書き方をすれば、難しいテーマでもそれなりに形を整えて論じることができます。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。受験作文小論文(89)
塩谷信男さんは、次のようなことを言っています。
宇宙は、地球の自転や公転も含めて完璧な秩序の中で動いている。だから、人生も本当は完璧であるはずで、それは人間以外のあらゆる生命も含めて、完全な平和と幸福の中に本当は生きられるはずなのだということです。
私たちはつい目先のことに追われ、暑いとか寒いとか忙しいとかいうことばかりをよく言っています。そして、とりあえず、今日か明日、もう少し長くて今年か来年うまく行けばよいという考えになりがちです。
しかし、本当は、自分以外のあらゆる人間や生物も含めて、完璧な秩序と幸福の中で生きることのできる世の中を目指すべきなのです。少なくとも、その役割を持っているのが人間だと思うことなのです。
その塩谷さんの言っていたことに、「愚痴をこぼさない」ということがありました。
私は、最初この言葉を見て、「ふうん、そうだろうなあ」と思っただけでしたが、実はここに重要な意味があるのではないかということがわかりました。
話は変わりますが、松久正さんという人がいます。松果体のことを書いている人ですが、この人が次のようなことを言っていました。
それは、自分に起きたことは、それがどんなことであっても、自分が選んだことで、それがよかったことなのだと思うということです。
また、話は変わりますが、日月神示という本に次のような一説があります。
「今の自分の環境がどんなであろうと、それは事実であるぞ。境遇に不足申すなよ。現在を足場として境遇を美化し、善化してすすめ。」
私たちは、よく失敗をしたり、間違いをしたりします。又は、ほかの人からそういうことをされることもあります。また、偶然の事故や災難に巻き込まれることもあります。うっかりつまずいて転ぶとか、水の入ったコップをひっくり返すなどということは日常茶飯事です。また、朝起きたら雨が降っていたとか、乗ろうとした電車に間に合わなかったなどということもよくあります。
しかし、そういう自分にとって嫌なことだと思うことすべてを、自分が選んだことであり、それがよかったことだと思い直すのです。
小さな理屈の世界では、嫌なことは嫌なことで、それはない方がよかったことなのですが、いったん起きてしまったことに、それがない方がよかったと言っても、ものごとは何も変わりません。
その境遇を美化し、善化して進むという姿勢が大事なのです。
大きな目で見れば、人間はひとつの大きな存在のようなものです。
自分と相手がいるのではなく、自分も相手も同じひとつの存在の一部です。
自分が得して相手が損したとか、逆に自分が損して相手が得したとかいうことはなく、同じ一つの損得を自分と相手で分かち合っているということです。
そのように思うことによって何が変わるかというと、その境遇を卒業するのです。
嫌なことを嫌なことだと思い続けていれば、それはその嫌なことを卒業できていないことですから、同じような嫌なことにまた形を変えて挑戦しなければなりません。
嫌なことをよかったことだと思うことによって、その嫌なことを卒業し、今度はもっと先にあるより大きな創造に挑戦するようになるのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
昔の男の子は、野良猫を見れば必ずと言っていいほど石をぶつけました。団塊の世代の男の子たちです(笑)。
今は、そんなことをする子は、誰ひとりいません。
人間の意識は、年々変化していて、最近その変化がよりよい方向に加速している気がします。
加速しているから反対回りの渦もできることがあるのですが、大きな流れで見れば、その反対回りの渦も含めてよい方向に進んでいるのだと思います。
嫌なことを人にされたときの意識の切り替えは、すべてをよかったことだと思うことです。
嫌なことを人にしてしまったときの意識の切り替えも、基本は同じです。
そして、それを卒業して、新しい創造に挑戦するのです。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。生き方(41)
論理的に理解する力というのは、答えを見つける力です。答えのある世界で正しい答えを見つける方法が論理的な読解力です。
以前、言葉の森で、センター試験で満点を取るための講座を開いていました。しかし、満点を取ること自体は何の意味もありません。それは、既にある答えが見つかったということに過ぎないからです。
文章を理解する力があることは学力の基本です。しかし、それはゴールではありません。
文章を読んでその内容を理解するというのは、到達点ではなく、そこが出発点にならなければならないのです。
言葉の森は、昔、速読のページを作りました(今でもありますが)。
しかし、言葉の森が速読をそれほど重視しているわけではないのは、速読のあとに来る「考えること」の方が大事だと思うからです。
情報処理能力というと、大量の文章を読んで理解し、それを整理して自分なりにまとめる力というように考えられていたことがあります。
しかし、それは、キュレーションと呼ばれるような処理と同じで、別の言葉で言えばコピペの能力をさらに進化させたものです。
こういう情報処理能力は、もう人間のやる仕事ではなくAIがやってくれる仕事になっているのです。
人間がすべきなのは、大量にある情報を整理することではなく、既にある情報の中から新しいものを創造することです。
この創造の根本にあるの、よりよく生きようとする意志です。
人間とAIの違いはまさにここにあります。
よりよく生きたいと思うからこそ現状の追認に満足せず、現状を克服すべき問題としてとらえ、未来にまだない理想を建てるということができるのです。
この創造に必要な材料は、確かに読書などによって与えられます。
しかし、その材料を生かすエネルギーは、読書ではなく経験や実行の中から生まれます。
そして、そこから生まれた創造が、他の人間との対話の中で発展していくのです。
文章力の自動採点は機械でできますが、その文章の内容に価値があるかどうかを判断するのは同じようによりよく生きる意志を持った人間だけです。
だからこれからの文章の評価は、形式的な評価はAIが行うとしても、内容的な評価は同じレベルにある人間の評価によるほかはないのです。
この創造的読解力を育てるためには、文章をただ理解するために読むのではなく、対話をするために読むという読み方をする必要があります。
これが、論理的読解力のあとに来るものです。
言葉の森の作文指導の中で読解力が育つのは、課題の文章を読み取り、そこに自分らしい創造を付け加えて書く勉強をしているからです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
論理的に読む力などと言うと、いかにも優れた能力のように思われがちですが、わずかの訓練ですぐにできるようになります。
難しいのは、その論理的な読み方のあとに来る創造的な読み方です。
創造的な読み方ができているかどうかは、作文を書くことによってわかります。
読解のテストは満点を取ればそれでおしまいですが、読解のテストが満点の子の間でも、作文のテストには大きな開きがあるのです。
「論理的に読む力」というのは、テクニックであって、読む力でも何でもありません。
やれば誰でもできるようになります。ただ、それを教えてくれる人がなぜか少ないだけです。
難しいのは、創造的に読む力で、これは作文力の差として表れます。
これはテクニックではなく、本当に考える力を育てていないとできるようにはならないのです。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。読解力・読解検定(0)
話すことが普通にできても、文章が全くと言っていいほど読めない人がいます。例えば、日本に来て何年か暮らしている外国の人などです。
話をする分には、読む力がないとは感じられませんが、日本語の文章というものを全く読もうとしないのです。
一語ずつ読むことはもちろんできるのかもしれませんが、文章として理解するという読み方ができないのです。
それと同じ状態になっている小学生の子が、最近見られるようになってきました。
これはたぶんテレビやスマホやタブレットのようなビジュアルな情報機器によって、文字を読むという時間がなかったからだと思います。
こういう子供たちも、小学校の中学年までの勉強は、耳で聞いただけで分かるような内容ですから、学校の勉強にもついていくことができます。
しかし、小学校高学年から、文章として読まなければ理解しにくい抽象的な考え方の言葉が出てくると、急に勉強についていけなくなるのです。
これが、今日起きている読解力の不足の最も大きな問題です。
この子たちに、どう読む力をつけていくかというと、その方法は論理的に読む練習をするいうようなことではありません。
言葉と言葉のつながりをひとまとまりの意味のあるものとして実感できるようにする練習が必要なのです。
その方法は、繰り返し音読をすることです。
精読とは、論理的に読むことではなく、同じものを繰り返して読むことです。この繰り返し読むという学習を助ける読み方が音読です。
音読の復読(繰り返し読むこと)という単純に思えるような学習方法こそが、逐語的な読解力が育っていない子供たちがまず最初に取り組むことなのです。
さて、では次に、読む力は十分にあり、論理的に読むこともでき、読解問題は普通に高得点が取れるような子の、更にレベルの高い読み方である創造的読解力をつけるにはどうしたらよいのでしょうか。
(つづく)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
勉強の方法は単純です。一に読むこと、二に読むこと、三に読むことです。
プログラミングとか、英会話とか、速読とか、慣用句とか、漢字の書き取りとかいうのは、趣味で好きでやる分にはいいのですが、やってもやらなくても、あとで必要になればいくらでも追いつくものです。
しかし、読む力というのは、日常的な生活の中では差があることがよくわかりません。
それだけに、いったん差がつくと、その差はなかなか埋められなくなります。
そして、その読む力の土台の上に、書く力が育つのです。
読む習慣をつけるいちばんいい方法は、読む友達を作ることです。
小学校低学年までは、親が子供の習慣を作る時期ですが、中学年からは友達関係の中でその子の習慣が作られます。
本を読むことが話題になるような関係を作るために、言葉の森の寺子屋オンラインコースでは、毎週読んだ本をで紹介する時間を作っています。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。読解力・読解検定(0)
創造的読解力とは、文章に書かれているものを、その文章の他の部分との関連の中で読み取るだけでなく、自分自身の実際の体験や自分の考え、またこれまでに読んだ他の人の考えなどと関連させながら読んでいく読み方です。
この読み方が読解力の究極の読み方で、これは文章を読むというよりもその文章を通して自分の考えを発展させていくという文章と対話するような読み方です。
国語の本質は、この考えることと、考えを創造することにあるのであって、単にその文章の中の論理の流れをたどっていく読み方ができればいいというのではありません。
子供たちの読解力が低下しているという場合、問題になるのは論理的読解力のレベルではありません。
それは、練習をすれば比較的容易にできるようになるからです。
何が問題かというと、ひとつは、論理的読解力以前の逐語的読み方さえできない子が現れてきていることと、もうひとつは、論理的読み方のあとに来る創造的な読み方に進もうとしない子がいることなのです。
この二つは、現代社会の特徴から来ているように思います。
逐語的読解力がない子の場合は、文章を読むという機会がないまま成長し、テレビやネットで映像と音声を含めた情報だけはよく知っているということがあるのだと思います。
だから、話をしている分には、普通の同じ学年の生徒と同じなのですが、いざ文章を読む段階になると、ほとんど読み取れないということが起きてくるのです。
創造的読解力がない子の場合は、やはりインターネットなどで豊富な情報に接することによって、右のものを左に移すようなコピー・アンド・ペースト的な読み方にとどまっているせいだと思います。
読むものが少なければ、そこでいろいろと考えながら読むことができるのですが、読むことがあまりに多く、しかもそれらがいずれも密度の薄い文章である場合、考えて読むよりも速読でこなすという読み方になるのです。
では、この二つの読解力の不足をどう克服していったらいいのでしょうか。
(つづく)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
子供たちの読解力が低下しているといった場合、それは論理的読解力の問題ではありません。
論理的以前の読解力と、論理的以降の読解力にこそ本当の問題があるのです。
この両者は、現代のビジュアル社会と、ネットコミュニケーション社会が生んだ新しい教育の問題だと思います。
これは、具体的には、例えば、「youtubeばかり見ていて、本を読もうとしないんです」というようなお母さんの悩み事相談に表れています。
私は、勉強というものは、誰でもいつでもどこでもできるものであるべきだと思っています。
だから、特定の教材が必要だという形の勉強はあまり賛成しないのです。
読解力をつけることについてもそうです。
特別の教材などは全く必要なく、必要なのは、普通に手に入る国語の入試問題集だけです。
そして、余分な説明のないこの問題集と解答集のセットが、最も密度の濃い教材になるのです。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。読解力・読解検定(0)