日本語力を育てるのは家庭生活ですが、現在の問題は、家庭における日本語教育力が弱くなっていることです。
江戸時代、寺子屋で素読や手習い(習字)が普及していたのは、その寺子屋の教育に対応する文化が家庭にもあったためです。
例えば、子供が素読する文章を多くの親は知っていました。親自身も子供時代に同じような素読をして大きくなったからです。ちょうど、現代の九九のように、親が知っているから、学校で宿題として出されるだけでも、ほぼ全員が九九を言えるようになるというのと同じ家庭の文化があったのです。
また、家庭生活でも仕事生活でも、手紙によるやりとりが頻繁におこなわれていました。手習いの練習は、手紙を書くための教育として普及していました。
「インド式すごい勉強法」(ニヤンタ・デシュパンデ著)によると、インドの家庭では、親が子供に古典を朗読させるという昔ながらの教育文化があるそうです。学校や塾に行かなくても、家庭で朗読ができるというのは、親と子に共通する言葉の文化があるからです。
ひるがえって今、日本の家庭に日本語を教育する文化があるかと考えると、残念ながらそれはほとんどありません。
親が小さい子供に読み聞かせをするときでも、多く場合、本を用意して読んであげるという形です。このため、読み聞かせは親にとって負担の大きいものになります。しかし、もし親が自分が子供のころに聞かされたいろいろな昔話を知っていて、それを思い出しながら子供に話して聞かせるのであれば、この読み聞かせ(話し聞かせ)は、もっと楽に長い時間できるものになるでしょう。
教室に通っている子供たちに、感想文の似た話の例として昔話を挙げると、多くの子供がそういう昔話を知りません。また、日常生活でよく使われるようなことわざも、知らない子がかなりいます。昔話は、テレビの「日本むかしばなし」で、ことわざは、学習漫画の「まんがことわざ辞典」で学ぶようになっているのです。
また、現代の日本の社会では、手紙のやりとり自体がありません。そのため、日常的な言葉とかけ離れた形式やルールが生き残り、手紙を書くことが日常生活からますます縁遠いものになっています。家庭生活の中では文章を書く機会や必要がないため、子供たちが文章を書く場所は、学校の作文やレポートに限られています。しかし、その学校での機会も、それほど多いとは言えません。
更に、親子の対話の時間が限られています。親と子が家庭で談話をする時間がなかなかとれないのです。それは、父親の帰りが遅いこと、母親も遅くまで仕事をしていること、そして、テレビが茶の間に主役になっていることが主な理由です。その結果、親が子に話すのは、勉強に関する小言のようなものが中心になっているのです。
本当は、親が子供に、親の子供時代の話をしてあげるなどということが日常的にできれば、小学校低学年の子に対しても、中学生、高校生の子に対してもそれなりに中身のある対話ができるでしょう。しかし、そういう話が家庭で行われないのは、親子の間に家庭で話をするという文化がなくなっているからです。
家庭で知的で楽しい対話の機会がなく、テレビを見ることが日本語の生活の中心になっているので、たまに親子が話をすると、成績のこと、テストのこと、受験のことになり、内容を深める話よりも表面的な掛け声のような話になってしまうことが多いのです。(つづく)
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現代の日本の社会における子供たちの学力低下は、次のような流れで起こっていると考えられます。
まず、家庭教育の機能が低下していることです。そのため、子供たちの勉強力格差が拡大しました。その結果、学校教育の一斉授業が効果的に行われないようになり、学力の格差が更に拡大しました。そこで、低学年からの私立学校化志向が生まれました。そのため、勉強の内容が、学力をつけるための勉強から、受験に勝つための勉強に変わっていき、その傾向が低年齢化していきました。勉強が受験という目標に絞られた結果、学ぶ喜びを感じられない勉強をする子が増え、そういう子供たちがそのまま成長するという仕組みになっているのです。
高校生のころになると、だれでも、勉強の中で自分が向上するという喜びに目ざめるようになります。ところが、低学年から勝ち負けの勉強に適応していると、高校生になってもその延長で勉強というものを考えてしまいます。勉強は苦しいけど、やらないと競争に負けるからやむを得ずやるという考えです。
楽しいから勉強するという子と、苦しくても我慢して勉強するという子とどちらが伸びるかといえば、楽しみながら勉強できる子の方です。今の日本の社会は、楽しいから勉強するという子が減り、苦しいけど勉強するという子が増えているのです。
こう考えると、いちばんの土台となる家庭教育の足場をしっかりさせることが、学力を回復させる鍵になります。
学力テスト上位県の特徴は、学校で宿題を出すことが当然のようになっており、家庭学習がその宿題に対応して行われていることです。つまり、家庭で毎日何を勉強するかということがはっきりしているので、親が迷わずに子供に家庭学習をさせることができます。
これ対して、学力テスト下位の主に都会の県では、親が家庭学習とし子供に何をさせるのかというよりどころがありません。そこで、通信教育の教材や通学の塾などに頼るようになります。ところが、これらの教材や塾は、学力をつけることよりも、子供たちが取り組みやすいこと、点数という結果が出やすいことに力点が置かれがちです。
そのような勉強で子供たちに意欲を持たせようとすれば、競争や褒美に力を入れるということにならざるを得ません。こうして、勉強はますます学ぶ喜びから遠ざかったものになっているのです。
家庭教育は、市販の教材や塾に頼らずに、真に学力のつく教育として取り組むことが大事です。それが何かということをひとことで言えば、豊かな日本語の力を育てるということです。それは、学力の本質が日本語力だからです。
例えば、近代日本を切り開いた勝海舟、福沢諭吉、西郷隆盛、坂本竜馬などは、今の小中学校にあたる年齢のときに、今で言う英語や数学などの勉強はしていませんでした。勝海舟や福沢諭吉が外国語を勉強したのは成人してからです。この時代の日本人全体の学力の基盤は、日本語の読み書き以外にはありませんでした。その日本語の読み書きの力をしっかりつけることで、その後の新しい勉強の土台ができたのです。
では、豊かな日本語力はどのようにしてつくののでしょうか。
日本語の学習は、質、量、密度の三つの点から考えられます。日本語の質と量は、生活の中で自然に身につくものです。例えば、毎日の読書や対話を、少し難しく、しかし楽しく、したがって数多く経験していくことです。また、密度に関しては、同じものを繰り返すことです。対話においては同じ話題、読書においては同じ本を繰り返し味わうことが日本語力の土台になっていくのです。(つづく)
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日本人は、教育熱心だと言われていました。確かに、日本には教育を大切にする文化がありました。しかし、それは歴史的に形成されてきたものです。
今、日本人の学力は、OECDの調査などにも表れているように次第に低下しています。他国との比較だけでなく、大学や企業でも、「昔の学生の方が優秀だった」という声はよく聞かれます。
また、教育の熱心さについても、日本は、中国や韓国に追い抜かれているようです。それは、中高生の家庭勉強にかける時間の少なさや、大学で学ぶ日本人の学生の意欲の低下などにも見られます。
日本の教育文化の多くを担ってきた、会社の仕事における教育機能も、年功序列制の崩壊と派遣労働の普及とともに後退しています。
日本人の学力低下は、日本の社会の教育力低下によるものです。では、なぜ日本の教育力がこのように低下してきたのでしょうか。原因は、三つ考えられます。
第一は、家庭教育がうまく機能していないことです。子供たちの一部は、テレビ漬け、ゲーム漬けの生活を送っています。ほかの一部は、塾や習い事漬けの生活を送っています。また、家庭で行われる教育の多くはドリルを中心としたもので、真に意味ある学力の養成ができているとは言えません。
第二に、その結果、子供たちの勉強力格差が激しくなっています。昔の子供たちは、皆同じように学校が終わると戸外で遊んでいました。そのため、そのような均質な子供たちを教える学校の一斉授業は、学力向上に大きく役立っていました。しかし、現在は、子供たちの勉強力が上にも下にもばらついているので、一斉授業という形式が困難になっています。その結果、私立化に拍車がかかり、早い時期からの受験勉強が広がるようになりました。
第三に、受験の低年齢化が進み、勉強の目的が受験の合格、つまり勝ち負けになった結果、学力をつけるための教育ではなく点数をよくするための教育が増えてきたことです。例えば、「難しい問題は飛ばして、易しい問題を確実に解く」とか、「うっかりミスをなくすことに力を入れる」とか、「志望校の傾向にあった勉強をする」とか、「したがって、受験に関係のない勉強はしない」というような発想を、先生も親も子供も持つようになってきました。これが、勉強の本来持つ「学ぶ面白さ」を大きく阻害する要因となっています。
では、これらの問題に対する解決策はあるのでしょうか。
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