漢字は個々に覚えるのではなく、他の漢字や言葉とのつながりにおいて覚えたときに、生きて使える漢字になります。ある文章を暗唱するとき、人間はその文章の言葉をイメージ化することによって記憶します。つまり、暗唱は言葉に対応しています。これに対して、ある文章を理解するとき、人間はその文章の意味をイメージ化することによって理解します。つまり、理解は意味に対応しているのです。
文章を理解するためには、その内容つまり意味がわかればいいので、内容を運ぶ手段となる言葉そのもののイメージを定着させる必要はありません。言葉は、文章の意味を理解するために使われたつど忘れられいくような使われ方をします。
暗唱はそうではありません。百字の文章を暗唱することと、百字の文章を理解することとの間には、言葉の処理の仕方で大きな違いがあります。暗唱の場合は、言葉そのもののイメージ化が必要になります。これが、言葉の教育の重要な方法になるのです。
音読や暗唱の素材というと、江戸時代の寺子屋教育での素読の連想から、論語や漢詩や枕草子や平家物語を考える人が多いと思います。しかし、なぜ暗唱の教育を現代に復活させるかというと、それは現代の文章を読む力をつけるためです。現代の文章のほとんどは、戦後の歴史の中で、常用漢字約二千字の範囲で表される文章になっています。言葉の教育ということで考えると、論語や枕草子には、現代の社会での重要な用語である「経済」「電気」「国際」「量子」などは出てきません。古典の暗唱は、文化としての暗唱であって教育としての暗唱にはならないのです。
では、現代の教育としての暗唱の素材にはどういうものが必要なのでしょうか。それは、まず常用漢字が網羅されているものでなければなりません。次に、その常用漢字の集合が意味を持つつながりで並べられているものでなければなりません。そして第三に、暗唱をするからには語呂のいいものでなければなりません。そのようにして開発したものが、言葉の森の漢字集です。これまでの漢字学習の教材には、これらの三つの条件がそろっているものはありませんでした。
言葉の森の漢字集は、教育漢字については学年別配当の順序で作られています。それは学校教育の中で活用できるようにするためです。だから、漢字集は漢字の書き取りの練習としても使えます。しかし本来の目的は、その学年で習う漢字を、生きたイメージを持って読めるようにするためのものです。
漢字集は、小学校低中学年のころは、まだそれほど重要ではありません。使われている漢字が日常的に使われている語彙と同じ水準なので、わざわざ暗唱してイメージ化するほどのものでないものが多いからです。
しかし、学年が上がるにつれて漢字集の暗唱による漢字のイメージ化が重要になってきます。
例えば、小学6年生の漢字集にある「朗報 貴族 神聖 奮起」などの語彙は、子供が、たとえその漢字の読み方と書き方を知識として習っていたとしても、日常的な会話や読書の中で頻繁に出てくる言葉ではありません。だから、こういう言葉が出てくるような文章を読むと、子供は、その文章を難しいと感じるのです。
そして、難しい文章を読むよりも、自分のよくなじんでいる言葉で書かれている易しい文章の方が、読書の楽しみという中身に没頭できるので、現代の豊かな読書環境の中ではかえって、易しい本の読書から、難しい本の読書へ移行することができなくなるのです。(つづく)
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言葉は、思考と理解の重要な手段です。人間は、言葉を理解するのではなく、言葉を通して物事を理解しています。言葉が手段として活用できるためには、それが自分の手足のように自由に使えるのでなければなりません。
言葉の場合、手段として自由に使えるとは、その言葉が生きたイメージや生きた現実とのつながりを持って使えるようになっていることです。そして、その練習方法は、実際に生きた場面で使われる言葉を経験することです。それが読書や対話です。
これに対して、問題集に載っているような、漢字の問題の読みを書くとか、意味を書くとかいうことは、言葉を知識として知っているかどうかを見ることです。知識としてその言葉を知っているということが、そのままその言葉を道具として使いこなしていることを意味するわけではありません。
だから、言葉の豊富な子は、本をたくさん読んでいるということと、しかも、そこに質の高い本が含まれているということが言えます。同様に、対話においても質の高い対話を数多く交わしている子は、同じように豊富な言葉を使って話すことができます。
上手な作文を書くためには、作文を直すだけでは不十分です。作文の中身となる語彙の量と種類を増やすために、まず読書や対話に力を入れていく必要があります。
しかし、ここで現代の読書環境が豊かになっていることが、ひとつの大きな障害になってきます。それは、より大きく見れば、現代のメディア環境が豊かになっていることにも結びついています。今の社会では、子供は(もちろん大人も)、質の低い言葉の環境に、際限なく長時間接することができるようになっているのです。
最近のイギリスの調査結果で、中学生の読書量が減ったことがわかったそうです。その理由は、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)に参加する時間が増えたことだと言われています。子供の自由時間の過ごし方が、読書からインターネットに変わったことによって、質の高い言語に触れる機会が減っていると考えられるのです。(質の高いSNSの活用ももちろんあるでしょうが。)
ここに、教育の役割があります。人間の日常生活を、例えばインターネットやゲームを禁止するような形でコントロールすることは、一時的にはできても決して永続的にはできません。日常生活は本人の自由意志に任せ、その分、教育で言語の環境を豊かにする工夫をしていく必要があります。
しかし、言語の教育というものは、読書や対話という日常生活的なものに支えられている部分の方が大きいので、学校教育の中では、日本の国語の学習は、漢字の書き取りのような知識的なものが中心になります。この漢字教育を、単なる知識としての漢字ではなく、生き生きとしたイメージを持つ言葉の習得としての漢字を学ぶ機会にするのが、漢字の暗唱という方法です。
貝原益軒は、児童の教育として論語などの文章を毎日百字、百回声を出して読み、空に書くという学習法を提唱しました。素読とは、単に声を出して何度か読むことではなく、そらんじるまで音読するという練習です。
では、なぜ1回読んで意味がわかればそれで済むようなものを、そらんじるまで暗唱する必要があったのでしょうか。ここに、知識としての漢字(言葉)と、生きたイメージを持つものとしての漢字(言葉)の違いがあります。(つづく)
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国語も算数も、学校では勉強の教科として同じように扱われているので、つい国語を30分やったから、次は算数を30分やって、これで両方同じぐらい勉強をしたという感覚になりがちです。
しかし、ドイツでは、小学校1年生の国語の授業時間は、算数の授業時間の2倍から3倍、最初のうちはもっと多くの時間があてられています。科学技術の教育を重んじる国だからこそ、国語の授業に力を入れているのです。
なぜ国語に力を入れるかというと、国語は単なる教科のひとつではなく、言語によってものを考える基盤だからです。
だから、国語は勉強として取り組むよりも、まず家庭での言語教育として取り組まれる必要があります。それが家庭における読書と対話です。
読書の基礎になるものは、ふたつあります。ひとつは、文法的な理解です。もうひとつは、文字の理解です。
文法の骨格は、対話によって形成されます。子供が最初に接する言葉は、母親や父親との対話を通して与えられるものです。ここで、子供は言葉と感情と環境の結びつきを経験します。
だから逆に、テレビやCDなどの音声に、幼児期に接しすぎると、言葉と感情の結びつきを経験できなくなることがあります。
子供と両親との対話で大事なことは、量と質です。できるだけ多く対話を交わすことと、できるだけ質の高い対話を交わすことです。この対話を通して、子供は豊かな語彙力と高度な文法力を身につけます。
もうひとつの文字の理解は、文字を読むことによって習得します。
ここで、日本語の漢字仮名交じり文の、漢字の読み取りが重要になってきます。
ひらがなの文字がまだスムーズに読めない幼児期には、本をひとりで読むことはなかなかできません。しかし、読む文字を口に出してそれを耳から聞くことによって、次第に文字を見ただけで言葉が理解できるようになります。
しかし、読めない漢字が出てきた場合は、その部分だけは霧がかかって見えないような状態になるので、前後のひらがなのつながりから文脈を理解するしかありません。
ここで、その漢字にふりがながふってあると、子供はそのふりがなを通して文章を読むことができます。この経験を何度か繰り返す中で、その漢字のイメージが読み方とともにわかるようになります。すると、やがて、ふりがながふってあったとしても、漢字の方を読むことによってより確実に文章を把握することができるようになります。
漢字は、ただ読めるだけでなく、文脈の中で使われるイメージを伴って読めることが大事です。
世間の漢字教育では、漢字が書けることを重視しがちです。それは、漢字の書き取りは試験で点数化しやすいからです。
しかし、漢字の書き取りよりも大切なのは、漢字の読み取りです。
ところが、この漢字の読み取りでも、ただ読めればいいというのではありません。また、読んで意味がわかればいいというだけでもありません。読めて意味がわかるとともに、その漢字によってありありとイメージがわくことが大事なのです。
それは、なぜかというと、ある文章を読む中でその漢字を見たときに、その漢字がただ読めるだけでは不十分で、生き生きとしたイメージを伴って読めることが重要だからです。
よく、新しいジャンルの本を読むときに、その本の中で使われているさまざまな語彙にまだなじんでいないために読書がなかなか進まないという経験をすることがあります。例えば、哲学の本を初めて読むとき、経済学の本を初めて読むときなどです。
それは、漢字が読めて、意味も理解できるが、その漢字の持つイメージがまだ自分のものになっていないからです。
ここに、子供の漢字教育の重要なヒントがあります。(つづく)
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国語の勉強法には2種類あります。
ひとつは、対処療法的な勉強法、もうひとつは根本治療的な勉強法です。
対処療法的な勉強法というのは、言葉の森のホームページの「国語の勉強法」に書いてあるような理詰めに考える解き方を身につける勉強法です。
国語というと感覚的な読み取りだと思っている人が多いので、選択した答えが間違っている場合でも、なぜかとと問う人が少なく、「当たった。はずれた」というレベルで考えてしまう人が多いようです。しかし、それでは試験にはならないので、問題の背後には必ずその裏づけになる理屈が隠されています。その理屈を考えることが国語の問題の解き方です。
この理詰めに解くという解き方を知るだけで、国語の成績が急に上昇することがあります。
世間でよく行われている国語の指導とは、こういうものです。「国語力は読書では身につかない」などと豪語する人がときどきいますが、それはこの理詰めのテクニックを教えれば成績が上がるということで言っているのです。
しかし、理詰めに解く勉強法だけでは、国語の成績はすぐに限界が来ます。
理詰めに解くのが対処療法的な勉強法だとすると、対処療法では対応できないレベルがあるのです。それが、本当の意味での読解力です。
つまり、テクニックで成績が上がるのは、その生徒の本当の読解力の範囲までなのです。だから、国語力をつけるためには、根本的に読解力を向上させなければなりません。それが、根本的な勉強法です。
根本的な国語力をつける前提は、まず文章が自然に読めるということです。
日本語の文章は、日本で生まれ育った人なら誰でも自然に読めると思われがちですが、その読み方には深さの差があります。ある文章があった場合、それを表面的に読むか、より深く読み取るかの差が、その人の読書生活の中に現れてきます。
子供時代に、読んでいる本が面白くて止まらなくなった、という経験を持つ人は多いと思います。そのときの読み方が深い読み方です。
つまり、文章を読むことが読むという意識なしにできるようになり、書かれている内容に没入できる状態になることです。読解力の根底には、この読んでいる内容に引き込まれて、自分がまるでその本の中にいるような状態になることがあります。
言葉の森では、読書は読解力の大前提だと教えています。「国語の成績は読書では身につかない」という考え方とは正反対です。それは、文章の内容を生き生きと味わうような読み方こそが、文章を読み解く前提になるからです。これは、特に物語文の読解にあてはまります。物語文を読む前提は、登場人物に感情移入しながら読む読み方ができるということだからです。
だから、小学生時代は特に、国語の問題集を解く勉強のようなことをするよりも、読書をたっぷりしておくことが大事なのです。(つづく)
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日本語の勉強にも共通する点があると思います。テストの解き方と、本当の語学力をつけることは別だと、改めて思いました。
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幼児や小学校1年生から作文の勉強をする子が増えています。
小学校でも、書くことに力を入れるということで、低学年から日記などの宿題を出すところが増えてきているようです。
しかし、小学生のころの作文指導は、大人はつい間違いを直すこと中心に見てしまうので注意が必要です。
これは、お母さんでも同じです。
真面目で熱心な先生やお母さんほど、間違いがあるとすぐ直してしまいたくなるのです。
ところが間違いは、そこで直さなくても読む力がつけば自然に直るものがほとんどです。
間違いを直すことによって、せっかく褒められると思って書いた子供の作文をけなすかたちになってしまうところに大きな問題があります。
しかし、間違いを直さないと、その間違いが定着しやすくなるのも事実です。
では、どうしたらいいかというと、最初から間違って書かないようにすればいいのです。
最初から正しい書き方をするためには、正しい書き方をよく読んでおく必要があります。
だから、作文を書く前に、読書をたっぷりしておく必要があるのです。
低学年のころの作文指導は、上手に書くことを目的としません。
正しい書き方を身につけ、楽しく書くことを学ぶために勉強していきます。
低学年のときに楽しく書くためには、できるだけ直す注意をしないことです。
そして、この楽しく書いた土台の上に、中学年になってからの表現を工夫した作文、高学年になってからの考える作文。中学生や高校生になってからの創造性のある作文と続いていくのです。
====facebook記事より====
昔、教室に浪人生がひとり、お母さんと一緒に来ました。
「作文というのが苦手で、実は小学生以来今まで、夏休みの宿題などは母が全部代筆していた」と言うのです。
お母さんも、大変でしたね。
「でも、今回浪人になったのをいい機会に、小論文の勉強をしようかと思って」ということでした。
そこで、いつものように、「大丈夫ですよ」(笑)
早速、その場で体験学習。
子供も、親も不安そうです。特に、子供の方は作文を書いたことがない……。
しかし、小6相当の課題(といっても、実はかなり難しい)を説明して、書いてもらうと、何と書けるではありません。
親子でびっくり!
というか、何が何でも書けるように説明してしまうのです。
その後、教室に通うようになり、1年間毎週しっかり作文(小論文)を書いて、大学も無事に合格。
毎週休まず来て、毎回力作を書いていました。
どうしてそれまで作文を書けなかったかというと、小学生の低学年の時期に、作文に関するトラウマがあったのです。
最初に作文を書いて喜んで先生に見せたら、自分が褒めてもらいたいところは全然褒めてもらえず、逆に自分が予想もしなかったところで注意されたのです。
「文の終わりには、まるをつけなきゃね」とか何とか。
文章を書く上でルールなどは、誰も教えなくても、本を読んでいるうちに自然に身につけます。
だから、低学年のうちは、直さなくていいのです。
そして、低学年のうちほど、作文はすぐには直りません。本を読んでいる量がまだ少ないからです。
小学校低学年のうちは、作文に力を入れるよりも、読書や対話に力を入れていくのがいいのです。
====引用ここまで。====
【参考記事】
対話を生かした、幼児と小学校低学年の作文学習
https://www.mori7.com/as/1764.html
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