小学生の保護者から、「新聞を毎日読ませているのですが、それは勉強としてどうですか」という質問が何件かありました。
下記は、朝日新聞のサイトからの引用です。
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新学習指導要領は、思考力などを育てるために従来よりも「言語活動」を重視している。現行の指導要領は児童や生徒の言語活動が「適正に行われるようにすること」と記しているが、新指導要領では、各教科の指導で言語活動を「充実すること」と踏み込んだ。小学5、6年の国語では、新学習指導要領は「読む力」を育てるための指導事項として「本や文章を読んで考えたことを発表し合い、自分の考えを広げたり深めたりすること」などを6点を列挙。具体的な方法の一つに「編集の仕方や記事の書き方に注意して新聞を読むこと」を挙げる。中学2、3年の国語でも指導方法の一つに新聞を例示している。
( 2010-08-08 朝日新聞 朝刊 教育2 )
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こういう記事があったので、新聞の活用法に関する質問が増えてきたのだと思います。
私の新聞に対する考えは、次のようなものです。
1、新聞には、普通の読書ではあまり触れる機会のない説明的な文章が多いので、その点では役に立つが、子供は実際には漫画を読むだけになることが多い。
2、読む力の基本になるのは読書で、読書を主食とすると、新聞はおやつという位置づけである。
3、新聞の文章は総じてやさしく書かれているので、高学年の生徒が国語の勉強のために読むのであれば、入試問題集を読書がわりに読む方がよい。
4、大学生が、半年ぐらい集中して、新聞の解説記事を中心に隅から隅まで読めば、時事的な一般教養の力はほぼ完璧につく。
5、社会人は、新聞よりも、書籍やインターネットによって情報を得た方がバランスのとれた判断力が身につく。
勉強の基本は平凡です。読書をしっかりしていることが第一で、それ以外のさまざまに目先の変わったやり方は、すべて、半分遊びのようなものです。
新聞を読むことは、決してマイナスにはなりませんし、真面目に読めば、説明文の面白い記事がかなりあります。しかし、それで読書のかわりになると考えたり、国語の勉強にプラスになると考えたりすれば、それはやはり過大評価ではないかと思います。
まず地道に本を読むという時間をしっかり確保していくことが大事で、読書さえしていれば、ほかのことはしてもしなくてもどちらでもいいのです。
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教室に通っている中学1年生の生徒が、「期末テストで、国語はクラスで1番になりました」と教えてくれました。(小学校2年生のとき、作文が苦手という理由で教室に入ってきた子です。)
この生徒は、毎月の読解問題を解くときでも、自分がAだと思っていたものの答えがBだと、必ず先生に理由を聞いていました。
理由を聞くぐらいなので、答えを選択するときも根拠を持って選んでいます。「ここがこうで、あそこがこうだから、これは違う」という具合の選び方です。
つまり、理屈が通った選択の仕方なのです。決して、
「全体の雰囲気で、こっちがよさそうだ」というような勘で選んでいるのではありません。
国語の成績がよくなる子と、よくならない子の差がここにあります。
雰囲気と勘で選択した子は、答えが×になっていても、「残念。はずれた」で終わりですが、理詰めで考えて選んだ子は、×になったときにその理由を聞いて、次回にそれを生かすことができます。
勉強というものは、答えが○だったらそれは実はやっただけ時間の無駄だったということです。答えが間違えたときに初めて、自分がまだ何かを学ぶ余地があるということがわかるのです。
だから、テストの成績が悪かった場合は、それをむしろ喜ばなければなりません。
さて、国語の問題を理詰めに解くにはコツがあります。それは、問題文を読んでいるときに、これはと思った箇所に線を引きながら読むことです。
印象に残った箇所に傍線を引くと、その文章を二度、三度と繰り返して読むときに、その傍線の箇所を中心にざっと眺めるだけで文章の全体が頭に入ります。
また、
選択式の設問では、どこを根拠として選択したのかがわかるように傍線や「○」や「△」や「?」という記号を設問の横に書いておきます。すると、答案が戻ってきたときに、自分の答えを検証することができます。
読書の場合は付箋、国語問題の場合は傍線というように、自分が読んだ跡を残しながら読むことが大事なのです。
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国語と算数は、小学校の時代から最も長い時間をかけて勉強をする教科になっています。これは、現代だけの特徴ではなく、江戸時代のころも、読み書きそろばんというものが学習の基本でした。
なぜ、国語と算数がそのように重視され教育の中心になっているかというと、ひとつにはその習得に時間がかかるからです。
それも、難しいから時間がかかるのではなく、学ぶことが多く、しかも平面的に多いのではなく積み重ねる体系として学ぶことが多いために時間がかかるという特徴があるからです。
もうひとつには、人間が社会生活を送る際に、国語と算数が役に立つ重要なツールとなっているからです。
つまり、人間が人間らしい生活を送るのに必要であり、しかも学ぶ努力が必要であり、さらにその学習が個人にとっても社会にとっても役に立つというのが、国語と算数の特徴なのです。
しかし、今の教育は、このような人間と社会の本質から論じられているわけではありません。
国語と算数は、既に教科として成立していることが前提になっていて、受験で学力の差を測るのに適しているために主要教科となっている面もあります。したがって、勉強の中身も、受験の問題を解くために学ばれている面が強いのです。
その結果、国語と算数は、勉強の方向が本来のあり方からずれ、無意味なところで難しい問題を解くことが目的化され、これらの教科の勉強のもともとの意味が忘れられている面があります。
では、国語と算数の本来の勉強の方向とはどういうものなのでしょうか。
国語と算数の勉強という各論を論じる前に、まず人間と教育一般について考えてみる必要があります。
動物は、生まれたときから完成された成長過程を約束されています。ただし、高等な動物になれば親の模倣という教育は必要で、その模倣が不適切であれば成長も偏ったものになります。
人間も、動物的な生活に限って言えば、親の模倣と自然な成長で間に合うはずですが、人間は動物のレベルを超えた社会生活を営む必要があるために、意識的な教育が必要になります。つまり、教育は社会生活を営む人間が、その人間自身とその社会にとって役に立つことを学ぶためにあるといえます。
その教育の分野は、大きく四つに分けて考えることができます。それは、認識における内向きの方向と、外向きの方向、身体における外向きの方向と、内向きの方向の四つです。
第一は、哲学です。これは、認識の創造ということで、世界の物事を新しい見方で構想する力を育てる分野です。
第二は、科学です。これは、世界の認識ということで、身の回りにある多様な現象を理解する力を育てる分野です。
第三は、工学です。これは、世界の加工ということで、現実を変革し加工する技術を身につける分野です。
第四は、心身です。これは、人間の幸福ということで、身体と精神の両面で幸福に生きる技術を身につける分野です。
これらの教育の四つの分野に、現在の教科をあてはめることができます。
哲学の分野には、国語、特に作文が入ります。また、算数の原理的な面もここに含まれます。
科学の分野には、現在の理科・社会など、体系的な知識を身につける教科がすべて含まれます。
工学の分野には、技術・家庭と、美術・音楽など芸術の技能的な面の学習が含まれます。また、国語の技能的な面、外国語などの語学、そして、算数の現実世界に応用する面が含まれます。
心身の分野には、保健・体育・道徳と、芸術における精神的な面の学習が含まれます。
未来の教育の四つの分野は、現代の教科の区分とも対応していますが、それらの教科の位置付けが異なっているので、当然、教科の性格も異なってきます。
哲学の分野に位置づけられる国語の場合は、ある課題について自分の創造的な考えを作り出し表現する力を育てることが学習の中心になります。
工学の分野に位置づけられる算数の場合は、ある課題について算数の知識や技術を現実の世界に応用することが学習の中心になります。
これまでの教育は、社会の有用な歯車となるためのものでした。そして、個人がその社会的役割を果たすことが、その個人の生活の利益とも結びついていました。
これまでの勉強は、社会からの要請が先にある勉強でした。しかし、これからの勉強は、個人が自己の向上のために行う勉強になります。そして、個人が自己の能力を開花させることが、社会に対する貢献にもつながるというものになっていきます。
そのような個人の向上心に基づいた教育においては、勉強は強制で行われるものではなく、また競争で意欲づけされるものでもなく、さらに受験の勝ち負けのために行われるものでもなく、自分自身の向上と社会への貢献のために行われるものになるでしょう。
すると、それら勉強をするための動機は、勝つ喜びではなく、学ぶ喜びに立脚したものになります。
これを四つの教育の分野に当てはめてみると、哲学の分野では創る喜び(創造)、科学の分野では知る喜び(理解)、工学の分野では作る喜び(加工)、心身の分野では感じる喜び(感受)が、それぞれ学ぶ動機となった勉強になります。
こう考えると、哲学としての国語は、材料となる様々な知識や経験を組み合わせて、言語による新しい作品を作り発表するということが勉強の主な方向になるでしょう。
それは、従来の日本の国語のように、文学作品を必要以上に詳しく鑑賞する方向の勉強とは違ったものになります。
一方、工学としての算数は、算数の知識と技術を生かし、それらを組み合わせて現実の課題を解くことが喜びとなるような勉強に進むと思います。それは、物理学や統計学やプログラミングのような方向です。
それは、従来の算数のように、算数の世界の中で難問を解くことが喜びとなるような方向とは違ったものになると思います。
これからの勉強は、勉強することが喜びとなるようなものになる必要があります。試験のためにしぶしぶやる勉強で、その苦痛の代償として褒美があったり、競争という刺激があったりするような勉強は、過去の勉強です。
それは、国語に関して言えば、書くことが楽しいという勉強であり、算数に関して言えば、解くことが楽しいという勉強になると思います。
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家庭で作文力つけるためには、どうしたらいいでしょうか。
作文力の土台にあるのは、読む力です。それは、読解力というよりも読書力に近いものです。なぜなら、国語の読解問題の成績がいい子が、必ずしも作文が得意なわけではないからです。
しかし、読書が好きで本をよく読んでいる子は、ほぼ例外なく作文も好きです。たとえ、今は作文があまり得意ではなくても、読書好きな子は少しのアドバイスですぐ上手になります。
しかし、もちろん読書だけではカバーできない作文力独自の分野もあります。その一つは、速く書く力と長く書く力です。これはある程度慣れによるものなので、実際に作文を書かないと身につきません。
もう一つ、書かないとわからないものは、誤字と誤表記のチェックです。それは、勘違いして覚えていることが多いので、実際に書いてみないとチェックできないからです。また自分でいいと思っている表現が、読む人にとってはそうでないということもよくあります。
ところが、家で作文を書く練習すると、数回で子供が嫌がるようになります。作文は、負担が大きくしかも成果が見えない勉強だからです。
これが、ドリルなど行う勉強との違いです。漢字ドリルや計算ドリルは、負担がそれほど大きくなく、やりとげたあとがページ数として残ります。作文はやりとげた感覚を持ちにくいのです。
また、親が作文の勉強で成果を出そうとして書き方の注意をすると、次から次へと注意が出てきて、親も子もくたびれる結果になることがよくあります。
更に、上手な子の作文を見せて、こんなふうに書けばいいなどと教えると、子供はかえってやる気をなくします。それは、子供にとっては多くの場合不可能なことだからです。
だから、作文は家庭ではあまり教えないのが基本です。楽しく読書をして読む力をつけていくことが、家庭での勉強の中心になります。
しかし、文章を書くことに何か意味を持たせれば、家庭でも作文の練習を続けることはできます。
その一つは、田舎のおじいちゃんやおばあちゃんに手紙を書く練習です。その手紙の構成は、書き出しがあいさつ、結びもあいさつ、しかし本部の中身は作文という形になります。
しかし、この場合にも大事なことは、子供が作文を書いたあとは極力直さずに褒めるだけにするということです。
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小学校中学年で作文が苦手だという子のお母さんからから問い合わせがありました。家庭でできる作文の勉強にはどういうものがあるでしょうか、という質問です。
それは、ある意味でとても簡単です。読書と対話の時間を確保していくということだからです。そして、できればその子の書いた文章のいいところをどんどん褒めてあげることです。
普通、小学校低中学年では、作文は苦手になりません。書くことは楽しいことですし、また、この時期は、本を読むことも楽しいことだからです。
作文が苦手だと思っているのは、作文を比較されたことがあるからです。例えば、学校や塾で、「この上手な子のように書きなさい」などと言われたからです(笑)。
作文は、小手先の技術だけですぐうまくなるものではなく、その子のそれまでの読書、対話、経験、そして文章を書く機会の総合化されたものです。特に、読書量の差は大人が考える以上に大きいものです。
日常の会話は、どの子も同じような語彙を使って話していますが、抽象的な話題になると使える語彙の幅はかなり違ってきます。
小学校低中学年で作文が上手だと思われている子は、ひとことで言えば語彙の豊富な子です。語彙が少なければ、どんなによい経験をしてもそれをうまく表現することはできません。
ところが、語彙力は、漢字の学習のようにそれだけを単独で取り上げてできるものではありません。語彙力ドリルのようなもので身につけることはできないのです。
語彙力は、読書や日常の対話を通して、実際の文章の中でその語彙を味わって理解することによって身につきます。
この語彙力が最もよく表れているのが、森リンの点数です。特に、表現語彙の点数は、その子の語彙力とほぼ比例しています。そして、それは学力の可能性とも比例しています。
特に、中学生や高校生の論説的な文章では、森リンの点数はそのままその子の学力と同じと考えてもよいと思います。
では、家庭でこのような語彙力や作文力をつけるためには、どうしたらいいのでしょうか。(つづく)
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