作文の勉強が他の勉強と異なる点は、主体的でないと勉強ができないということです。他の勉強は、教室に来てイスに座って先生の話を聞いて、問題が配られたらそれを見て解けば、それがひとつの勉強になっています。しかし、作文はそういうわけにはいきません。
教室に来る前に、自分なりに書くことを考えていないと、先生の説明を聞くだけではなかなか書き出せません。特に、高学年の感想文課題は難しくなるので、家で何度もその課題を音読していないと、書く前の理解さえできないことになります。そういうときは、当然似た例も出てこないので、作文も書けません。
ところが、家であらかじめ音読をして、その内容を家族に説明してくるといったときも、たぶん受け身の子がまだ多いのではないかと思います。自分で似た例を考えるのではなく、親に似た例を聞いてくるという発想の子が多いのです。つまり、自分で考えて自分で言うのではなく、他人に聞き他人に教えてもらうという受け身の勉強スタイルが、子供たちの間にかなり根強く残っているのです。
これまでの社会の勉強は、与えられたものをより多くより早く身につけるという勉強でした。現在の受験勉強でも、主に要求されるのはそういう受け身の理解力です。
しかし、これからの時代は、受け身の能力はほどほどでいいのです。あるいは、必要なときだけ使えればいいのです。なぜ、知識や理解がほどほどでいいかというと、人間が社会の中で仕事をする場合、その仕事に必要な知識の範囲はかなり限られているからです(そのかわり深くなりますが)。どのような仕事にも、一般教養は必要ですが、その教養も重箱の隅をつつくようなところまでカバーしている必要はなく、全教科の概略がわかっていればいいのです。大事なことは、自分で考え、自分から発表する能力と姿勢です。
子供たちにこういう姿勢を持たせるために、作文の予習はいい機会になると思います。子供が、お父さんやお母さんに長文の内容を説明したあと、すぐに、「この長文の似た例ある?」と聞いてきたら、それに答えようとする前に、まず、「自分はどう思う?」と聞き返してみてあげてください。大事なのは、正しい答え(のようなもの)を知ることではなく、間違っていても見当外れでもいいから、自分なりに考えて自分の意見を言うことです。
もちろん、すぐにそういう自分で考える姿勢になることはできないので、しばらくは、「やはり、わからない」という答えになるかもしれません。しかし、気長に、「自分はどう思う?」という質問を続けていけば、子供は次第に自分で考えることが大切なのだとわかってきます。家族の対話は、そういうコミュニケーションを交わす場です。
作文の勉強は、答えを見つける勉強ではなく、自分で考える勉強です。正しいかどうかではなく、自分で考えたかどうかが大事なのだということを折に触れて子供に伝えてあげてください。
知識が底辺だとすると、考える力は高さです。
/\
/考 \
/ え \
/ る \
/ 力 \
/ \
/ 広い知識 \
________________
どちらも大切なのですが、現在のテストでは、測定しやすい知識の方が重視されがちです。考える勉強だと思われている教科であっても、ある問題が解けるかどうかは、考える力よりも、同じ問題を解いたことがあるかどうかという知識の習得度に左右されます。
そのような時代だからこそ、作文の勉強の中で、考える力をしっかり育てていく必要があるのです。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。作文教育(134)
これまで、自分なりにいろいろな本を読んできて、本というものが大きく二つに分けられるように思いました。ひとつは、著者なりの物の見方や考え方のある創造的な本、もうひとつはさまざまな資料を駆使して卒論のようにもれなく知識が網羅されているが、特にこれといって創造的なものが感じられない本です。大雑把すぎる分け方ですが、前者が買って得した本、後者が買ってそうでない本とするとわかりやすいかと思います。そして、この区別が、それらの著者の勉強のスタイルに帰因するのではないかと思ったことがあります。
創造的なことを書く人は、自分の源泉となるような古典あるいは繰り返し読むような数冊の本を持っているようです。それに対して、資料のような本を書く人は、1冊の古典のような本と格闘するよりも、広く浅くだれからも必要とされるような本を読んでいるだけなのではないかと思いました。
これが、そのまま子供たちの勉強のスタイルにもあてはめることができるように思います。現代の勉強は、その勉強を通して何かを発見したり創造したりするためではなく、その勉強を通して何かの試験に合格するために行われているという面があります。
合格するための勉強というのが、この広く浅く必要なものをひととおりマスターしておくという網羅的な勉強です。それは、試験というものが選抜試験である以上やむを得ないものですが、問題は、そういう網羅的、資料的な勉強の仕方が低年齢化していることにあります。
世の中は、自然にしろ社会にしろ、接すればどこまでも続く無限の深みを持っています。だから、子供たちは、ある物事(遊びや趣味)に夢中になり、大人の目から見てよく飽きないと思うほど長時間集中して取り組むことができるのです。
ところが、網羅的な勉強をするときは、世界はすべてある答えの決まっている平面的なものとして子供たちの前に登場します。「日本一高い山は? はい、富士山。」「では、その高さは? はい、3776メートル。」というような調べればわかる知識が、まるで自分を取り巻く世界そのものであるかのように見なされて知識化されています。その知識を身につけることが勉強であるかのように考えられているのです。これは、もっと複雑な英数国理社の勉強でも同じです。
もちろん、子供(というか人間)は、もともと本来の知識欲がありますから、やがてただ答えが○になるだけでは満足せずに、より深く知りたいという気持ちを持つようになってきます。しかし、今日の社会では、この網羅的な勉強のスタイルが、そのまま大学入試まで続いてしまうのです。そして、そういう勉強スタイルに適応した子ほど、周囲からはとりあえず優秀な子供だと見なされているのです。
これからの社会に必要なのは、自分なりに考える力で、その考える材料として多くの知識があるべきなのですが、現状は、多くの知識自体が目的になり、それを組み合わせることが知的な作業のように思われています。
日本をよりよい国にしていくためには、このような勉強の仕方そのものを変えていく必要があります。それは、資料を網羅する力ではなく、自分の関心のあることを深く知り、そして考える力を育てていくことになると思います。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。教育論文化論(255)
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。言葉の森サイト(41) 生徒父母連絡(78)
国語力とは、
言葉を自分の手足のように自由に使う力だ。
手足を使うのに、手足に関する知識はほとんど要らない。
使い慣れることが使いこなす力をつける。
だから、国語の勉強は、音楽や体育の練習と似ています。
ドリルを解くような勉強が、国語力をつけるわけではありません。
ある技能を自分の手足のように使えるようになるには、その技能の典型的なスタイルを自分の体の一部となるぐらいまで徹底して身につける必要があります。
だから、国語の勉強の中心は、まず第一に家庭となります。
家庭における読書、対話、暗唱などが勉強の中心で、学校や塾はそのきっかけを作る場なのです。
そこで、今日のテーマは、
1、国語と家庭についてひとこと、
又は、
2、「こ、く、ご」で五七五、
又は、
3、何でも自由にどうぞ。
身につけるとは、丸ごと身につけることです。
子供に泳ぎを教えるのに、船の上から海に投げ込んで、おぼれそうになったらロープで引き上げるという方法があるそうです。(されたくない(笑))
でも、これは、手の掻き方はこうで、足の動かし方はこうで、息継ぎはこうで、と教えるのに比べると、誰でも教えられるという点で能率がいいのかもしれません。
今日は、風の強い曇り空です。
もうすぐ新しい4月のカレンダーにチェンジ。
日本も世界も、目先の景気の上下とは別に、大きなところでいい方向に向かっているようです。
今日も、楽しい一日をお過ごしください。
もうひとつおまけ。
国語力の中心は語彙力です。
しかし、それは語彙力検定のような知識として勉強するものではありません。
生活の中で身につけた自然の語彙の量が、その人の語彙力です。
▽NTTの語彙力数テスト
http://www.kecl.ntt.co.jp/icl/lirg/resources/goitokusei/goi-test.html
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。国語力読解力(155) facebookの記事(165)
ひな鳥が親鳥のあとを
ついて歩くように、
人間の子も親の後ろ姿を
真似して歩く。
子供がいちばん尊敬しているのは両親です。
どの子も、親のような人間になりたいと思っています。(最初のうちは)
子供を読書好きにさせたかったら、まず親が本を読んでいる姿を見せることです。
子供のころ読んでいたと言って、今読まないのはだめ(笑)。
子供は、親が楽しそうに本を読んでいる姿を見て、自分も親のように読みたいと思うのです。
子供を勉強好きにさせたかったら、親がまず楽しく勉強を続けていることです。
仕事上の必要に迫られて、嫌々、渋々やっているのはだめ(笑)。
子供は、親が楽しそうに勉強している姿を見て、自分も親のように勉強したいと思うのです。
親が、もう年だからと自分の人生をあきらめて、その分を子供の勉強に託すのでは、子供は楽しく勉強する気にはなれません。
親がまず自分の人生を創造的にしようと思い、そのために勉強を始めるなら、子供もまたは同じように楽しく勉強を始めるでしょう。
そこで、今日のテーマは、
1、親鳥とひな鳥についてひとこと、
又は、
2、「お、や、こ」で五七五、
又は、
3、何でも自由にどうぞ。
子供を創造的な子に育てたいときも、親がまず創造的な生活を送ることです。
創造的な生活に結びついて初めて読書や勉強も価値あるものになります。
しかし、ここで問題なのは、読書や勉強まではだれでもできますが、創造する機会というのは、現代の社会では限られていることです。
自分で自由に仕事をしているのでもなければ、創造する機会はなかなかありません。
だから、これからの時代は、だれもが自分の小さな仕事を始めるようになると思います。
最初は小さな仕事でも、それを続けていくうちに、やがて社会全体がそれらの仕事を回すようになり、今の子供たちが大人になるころには、だれもが生活の中に創造の機会を持つようになるでしょう。
今日も引き続き快晴。
子供のいる家庭では、春休みで、家の中もにぎやかなことと思います。
今日も楽しい一日をお過ごしください。
この記事に関するコメント
コメントフォームへ。
同じカテゴリーの記事
同じカテゴリーの記事は、こちらをごらんください。子育て(117) facebookの記事(165)