言葉に愛を
ぎんぎつね
日本では、欧米人の名前をカタカナでそのまま読むが、中国や朝鮮人の名前は漢字で書き、日本の読み方で読む。これは何も日本に限ったことではない。中国でも、日本と同じように欧米人の名前はそのまま読み(漢字の当て字になるが)、日本人や朝鮮人の名前は自国の読み方をするのだ。たしかに、自国の読み方だろうが相手の国の読み方だろうが、本質的には変わらないのかもしれない。しかし、人は大切な人には「私」の属する国、文化を認めてほしいと願うものだ。それは相手に対する尊重が伴うものだからだ。私は、言葉に感情を込められるような生き方をしていきたい。
そのための方法としては第一に、相手の名前など、言葉に対して愛情を持って接することだ。生まれた子供に名前をつけることはその両親にとって一大イベントである。世の中にはいろいろな名前があるが、命名される名前はその年によって一定の傾向があるらしい。近年、人気な名前は音の響きが重視される傾向にあるそうだ。名前の意味だけでなく、読み方まで気を配ることに、私達がどれだけ「音」を気にしているのかがわかる。つまり、それは逆に言うと、私達が相手の言葉を大切にした時、初めて私達は相手とより良い関係を築くことができるということだろう。
また、第二の方法としては、国同士の間でも、相手の言葉や文化を尊重しあうことだ。かつて、アジアからヨーロッパ東部に至るまでの広大な領土を有したモンゴル帝国はチンギス・ハンを起源として、実に20世紀まで中央ユーラシアの各地で君臨し続けたそうだ。途方もなく巨大な帝国を長く存続させられたのは一体なぜなのだろうか。それは、フビライ・ハーンの、支配した各地域の文化や言語を尊重した政策のおかげらしい。モンゴル帝国の一部に取り込まれても、その生活はほとんど変わらなかったことが人びとの抵抗を少なくし、それが帝国の維持につながったのだろう。
たしかに、合理的に物事を進めるためには、言葉を記号のように扱うほうが便利な場合もある。もし、みんながみんな自分の名前の読み方にこだわっていたら、自分も相手も疲れて、関係も悪化してしまうだろう。しかし、「家とは、外から見るためのものではなく、中で住むためのものである」というように、名前などの言葉もまた、外から見るための符号ではなく、その中で生きている人間と密接に結びついているのである。それを否定するということは、その人を否定することにもつながり、決してプラスにはならないはずだ。私は、言葉というものを感じ取ることができる感性をもって、生きていきたいと思う。
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行列の利点
らみわ
行列というものは、日本ではもう当たり前の現象になっている。スーパーや駅、さらにはトイレまで、いたる所に行列が存在する。そのため、私は行列をつくらず、バラバラと人が散らばっているところをあまり見たことがない。外国ではそれが当たり前だと聞いたときはおどろいた。テレビのニュースで、頭がキーンとならないふわふわのかき氷行列を見たことがある。ものすごく長くて、四時間以上並ぶものもあった。だが、それでも横入りをせずに並ぶのは日本人の長所だと思う。私は行列に賛成だ。
その理由は第一に、ルールを守ることによって物事がスムーズに進むからだ。例えば、スポーツがそうだ。私は三年生のとき、体育の授業でキックベースをした。キックベースというのは、野球とサッカーを組み合わせたような遊びだ。しかし、一人の男の子がルールを破ってしまい、試合がなかなか進まなかった。例えば、もうアウトになっているのにそのままホームに走って点を入れたりして、試合を中断させていたのだ。結局、いつもその男の子がいるチームと相手チームは、試合がいつも授業内に終わらず、引き分けになってしまっていた。だが、それを何人かの男の子が注意し、しっかりとルールを守るようになった。私はそれを見て、流石に悪いと感じたのかな、と思った。それからは、どのチームも授業内に試合が終わるようになった。スポーツはプレイヤー全員がルールを守らなければ、スムーズに行うことができないのだ。電車やバスでは、降りる人が降りてから乗ることで、スムーズに乗り降りすることができている。私は中国に行ったことがある。日本と中国では、やはり文化が違うようで、中国人は降りる人も乗る人も同時に乗り降りしていて時間がかかっていた。関西の人も、そのような傾向があるらしい。だが、降りる人を優先にすれば時間を短縮できるだろう。
その理由は第二に、ルールを守らないと混乱が起こるからだ。最近話題になった東京駅百周年記念のスイカを得るためになんと一万五千人ほどの人が並んだそうだ。私は電車などには興味がないのだが、ニュースで知った。どうやら、夜からは並んではいけない決まりだったのだが、ルールを破った人がいて、駅員が注意しなかったらしい。それが原因で、しっかりとルールを守った人がスイカを買うことができないという事態が発生してしまったらしい。中には九州から来た人もいたそうだ。それで、しっかりとルールを守ったのに、スイカを買えなかった人たちが怒って東京駅の模型を壊してしまったらしい。一部の人がルールを守らなかったせいで混乱が起こってしまったのだ。空港でもそうだ。日本の海外旅行者数は、千百五十万人を突破した。海外からの日本旅行者数は三百万人台だ。それだけの人が集まるのだから、行列をつくらなければ空港は大混乱してしまう。
確かに、個々の事情を考慮しないことには問題があるが、「悪いことそのものがあるのではない。時と場合によって悪いことがあるのである。」という名言があるように、行列本来の良さを認識するべきだ。東日本大震災のときも日本人は行列をつくり、外国人をおどろかせた。そのときも、行列の長所はきっと生かされただろう。私は、それを知り、日本人に生まれて本当によかったと思った。私は、これからも行列の良さを認識していきたい。
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「言葉の森とほかの作文教室の指導とはどう違うんですか」という質問をたまにいただきます。
ひとことで言えば、言葉の森の作文指導は、客観的科学的な作文指導です。そこが最も大きな違いです。
だから、子供も、作文に何が求められているのかがわかり、その結果努力する目標がわかるので、熱心に取り組むことができるのです。
言葉の森の作文の体験学習をした子が、普段とは違って驚くほどよく書けたということがよくあるのはそのためです。
言葉の森の指導の特徴は、褒める指導です。なぜ褒めるのかといえば、それは、先生が優しいからというだけでなく、科学的な目標のある指導をしているからです。目標があって、それを達成したから褒めるのであって、ただ漠然と褒めるのではありません。
客観的で科学的な指導と評価のひとつの例が、森リンによる自動採点です。森リンは、言葉の森が開発した自動採点ソフトで、特許を取得しています。
(特許庁の検索のページで(
http://www2.ipdl.inpit.go.jp/BE0/)、「言葉の森」と検索すると表示されます。)
機械による自動採点というと、味気ないと思う人がいるかもしれませんが、機械は、文章の客観的に評価できる面を中心に評価します。文章の内容面の評価は、機械にはできません。
文章の内容面における個性、共感、感動を人間が十分に評価するために、機械による客観的な評価が必要になるのです。
2月2週と3週の言葉の森新聞に、学年別森リン大賞の小5、中1、中3、高1の4人の生徒の文章を載せました。
https://www.mori7.net/mori/
森リン大賞というのは、毎月4週めの作文の清書で、学年別に森リン点の最も高かった作品に与えられる賞です。これらの森リン大賞の作文を見ると、機械による評価といっても、人間の評価とほとんど一致していると感じられると思います。
機械が評価しているのは、簡単に言えば、語彙の多様性、高度性、バランスです。しかし、多様で高度でバランスのとれた文章は、自然に優れた内容を伴っているのです。
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寺子屋オンエアは、家庭学習だけで基本となる勉強力をつけるという企画です。
勉強は、誰かに教えてもらうよりも、自分ひとりでやった方がずっと能率よくできるものです。しかし、家庭でひとりでやっていたのでは、あまり張り合いがありません。また、たまには、誰かに聞きたいことが出てきます。そのときに、一緒に勉強している友達がいて、見守っていてくれる先生がいれば、家庭でのひとりでの勉強もずっとやりやすくなります。
インターネットは、そういうグループ学習と個人の学習を結びつけることができるようになりました。家庭という最も居心地のよい環境で、友達や先生と一緒に勉強することができるようになったのです。
ところで、今言葉の森が考えているのは、この寺子屋オンエアの未来の形です。
基本となる学習は、確かに寺子屋オンエアでできるようになります。しかし、その能率のよい勉強でできた自由な時間を、ただテレビを見たりゲームをしたりしているだけでは、充実した時間の使い方とは言えません。
そこで、その自由な時間も、寺子屋オンエアの特別コースに参加できるようにするのです。その特別コースには、ロボット作りコース、音楽交流コース、ファッションコース、お菓子作りコース、テーマ別た読書会コースなど、教える先生の個性と生徒の個性がマッチしたものが多数できるはずです。
通常の交流は、家庭でネットを使って行いますが、時どきは実際に会って交流する機会も作ります。
これからの時代は、特に個性や創造性が必要となってきます。その個性や創造性もまた、人間どうしの交流の中で進んでいくのです。
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小学1年生の勉強で大事なことは、勉強の仕方です。何を勉強するかということよりも、どう勉強するかということが、その後の学力の伸びを左右していきます。
この記事は、
「小学1年生の勉強の仕方が、その後の勉強のスタイルを作る」の続きです。
前の記事で書いたのは、第一に、楽しくやることでした。第二に、自主的にやることでした。
第三に、子供の自主性を育てるためには、勉強の分量を多くしないこと、早く終わったからといって勉強の追加をしないことです。
集中力がない子の多くは、勉強のしすぎという状態になっています。親から見てちょうどいいと思うぐらいの分量は、子供にとっては多すぎるものです。しかし、子供は反発するほどの基準が自分の中にないので、親に言われたことは一応そのまま素直に受け止めます。その結果が、集中力のなさとして出てくるのです。
第四に、例外は作らないことです。勉強は、人間が成長するために欠かせないものですから、雨の日も、風の日も、土曜も、日曜も、旅行に出かけたときも、やると決めたことは、分量は少なくしたとしても毎日欠かさずにやっていくことです。
この毎日欠かさずにやる習慣をつけるためにも、親が関与する面はできるだけ少なくしておくことが大事なのです。
例えば、問題集の丸つけなども、親がやるのではなく、子供が自分でやるほうがいいのです。親がいなければできない勉強だと、親の都合でやらない日が出てくることもあるからです。
第五に、子供の学力をつけるいちばんの勉強は、実は、読書と対話と経験です。
漢字のドリルや計算のドリルは、いかにも勉強らしい感じがしますが、そういうドリルをやるのは、一応学校の勉強が普通にできるようになるためです。それ以上のものはありません。小学生の勉強は、どの教科も一応できているだけで十分なのです。人よりよくできるとか、毎回百点を取るとか、何学年も先取りするとかいうことにこだわる必要はありません。
それよりも、読書と対話と経験で、自分なりに考える力と語彙の力と実際の体験を身につけておくことがその子の将来の本当の学力になるのです。
言葉の森の作文も同じです。
小学校低学年は、楽しく書くことが大事で、上手に書くことを目的にするものではありません。子供は素直なので、上手に書かせようと思えば、すぐに上手に書くようになります。しかし、そういう上手さには無理があります。低学年のころに上手に書きすぎた子は、勉強が長続きしないのです。
大事なことは、作文を毎週書くという勉強をきっかけにして、音読や対話や経験の習慣を作ることです。しかも、それらの習慣は楽しくなければ本当の力にはなりません。音読や対話や経験を楽しい習慣にするためには、親がいつもよいところを見て褒めてあげることなのです。
▼関連記事:「国語力、読書力がつく小1の作文」
https://www.mori7.com/za2021d21.php
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