農業では、同じ土地に同じものを作り続けていると、連作障害が出てきます。
しかし、自然の山は、同じ土地に同じ植物が、何年どころか何千年も何万年も育ち続けています。
川田薫さんは、これを、自然の山には岩があり、岩石から出たミネラルが植物を活性化させるからだと考えました。
そして、その仮説を検証するために、岩石の溶液を液体窒素で凍らせ電子顕微鏡で観察すると、2ナノメートルの鉱物の超微粒子があることがわかったのです。(「地球農学の構想」より)
こういう実験の過程を聞いていると、子供だったらわくわくしてくると思います。
そして、いつか自分も科学者になっていろいろな発見をしたいと思うはずです。
しかし、子供たちの科学者の夢を砕くものがあります。
私は、それが、受験数学ではないかと思います。
数学が苦手だからという理由で、早々と理系をあきらめてしまう子がいるのです。
数学そのものは、理屈どおりに成り立つものですから、本来面白い勉強です。
しかし、受験で差をつけるために出される数学は、子供たちに数学に対する苦手意識を作り出しているだけのような気がします。
数学に限らず、勉強はもっとわかりやすく、本質的なものを教えていくべきです。
国語も英語も理科も社会もそうです。
勉強は、子供たちに差をつけるためにあるのではなく、みんなが理解するためにあるのです。
勉強がわかりやすければ、もっと多くの子供たちが科学の面白さに感動を持てるようになると思います。
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中学受験の段階で、「私は文系だと思う」「ぼくは理系だから」と文理を意識する子が多いです。勉強はこれからだというのに。
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言葉の森では、小学校2、3年生から勉強を始める子が多いです。
本当は、小学1年生から始めた方がいいのですが(それは、作文に合わせた音読や対話という家庭学習の習慣ができるからです)、小学3年生ぐらいまでに始めると、作文を書くという勉強が毎週の習慣のようになってきます。
そして、いったん毎週作文を書くことが習慣になると、学校の勉強や部活などが多忙になっても、作文を続けていこうとするようになるのです。
作文教室というものは、言葉の森以外にもあると思いますが、ほかの教室では、小学校低学年から始めて高校生まで続けるようなことはまずありません。そこまでの指導カリキュラムがないということもありますが、もしあったとしてもそのように長期間勉強を続ける生徒はまずないのです。
この継続率は、作文の提出率などにも表れてきます。
ある作文講座では、月2回ぐらいのペースで、作文の課題もカラフルでわかりやすいものになっていますが、提出率は80パーセントということです。
言葉の森では、月4回の課題で(うち1回は清書)、作文の課題は感想文も含めたかなり難しいものもありますが、小学1年生から中学3年生までの合計の提出率が94パーセントです。
この提出率の違いは、そのまま継続率の違いになっていると思います。
言葉の森で小学校低学年から作文の勉強を始めた生徒も、中学受験があったり、中学で部活が忙しくなったり、高校受験があったりすると、途中でやめることがあります。
しかし、やめたあとも、また作文や国語の勉強が必要になると、数年間のブランクのあと再開するという生徒がとても多いのです。
大学入試に向けた小論文の勉強では、予備校などでも講座が用意されていると思いますが、そういう予備校の小論文講座ではなく、言葉の森の作文の勉強を思い出して、「小学生のときに教わった○○先生に、また習いたいのですが」というような問合せがよくあります。
なぜ、このように長く続ける生徒が多く、またいったんやめても、必要があると再開する生徒が多いかというと、いちばんの理由は、担任の先生の毎週の電話指導があるからだと思います。そして、もうひとつの理由は、言葉の森独自の褒める指導を中心にしているからだと思います。
もちろん、中には、言葉の森の勉強をしても、あまり軌道に乗らず途中でやめてしまうという人もいるかもしれません。しかし、その理由の中には、家庭のフォローの不足もあるのです。
というのは、作文の勉強というものは、勉強の中でいちばん心理的負担の大きいものだからです。これは、大人の人が実際にやってみるとわかりますが、ほかの勉強に比べると作文の勉強は始めるときに一大決心のようなものが要るのです。
こういう負担の大きい作文の勉強を続けるためには、先生の電話指導だけでは不十分です。
課題に合わせて親子で対話してくるという事前の準備や、子供の書いた作文には直すところに目を向けるのではなくよいところを認めて褒めてあげるような配慮や、毎日の音読と読書を気長に続けるような家庭学習の習慣というものが必要になってくるのです。
こういう家庭での対話や読書や褒め言葉があれば、毎週の指導でどの子も必ず上達していきます。
ただし、作文の勉強は、国語力という大きな土台が下に隠れている氷山のようなものですから、勉強してすぐに成果が出る子もいますが、なかなか成果の出ない子もいます。しかし、長い目で見れば、どの子も必ず上達します。
だから、作文の勉強はまず長く続けられることが大事なのです。
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幼稚園から小学校、大学に進学するまで、ずっと担当する生徒さんもいます。自然に、作文が成長します。
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川田薫さんの本を読みました。「たましいよろこびっぱなしの生き方」という変わっった題名の本です。
(最初に入れた記事で、「よろこっびぱなし」と書いていました。失礼しました。)
川田さんは、世界で初めて(だと思いますが)、生命あるいは生命的なものの創造に成功した科学者です。ほかにも、さまざまな世界初の発明や発見があります。現在82歳。
川田さんのような新しい考えを生み出す人に共通していることは、自分が単独で存在しているのではなく他のものを同じひとつのものとして存在しているのだという確信です。
昔は、「人類はみな兄弟」などと言うと、気持ちはわかるが一種の冗談のように受け取られるところがありました。今でも、個体の境界ははっきりしているので、基本は個人的な存在として人間は生きています。
しかし、同時に、人は個人として終わるものではなく、過去や未来も含めて全体の世界の一部として生きているのだという感覚が、だんだんと多くの人に共感されるようになってきたように思います。
これは、子供の教育については更に重要になってきます。
今の受験勉強は、友達と競争して、その競争に勝つことが目標のようになる勉強です。
競争は確かに人間の活力の動機にもなりますが、それは子供たちのゲームのような遊び的なものであるときはマイナス面はありませんが、真剣に利害が絡むようなものになると、しかも大人的な利害がからむようになると、弊害が大きいのではないかと思いました。
子供たちの教育の出発点は、自分は他人と同じだということを教えることであって、他人との競争に勝つことで自分があると教えることではないと思います。
世の中の意識が進んでいるのに、教育の方がまだ一歩遅れているような現状があるのではないかとこの本を読んで思ったのです。
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先日、岐阜県の位山というところに行ってきました。ちょうど熱帯低気圧が来ているときで、山頂まで歩いて数時間で往復してきましたが、その間誰ひとり会わないぐらいの大雨と大風でした。(そんなときに行くなって)
それはそれでいいのですが、その位山までに行く道路を運転しているときに、ただ長時間運転しているだけで暇なので、いろいろ考えました。
まず左右に広がる田んぼや畑とまばらに点在する人家です。
私は、普段あまり外出することはしませんが、横浜のはずれの港南台周辺を歩いていると、人も家も隙間なく並んでいます。混雑しているということはありませんが、どこに行っても人がいて、家があり、お店があるという感じです。
そういう環境から比べると、この田舎の(岐阜県の中津川市は私の父の実家で、時どき行ったことがあるので親しみを感じる街です)風景は、いかにも人口密度が少ないように感じられたのです。
今住んでいる港南台は、飲食店が結構あり、それぞれ活発な競争をしているようですが、それはそこに需要があるからです。しかし、人口密度の少ないところでは、顧客を獲得する競争以前に、顧客がたぶん一定数しかいないので、店と顧客が親しい間柄で共存しているのだと思います。
こういうところで、若い人が何か新しいベンチャー的な仕事を始めようと思っても無理があります。それは、今の仕事が工業的なものからサービス的なものに移り変わっているために、人口密度が低いとサービスそのものが成り立たないからです。
港南台には、ヒーリングとか健康とかマッサージとかを提供する店があり、いろいろな人が利用しているようですが、これも人口密度がある程度あるから成り立っているサービスであり、田舎では単独では成り立たないのではないかと思います。
昔は、こういう田舎でも仕事を作ることができました。それは、工業生産が主流だった時代です。工業製品という物は、運ぶことができますから、田舎で立地して生産をしても成り立ったのです。
しかし、工業生産は、人件費の低い新興国に移ってしまったので、日本ではもう新しい雇用を生み出すことはできなくなっています。日本の工業生産は、今後人に頼らずロボット化されていくので、生産が成り立っても雇用を生み出すような生産ではなくなっていくのです。
工業は新興国に奪われ、サービス業は人口密度が低いために成り立たないとなると、田舎では基盤になる産業が生み出せないことになります。
だから、いったん過疎化が進行すると、その過疎化は更なる過疎化を生み、中には人が住まなくなるような田舎も出てきます。
日本の少子化は、平均的に進むのではなく、人口密度の低いところでは更に加速して進んでいるのだと思います。
しかし、田んぼが広がり、人家が点在する田舎の光景は、日本人の田舎の原風景です。
この田舎でも成り立つような新しい仕事があるかどうかと考えて、ネットを利用したサービス業の可能性ということを考えました。
ここからが本題です。
言葉の森では、現在、オンエア講座や寺子屋オンエアやオンエア作文というネットを使ったオンラインの教育を行っています。
ネットを利用した教育というと、MOOCやスタディサプリに見られるように、良質の授業を無料又は低価格で広範に提供するサービスが脚光を浴びていますが、その教育サービスは、マスメディア的なものです。
低価格で大量に良質なものをというと、昔のダイエーの「よりよい品をより安く」というキャッチフレーズを思い浮かべます。また、昔の製造業も、便利な家電製品を水道のように低価格で豊富に使えることを目標にしていました。
この低価格で大量にというのは、生活のインフラ作りという点では、最初に必要とされるものです。
しかし、消費者は、やがてそういう大量生産に飽きてきます。
人間の喜びは、豊かな生活ができることだけでは満足できず、そこに更に、自分なりの個性的な関わりを求めるようになるのです。
今、街の書店は、ネットの書店に押されて、年々縮小されています。確かに、便利さだけから考えれば、ネット書店を利用した方が、本も見つけやすいし、自宅でいながらにして購入できるので便利です。
しかし、人間には、ふらっと近所の書店に立ち寄って、新しい本との出会いを経験したり、本屋を待ち合わせの場所に指定したり、人を待っている間に立ち読みをしたり知人に出会ったリというような、ほっとする感覚を求める気持ちもあります。
だから、街に書店があるということは、そこがひとつの明るい開かれた空間となっているような感覚があるのです。
こういう人間の関わりが、これからのサービス業には必要とされるようになります。
教育の分野についても、ただ優れた教材が低価格で利用できるだけでなく、そこに友達や先生との個人的な関わりが必要とされるようになってくるのです。
しかし、今skypeで行われているようなマンツーマンの授業では、深い関わりの対価として高額な受講料が必要となります。
英会話のオンライン授業では、その価格を抑えるために、人件費の低いところの先生が教えるような工夫がされていますが、それは英語だからできることであって、そのほかの教科では、マンツーマン指導は高額にならざるを得ません。
ネット利用の低価格なマスサービスと、同じくネット利用の高額なマンツーマンサービスとの中間にあるのは、これまでは地域の教室でした。少人数の教室に生徒が実際に通うことによって成り立つようなリアルな教室や、あるいは学校が、教育の中核部分を担っていたのです。
ところが、リアルな教室は、今行き詰っています。
それは、生徒の多様化と一斉指導という方式が結びつかなくなってきたからです。
そのリアルな数人から十数人の生徒を、多様性を生かしながら個別に指導し、しかも生徒どうしの交流や先生との人間的な関わりを実現するのが、言葉の森の考えているオンエア講座などのネット利用の教育です。
ネットを利用して数人から十数人の生徒を一人の先生が教えるという授業形態であれば、この教育は、田舎のような人口密度の低いところでも成り立ちます。
例えば、過疎化の進んでいる村で、小学1年生の子供が一人しかいないような場合でも、その子はネットの授業で、全国の同じ小学1年生の子と机を並べて、というかパソコンの画面を並べて、一緒に勉強することができます。担任の先生がいる固定したクラス制なので、席替えやクラス替えはありますが、長期間同じ友達や先生と一緒に勉強ができるので、人間的な関わりも持てるようになります。
しかも、そのネット授業を行う教室が田舎の場合、そこには自然が豊富にありますから、年に数回、生徒の合宿を行い、リアルな交流を深めるということもできます。
年に数回というのは、距離がかなり遠い場合ですが、もしこれが電車やバスで30分から1時間程度の距離にある教室であれば、週に1回合宿教室に参加するという形もとれます。こういう実際の交流があれば、それはそのままネットでの交流にもつながるので、ネット上の教育も自然に活性化します。
日常的には、自宅でネットを利用した能率のよい教育を受け、週に1回は合宿のようなリアルな深い交流を豊かな自然のある場所で行うということができれば、こういうサービスは田舎でも十分に成り立つとともに、日本中の子供たちが利用できるものになるのです。
以上のようなことを、車で数時間運転している間に考え、それを実現するために今いろいろ工夫をしているところです。
言葉の森では、既に森林プロジェクトという、作文指導の講師を養成する講座があります。この作文指導というのは、実はかなり奥が深いので、言葉の森のように30年以上の指導の実績がなければできないものだと思います。
その作文指導の資格講座に加えて、今後は寺子屋オンエアやオンエア講座の講師養成講座も行っていきたいと思います。
現在行っているオンエア講座の中でも、小学1年生から3年生対象の読書実験クラブは、教わる生徒も教える先生もすぐに楽しくできるという見通しがあります。
小学4年生から6年生対象の思考国算講座は、指導内容が高度で、まだ教える側の負担が大きいため、今後これを改善していく予定です。
同じく中学1年生から3年生対象の先行国数講座も、指導内容が高度で教える側の負担がまだ大きいので、これも今後改善していく予定です。
いずれにしても、将来は、全国の志ある先生が自宅でネット教育を行い、全国の子供たちがネットとリアルの両方でその教育に参加できるという仕組みを作っていきたいと思っています。
このやり方ができれば、海外にいる邦人子弟も、このネット教育に参加できます。海外の生徒の教育が、日本国内の生徒の教育と違うのは、時差の問題だけですから、教える先生が例えば日本で早朝に教えるような体制を作れれば、日本の先生がヨーロッパにいる生徒の授業を行うなどということも十分にできるのです。
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高木善之さんの本に、「反抗期は先進国にしか起こらない」と書いてあるのを見て、確かにそうかもしれないと思いました。
もちろん動物にも、自立期というものはあります。しかし、それは子供の側から反発して自立するというよりも、親が子供を追い出すような形で自立させるのが多いようです。
人間は逆です。親がなかなか子離れせずに、子供をいつまでも自分のコントロール下に置いておきたいと思ってしまうのです。それに反発するのが子供の反抗期です。
では、なぜ先進国で反抗期が起こるかというと、それは先進国の生活が不自然だからです。
特に不自然なのは教育ではないかと思います。
その中でも、更に不自然なのが入試問題ではないかと思います。
不自然な入試問題に対応できる力を身につけるため不自然なことをさせられている子供たちが、そういう不自然なことを要求する社会に対して反発するのが反抗期だと言ってもよいでしょう。
では、入試問題のどこが不自然なのかというと、問題作成の目的が、その子の人生や社会にとって有益なことが身についているかどうかを見るのではなく、受験する子供たちに点数で差をつけて選抜することに置かれているからです。
差をつけることを目的とした試験は、必ずその差を埋める努力で対策を立てられます。すると、差をつけることと、その差を埋める努力のいたちごっこによって、試験の内容は、本当に必要な学力をつけることからどんどん遠ざかっていってしまうのです。
これは、学校の入学者に定員がある以上、仕方がないことと思われてきました。
しかし、将来、この定員制というものはなくなっていくと思います。
それは、現在MOOCなどに見られるように、その勉強を希望する生徒は、世界中のどこからでも定員に関係なく、その勉強の優れた授業を受けることができるようになっているからです。
このネット型の勉強方法が広がれば、今の入りにくくて出やすい学校から、入りやすくて出にくい学校というものに変化していくと思います。
そして、「出にくい」というのではなく、自分の希望する出口から自由に出られるようになるのです。これを裏口卒業と言うかどうかはわかりませんが、本人が自分なりの目標を持って授業を受けるのであれば、その目標を達成することが卒業ということで全くかまわないのです。
未来の社会は、今よりももっと自然に近いものになっていくと思います。
しかし、当面、不自然な状況がある以上、親にできることは、子供の自由は意思決定を尊重する姿勢を身につけることです。
昔は15歳で元服でした。これは、年齢的にも妥当な時期だったと思います。今の学年で言えば、中学3年生あたりが子供の自立の始まりです。
親は、中学3年生を子供の自立の目標の時期として、その前から徐々に子供が自分の判断で行動することを認めてあげるようにしていくといいのだと思います。
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知識も大切ですが、今しかできないことを、思いっきり体験し、失敗しながら学んでいく経験こそ、将来役に立つのかもしれませんね。
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