日本と米国の作文教育には、違いが幾つかあります。
日本では低学年からの生活作文が充実しています。喋る言葉がほとんどそのまま書き言葉になるので、日本では作文教育の年齢が諸外国に比べてかなり早いのです。わずかに教えにくい例外は「わ」と「は」や「お」と「を」の区別ぐらいです。
それに対して米国では、子供のころからの単純な口頭説明の練習があります。文章を書くのではなく口頭で、家から持ってきたものなどをみんなの前で説明させるのです。そして、文章が書けるような年齢になると、簡単な説明文から簡単な意見文の練習に発展していきます。
アメリカの意見文の特徴は、構成がはっきりしていることです。意見や理由や反論を明確に述べる形の文章です。これがディベートという論争ゲームにつながっていきます。これは日本には見られない特徴です。
しかし、
日本にも意見文の作文があります。それが言葉の森の「一つの意見と複数の理由」という書き方です。意見とその理由を書くところまでは、米国の作文とあまり変わりませんが、そのあと、言葉の森の作文では「反対意見に対する理解」が入ります。相手の批判に対する反論ではなく、相手の批判に対して理解を示すというのが言葉の森の意見文の特徴です。
アメリカの意見文では、反対が新たな反対を呼び、それが弁証法的に発展していくという前提があります。これは自由貿易主義の自由競争が、富める国と貧しい国の双方にとって有利になるという前提と似ています。強い者が勝ち、より強くなったものが次に勝ち、更に強くなったものが更に次に勝つ、ということを繰り返すことによって、世の中は自然に発展していくという考え方です。
言葉の森の意見文の「反対意見の理解」は、弁証法という形には進みません。「総合化の主題」という方向に進みます。日本では、対立する意見に対しても和を大事にするという考えがあるからです。
言葉の森の意見文は、弁証法のように正反合という形で進むのではなく、ある意見と異なる意見を総合化してより大きな意見にまとめるという方向に進みます。
弁証法的な方法が時間的な統合であるならば、総合化は空間的な統合といってもいいでしょう。欧米の料理が時間的な順序で現れてくるのに対し、日本の料理が空間的に配置されることと似ています。
具体的な実例を述べてみましょう。
機械化が良いか悪いかということを弁証法的に対立する意見として考えるならば、双方の意見が対立しているときは、機械による合理化を進める意見と合理化に反対する意見が対立し、時には、機械打ち壊し運動というような実力行使に進むかもしれません。
日本の場合は、機械とどう共存するかという発想がまず最初に出てきます。日本の工場ロボットが「百恵ちゃん」などと名前をつけられて人間と一緒に共同作業をしているのは、たぶん日本人のこのような和の発想が生きているからだと思います。
ペットの犬を見てみると、欧米では犬の耳を切ったりしっぽを切ったり、人間の都合に合わせて動物を管理するという面が強くあります。日本では、そういう発想はあまりありません。逆に、日本の猫はしっぽの折れているものが多いのですが、その折れ具合がかわいいなどという考えもあります。
つまり、
自分の考えと合わないものを批判するのではなく、合わないものと共存するところに、日本の「反対意見に対する理解」と「総合化の主題」という意見文の特徴があるのです。日本では犯罪が極めて少ないことが知られています。(殺人事件は、日本を基準にすると、イギリス、フランス、中国は2倍、アメリカは5倍、ロシアは20倍です。強盗事件は同じく、中国が3倍、フランスが10倍、ロシアが20倍、アメリカが30倍、イギリスが40倍です)。異なる意見に対し、力で対抗するのではなく、譲り合いで対応するという日本人の発想が治安のよさにつながっているのだと思います。
日本には、「石の上にも三年」という言葉があります。嫌なことでも三年我慢していれば、総合化の展望が見えてくるというのです。これに対して、欧米では、「ローリングストーン ギャザーズ ノーモス(転石苔を生じず)」で、嫌なことがあったら、さっさと別の場所に移って新しい人生を始めようという発想です。
このどちらがいいということは一概に言えませんが、日本の文化や日本の社会に根づいているのはやはり忍耐と和の考え方なのです。
ここで、反対意見に対する理解を入れると、確かに、弁証法の発想は、世の中が激しく変化するときには有効です。例えば、信長の比叡山の焼き討ちなども、そういう激しい行動がなければ日本の国家の統合と発展は、かなり遅れたはずだからです。しかし、平和な時代の平和な社会には、弁証法ではなく総合化の発想が大事です。
これから世界は、大きく平和に向かっています。日本人の意見文の発想がますます求められていると思います。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。

日本は、豊かな雨と豊かな太陽に恵まれた国です。そして長い間、平和な時代が続きました。このような国では、場合によっては、南の島でバナナを食べて毎日昼寝をするような、停滞した平和な国になっていたかもしれません。しかし、それを競争や闘争のような方法ではなく、平和の中で文化の洗練度を深める方向で発展させていったというところに日本の文化の特徴があります。
人間が成長してから学ぶ学問や技術という材料は、どの国もそれほど変わりません。と考えれば、
日本のすぐれた文化は、材料ではなく、その材料を入れる枠組みの中にあると考えることができます。幼児期までに形成された認識の枠組みの中に、日本のすぐれた文化の秘密があります。その枠組みとは、日本語の枠組み、日本の生活の枠組み、日本の文化の枠組みなどいくつか考えられますが、
最も大きなものは、長い間の平和の中で培われた察し合いの文化という枠組みです。
察し合いの文化は、譲り合いの文化を生み出しました。交通事故で車と車がぶつかったときも、まず「すみません」と謝るのが日本人です。謝ったら不利になるなどという発想は、日本人にはありません。
察し合いの文化は、人に対してだけでなく物に対しても向けられました。針供養というのは、一年間仕事をしてくれた針に対する感謝の気持ちを表す行事です。
このような文化が、自然や社会に対する深い観察を生み出し、その自然や社会に自分を合わせるという対応の仕方を作り出していきました。これが、日本の優れた技術や文化を生み出す土台になったのです。(しかし同時に、学問の世界では、膨大な文献を消化することを優先するという傾向も生み出しました)
日本の察し合いの文化に対して、欧米など日本以外の国は、長い間の戦乱の歴史の中で、自己主張の文化を形成しました。自己主張の文化は、ディベートの文化です。相手の気持ちや物の様子を謙虚に観察しようとするよりも、相手を自分に合わせて判断することをまず考えるのが自己主張の文化です。この文化の中では、観察はどうしても大まかになります。
日本人が歪みの中に美を見出せるのは、城の石垣の石組みのように歪みを個性として生かすことを知っているからです。日本以外の国で、歪みよりも均整の美が好まれるのは、均整のとれたものは自分の考える用途に合わせて利用しやすいからです。
このように考えると、
日本人の子育てで大事なことは、相手の気持ちを考える察し合い文化を守っていくことです。これは、もてなしの文化といってもいいと思います。このもてなしの文化が、平和と豊かさ中でも進歩を続けるという日本の国の特徴を生み出したのです。
相手が喜ぶように行動する、例えば、席を立ったらイスをしまう、玄関を上がったら履物をそろえる、食事をとったらあとを片付けやすいようにしておく、立つ鳥は後を濁さない、こういうような生活を繰り返していくことが、実は、日本が世界に誇る優れた技術や文化のもとになっています。
勉強は材料です。その材料を入れる枠組みを作っているのは生活です。
普段の生活の中で、相手の気持ちを考えるように行動することが、実は教育の出発点になっているのです。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)
マインドマップ風構成図
記事のもととなった構成図です。
