戦後の経済成長期は、世界中が物不足から脱出しようとしていた時期であったために、常に需要が供給を上回る傾向にありました。
それは、なぜかというと、工業生産物そのものが発展途上にあったからです。例えば、最初はラジオであったものが、小さな白黒テレビになり、だんだん画面が大きくなり、やがてカラーテレビになるという製品自体の成長があったために、たえず新しい需要が作り出されていたのです。
しかし、現代は、もうそうではありません。
中国の13億の人口が、今、テレビの需要の巨大な吸引力となっていたとしても、それは1回限りの需要です。かつての日本が、ラジオ、白黒テレビ、カラーテレビと成長していったような需要ではなく、最初からカラーテレビを手に入れ、あとは買い替え需要しかないという完成した需要なのです。
そして、今日の工業国は、供給の側もまた完成しています。
戦後の経済成長の時代には、供給の側もたえず設備を更新し、新しい製品を開発していかなければ、消費者のニーズの変化に対応することができませんでした。
しかし、今新しく登場した工業国の供給の場合は違います。最初から完成度の高い製品を作るために、やはり最初から完成度の高い新鋭工場を新鋭設備で作ってしまうのです。だから、供給も1回限りという面を持っています。
これからの時代を、アメリカから日本に工業生産力が移動していった歴史になぞらえて、日本から中国に工業生産力が移っていくと考える人がいます。それは、事実の本質を正しく見ていません。
確かに、中国の13億という人口は巨大ですが、その人口が生み出す需要の大きさは、13億人の1回限りの需要であり、それに対応する供給は、最新設備の1回限りの供給なのです。
1回目の花火のような需要が一巡すれば、次の買い替え需要まで消費も生産も一段落します。
しかも、最新設備による最新工場は、資本さえ投入すれば、世界のどこでも人件費負担の少ないところを選んで設置することができます。ということは、需要がどれだけ巨大であっても、多数の供給者の競争によって、利益率は限りなく低くなります。
インドでは既に、20万円の自動車、3000円のパソコンが作られています。大量の消費者に対して最新の設備を使って効率よく製造された工業製品の価格は、このようになるのです。
だから、中国やインドでこれから始まる工業化は、日本がかつて経過してきた工業化と同じではありません。工業は、もはや利益を生み出さない産業になりつつあるのです。
では、農業、工業の次に、日本が目指す産業は何なのでしょうか。それは、架空の金融産業ではありません。また、本質は工業である情報産業でもありません。そこで、価値とは何かという問題が出てきます。
これからの日本は、真に価値あるものを作り出さなければなりません。その一つは植物の持つ自然の力を生かす農業です。もう一つは、人間の持つ創造的な力を生かす教育です。
この、真に価値あるものを産業の中心に据えていくことが、これからの日本の政治経済の基本方針になるのです。
では、人間が生み出す価値とは何でしょうか。例えば、子供たちをいいい子に育てることによって、その子たちが成人して穏やかな大人になり、犯罪など犯すようなことがなければ治安がよくなり、防犯のための無駄な支出が不要になります。
警察も、裁判所も、法律も要らないとなれば、これまでそういうところで仕事をしていた人は、治安を守るという後ろ向きの仕事ではなく、もっと前向きの新しい仕事にとりかかれます。
これが新しい価値の創造です。
これは、架空の話ではなく、江戸時代がまさにそうでした。
松尾芭蕉は、追はぎや強盗の心配をすることなく、日本中を旅することができました。
江戸は当時世界で最も巨大な都市でありながら、警察は驚くほど少なく、ほとんどすべて住民の自治的なつながりの中で平和な生活が支えられていました。
真の豊かさとは、こういうことなのです。
また、子供たちが、能率のよい勉強の仕方によって短時間で早く学力をつけることができれば、知識を身につける勉強以外の、考える勉強、作り出す勉強に時間を割くことができます。
そういう子供たちが成長すれば、どういう仕事をしても、その仕事の改善点を自分で発見して提案していけるようになるでしょう。
更に、新しい科学時技術を開発するような人も出てくるでしょう。
これが価値の創造です。
農業が、植物の生命力を生かした創造なら、教育は人間の向上心を生かした創造なのです。
世界の不況の根本原因は、工業に代わる新しい産業が、先進国で見つけられていないことにあります。多くの人は、過去の延長で考えているために、金融業、情報産業、医療、介護、観光、又は、海外への工業の移転、又は、国内での人件費削減のようなところに、日本の経済の打開策があるかのように論じています。
しかし、そうではありません。時代は、もっと根本的なことを要求しているのです。それは、真の価値を生み出す分野を産業の中核に据えるということです。
教育は、これまで、個人の受験競争のようなところで行われてきました。しかし、受験に勝つというようなことは、教育の枝葉の部分です。教育の本質は、人間の持つ創造性を開発することにあります。
日本がこの教育分野で新しい教育を作り、それを創造的な新しい産業に育てていくことが、世界の経済の行き詰まりを打開する道でもあるのです。
そして、日本が切り開いた経済の新しい分野に、工業化を完成させた途上国が続いて参入してきたときにも、工業のときに起きたような競争による利益率の低下は起きません。
なぜなら、第一に、そこで生産しているものは、需給の関係によって相対的に生まれた価値ではなく、農業が生み出すものと同じような真の価値だからです。
また第二に、人間の創造性が生み出すものは、工業製品に劣らない価格を持つことができるからです。例えば、パソコンが20万円で、自動車が200万円で、ピカソの絵が1億円、というような価格が可能です。
人間の創造性が生み出すものは、今の資本主義的な価格の世界でも十分に工業製品の富に匹敵する力を持っているのです。
農業は、いくらがんばっても、ダイコン1本が1万円というわけにはいきません(笑)。しかし、それは農業の生み出す価値が低いということではなく、農業が人間の生存という根本の価値に結びついているからです。
そして、第三に、これが最も重要なことですが、教育によって人間の持つ創造性を開発するという産業は、需要者が同時に供給者になるということです。
高いお金を払ってあるノウハウを身につけた人が、今度はそこに自分のノウハウを創造的に組み合わせて、より高く売る側に立つことができます。
そのサイクルを社会全体で実現しているのが創造社会の姿です。
需要と供給が分離されていずに、役割としていつでも交代できるから、工業時代にあったような過剰生産恐慌は、もう起こりません。また、過剰生産を緩和するために恒常的に行われていた有効需要政策ももはや不要になります。
無理な生産も無理な販売もなくなり、穏やかにしかし永続的に進歩する社会が未来の産業によって作られるのです。
今、全国各地で、農業を中心にした地域自給経済圏を作る動きが広がっています。これを農業という価値創造だけでなく、人間の教育という新しい価値創造に結びつけて取り組んでいくことが、日本の未来の社会を作る雛型になっていくと思います。
これまで、多くの子供たちの勉強の様子を見てきて痛感するのは、学力は家庭でほとんど決まるのではないかということです。
もちろん、学校や塾で先生が教える教え方によって、成績が早く上がったりなかなか上がらなかったりということはあります。そこだけ見ると、先生の力は大きいように見えますが、しかし必ずしもそうとは言えません。
先生は、植物の栽培で言えば、花を咲かせる段階のテクニックを知っているのです。
私(森川林)も、子供たちの国語の成績を上げたり、作文小論文を上手に書かせたりすることはできます。しかし、それはテクニックです。誰でも同じことができるようにその方法はすべてホームページで公開していますが、実際にはやりなれていないと自信を持ってできないので、特別な技術のある人しかできないように見えるのです。
しかし、先生が、教え方の技術によって子供たちの成績を上げることができるように見えても、そのテクニックが生きてくるのは、その子のもともとの実力までです。つまり、植物で言えば、張っている根っこの力の範囲までしかいい花を咲かせることはできないのです。
では、その家庭の教育力とは何でしょうか。それは、できる人には簡単にできるが、できない人には全く難しく見える、家庭での習慣作りです。その習慣作りの最初の方向と方法さえ間違わなければ、どの子も実力がつき、いい子に育ちます。
実力のある子は、必要に応じて勉強を始めると、すぐに成績が上がります。逆に、小中学校時代に、成績を上げることに目を奪われ、実力をつけることをおろそかにしていると、みんなが勉強を始める時期に、逆に成績が低下してきます。
小中学校時代の勉強は、成績を上げることではなく実力をつけることです。
わかりやすい例で言うと、小学生の子に、国語の勉強としてドリルのようなものをさせる人も多いと思います。問題を解く勉強を毎日する習慣がついたとしても、これでは実力をつけていることになりません。
国語の力をつけるためには、問題を解くよりも読書と対話に時間を割いた方がいいのです。
国語のドリルをやっている子は、学校や塾の国語のテストも要領がわかるので、最初のうち、少しは点数がいいかもしれません。しかし、学年が上がるにつれて成績が上がっていくのは、国語の問題集などせずに、読書を楽しみ、家族と対話をしていた子の方なのです。
算数、数学でも、同じです。できる問題も、できない問題も、ただ枚数や時間を決めて解くだけという勉強の仕方をしている子は、たとえ毎日算数の問題を解く勉強をしていても力がつきません。できない問題だけをできるようにするという教材の選択の仕方が大事なのです。
これは、勉強以外のさまざまな生活習慣についても同様です。例えば、食事中はテレビを見ない、ゲームの時間は制限する、朝起きたらあいさつをする、イスにはまっすぐに腰かける、いい言葉づかいをする、などということは、実行している家庭では全く何の特別なことでもなく、ごくあたりまえのこととして続けています。しかし、それができない家庭では、親が子供に何度言ってもできない難しい問題になっています。
そして、こういうことが、子供の勉強力の根っこになっています。根がしっかり張っている子は、その根の力の範囲まですぐに花を咲かせることができるのです。
そこで、言葉の森で考えたのが、森林プロジェクトです。
言葉の森では、週1回作文の勉強を教えていますが、週1回の授業を充実したものにするのは、家庭での毎日の自習と予習です。
子供を育てるのは、先生だけでも親だけでもなく、先生と親との協力です。そして、どちらが大事かと言えば、もちろん家庭で毎日接している親の方です。
だから、家庭で毎日行う自習と生活習慣作りを中心にして、そこに、教え方のノウハウと教材を組み合わせて、親が先生の代わりをして子供たちを教えるという形の勉強法を考えました。
しかし、子供というのは、友達との集団の中で勉強するのが好きです。勉強が楽しいという子はあまりいませんが、友達と勉強するのが楽しいという子は多いのです。
そこで、親が自分の子供を教えるだけでなく、その子の友達も呼んで、近所の仲のいい子と数人で勉強するようにします。そのために、教材はかなり低価格に抑えます。
お母さんは、自分の子供を教え、一緒に近所の子供も教え、集団の中で教えることで子供たちの勉強意欲を引き出すことができます。
また、教えるのは近所の子供ですから、その子の親にも家庭での自習をうまく勧めることができます。こうして、自分の子供と近所の子供が、本当の実力をつけることを目指した教育を行っていくのです。
このようにして子供たちを教えていく中で、やがて教えることに優れた能力を発揮するお母さんも出てくると思います(もちろん、お父さんでもいいです)。そういうお父さんやお母さんは、その地域で集会所や公民館などを利用して、より大勢の子供たちを教えていくこともできます。
また、それほど大人数にならなくても、子供の勉強を通して近所の人たちと家庭のつながりができるというのは魅力のあることです。
特に、言葉の森が教えている勉強の中心は作文ですから、近所の人たちが集まって、子供たちの作文の発表会などを行うことができます。また、言葉の森が毎日の自習として行っている暗唱を生かして、暗唱発表会などを開くこともできるでしょう。
普通の子供の集まりであれば、例えばバーベキューなどを行ってもみんなで楽しく遊んでおしまいですが、作文の勉強という知的な共通点のある集団では、親も子も密度の濃い話ができます。
例えば、子供たちが読んでいる本を紹介し合い、貸し借りをするようなことも自然に行われるでしょう。内容のある話を交わす大人たちの間で育つ子供たちは、人間関係のコツなども自然に学んでいくでしょう。
子供のバランスのよい成長には、複数の大人が必要です。どんなに優れた親であっても、一人の親が一人の子供を育てているのでは、必ず偏りが出てきます。(しかし、母子家庭、父子家庭の家もあると思うので、そのことについてはあとで述べます)
例えば、厳しい父親は、子供をしっかりした子にさせる力がありますが、同時に自由なのびのびとした子に育てるのは難しい面があります。反対に、優しい母親は、子供をのびのびと育てる力がありますが、いざというときにくじけずにがんばる子を育てる面はやはり弱いのです。
だから、子供の教育には、父親も母親も大事なのですが、更に、父と母だけでは不十分なこともあります。
複数の家庭が子育てで共通点を持つと、ある家庭は、野山でキャンプをするワイルドな経験を伝えてくれるでしょう。ほかのある家庭は、工場見学のような物作りの楽しさを伝えてくれるでしょう。またほかのある家庭は、カラオケ大会のような自分で表現する楽しさを伝えてくれるでしょう。
このような複数の家庭の交流の中で、バランスのとれた子供たちが成長していくのです。
だから、母と子、父と子だけの家庭でも、対策は同じです。親が、親子の関係の中に、ほかの大人や子供と一緒にいる機会をできるだけ作っていけばいいのです。
これは、しつけについても言えます。
親は、自分がその親からしつけられたことまでしか子供をしつけられません。早起きの習慣のない親が、子供を早寝早起きにできないように、すべてのしつけは、親ができていなければ子供に教えることはできません。
しかし、他の家庭の子供と一緒に遊んだり勉強したりすれば、しつけはいちばんよいものが無理のない形で共有されていくのです。
こういう、子供たちの学習を中心とした近所の結びつきが自然にできるというのが、作文や国語の学習の特徴です。
勉強の内容は、作文や国語にとどまらず、算数数学や、英語や、音楽や、体育にも広がっていきます。すべての習い事には、教え方のポイントになるものがあります。その勘所さえ押さえれば、楽に上達するという秘訣があるのです。
ところが、多くの習い事の教室は、子供たちの興味を引きつけるための面白おかしい外見に力を入れてしまい、肝心のポイントは二の次になっています。それは、外見に力を入れないと売れないからです。
ところが、親が自分の子供のために教えるのであれば、そのような外見は必要ありません。ただ本質的に大事なことをしっかり教えていくだけでいいのです。国語の学習の場合で言えば、それは読書を中心にした対話、暗唱、作文です。
言葉の森は、国語力以外の子供たちの成長のニーズに応えるために、さまざまな教材を開発していく予定です。それは、外見よく売るための教材ではなく、本当に必要なエッセンスに絞ったものになります。
わざわざ遠方まで、高い月謝と時間をかけて、いい先生のもとに通わなくても、自分の家でほとんどのことは、もっと簡単に身につくのです。
さて、このときに必要とされるのが大人の創造性です。
言葉の森の作文課題のいろいろな長文を見ているうちに、もっといい長文を自分が子供たちのために書いてあげたいという人も出てくると思います。さまざまな教材や教え方をどう改善したらよいかということは、実際に自分の子供を教えている親がいちばん敏感にわかるからです。
そういう親の自主的な教材改善の力で、家庭学習は単なる学習塾や習い事教室の代替物ではなく、それらの外部の機関に委託するよりもはるかに優れた教材力、指導力を持つ学習機会になっていくでしょう。
日本ばかりでなく、これからの世界は、大不況に突入すると言われています。
必要経費をいろいろ削ったとしても、子供の教育にかけるお金は削りたくないと思っている家庭は多いでしょう。しかし、お金をかけなければいい教育ができないと思うのは錯覚です。
昔は、貧しい家庭の中から、多くの優れた子供たちが生まれました。極貧の中で成長し、世界に通用する立派な科学者になったり政治家になったりした人もいました。
それは、家庭と地域に教育力があったからです。子供たちは、学校に通う前に、家庭と地域でしっかりと学力の根を張っていたのです。
今、親の年収と子供の学歴が比例するような状況が生まれているのは、教育にお金がかかるからではありません。家庭と地域の教育力がなくなったために、外部の機関に教育を委託せざるをえなくなったからです。
だから、委託の費用を出せる家庭でなければ子供にいい教育を受けさせることができないのではないかという勘違いが生まれてきたのです。
さて、子供たちの教育を中心としてできた結びつきは、子供たちが大きくなってしまっても更に発展していく可能性があります。それは、つながりのある大人どうしで新しい教育を作り出すことです。
実は、教育とは、農業、工業に続く、未来の新しい産業です。世界の経済が行き詰まっているのは、工業のあとに続く産業が先進国で開発されていないからです。多くの人は、未来の産業を、金融工学産業、情報産業、環境産業、宇宙産業など、工業の延長でしか考えていないので、出口が見つからないのです。
原点は、真の価値のあるものは何かということです。
農業は、真に価値のある産業です。それと同じように、人間の創造性こそが最後に価値のある産業になります。つまり、教育(といっても、受験競争に勝つための教育ではなく、人間の創造性を開花させるような教育)が、未来の産業の中心になるのです。
その動きは、既にさまざまな形で生まれていますが、それを更に加速させるのが子育てを終えた親が集まって互いに自分の得意なものを教え合う社会人の創造教育です。
この創造教育を新産業として拡大すれば、日本は世界の低迷した経済から一歩早く抜け出せます。
工業生産は、今は、設備投資さえすれば、どの国でもできるようになっています。日本がそれに対抗して、生産拠点を海外に移したり、国内の生産で人件費負担を減らすために派遣社員化したり外国人を雇用したり、逆に門戸を閉じて鎖国的な政策をとろうとしたりしていては、世界の経済は停滞を続けるだけでしょう。
日本は、工業の先にある産業、つまり人間の創造産業を切り開いていく必要があります。
生きた組織とは、内部で富を作り出している組織です。趣味の集まり、上から形成された集まり、補助金や寄付によって運営されている集まり、などはいくら大きな組織であり、長年続いていて重要な役割を果たしている組織であったとしても生きた組織とは言えません。入力以上の出力があるのが生きた組織です。
それは、生きた生物の定義と同じです。その点で、生きた組織の代表的なものは、ひとつには正当に利益を上げている企業です。もうひとつは国民に支持されている国家です。その生きた国家を支えるものは、国家と個人の間に存在する無数の生きた組織です。
寺子屋のような教室は、子供たちを育てる教育を行うという点で富を生み出す生きた組織です。
この組織を更に発展させて、大人どうしが自分の得意なものを教え合うだけでなく、その地域の長所を生かした特産品を作り、それを他の地域に販売できるようになれば、その産業を通じて地域自体が生きた組織になります。
日本全国にその土地の風土や歴史を生かした産業が生まれ、生きた地域によって支えられた生きた国が作られていくというのが、日本の未来の姿です。そのとき、国家は、よそよそしい権威とルールを押しつけるものではなく、真に国民のための国家となるでしょう。
日本が創造産業を作り出すことによって、初めて世界経済は再び豊かに動き出していきます。しかし、日本の役割はそれを世界に広げることではありません。
新しい創造産業は、自然に世界に広がります。日本のすることは、まだ先の可能性が無限にある未来の創造産業をただひたすらに前進させていくことです。
そういう創造の可能性に満ちた社会の一歩手前に、今、私たちはいるのだと思います。
▽「森林プロジェクト」のページ
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