人間には、だれにも向上心があります。人生のある時期に、「よし、これからがんばってやろう」と思う転機のようなものが必ずあります。そして、その転機は往々にしてたっぷり遊んだりさぼったりしたあとにやってきます。
親は子供の成長を願うあまり、幼稚園や小学校の低学年のころから、子供を向上させようとしがちです。しかし、本人に向上しようという自覚のない時期に勉強をさせると、やらせすぎる弊害の方が大きくなることがあります。この時期は、遅れる心配よりも、やらせすぎる心配の方をする必要があるのです。
低学年のころ、真面目で、勉強もよくでき、本もよく読んでいた子が、中高学年になるとだんだん勉強しなくなるというケースはよくあります。また、小学校時代しっかり勉強していて小6まで真面目だった子が、中学生になって急にさぼりだすということもよくあります。
こういう状態になると、親はとまどいますが、これは、いったん休んで、また子供自身が納得してがんばりはじめるまで待つしかありません。子供は、小さいころの勉強のやりすぎを、途中でたっぷりさぼることによって回復しているのです。
一生がんばり続ける子も、一生さぼり続ける子もいません。ある時期さぼって自分を回復した子は、必ずまた自分の力でがんばるようになります。
こういうことを見るにつけても、人間は、ブロイラーのように管理できるものではないということを思わされます。
親と子では年齢が違うので、つい親は、子供のすべてをコントロールできるように考えがちですが、それぞれの魂の成熟度は、実はそれほど変わりません。一人一人は、自分でしか解決できない課題を持ってこの人生を生きているのです。
親のできることは、年長者としての知識を生かしながら、子供を対等の人格を持ったものとして尊重していくことです。子供が未熟なように親も未熟です。お互い未熟な者どうしが試行錯誤の中で次第によりよい人生を築いていくというのが真実の姿にいちばん近いと思います。
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すいません。申し上げにくいのですが、ちょっと参考にしてもらってもよろしいでしょうか。
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旧小1(現在小2)の生徒が3月4週に行った読解問題の採点が「山のたより」に正しく表示されていませんでした。
原因は、新学期の切り替えと採点がぶつかっていたためのようです。
該当者は、次の13名の生徒です(abc順)。今は正しく表示されています。どうも申し訳ありませんでした。<(_ _)>
kariwa kihesi kikuhi kimeku kineyu kiriru kirito kisuwa kitato kitayu kitie rihimi torata
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小学校1、2年生の子の保護者の方からときどき、「学校で日記や作文の宿題があるが、うまく書けない」という相談を受けることがあります。小学校5、6年生でも、苦手意識を持つ子は多いようです。
言葉の森の作文指導は、どんなに苦手な子でも大丈夫です。そのコツは、事前指導にあります。
一般に、通信の教室でも通学の教室でも、作文指導は、書いたあとの指導に力を入れることが多いものです。しかし、書いたあとの添削だけでは、作文の力はなかなか身につきません。
スポーツの場合でも、サッカーなどで、「あのシュートがよくなかった」と言われて、次回からいいシュートができるようになるかというと、そういうことはありません。悪いシュートを注意することではなく、いいシュートを放つ練習をして初めて、いいシュートが身につくのです。
作文の場合、その練習が、読書と暗唱と、実際に作文を書くことです。
では、書けない子がいた場合、どのように指導するのでしょうか。言葉の森では、先生が生徒に書くことを教えてあげます。苦手な子の場合は、文そのものを言ってあげるような形で教えます。
このやり方は、家庭でも生かすことができます。
構成図を使う場合は、お母さんが鉛筆を持って子供の横にすわり、子供と話をしながら構成図をどんどん埋めていきます。十分ほどで構成図がほとんど埋まったら、「これを見て書いてごらん」と言えば、子供はすぐに書き出せます。構成図を使わない場合は、お母さんが一文ずつ言ってあげます。
私(森川林)が教室で一文ずつ言う場合は、ときどき冗談を入れます。例えば、「料理を作ったこと」で書く場合、
先生 「はい、じゃあ、言うよ。『ぼくは、きのうブタの丸焼きを作りました』」
生徒 「えー! そんなの作ってないよ」
先生 「まず、近くの公園にブタをつかまえに行きました」
生徒 「だから、作ってないって。それに、公園にブタなんていないって」
先生 「じゃあ、何を作ったの」
生徒 「えーとねえ。玉子焼き」
先生 「じゃあ、『ぼくは、きのう、玉子焼きを作りました』。はい、書いてごらん」
生徒 「……。書きました」
先生 「まず、最初に、玉子を空手チョップでわりました」
生徒 「えー! そんなことしてないよ」
こういう感じで書いていけば、親子が対話を楽しみながら作文を書いていくことができます。
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暗唱の指導を始めたころ、驚いたのは、小学校1、2年生で最初はつっかえながら読んでいたような子が、すぐにみるみる上手になっていくことでした。
ところが、学年が上がり、本来上手に読めるような年齢になってくると、かえって暗唱するのに時間がかかるようになってきました。「棒読みでいいから音楽のようなつもりで読む」ということが、高学年になると、かえってわかりにくくなってくるのです。
更に、中学生以上になると、文章が説明的な文章になってきます。また、中学生のころは、物事を理屈で理解しようとする時期なので、単純な暗唱がかえって難しくなってきます。この場合でも、説明文の暗唱をイメージ記憶を使ってやれば、かなり簡単にできるのですが、イメージ記憶のように無邪気なダジャレの精神が必要なものも、中学生のころは難しくなるようでした。
しかし、小学生までの生徒は、長い文章の暗唱も毎回あまり苦労もせずにやっているようです。
暗唱のほかに、もう一つ、事前の予想に反して意外によくできたものが、高学年以上の問題集読書です。読む文章が入試問題なので、難しくて嫌がる子が多いかと思いましたが、みんなかなり熱心にやってきます。もともと入試問題に取り上げられるような文章なので、難しいだけでなく、内容的にも読ませるものがあります。子供たちは、勉強と同時に、読むのが楽しいという面もあって読んでいるように思いました。
もう一つ、予想と違って、意外と簡単だったのは、読書をしたあとの四行詩です。しかし、これは、小学校1、2年生には、ちょっと負担だったようです。それは、小学校低学年のころは、書くという作業自体に慣れていないという理由によるものです。しかし、小学校中高学年以上の子は、内容のある四行詩をよく書いてきます。特に、国語の実力のある子は、毎回優れた内容の四行詩を書いてきます。
さて、次は逆に、予想に反して意外と難しかったものです。その筆頭は、音声入力です。慣れれば、これほど楽に活用できるものはないと思うのに、中高生の子はなかなかスムーズに音声入力ができませんでした。一つには、教室でやるので、人の目を気にしていたということもあると思います。もう一つは、構成図が充実していないうちに、入力しようとした子が結構いたことです。更に、日本語は、文末の処理が難しいので、構成図では文末を考えずにどんどん書けますが、それを文章化するときは、文末を考えないといけません。結局、文末の手直しをするのに時間がかかるという面が出てきたということもあったようです。
もう一つ、意外と難しかったのは、フォトリーディングです。フォトリーディングのコツを覚えると、本を急いで読みたいときは、20分ぐらいで読むことができます。しかし、小学生の子供に、フォトリーディングをさせるのは、動機の面からも能力の面からもやや無理があったようです。フォトリーディングが活用できるのは、読む力がついた中高生以上になると思います。
簡単とも難しいとも言えないのが構成図です。構成図には、その子の実力が表れてくるようです。中学生でよく書ける子は、構成図もかなり充実したものを書いてきます。10分ぐらいで構成図を完成させれば、もう作文に書くものと内容的には同じことを考え終わったと言ってもよいぐらいです。しかし、作文に書く内容自体が簡単な小学校中高学年の場合は、構成図を書くことが、作文を書くことと二重手間になると考える子もいるようです。
ただし、将来のことを考えると、作文を書く前に、自分の書くことを考えておくという発想は大事ですから、これから構成図をもっと上手に書けるような工夫をしていきたいと思っています。
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4月の清書をもとにした学年別の森リンベスト10です。
中高生や社会人のみなさんは、難しい課題が多くなりますが、よく考えて書いています。
※ 1位の作品はよく書けていますが、段落が少ないので、やや読みにくくなっています。読みやすい段落の平均字数は150字ぐらいと言われています。次回の清書は、段落を工夫して書いてみてください。
4月の森リン大賞(中3の部67人中)
踊りたまえ大地の子らよ
おむふ
人はいずれ“歩く”ことを忘れるかもしれない。 古来の生物でヒラコテリウムというものがいた。多くの人が知らないであろう。うさぎほどの大きさのさえない哺乳類である。まだ豊麗であった原始の森に住まうさすらい人であった。今から5400万年の太古、人類の祖先が樹木から離れ生活するはるか以前のことだ。さすらうヒラコテリウムはやがて森を離れ草原へと赴いた。その地で外敵に追われながら生きるうちに彼らの一族はしかるべき体へと進化を遂げてゆく。長き距離を走り自分を狙う呪わしい外敵から逃れることができるだけの体。パラヒップスの登場である。そして彼らは大地と菜の甘美なる力によりついに進化の果てに、そう馬となったのだ。ここまではよかった。生物が自然と共に華やいだ世界を謳歌していたこのときは・・・。だが、優雅に彩られたこの世はこれまでにみない寸鉄のごとき生物に淘汰されていった。人類である。彼らは自分の足で歩かぬ術を知る種族である。自然の中で栄えたあの“馬”をはじめとしてその延長線上にある馬車、そして1769年フランスのキュニョーが三輪蒸気自動車を製造してからというもの人はますます自分の足を使わずに生きてゆくことを憶えていった。今日ではかつての石炭は電気にかわり、危うき航海を経てたどり着いていた他国へと飛行機により行けるようになった。このように航空力学、海洋学、地学、化学と科学文明は大地は当然、今では巡航探査で深海底へ行き、ボイジャー一号などは太陽系外へ向かう時代であるから世界を淘汰する勢いを持っている。しかしこの科学文明と人類の進化は私には少し異常に思われる。今までの生物の発展とは先述した馬のように自然に適した様態、自然と共存してゆくためのものである。だが本来あるべきこの発展から人は外れているように思われる。農耕のための土地の開拓、科学文明発達のための地球資源の異常な使用。これらのすべてが自然に従うというよりも、自分らの手で世を変え便利な世につくりかえていこうとしているようにみえる。だからこそ思うのだ。便利さを追求するあまり馬、車と歩くという行為を怠り人はいずれ歩くことすら忘れてしまうのではなかろうかと。手間の多くが省かれ、幸と富のあふれる潤沢な生活が日常茶飯事となる。そうした世界が予見できるのが今日の人類の有様だ。だがこうも思う。科学文明による快適さを求めるのも生物として当然であるかもしれないが己の感受性を磨くのは鉄と電気(エレキ)ではなく、味彩と香り豊かな自然ではなかろうか。人類史は今ここでそれを感じ、有意義な“手間”というのを考えるべきなのではなかろうか。単に便利さのみが人生の至福ではなかろう。エルフという空想の種族がある。北ヨーロッパの民間伝承に登場するもので、北欧神話におけるかれらは自然と豊かさをつかさどる小神族である。森や泉に住むとされ、自然と共存している種族だ。もちろん伝説上の種族であるが私はエルフのようにあれたらと思う。エルフの生き方こそ私の思うものであり理想である。しかし、人々は伝説のようになれるのだろうか。今の便利な世になじんだ我々にとって今から有意義な“手間”を思い出しその中で生きる喜びを感じ心を磨いていくことはできるのだろうか。エルフのように生きるにはどうしたらいいか。それについて考えていく。
第一に“手間”から得るものを今一度感ずることにより科学文明への過剰な執着を避けるという方法がある。だれしも一度は自分の血肉をもってして動き、自然の未知を知る喜びを知っているはずである。今日でも登山が世界中で行われていることがそれを示唆する一つの証拠である。“山に登る”という手間のかかるものの中にも人々は豊かさと喜びを感じている。こうしたように、今まで忘れていた自然の豊かさを振り返る機会をつくるべきなのではなかろうか。今の社会人は異常なほどに多忙である。特に不景気とされる今の社会では残業・職探し・他に受験勉強と人々は時間に追われてしまっている。そうした環境下においては少しでも手間を省きできるだけ便利にすごしていきたいと思うのは当然のことといえよう。むしろそういった一刻が己を左右するという状況で手間を楽しむということのほうが異常である。便利さへの依存の原因は現代社会のせわしなさにあるだろう。今の社会の失態は民に時間の余裕を与えていないことにある。ドイツの哲学者ニーチェはいった。「わたしが神を信ずるなら、踊ることを知っている神だけを信ずるだろう。」実際にニーチェは踊るわけではないが、頭脳ではなく体を動かし自分の中の抑圧を解放していく感覚を、踊りの高揚感として実感せよということである。この考えは肉体感覚だけでなく、日々の発見の喜びや豊かな感性にも同様のことをいえる考えだろう。そうとも今一度便利さ以外にも“生”の喜びをおぼえるあの感覚を感じる必要がある。そのためにもまず異常にせわしないこの社会を根幹から変えていく必要があるだろう。そうすればおのずとエルフの生き方に近づくはずである。
第二の方法に科学文明の中でも本来の生きる喜びを感じられるようにするということがある。今までの私の説明ではまるで社会が悪、自然が善というようにも思われてしまうものであるが私はそんなことは毛頭考えていない。勧善懲悪をなしてゆくつもりではない。むしろ文明は多くの恩恵を我々にもたらしていると思う。自然に勝るとも劣らない恩恵だ。ロボット工学による義手の開発や食品の安全のための加工、水の消毒などが恩恵の例である。その上、利便さを追い求め一途に文明を発展させてきた人々の歴史を尊くも感じる。だからこそ文明に依存することなく“手間”と“文明”矛盾しているようにもみえるこれらを共存させていかなければなるまい。ビル街の屋上に緑の広場をつくったり、公園を増やし、自然を取り入れたりすることもこの共存に一役かっている。こうしたこころみに望み利便と手間との適度な共存をしてゆけばなにかが生まれ出でるはずだ。
利便さにあふれた生活はたしかにちょっとしたゆとりをもたらすものであるかもしれない。また手間を省くというのは人類の古来からの心意気ともいえる。しかし自然の魅力を感じ有用な手間をつくることにも大いなる意味がある。それを思い出すことが我々の課題であり使命である。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
---|
1位 | ●踊りたまえ大地の子らよ | おむふ | 92 | 2594 | 71 | 87 | 94 | 84 |
2位 | ●人間が時間に追われるようになったのは。 | snow boy | 90 | 1252 | 64 | 77 | 88 | 87 |
3位 | ●untitled | (「・ω・)「がおー | 87 | 1285 | 58 | 67 | 77 | 90 |
4位 | ●過去か未来ではない今という選択 | arugebak | 83 | 1661 | 57 | 87 | 99 | 80 |
5位 | ●古きよきものVS斬新奇抜 | 音楽大好き少年 | 83 | 1161 | 54 | 74 | 83 | 87 |
6位 | ●効率的に生きること | いちごサクラ | 83 | 1119 | 54 | 64 | 69 | 87 |
7位 | ●弟と私とたまに母とたまぁに父 | S-1240 | 80 | 1263 | 56 | 59 | 87 | 87 |
8位 | ●歩いてはじめてわかること | ポチト | 80 | 854 | 57 | 71 | 74 | 89 |
9位 | ●自分なりの生き方を | ファラオ | 78 | 830 | 54 | 58 | 71 | 92 |
10位 | ●ゴミを活用できる人 | AIRIOKA | 76 | 764 | 47 | 62 | 73 | 89 |
4月の森リン大賞(高1高2高3社の部147人中)
人の死は心の死
LOLLIPOP
脳死にまつわる社会問題に我々が今悩まされている原因は、人間の死に対しての私たちの認識や理解の混乱のように思われる。心臓死は、血流が途絶えることで全身の生命活動が停止し、身体の一部がまだ動いているということはない。しかし脳死の場合は、脳の活動が停止したとしても、全身の生命活動の停止がそれと同時に起こるわけではない。人格はなくなってしまったのに心臓は動き続けることができ身体は生きている。その人の人格はないのに身体は生命活動を続けているという状態は死であるのか。人の死について、また死の扱いについてよく考えるべきだと思う。
そこで、脳死状態にある人から正常に動いている臓器を他へ提供することがあるが、この時のその人の人格を考えてみたい。考えること話すことなど人としての人格を失った人の了解なしで、勝手に臓器が取られてしまう。もし、身体の生命活動の停止を人の死ととらえるならば、この臓器提供という行動は全く問題ではない。しかし、この行為に対してためらいの意があるために議論されているのが今の日本の現状である。その人の人格の死は、身体が動いていても死になるのかと悩まれている。植物や動物には人間の人格に値するものはおそらくないであろう。それらは、自然の中で生命をつなぎとめるために、共存するために生きていると思うからだ。しかし、人間は他の生き物にはない能力が備わっており、特に心というものがある。これは、人間と他の動植物との大きな差だと思う。人間らしいと言われる根源には、おそらく心があるかの相違があると思う。人の優しいとか意地悪だとか性格すなわち人格の基となるのは心だろう。そして、この心というのは決して目に見えるものではない。その人自信を感じるのは心である。そのために、考えや思いを伝える働きを支えている脳が死んでしまうとその人の人格は勿論、心も死んだことになる。人と動植物の大きな違いである心が失われた身体は人間であるのに人間味を失ったまま身体だけが生きていることになるので、私たちはこの状態を人の死だと割り切って言えないのだ。
脳死患者の臓器移植で死の扱いについて考えてみる。脳が死んでいても心臓が動いている限り他の臓器も活動しているので生物的に生きていることになる。新聞である家族の一人の脳死患者に臓器を移植して長期間、身体だけ生きることになったという記事を読んだことがある。身体的生命は今のテクノロジーのおかげで他者の臓器に支えられてリレーのように生をつなぎとめることができる。しかし、私が読んだ家族は身体だけでも動いてるのだから意地でも死なすまいというように思えて、脳死者本人のためなのか疑問に感じた。死と生の中間にいる人にとって何が一番良いのかは本人に聞かないと分からない。だが、死というものは必然的に誰にでも訪れることであり、自然の営みの中で私たちが生まれたように、死も自然の成り行きのままに迎えるのが望ましいのではないかと思う。
ますます医療のテクノロジーが発展し続ける非人間化する世界の中で生きていることを自然を通して冷静に考え、死について向き合うべきである。人の死は、生命的な死ではなく、人格の死である。脳死も心臓死も人格が喪失した時点で人の死と捉えることができると思う。しかし、その人が周りの人々の心に残したことは消えることはなく、その人を思う心の中に生き続けるのである。
順位 | 題名 | ペンネーム | 得点 | 字数 | 思考 | 知識 | 表現 | 文体 |
---|
1位 | ●人の死は心の死 | LOLLIPOP | 92 | 1400 | 71 | 82 | 85 | 96 |
2位 | ●あなたは学生ですか? | カエル | 89 | 1010 | 66 | 88 | 91 | 92 |
3位 | ●手間が導く幸せ | BABY★BLUE | 87 | 1448 | 58 | 86 | 94 | 92 |
4位 | ●人間の内面的部分 | さくら | 86 | 1079 | 59 | 89 | 88 | 87 |
5位 | ●隠れる心理とサングラス | いさせ | 85 | 1376 | 61 | 72 | 75 | 81 |
6位 | ●マーブル状に存在している | くま王子 | 85 | 1153 | 62 | 60 | 75 | 83 |
7位 | ●ゴミを生かす | メグ | 84 | 1333 | 52 | 66 | 79 | 80 |
8位 | ●さて十九世紀の | まいう | 83 | 927 | 58 | 69 | 83 | 93 |
9位 | ●知る喜び | ちこちこ | 83 | 1112 | 52 | 70 | 81 | 89 |
10位 | ●技術と人間 | ゆうちゃり~ | 83 | 991 | 53 | 80 | 76 | 90 |
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