人間には、自然治癒力というものがあります。仕組みは……自然に治るということです。(説明になっとらん)
例えば、風邪を引きます。熱が出て、咳が出て、頭痛がして、体がだるくなり、仕方ないので安静にしていると、だんだん治ってきます。ここで無理に症状を抑えると、かえって長引く場合もあります。つまり、風邪の症状をしみじみと味わっている間に、体の中に自動修復機能が働いて治ってくるということです。これまで何回もあった氷河時代を乗り越えて何十万年も生きてきた人類には、それだけの自動調整機能が備わっているのです。
同じことは、社会にもあてはまります。それが民主主義です。
みんなが自由に意見を言い合えば、脱線する人も、足を引っ張る人も出てきます。しかし、いい意見だけにしぼって悪い意見を排除すると、かえって自動修復機能が働きません。変な意見が出るからこそ、自然にいい意見にまとまってくるのです。
比嘉照夫さんの開発したEM(有用微生物群)の理論も似ています。いい微生物だけ集めるのではなく、悪い微生物も、よくも悪くもない微生物も一緒にまとめることで、より大きな効果を発揮するという仕組みです。
話が脱線しましたが。
さて、勉強も似ています。「読書百遍意自ずから通ず」という言葉があります。繰り返し読んでいると自ずからわかってくるというのです。
これは、読書の方法論がなかった時代の読書法なのでしょうか。確かに現代は、付箋読書、傍線読書、速読、速聴、アニマシオンなどいろいろな方法論があり、それぞれ効果があります。しかし、その根底にあるのは、「読書百遍意自ずから通ず」の読書法なのです。
繰り返し読んでいると自ずからわかるというのは、人間には自然読解力があるからです。
その仕組みは、ここでまた、……自然にわかるということです、と書いてしまうと芸がないので、もう少し深く考えてみると、次のような流れがあるからだと思います。
まず、読書で「わかる」「わからない」というとき、そのわかり方は相対的なものです。「わかる」80%で「わからない」20%ぐらいの本は、読んでいておもしろい本でしょう。「わかる」99%で「わからない」1%の本は、わかりすぎておもしろくない本です。
例えば、おじいちゃんに何度も聞かされる同じような自慢話を考えてみるとわかります。細部まですっかりわかった話を聞かされると、一応話は聞いていてもおもしろくも何ともありません。
しかし、ここに、笑いや映像が入ると、そのつど面白く聞くことができます。落語の世界もそうです。更に、お笑い番組、テレビ、ゲーム、漫画の世界も、このわかってはいても何度も繰り返し聞いたり見たりできます。漫画をいくら読んでも読解力はつかないというのは、それが多くの場合、見た目の変化はあっても本質的には同じわかった世界に属しているからです。
問題は、「わかる」50%「わからない」50%ぐらいの本です。こういう本は、難しい本、わかりにくい本という意味でつまらない本と呼ばれます。しかし、こういう本を何とか1回読み終えると、わかる度合いが少しずつ広がっていきます。
感覚的に言うと、1回目には「わかる」50%「わからない」50%だった本が、2回目に読むときには、「わかる」51%「わからない」49%ぐらいになり、3回目に読むときには、「わかる」55%「わからない」45%ぐらいになり、4回目に読むときには、「わかる」70%「わからない」30ぐらいと次第にわかり方の度合いを高めていきます。S字曲線のようにわかっていくと言ってもいいと思います。わかるとわからないの中間にあるグレーゾーンがわずかずつ明るい方向にシフトしていくのです。
なぜこうういうことが起こるかというと、ある本を読んで新たにわかったことが1%増えたことによって、その本の理解度が増すだけでなく、その子がそれまでに読んだすべての本の理解度がその1%分上昇するからです。
私自身の経験で言うと、小さいころ初めてひらがなが読めるようになったころのことだと思いますが、漫画を読んでいて、次のような場面に出合いました。主人公の少年が、オットセイか何かに「海の中にある○○をさがしてきてくれないか」と頼むのです。すると、オットセイは二つ返事で「あさめしまえだ」と言って海の中に飛び込みます。私はこれを読んだときに、なぜここに「あさめしまえ」が出てくるのかわかりませんでした。「朝飯前=簡単」という意味の言葉を知らなかったです。それは、ずっと私の中に疑問として残りました。
そして、そのあと何日後か何年後かはわかりませんが、朝飯前の意味を理解する日があったのだと思います。すると、小さいころに読んだその漫画の情景の意味があらためてわかり直す形で理解できたのです。
一つのことがわかると、それに関連した別のことがわかり、その別のことがわかると、更にそれに関連した別のことがわかり、その別のことがわかると、更にほかの別のことがわかる、というように、わかり方には、経済学の乗数効果に似た作用があります。
読書力をつけるには、まず本を読むこと、読解力をつけるには、まず難しい文章を読むこと、というのは、このような背景があるからです。自然読解力は、読解の方法がなかった時代の未開の読解法ではありません。あらゆる読解技術の根本にある読解の方法なのです。
言葉の森が読む勉強法を提唱してから、多くの塾でこの勉強方法を取り入れるようになりました。しかし、まだ、なぜ読むことで読解力がつくのかとたずねる人もいます。
読む勉強に比べて、問題を解く勉強法は、やったあとが形として残り、答え合わせをすることができ、教えることができます。そのために、勉強した気にはなるのですが、そのわりに実力がつきません。それは国語の解く勉強法が、数学の解く勉強法とは意味が違うからです。
数学の解く勉強にも2種類あります。一つは、計算問題を解く勉強です。文章題を解く勉強も、広い意味で計算問題を解く勉強と同じです。これらは、手順を追っていけば誰でも解ける問題です。国語の勉強で言えば、漢字の書き取りや文法の問題がこれにあたります。手順どおりにやっていけばいいので、簡単ではあるが、ある程度の反復練習が必要になる勉強です。
数学の解く勉強のもう一つは、図形の問題を解く勉強です。図形問題を解くとは、図形の数値を入れて計算する作業です。大事なのは、数値をあてはめて計算する以前の、補助線などを引いて図形の読み取りにひらめく段階です。
国語の読解問題を解く勉強は、文章の題材にあてはめて選択肢を選んだり、答えを記述したりする作業です。しかし、ここでも大事なのは、題材にあてはめる以前の、文章を読み取る段階なのです。
数学の図形問題でも、国語の読解問題でも、読み取るのが難しいのは、その読み取りに子供がまだ経験していない新しいパラダイムが要求されるからです。難しい読解問題とは、子供がまだ経験していない世界や、子供が初めて知る認識の世界が、問題文として登場してくる問題です。
しかし、この新しいパラダイムは、一度でも経験をしていると、二度目には比較的容易に読みとれるようになります。従って、国語の読解問題を読み取る勉強は、新しいパラダイムが盛り込まれている文章を味わって読むことです。味わって読むとは、深く読むことではなく、繰り返し読むことです。同じ文章を4回から5回読むと、その文章のテーマとなっている枠組みが確実に読み取れるようになります。これが文章読解問題の実力になっていくのです。
東大の国語(現代文)の入試は、漢字の数問以外はすべて記述式の問題です。ここで求められる国語力は、選択肢を選ぶコツではなく、自分なりに考えて書く力です。
選択式の国語の実力と、記述式の国語の実力との間には、若干のずれがあります。選択式の問題は、コツがわかれば高得点がとれます。だから、作文力は特にそれほど優れているわけではないが選択式の問題はよくできるという人がいます。一方、作文力はあるのに選択式のコツがわかっていないために得点が低いという人もいます。
どちらが真の実力かと言えば、それはもちろん記述式の方です。社会に出てから選択式の問題を解くコツが役に立つような場面はまずありません。それに対して複雑な問題を自分なりに考えて書き表す記述力は常に必要になります。
では、記述力の試験で何が評価されるのでしょうか。読み取る力や書き表す力が必要なのは当然ですが、それとともに、字数の感覚とスピードが大きな要素になります。
ある事柄を一定の枠や字数で過不足なくまとめる力が、記述力では大きく出てくるのです。言いたいことを必要な字数でまとめるところに、語彙力や表現力の差が出てきます。長くなりそうなら短くまとめ、短くなりそうなら長くまとめるということができるためには、いろいろな語彙を駆使できなければなりません。求められる字数が長ければ長いなりに、短ければ短いなりにまとめる力が記述力です。
このように考えると、記述力には、決して独創的な力が求められているわけではありません。選択式の問題よりも、考える要素がありますが、しょせんは記述するだけの力だと言ってもいいかもしれません。
では、真の国語力は何でしょうか。それは記述式の50字から200字程度の文章を書く力ではなく、もっと長く800字から1200字程度のまとまりのある文章を書く作文力です。
ところが、今の日本には、その作文力を見るのにふさわしい試験がほとんどありません。いちばんふさしいのが、言葉の森で行っている作文指導のような書き方です。日本語作文小論文研究会で行っている作文検定のような書き方と言ってもいいと思います。
例えば、「ある事柄について、相反する二つの意見を述べ、それぞれに体験実例と社会実例を書き、最後の意見は名言を引用して四段落でまとめなさい。なお、社会実例は昔話か伝記から選ぶこととし、一段落の長さの目安は150字から200字とする」という試験です。そのような作文試験であれば、表現力だけでなく思考力もはっきり出てきます。また、採点もポイントを絞って見ればいいので、かなり深く読むことができます。
将来、そのような作文試験が登場する可能性はあります。少子化によって入学試験に余裕ができ、もっと実力をしっかり見たいという機運が高まれば、試験の性格は次第に選択式から記述式に、記述式から作文式に変わっていくでしょう。
言葉の森での作文の勉強は、当面の学力に役に立つのはもちろんですが、そのような将来の学力にも役立つ内容を持っています。そして、将来の学力にも役立つということは、実社会に出てからも役立つ学力だということなのです。