■小学校の早めの時期から作文の勉強を勉強する意義
小学校1、2年は、勉強の基本的な習慣が作られる大切な時期です。この時期に作文を書くというのは、まだ文字を書くのもおぼつかない子も多い時期なので、早すぎると思う方がいるかもしれませんがそうではありません。
小学校の1、2年生で始めた習い事は、形は変わっても一生続く勉強となるものが多いのです。実際に、中学生や高校生で作文を書いている生徒の多くは、小学生の早い時期に作文の勉強を始めています。
作文がある程度楽に書けるようになってから始めた勉強では、スランプが来たり生活が忙しくなったりすると、すぎにやめてしまいたくなることが多いのですが、低学年のころから始めた勉強は、苦しい時期があっても続けることができるのです。
そして、結局長く続けた勉強は、必ずその子の実力として残ります。だから、言葉の森の作文のように長期間続けられる勉強は、小学校の早い時期に始める必要があるのです。
しかし、これは他の作文の通信講座などにはあてはまりません。他の作文通信講座や作文教室では、小学生のころから始めても、小学生で終わってしまうものがほとんどです。作文の勉強の本当の目的は、小学生のときに上手な作文を書くことではありません。小学校時代の作文の勉強は、中学生、更には高校生になって立派な論説文を書けるようになるための準備なのです。
■入試は数学、実生活は国語
今の入試は、中学入試でも高校入試でも大学入試でも、算数・数学の出来不出来が大きく合否を左右します。それは、算数・数学というものが、できる子とできない子の点数の差が大きい教科だからです。
これに対して、国語の成績は、できる子とできない子の差がそれほど大きくはありません。どんなにできない子でも、国語が0点ということはありません。また逆に、どんなにできる子でも、国語が100点ということはめったにありません。
算数・数学や英語は、0点も可能ですし、100点も可能です。それは、算数・数学や英語は、勉強しないとできるようにはならない教科だからです。
国語は、勉強する教科というよりも、国語的な生活文化の中で実力が自然に育つ教科です。ところが、学校時代は数学又は英語の成績が合否を左右します。社会に出ると、数学や英語の出来はもうあまり関係がありません。社会で活躍している人の中には、数学や英語が得意でない人もいます。しかし、そういう人たちに共通しているのは、国語力があるということです。それは、国語の成績として表れるものとは多少違いますが、その能力は、難しい本を読む力、複雑な話を理解する力、自分の考えをわかりやすく述べる力などで、要するに、本当の意味での国語力なのです。
このような国語力は、頭のよさと同じです。数学や英語の成績は、頭のよさではなく、勉強の正しい方法論×かけた時間です。数学や英語の成績をよくするのはもちろん必要ですが、それよりも大事なのは、将来社会に出てから学力の中心になる真の国語力なのです。
■いつでも褒めて明るい勉強を
家庭での勉強の仕方で大事なことは、必ず褒めて、明るい雰囲気で勉強をすることです。叱ったり注意したりして、暗くて真面目な雰囲気勉強をさせると、子供の能力は低下します。人間に限らず生き物は、いい記憶は長く保持し、悪い記憶は早く忘れようとします。そして、忘れられないほど悪い記憶には、近づかないようになります。大学生になったり社会人になったりしてから勉強をしなくなるのは、小学校時代に悪い思い出として勉強をさせられた子供たちです。
大人が今すぐ注意したくなる子供の勉強上の欠点は、そのほとんどが放っておけば自然に治るものです。例えば、音読が下手だとか、声が小さいとか、作文で同じ字を間違えるとか、字が雑だとかいう場合です。
こういうことを親がそのつど注意すると、親は子供に注意することが持って生まれた性格のようになってきます。こういう注意する性格になってしまうと、子供が小4のころまでは仕方なく親の言うことを聞きますが、小5から子供に自立心が出てくると、逆に親の言うことは一切聞かないようになります。
それと同時に問題なのは、注意が言葉の上だけになり、実行するまで徹底させられないことが多くなることです。例えば、「もっと大きい声で読みなさい」などと注意した場合、すぐに素直にそのように読める子はいません。また、「字をきれいに書きなさい」と言った場合、すぐにきれいに書くくようになるという子もまずいません。すると、毎回のように同じような注意をし、同じように守れないという状態が続き、やがて子供は、親のいうことは聞かなくてもいいものだと自分なりに学習していきます。だから、やらせるあてのないことは、言わないということも大事です。そのかわり、いったんやると決めたことは、例外なく実行するようにしなければなりません。こういう区別によって、いつも褒めて明るい勉強というものができるようになるのです。
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子供たちの勉強の様子を見ていると、作文力、読解力、勉強力の進歩に四つのパターンがあるようです。ここで言う勉強とは、英数国理社の通常の勉強で特に英数の勉強のことです。
第一は、勉強と読書をしている子です。こういう子は、今は作文は苦手でも、勉強を開始すれば次第に作文力もついてきます。
第二は、勉強だけをしている子です。こういう子は、今は成績がよくても次第に実力が伸び悩み、読解力も作文力もなかなかつきません。
第三は、作文だけを書いている子です。こういう子は、作文は得意になりますが、勉強の面で弱点が残ります。
第四は、作文と読書をしている子です。こういう子は、作文力も読解力もあるので、勉強を始めると、作文、読解、勉強のすべてができるようになります。
もちろん、している、していないと言っても、それは程度問題ですから、はっきりと四つのパターンに分かれるわけではありません。しかし、大きく考えると、小さいころの優先順位は読書が第一で、学年が上がるにつれて勉強と読書を並行して行うようにし、その一方で作文は小さいころから一定の時間をかけて取り組むというようにしていくのがいいのではないかと思います。
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受験勉強には、プラスの面とマイナスの面とがあります。中学3年生以上で、子供が自分の意思で自覚して取り組むときの受験勉強は、その子自身を大きく成長させます。自覚して取り組んだときの勉強の密度はかなり高いので、それまでの数年間の遅れなどすぐに取り戻せるということがよくあります。
だから、子供たちの勉強で大事なことは、早めに受験勉強に取り組ませることではなく、普段から自覚的、自主的に物事に取り組むようにしておく習慣作りと、その学年に応じた基礎学力作りです。
受験勉強のマイナス面は、引きずられて受験に取り組む場合に出てきます。本人にまだ自覚が十分でないときに、受験という競争状態に入ると、意欲を持たせるために、賞罰や競争の勝ち負けという刺激に頼る場面が出てきます。これもほどほどであれば問題はないのですが、あまり頻繁に刺激で意欲を持たせようとすると、刺激がなければ勉強しないという子になってしまうのです。
こういう受験勉強の弊害は一般にはあまり明らかになりませんが、それでも次第にそういう心配をするお父さんやお母さんが増えてきたように思います。
いちばんいいのは、普段から確実な基礎学力を育てておき、子供が自分の意思で受験勉強に取り組むようになったときの土台を確実に作っておくことです。そして、この普段からの確実な基礎学力をつけるのは、やはり家庭学習がいちばんふさわしいのです。
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「どうして勉強しないといけないの?」
子どもにこんな質問を投げかけられたとき、みなさんはどう答えますか? 答えに戸惑った経験のある方はいらっしゃいませんか? 実は、私もさっぱりわからなくなることがあります。
先日、教室に置いてあった雑誌に、ちょうどこの質問に触れた記事が掲載されていました。『子どもへのまなざし』で有名な佐々木正美先生の書かれたものです。
佐々木先生は、どうして勉強するかと聞かれたら、
「あなたの友だちや周りの人たち、自分にとって大切な人を幸せにするためだよ」
と答えるそうです。そして、子どもは、親の愛情を無条件で受け取ることができれば、自然と誰かを幸せにしたいという気持ちになる、とも。このサイクルができていれば、子どもは意欲的に学習に取り組むようになるし、恐れることなく自分の道を歩いていくことができるというお話でした。
親は単純に子どもがかわいいものです。だから、このサイクルは自然にできあがるような気もします。しかし、佐々木先生は、現場での長年の経験から、現代ではそう簡単にはいかないと指摘しています。
それはなぜでしょう。どうも、親の自己愛の強さがその一因のようです。自己愛が強まると、子どもに対しての願望や要求が強くなり、その結果、子どもがそのハードルを越えられないと、責めたり拒絶したり。すると、子どもの側もおどおどしてしまい、本来の自分を親にさらけ出すことができなくなってしまいます。
(自分のために)成績がよい子であってほしい。(自分のために)運動もできる子であってほしい。(自分のために)人前に出して恥ずかしくないルックスの子であってほしい。ここまで露骨な願望はそうないと思いますが、このような子どもに育てることができたら、「子育てに成功したよき母」というセルフイメージを確立することができ、自己愛も満たされることでしょう。しかし、自己愛から生まれるゆがんだ愛情は、ある程度の年齢まではよい子を育てることができるかもしれませんが、結果として子どもの意志を奪ってしまうのではないかと思います。
子どものためと思ってしていることは、本当に子どものためか。自己愛からのものではないか。一度、立ち止まって吟味してみるのもよいかもしれません。自己愛を手放すことができたとき、その親子ならではの「どうして勉強しないといけないの?」に対する答えが見えてくるのではないかと思います。
(菅野)
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今年の夏は、読書感想文の宿題についての相談がかなりありました。
なぜ学校でそういう宿題を出すのかというと、普段の授業で読書感想文の書き方についての指導をしていないからです。もし、普段の授業で感想文の書き方を教えていて、その練習を家庭でも行えるようにするということで宿題を出しているのであれば問題はないのですが、ほとんの場合はそうではないと思います。学校で感想文の書き方を教えていないから、家庭での宿題として出しているのです。
ここで問題になるのは、そういう宿題を出された小学校低学年の家庭です。子供はどう書いていいのかわかりません。親もどう教えていいのかわかりません。しかし、宿題として出されているぐらいだから、ほかの家庭では子供が自分でその感想文の宿題をやっているのだろうと思ってしまうのです。ところが、小学校の低学年で、自力で上手な読書感想文を書ける子などはひとりもいません。
これと似ているのが、小学校高学年あるいは中学生での、難しいテーマで書く作文の宿題です。毎年よくあるのが「人権」「平和」「環境」などについての作文です。これも、普段、学校の授業でそういう勉強をしたり、そのことについての作文を書いたりしている延長で、家庭でも宿題として取り組もうということならいいのですが、実際は、学校で教えていないから家庭での宿題として出しているのだと思います。
学校は、勉強を教えるところであって、点数をつけるところではありません。宿題を出す前に、授業の中できちんと指導することに取り組んでほしいと思います。
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