中学生や高校生にテスト結果を聞いたとき、「大体できました」という生徒は、あまり成績がよくありません。「こことここを間違えたんです」という生徒は、大体成績がいいのです。
「できた」という生徒はあまりできていなくて、「できなかった」という生徒はできているという逆転が起きるのは、テスト問題に対する姿勢が違うからです。
テストというのは、勉強の結果ではなく、次の勉強の出発点です。
テストが返されたとき、どういう傾向のテストで、自分がどう間違えたのかを知ることが、次の勉強の土台になります。
受験用の過去問を、受験勉強を開始する前(大学入試なら高2の終わりか高3の始め)にやっておくというのも、こういう理由からです
時間をかけているわりに成績が伸びない生徒は,テストを勉強の結果としてだけしか考えていません。
だから、成績がたまたまよかったり悪かったりしても、それは、当たり外れのレベルの話になってしまうのです。
定期テストの対策は、まず自分で作戦を立てることから始まります。
前回のテスト結果を分析し、今回の勉強の方向を決め(つまり、教材と範囲と回数を決め)、スケジュールを考えてから勉強を始めるのです。
ところが、こういう自分で立てた作戦を持たずに、ただ塾に行って、言われたことをやるという生徒が意外と多いのです。
人間の得手不得手は、人それぞれに違います。みんなと同じ一律の勉強をしていたのでは、時間がかかるだけです。
自分の勉強の作戦を立てられるのは、自分しかいないのだということをしっかり自覚することが大事なのです。
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言葉の森の暗唱長文は、これまでは現代文でその学年の生徒が作文を書くのに役立つようなものを載せていました。
これはこれで大事な役割があったのですが、せっかく暗唱までするのですから、今後は生涯覚えていて時どき口ずさめるようなものを暗唱長文にしたいと思いました。
そうすれば、その暗唱はやがて親子三代で楽しめるようなものになります。
聞くところによると、群馬県には上毛かるたというものがあるそうで、これは既に家族全員で楽しめる文化になっているようです。
作文に使えるような文章の暗唱が教育的暗唱で、親子三代で楽しめるような文章の暗唱が文化的暗唱と言ってもよいと思います。
教育的暗唱の長文の方は、その学年の作文の模範例文として別途読めるようにしていく予定です
さて、文化的暗唱と言っても、人それぞれに好みがありますから、選択の範囲はかなり広がります。
そこで、いくつかの基準を設けて、新しい暗唱長文を選ぶことにしました。
第一は、親子三代ですから、百年の風雪に耐えるような文章にしたいということです。
第二は、既にある程度知られているような親しみの持てるものにしたいということです
第三は、日本語の文章の暗唱ですから、できるだけ日本文化につながるものにしたいということです。
百年の風雪に耐えるとなると、やはりできてから百年以上経っているということが目安になります。
明治時代の始まりが、今から約150年前でした
明治維新は、現代日本のひとつの大きな原点になっています。
この明治時代の文化の方向が、その後の日本の大きな方向を決定づけました。
例えば、その一つが和魂洋才です。西欧の優れた科学技術は積極的に吸収するが、日本の文化の根は守るという方向が日本人の共通の意識となったのが明治時代でした。
しかし同時に、それにもかかわらず、明治以降の日本の文化は次第に西欧文化に侵食されていきました。
そこで、明治の初期をひとつの基準として、それ以前の古代・中世・近世・近代の文章を中心に暗唱長文を選定することにしました。
参考までに近代のよく知られている人物の生年です。
これらの人々は、江戸時代の成熟した日本文化を背景にしつつ、明治時代の急速な西欧化との葛藤の中で自身の精神形成をしていったのです。
勝海舟 1823~1899 文政
西郷隆盛 1828~1877 文政
吉田松陰 1830~1859 文政
福沢諭吉 1835~1901 天保
内村鑑三 1861~1930 万延
森鴎外 1862~1922 文久
新渡戸稲造 1862~1933 文久
夏目漱石 1867~1916 慶應
幸田露伴 1867~1947 慶應
鈴木大拙 1870~1966 明治3
島崎藤村 1872~1943 明治5
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海外で子育てをしなければならない人は、子供の日本語教育の問題で悩まれることが多いと思います。
これまで帰国子女の保護者の相談を受けていてよく感じるのは、日本語学校のような教育機関だけでは日本語の力をつかないということです。これが、同じ勉強のように見える算数数学、英語、理科、社会などと違うところです。
海外で子育てをしながら、子供に現地の言葉も日本語もしっかり身につけさせている家庭に共通するのは、家庭で日本語を使う機会を意識的に増やしていることでした。
中には、日本語学校が近くにないので、家庭だけで日本語教育をやらざるを得なかったという人もいました。しかし、その方がよい結果を生んでいたようなのです。
家庭での日本語教育の方法は、youtubeで日本語のアニメを見る、近所の子供たちを読んで日本語のゲームをする、家庭の中では両親と日本語で話すなどでした。つまり、勉強として日本語を身につけさせるのではなく、遊びや日常生活の中で自然に身につけさせようとする工夫でした。
このことは、帰国子女に限らず、日本で日本語で生活している日本人の子供たちでも共通です。例えば、親が子供に話しかけるときは、できるだけ断片的な言葉ではなく、ひとつの文がある程度の長さを持っているような言葉で話しかけることです。国語力は、こういう日常生活の中で育っていくのです。
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小6の部で、森リン点89点で第1位になった作品です。
森リン点は、主に語彙の多様性を評価している点数です。
多様な語彙が使われている作文は、内容が充実していて密度が濃いものになっているという相関関係があります。
その多様な語彙の土台は、読書と対話です。
作文の勉強をするためには、たくさんの本を読み、お父さんやお母さんとたくさん話をする必要があるのです。
文化というものは
らうみ
僕は、”文化”というテーマについて似たような話がある。僕はアニメのキャラクターの置物を集めるのに没頭している。例えば、黒子のバスケのストラップや暗殺教室のフィギュアなどだ。イオンモールに行くと必ず一個は買うので、僕の引き出しの中は、フィギュアが散乱していてまるで一つの世界がそこにあるかのようだ。母は、
「そんな細々としたものは必要ないでしょ。」
と顔をしかめるが、僕はそうとは思わない。引き出しの中の世界から、フィギュアたちをこちらの世界へ招待し、ずっと眺めていると自然と笑みがこぼれる。たまには、あちら側の世界に招待してもらい、一緒に遊びたいものだが……。
最近は、「生きるために必要ない」「買う意味が無い」という理由から物を必要最小限しか買わない若者が急増している。でも、僕は物理的に必要でもないものを買う事は意味のないことではなく、むしろ必要だと思う。僕は、フィギュアやストラップなどにも人間と同じように、個々の命があると思う。人間とは違い、表情が変わることもなく、動きもしない。でも、フィギュアたちなりに生きていて僕の、生きるために必要である力を与えてくれていると僕は考えている。毎日の生活も、役に立つことばかりだったら、みんな疲れてしまうだろう。それがないと、生きていけないという訳ではないが、ある方が元気に前向きに生きていけるだろう。
母は、ボールペンを何本も何本もコレクションするのが好きだそうだ。買うボールペンは主に旅行へ行った時に買ってくる自分へのお土産だそうだ。それらを見てみるととても可愛らしいものばかりだ。ボールペンは一つで間がいく、何故多くのボールペンをコレクションしているのだろう。と疑問に思った僕は、疑問をそのまま質問した。母の話によると、母がボールペンを集め始めたのは十年前くらいで、ディズニーランドでかわいいミニーのボールペンを買ったことがきっかけだそうだ。今では、ボールペンの数は数十本以上となっている。母は、必要なくても、使わなくてもそこに旅行という思い出を集めているのよと言わんばかりに笑っていた。生活の役には多分、立たないがそのボールペンコレクションがあるという情緒のおかげで母はいつもニコニコ笑っていられるのかもしれない。
文化とは、人間にとって生きていく上で必要ではないが、あるからこそ素敵な笑顔がたくさん生まれるのだと思う。「角を矯めて牛を殺す」ということわざのように、役に立たないから、人生に必要ないからといって切り捨ててしまうと、大切なものを見失ってしまう。生きるためには、役に立たない無駄にみえるものも必要なのである。
「森リンの丘」より
https://www.mori7.net/oka/moririn_seisyo.php
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●オンエア方式で理科実験や工作の講座を行う企画
子供の教育で大事なことは、個性を伸ばし創造性を育てることです。その創造性を支えるために、学力というものが必要になります。
しかし、今はこれが逆転していて、学力をつけることだけが目的のようになっています。その学力も、真の意味での学力とはずれている、受験に合格するための、つまり競争に勝つための学力です。そのため、引っかかりやすい問題をうまくくぐりぬけるようなところに必要以上の時間を取って学習し、その結果、誰もが同じような価値観を持った、個性のあまり際立たない、そして本当の自分が何をしたいのかがよくわからない子供たちが生まれているのです。
こういう教育が有効な時代は、工業化のために均質で優秀な労働力が必要とされていた時代でした。今、均質で優秀でしかも従順な労働力は、機械や人工知能に取って代わられつつあります。
これから必要になるのは、機械や人工知能に取って代わられない人間の能力です。それが、個性であり、創造性であり、何もないところに問題を発見し、誰もまだ知らない世界に自分の好きなものを作り出していく能力です。その能力を発揮するためにこそ、学力をつける必要があるのです。
では、子供の個性を発見し、創造性を育てるためには何が必要なのでしょうか。それは、その子がさまざまなことに挑戦する機会を、周りの大人が数多く作ってあげることです。
人間は、自分が好きなものにぶつかれば自然に熱中します。この熱中によって、個性が創造性へと発展していきます。
誰もが同じような勉強をして、その輪切りの評価の中で他人より1点でも上に行くことが要求される没個性の教育ではなく、基本的な学力をつけつつも、勉強以外の多様な経験をする自由な教育が必要になっているのです。
言葉の森が、今後の企画として力を入れていくものは、まず基本的な学力をつける教育としての寺子屋オンエア教育、次に、人間性と創造性を伸ばす教育としてのオンエア特別講座です。
このオンエア特別講座の内容としては、理科、社会、図工、音楽、体育などの教科に関連する、より実践的な講座の企画が考えられます。
オンエア方式で、7、8人の小グループが、テレビ会議での先生の監督のものに、自宅でいろいろな実験や実習をするという企画です。
子供たちに必要なのは、自分の興味や関心のある分野で、頭だけでなく手や足を動かし、それを友達との交流の中で行っていくことです。
当面は、理科実験や工作のような取り組みやすいものから始めていきたいと思っています。
●子供の教育講座から大人の文化講座へ
オンエア特別講座は、単に子供たち向けの教育だけに留まりません。子供向けのオンエア特別講座のある分野を受け持つ講師は、やはりその分野が好きな大人でしょう。例えば、理科実験の好きな大人が理科実験の講座を行い、ロボットプログラミングの好きな大人がロボットプログラミングの講座を行います。
すると、何度もその講座を企画しているうちに、その人はやがてその分野の講座のプロのようになっていきます。すると、やがて子供向けだけではなく、より高度な大人向けの講座も開きたくなるでしょう。このように子供向けの教育講座の中には、大人向けの文化講座に発展していくものも出てくるのです。
従来の教育や文化の分野は、既に大きな枠が完成されています。
受験のための教育にしても、お茶やお花の文化にしても、野球やサッカーのスポーツにしても、和洋中の料理にしても、どれも長い歴史の中で完成度の高いものになっているので、需要よりも供給が上回るようになっています。
買いたい人より売りたい人の方が多い産業分野が日本中に広がっているということが、今のデフレの根本的な要因です。
ところが、教える人と教わる人が、自分の好みをもとにして始めた教育文化講座の多くは未完成で、これからいろいろな試行錯誤を経て発展していくものです。そこに、経済の乗数効果が働きます。
メジャーとは言えない狭い好みの分野で教えたい人と教わりたい人が出会えるというのが、ロングテールを持つインターネットの長所です。
インターネットの黎明期には、さまざまなベンチャー企業が生まれました。そのベンチャー企業を担った人の多くは、財産も地位もなく夢だけがある若者でした。
その文化の小さな爆発が、これからまだ誰もそんな世界があるとは知らないさまざまな未知の分野で起こってくるのです。
そういう未来の創造文化産業のきっかけとしても、オンエア特別講座を企画していきたいと思っています。
(写真は、近所の公園に咲いていたハナミズキの実)
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オンエア特別講座は、勉強の企画でもあるのですが、たぶん楽しい遊びの雰囲気があると思います。
そこで、遊びのfacebookグループなどで、この企画を練っていきたいと思っています。
たぶん、退屈な勉強をいやいややるよりも、こういう遊びに熱中した方が、子供たちの頭はずっとよくなると思います。
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