言葉の森の通信教育を受けている生徒の保護者の中には、「勉強で習っているのは言葉の森だけです」という方がときどきいます。
 実は、我が家もそうでした。
 勉強は、学校でしていれば十分で、家でやる勉強的なことは読書だけでいいと考えていたのです。
 言葉の森をやっていると、そのための自習があります。
 それは、毎日課題の長文を読むことです。と言っても、千数百字の文章ですから、音読で3、4分です。これを毎日していました。
 音読を聞くともなしに聞いていると、ときどき読み間違いがあったり、子供から言葉の意味について質問があったりします。
 そこで、長文の内容についていろいろ話をします。
 普通、親と子が話す内容は、日常生活のあまり意味がないものが多いと思いますが、長文をもとに話をすると、話の内容がかなり知的なものになります。
 その中で、親の体験談を話したり、長文から少し脱線した別の話をしたりしました。
 人間の頭脳は、言葉のインプットによって複雑になっていきます。
 ドリルを解くような勉強をしても、小学生の間は、習ったことを繰り返して身につける条件反射的なものが多いので、考える力は対して育ちません。
 それに比べると、親子の知的な話し合いは、楽しくできて、しかも考える力がつく、最良の勉強的なものなのです。
 この音読も、言葉の森を習っていて、毎週一回作文を書く勉強があるから続けられることで、もし音読だけを単独で家庭学習としてやろうとしても、なかなか続けることはできません。
 今は、学校でも音読の宿題を出すところが増えているようです。
 しかし、この学校の音読は、読む文章が易しすぎ、読む繰り返しの回数が少なすぎるように思います。そのため、音読をもとに親子で知的な対話が始まるということもあまりないのではないかと思います。
 言葉の森の音読でなぜ対話が特に必要になるかというと、その音読した長文をもとに感想文を書く課題があるからです(小3から)。
 感想文のポイントは、自分の体験に結びつけて考えることにあります。そのためには、長文に関連した体験を考えなければなりません。しかし、子供の人生経験は短いので、親の経験談を聞かなければ、なかなか自分の体験と結びつけることができないのです。
 そのかわり、親の話を聞いてくると、実例も増えるし、語彙も増えます。こういう蓄積が、公立中高一貫校の作文課題などでも自然に生きてくるのです。
 言葉の森で作文を週1回書き、長文音読を毎日続けていると、勉強の流れができます。
 ここに、毎日の読書を組合せれば、家庭学習の中身はこれで十分です。
 そして、最近は、ここに暗唱検定や寺子屋オンエアのオプション学習も組み合わせられるようになりました。
 暗証検定は、1回の検定料が540円です。
 この暗証検定を目指して、毎日10分暗唱の勉強ができるというのは、家庭学習にとって大きなメリットになると思います。
 また、寺子屋オンエアは、1時間オンラインで自学自習ができるシステムです。
 家庭学習を、ほかの生徒と一緒にでき、しかも最後の10分に先生との話があるので、ひとりでやる家庭学習よりも励みになります。これも、料金は1日1時間1404円ですから、塾に行くよりもずっと割安で、しかも自分のペースで勉強ができます。
 言葉の森では、このほかに、今オンエア講座という形で、先生の授業を聞いて勉強するようなオンラインの講座も開いています。
 これらを組合せれば、家庭での勉強は言葉の森だけでいいという傾向はますます強くなっていきます。
 ときどき、言葉の森の受講料8434円(小学生)は高いと思われる方がいますが、こういう家庭学習の中心として言葉の森を活用すれが、全く高いということはありません。
 それよりも、安いと言われる作文の通信教育をやって、子供が作文が苦手になれば、そのマイナスの方がずっと大きいのです。
 作文の勉強というものは、独学や家庭学習ではまずうまく行きません。
 また、作文を教える教室もあるかもしれませんが、そこで小1から高3まで作文の勉強が続けられるようなところはまずないありませんし、また苦手な子が楽しく通えたり、中高大の受験作文まで対応できたりするところもまずないと思います。
 自宅で作文の練習ができて、先生から毎週の電話指導があり、オプションの学習もできるという点で、言葉の森を家庭学習の中心にすれば、いろいろなことがうまく回っていくようになるのです。
 
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 オーバーなタイトルのように思われるかもしれませんが、これは私の実感です。
 作文は、うまく教えてくれるところでなければかえって苦手になります。
 勉強は学校でやっていれば十分で、学校より先に進むとしたら家庭学習で十分です。
 だから、言葉の森の作文を中心にして読む力と書く力をつけ、自学自習で勉強をしていけば、余裕のたっぷりある小学校生活を送れるのです。
海外に住んでいると、だんだん日本語の勉強がおろそかになって行きます。親の言うことは聞かなくても、先生から電話があるとヤル気が出るのではないか、と思いました。
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 日本では長らく、作文教育は文学的な教育の一部として行われてきました。
 小学生のうちから私小説の作家を育てることがゴールになるような雰囲気で作文指導が行われてきたのです。
 もちろん、そういう生活作文的な作文指導も必要です。
 そして、小学生は、そのような事実中心の作文からスタートしていくのが自然です。
 しかし、作文教育の目標は、小説家を育てることではありません。
 将来、社会に出て、自分の言いたいことを文章でしっかり表せる人になることが目標です。
 そして、その上に更に、文章を書くことによって創造的な考えを生み出せるような人になることが目標なのです。
 創造性を育てることについて、簡単なノウハウはありません。
 しかし、少なくとも、教える先生がゴールは創造性にあるということを自覚していることが必要です。
 受験に合格する作文ということも、もちろん一時的には目標になりますが、作文を教える先生は、その先の目的も自覚しておく必要があるのです。
 
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 教育の目的は、創造性を育てることにあります。
 答えのある世界は、これからどんどん人工知能に肩代わりされていきます。
 人間がする仕事は、希望を持つことと、問題を作ることです。
 その両者に結びつく教育が、作文教育です。
 だから、作文の評価で大事なことは、文章が正しく書けているとか、漢字が正しく使われているとかいう以前に、まずその子のオリジナルなものがあることなのです。
 言葉の森は、世の中に作文教室の「さ」の字もないころから、作文指導をしてきました。
 大学入試に小論文の課題が出てきたのは、言葉の森が作文教室を始めてからずっとあとです。
 また、公立中高一貫校の入試に作文の課題が出てきたのは、ここ10年ほどのことです。
 なぜそのように早くから作文指導に取り組んできたかというと、これからの教育で最も大事になるのは、創造性の教育だと考えていたからなのです。
 大人は、ついつい美文を求めたがります。目標を間違えないようにしなければ。
創造性ということを意識すると、大らかな気持ちで指導できそうです(笑)。
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 先日行った思考国算講座の記録(約45分間)の一部を紹介します。
 参加者は小4~小6の生徒7人です。
 ハングアウトを使ったオンエア講座なので、参加できる人数は最大でも8名程度です。
 現在、オンエア講座は、このほかに小1~小3対象の読書実験クラブ、中1~中3対象の先行国数講座を行っています。
 まだ曜日と時間が限定されていますが、将来はもっと多くの曜日と時間で、全国の生徒が自由に参加できる形にしたいと思っています。
 現在、世界で行われているネットを活用した教育には、二つの問題があるように思います。
 一つは、MOOCなどに見られるように、良質のビデオ授業を無償に近い低価格で配信する教育です。
 これは、意欲があるが学ぶ機会がないという途上国の青年などが学習できるという点で優れていますが、ひとりで授業を聴いて勉強をするというのは、多くの人にとって継続しにくい面があるようです。
 もう一つは、語学のマンツーマン教育のような時間と場所を自由に選べる個別教育です。
 これは、生徒にとっても先生にとってもやりやすい仕組みですが、受講料が高額になる面があります。
 一方、ネットではない従来のリアルな教育は、新しい問題を抱えています。
 それは、少子化の中で、ある程度の人数が集まって勉強する場がなかなか確保できなくなっている点です。
 地方では特にその傾向が強くなっているます。
 言葉の森では、ネットを活用した教育として、このオンエア講座や寺子屋オンエアをこれからもっと使いやすい形にしていく予定です。
https://youtu.be/4m4Sng3VZWE
 
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 勉強の基本は、自学自習です。
 先生に、手取り足取り教えてもらうものではありません。
 しかし、質問をしたり、大きなアドバイスを聞いたり、生徒どうしが交流したりする場は、先生がある程度作っていく必要があります。
 そして、その先生という役割は、子供のことを考えてあげられる人なら誰でもできると思います。
 私は、密度の濃い勉強ができるのは、個別指導の1人でも、集団指導の数十人でもなく、6、7名ぐらいの人数ではないかと思います。
 これぐらいの人数であれば、全員が参加する形の勉強ができます。
 日常の勉強は、家庭での自学自習で、そしてたまに6、7人のグループで授業に参加するいう形の学習スタイルがこれから広まっていくと思います。
毎週自宅で勉強できるのがいいですね。
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 子供の作文を、言葉の森を始めたときからずっときれいに保存していてくださる保護者の方がいます。
 今の原稿用紙スタイルは、散逸しやすいので、ファイルをしておかないとばらばらになってしまいます。
 だから、本当は、みんなにそうしてもらいたいのですが、毎週のことになるとつい後回しになってしまうことも多いと思います。
 そこで、清書だけはテキスト化して、ウェブにアップロードしておくことをおすすめしています。
 テキスト化して保存しておくと、子供が小さいころからの成長の記録がずっと残ります。
 すると、成長の過程で語彙が豊富になっていくことがよくわかるのです。
 その成長も一直線ではなく、いろいろなところで停滞があったり進歩があったりということがわかります。
 作文の勉強というものは、テストの点数のように上達が目に見える評価がないので、長くやっていると飽きることも出てきます。
 そういうときに、自分の作文の蓄積を見ると、進歩のあとがわかるのでやる気を取り戻すことが多いのです。
 小学3年生になると、学校でローマ字を習うので、自分でパソコン入力ができるようになります。
 アルファベットを教えるだけなら、小学1年生からでもできるので、もっと早くからパソコン入力をすることもできます。
 しかし、せっかくパソコン入力した作文が増えても、そのままではまだバラバラです。
 そこで、今考えているのは、kindleのセルフパブリッシングを利用して本という形にしておくことです。
 テキストだけでなく、そのときの画像などもカラフルに入れられるので、子供にとっていい思い出になります。
 これからは、子供だけでなく、お父さんやお母さんも、自分の個性を生かしてセルフパブリッシングをする機会が増えてくると思います。
 日常的な記録であれば、ブログやfacebookに記事を投稿する形でいいのですが、本格的なまとまったことを書こうとすれば、やはり形として残るものにしていく方がいいのです。
 そこで、言葉の森では、これから子供たちの記録をkindleのセルフパブリッシングで作品集にする企画を考えています。
 これまで、プレゼン作文発表会をしたり、作文検定をしたり、作文の勉強を形のあるものとして生かす工夫をしてきましたが、今度はそれにkindle作品集の企画も加えていきたいと思っています。
【追記】
 タッチタイピングに慣れるためには、自分の好きな歌を一曲歌いながら、その歌詞を入力する練習をすることをすすめています。
 このやり方で毎日10分でもタッチタイピングの練習をしていると、すぐに手書きよりも早く打てるようになります。
 しかし、書く過程はパソコン入力でいいのですが、考える過程には手書きが必要なので、構想図を書くときなど手書きの部分は残しておくことが大事です。
 
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 日本には、万葉集という庶民が詩を書いた伝統があります。
 同じように、これからkindleのセルフパブリッシングという庶民が本を書く文化が生まれてくるのではないかと思います。
 これを子供たちの作文の作品集として作っていくことを考えています。
 昔は子供たちの文集を作るとなると、文字だけで、モノクロで、手間がかかって、コストもかなりかかりました。
 これからは、電子書籍の文集になるので、個人別の作品集が、カラフルな画像も入れて、ほとんど無料でできるようになります。そして、田舎のおじいちゃんおばあちゃんも、孫の作品集をすぐにスマホで見られるようになります。
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 学力と成績は、同じもののように思われるかもしれませんが、ここで言う学力とは学ぶ力のようなもので、まだ成績として表れているとは限らない潜在的な学力です。
 学力の根本は、日本語の力によって養われます。というのも、人間は言葉によって物事を理解し、言葉によって考えるからです。
 だから、言葉を豊富に駆使できる人は、理解する力も、思考する力もあるのです。
 同じ物事を見る場合でも、言葉のストックが豊富にある人は、その物事をより高い解像度で見ています。言葉のストックが少ない人は、より低い解像度で見ています。
 同じものが同じように見えるのですから、差があることはなかなか自覚できませんが、そこにはやはり差があります。
 料理の味でも、舌の肥えた人とそうでない人との差があるように、言葉による理解も言葉の肥えた人とそうでない人の差があるのです。
 言葉のストックを豊富にするものは読書です。
 読書には質と量がありますが、まず量を確保することが先です。
 本をたくさん読んでいれば、自然に語彙が豊富になり、その語彙を自分で自由に使えるようになります。
 作文力の土台も、読書力です。
 作文を作文の上だけで上手にすることはできません。
 それは、根っこを育てないでいて、花だけを大きく咲かせようとするようなものです。
 まず根っことなる読む力をつけることが基本なのです。
 読む力がある子は、潜在的な学力を持っています。
 成績を決めるのは、勉強の有無ですから、学力がある子が必ずしもその学力に比例して成績がいいわけではありません。
 しかし、読む力があり、学力がある子は、いざ勉強が必要になり勉強に取り組むようになると、すぐに成績を上げることができるのです。
 成績は、勉強の時間に比例します。
 勉強の方法というのももちろん成績に影響しますが、もとになるのは勉強の量です。
 特に、低学年のときほど、勉強の量はそのまま成績に表れます。
 だから、成績のいい子は、よく勉強をしている子なのです。
 成績は点数として表面に現れるので、誰でも関心を持ちます。
 成績がよければ安心し、成績が悪ければ不安になります。
 しかし、本当に関心を持たなければならないのは、学力の方です。
 では、学力と成績は、どこで見るとよいのでしょうか。
 学力と成績の違いは、漢字の力に表れます。
 学力のある子は、漢字の読みがよくできます。その学年ではまだ習っていない漢字についても読みだけは知っているという子が多いのです。
 しかし、漢字の読みがよくできる子が、漢字の書きがよくできるとは限りません。
 漢字の書きは、書き取りの勉強量に比例します。
 だから、成績は漢字の書きに表れると言っていいのです。
 両方できるのが、もちろんいちばんいいのですが、大事なのは読む力の方です。
 読む力のある子は、書く勉強を始めればすぐに書く力もついてきます。
 しかし、その逆はありません。
 だから、読む力は読書量によって独自に育てていく必要があるのです。
 
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 子供は本さえ読んでいればいいというのは、読書が学力の土台になっているからです。
 読書さえしっかりしていれば、小学校での勉強は、漢字の書き取りと計算の練習だけやっていればそれで十分なぐらいです。
 作文の試験が多くなったのは、作文力は読書力に比例し、読書力は本当の学力に比例していることがわかってきたからです。
 反対に、教科の成績は勉強時間に比例しているので、成績のよい子は勉強をよくしてきた子だということはわかりますが、そういう子が必ずしも高い学力を持っているわけではないということもわかってきたからです。
「生きる力」・「考える力」というのは、結局読書量に比例するということ。
高学年になると、授業時間数も宿題も増えるけれど、読書はしっかりと。生徒さんのご両親にもしっかりお伝えしていきたいです。
読書をしている子は、語彙力も豊富ですね。
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 昔から、作文が苦手な子というのはいました。しかし、その数はそれほど多くはありませんでした。
 ところが、最近作文が苦手だからという理由で、言葉の森に問い合せをしてくる人が増えています。
 子供たちの作文力は、昔も今もそれほど変わっていません。
 では、なぜ作文が苦手だという子が増えたのでしょうか。
 それは、逆説的なようですが、作文を教えられる機会が増えてきたからなのです。
 作文が苦手だという子には、共通点があります。それは、学校や塾で作文をよく教わっていることです。
 それも、先生が熱心なほど苦手になる子が増えるのです。
 反対に、自分で作文が好きだとか得意だとかいう子もときどきいます。
 そういう子は、学校で作文の授業がほとんどないのが普通です。
 つまり、作文は、教えられる機会が増えるほど苦手になってくるのです。
 この理由は、はっきりしています。
 子供たちが作文を書けば、どんな子でもどこかしらに欠点があります。
 句読点がおかしかったり、主語と術語がねじれていたりするのはどの子も普通にあります。
 厳しく見れば、同じ表現を繰り返していたり、言い回しが不適当だったりすることも、作文の欠点のうちに入ります。
 すると、文章力に自信のある先生ほど、その欠点をそのまま指摘してしまうのです。
 もし、作文の欠点を指摘して、それでその子の作文の欠点がなくなるなら、日本中の子供たちはみんな作文が得意になっているはずです。
 しかし、作文に現れた欠点は、その子の日本語生活という土台から来ているものですから、口で言っただけで直ることはないのです。
 ところが、集団指導をしている先生は、そのことに気がつきません。
 同じことを指導して、一方の子はできて、他方の子ができないとなると、それはできない子の努力不足だと考えてしまうのです。
 では、作文の苦手な子には、どういう指導をしたらいいのでしょうか。
 それは、その子の実力にあったことを事前の個別指導をするしかありません。
 その子が努力すればすぐにできることだけに絞って指導し、すぐにはできないことは指導からはずしておくのです。
 指導からはずしておくのですから、それはできなくてもかまいません。
 できることだけをしっかり書けばいいので、子供は安心して書き出せます。
 そして、指導したことがそのとおりにできたら、先生はそれをたっぷり褒めてあげることができます。
 言葉の森の個別指導はこういうやり方ですから、作文が苦手だという子もすぐに書けるようになります。
 子供の作文を見て注意するだけであれば、普通に文章を書ける大人であれば誰でもできます。
 しかし、その注意によって、子供は上達するどころか、作文に対する苦手意識を持つだけになることが多いのです。
 では、作文はただ褒めればいいのかというと、それも違います。
 何を書いても褒められるだけであれば、上達もしないし、意欲もわかなくなります。
 注意することでも、褒めることでもなく、作文指導のカリキュラムに沿って科学的に指導していくことが大切なのです。
 
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 作文が苦手な子が増えているのは、作文を教わる機会が増えたからです。
 それは、受験で作文試験を課すところが多くなってきたために、学校も塾もそれに対応するようになってきたからです。
 作文は、教えられる機会が増えるほど、苦手な子が増えてくる不思議な勉強なのです。
 作文力は、氷山の表面に見えているごく一部です。
 その底には、日常の日本語生活の大きな土台があります。
 作文添削は、その目に見える表面だけを削っているようなものですから、いくら添削しても上達はしないのです。
 作文の勉強の基本は、第一に読む力をつけること、第二は焦点を絞った事前指導をすること、第三はできたところを褒めること、です。
 娘が中学生になり、作文に対して再びやる気を失っています。原因は、学校の先生による評価に仕方にあるようです。
 娘の通う地元中学では、行事の後に作文を書かされます。そして、教師が「優秀」と認めたものは学年だよりなどに掲載されます。掲載された「優秀」作文にはある共通点が見られます。事実とは異なる、パターン化した美談であるということです。
 子どもが自ら悩み考えたことを作文に書いても認められません。教師は事実をありのまま見ることをせず、自分が見たいことを見たいようにしか見ない傾向があります。いじめが起きていても、「我がクラスにはいじめはない」と思い込むのと同じだと言えます。
 何につけてもそういった評価の下され方をされるので、教師の前でうまく取り繕うことが上手な生徒のほうが評価されてしまいます。評価されたいなら嘘をつけばよいと娘に言うこともありました。世の中をうまく生きていくには確かに必要なのですが卑怯なことをすすめているようで心苦しく、また、正直ものの娘にはとうてい受け入れがたいことです。そういったことの繰り返しで、中学になってから、主観的評価になりがちな作文に関して特にやる気を失っています。
 また、多くの子どもたちが、嘘がうまくなっていきます。小学校時代は素直な作文を書いていた子も、どんどん嘘つきになっていきます。このような学校教育の在り方に、改めて危機感を抱きます。
 学校教員のすべてがこのような傾向を持つとは思いませんが、ある一定数いるのは確かです。本人のやる気を再喚起していく方法を模索中です。
 お返事遅れてすみませんでした。
 これは、学校の評価の仕方もあると思いますが、子供の年齢的なことが大きいと思います。
 小6から中2にかけては、読解力と作文力が一生のうちで最も乖離する時期で、読む力があるほどには書けないという状態が続きます。
 だから、自分の書く作文が自分で見て上手には思えないので、どの子も作文が苦手になりやすいのです。
 しかし、作文の評価というのは曖昧なところがありますから、身近な人がその子の作文のいいところを褒めてあげると、それが自己評価になります。
 学校の評価などは、内申点があろうがなかろうが、長い人生から見たら何にも影響しません。評価など気にせずに自分らしいことを書いていけばいいです。
 損をしても正直な生き方をする方が格好いいと言っておくといいと思います。
お忙しい中お返事ありがとうございました。
受験が視野に入ってくる時期、母親の立場になると、どうしても大事なことを忘れがちになります。
「長い人生から見れば」
はっとしました。
長く生きている大人だからこそ、学校の評価なんて気にしなくていいと自信を持って、子にアドバイスすべきですよね。
親という生き物は・・・苦笑。
子どもをもっと褒めるように努力します。
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 小学生時代は、頭も体もぐんぐん成長する時期です。
 この時期に、頭をよくし、体を丈夫にするのが、子供の教育の基本です。
 頭をよくするためには、好きな本をたっぷり読むことです。
 体を丈夫にするためには、体を使ってたっぷり遊ぶことです。
 勉強は、学校でしているから、それで十分です。
 家では、遊びと、お喋りと、読書と、それからちょっとだけ学校でしたことの復習です。
 本さえ読んでいれば、子供の頭脳はしっかり育ちます。
 それ以外は、本当は何もしなくてもいいのです。
 これは決して極端な話ではなく、数十年前の子供はみんなそうでした。
 学校から帰ると、すぐにランドセルを家の中に放り投げて、走って遊びに行きました。
 そして、夕方の食事の時間までたっぴり遊んでいたのです。
 昔は、本は今ほど豊富にはありませんでした。
 しかし、たまに買ってもらう本や、月に1回届く雑誌などが子供の読書の喜びで、同じ本を何度も繰り返し読みました。
 そして、この遊びと読書で、みんな立派に成長し、学校を卒業して、立派な社会人になっていったのです。
 先日、私立の小学校に通っている子に聞いた話に驚きました。
 家では勉強が忙しいから、本は学校の行き帰りの電車の中でしか読めないというのです。
 また、こういう子もいました。
 読書は、朝の10分間読書で学校でやっているから、家ではやらなくていいことにしているというのです。
 それで、家では勉強をしているというのです。
 勉強は、小学生のころの子供にとって決して面白いものではありません。
 勉強が面白くなるのは、もっとあとの高校生以上になってからです。
 読書は、子供にとっては遊びと同じように面白いものです。
 だから、読書はいくらしても無理がないのです。
 中学生、高校生になり、勉強がよくできるようになる子は、小学生時代に読書をたっぷりした子です。
 だから、子育ての基本は単純です。
 子供を読書好きにすればいいのです。
 もうひとつついでに、言葉の森の立場で言うと、読書と作文を好きにしていけばいいのです。
 しかし、それも楽しくさせることが絶対の条件です。
 ただし、読書さえしていれば、漢字の書き取りも計算の練習もよくできるようになるというのではありません。
 読書している子は、勉強が必要になったときにすぐ追いつくことができ、すぐに追い越すぐらいになるということなのです。
 
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 なぜ昔の子が家では勉強をしなかったかというと、問題集やプリントが今のように簡単に手に入らなかったからです。
(今は、塾から消化し切れないほどのプリントが渡されますが)
 
 それで、同じ本を繰り返し読んで頭脳を成長させていったのです。
 
 学力の基本は今も変わりません。
 問題を解くことによってではなく、本を読むことによって、子供は成長していくのです。
 うちの子2人が、家でやっていたのは、読書と音読と作文だけ。
 塾にも予備校にもどこにも行きませんでした。
 それで、小中高と楽しく学校生活を送り、全く問題なかったのです。
 今の子供たちは、早期からの塾通いに健気に耐えていますが、本当はもっとたっぷり遊びたいはずです。
遊ぶことと同時に大事なのは読書。
言葉は悪いですが(笑)、これまでの経験上、大化けするのは、勉強ばかりしている子供ではなく、読書ばかりしている子供です。
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 小さいころ勉強ができすぎることが、その子の将来の人生にとってマイナスにならないためにはどうしたらよいのでしょうか。
 第一は、知的な勉強をできるだけ実物の体験と結びつけることです。
 例えば、理科の本で、植物にはおしべとめしべがあり、虫や風がその受粉を仲介するというような記述があった場合、それを知識として理解するだけでも、確かにその子の物事に対する思考力は深まります。
 しかし、ここで、知識を知っているだけで終わらせずに、実際にその現場を見に行くような機会を作るのです。
 本を読んで得た知識は、単なる知識のコピーです。そのコピーをいくらたくさん知っていても、自分らしいものの見方は育ちません。将来大事になるのは、さまざまな知識を自分なりに生かせるような力を身につけることです。
 実際に現場を見に行けば、そこで得た体験はコピーではなく自分だけのオリジナルなものになります。その体験が知識と結びつくことが大事なのです。
 だから、勉強のよくできる子は、勉強以外の実際の体験もそれ以上にする機会を作ってあげるといいのです。
 知識を能率よく吸収させるのではなく、体験を通して遠回りに吸収させることが、その子の知識を生きたものにするのです。
 第二は、勉強的なことをするときに、自分から進んで喜んでやりたいという気持ちにさせることです。
 つまり、本人が心から自分でやりたいと思うまでは、親の方から先にやらせようとしないことです。
 そのために、親は、いろいろな工夫をして、本人がそれをやりたくなるようにさせる必要があります。
 子供が小学校低学年のころは、親は簡単に子供に何かをさせることができます。しかし、それを抑えて、子供が自分からやりたくなるように時間をかけて工夫していくことが必要なのです。
 また、本人がやりたいということは、できるだけそれをかなえてやるような条件を作ってあげることです。
 子供が何か希望を言ったとき、親が、「それは○○だからだめ」と言ってしまえば、子供はそれ以上反論できません。
 簡単にだめと言うのではなく、今の条件でできるようにするためにはどうしたらよいかということを考えてあげることです。
 子供が将来社会に出てから活躍するときに最も大事なのは、意欲を持ち続けることです。
 その意欲は、子供時代に自分の意欲を生かした経験から育っていくのです。
 第三は、勉強がよくできることを自慢せず、いつも謙虚に生きるようにすることです。
 人間が社会活動をするときには、人と人との協力が必要です。その協力に欠かせないのが、互いに相手を尊重することです。
 自分に能力があったとしても、それは同じようにほかの人にもあるのだということを教え、特に自分の得意な分野があったとしたら、それは世の中の役に立たせるために、自分に与えられたものだという謙虚な姿勢を持たせることです。
 今の世の中は、勉強面で競争をさせる環境があるので、よくできる子はできない子をバカにするような風潮があります。
 成績でクラス分けをするような塾にいると、誰も教えるわけではないのに、できるできないという価値観だけで人を評価するようになります。
 狭い価値観で人を見ることは、道徳的に問題があるだけでなく、その子の生きる世界を狭めてしまいます。
 自分のよくできることを自慢せず、誰に対しても同じように相手を尊重して生きていくことの大切さを子供のころから教えることによって、その子の人生はより豊かになったいくのです。
 昔の社会では、以上のようなことが自然に行われていました。
 勉強のよくできる子でも、家の農作業を手伝わされたり、家庭の仕事の一部を分担させられたりしました。実物に触れる機会はふんだんにありました。
 また、親の目が行き届かないところで、子供は自分の好きなことを自由にする機会がありました。
 更に、近所の人に接すると、勉強は全然していないようなおじさんが仕事の達人だったり、人生の話をしてくれたりということがありました。
 このような環境で、勉強のよくできる子も、自然にバランスの取れた生き方ができていたのです。
 今は、そういう環境がなくなった分、親が子育ての工夫をしていく必要があるのです。
 
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 昔、ある大きな会社が倒産し、社員の再就職の話が出たとき、次のようなことが言われました。
「東大卒の優秀な人間など、うちでも掃いて捨てるほどいる。ほしいのは自分だけのものがある人材だ」
 こういう境遇になった人には同情するしかありませんが、しかし、これからの世の中は、多かれ少なかれこういう方向で動いていきます。
 だから、成績という偏差値を少しでも上に上げて、誰かに認めてもらおうと思うのではなく、自分の個性を生かして自力で生きる力をつけることを第一に考えていくといいのです。
 そのために必要なのが、体験と意欲と共感の力だと思います。
 昔の子育ての基準は、健康で、人様に迷惑をかけずに、できれば世の中の役に立つように、ということでした。
 それは、農業社会だからこそできたことかもしれませんが、基本は今でも同じです。
 子供の勉強のことで悩んだら、時々この基本に戻るといいのだと思います。
 今は、低学年の子に「勉強、勉強」という周囲からの雑音が多すぎます。
 昔は、勉強の「べ」の字も言われずに、みんな勉強もでき仕事もできるようになっていきました。
 勉強よりも大事なのは、実物と世間の荒波なのです。
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