作文の勉強を考える場合、勉強一般のことも考えておく必要があります。
勉強の目的は、成績を良くすることではなく、頭をよくすることです。
では、頭のよさは、どのような方法で評価されるのでしょうか。
まず最初に考えられるのは志望校の合否です。志望した学校に合格したかどうかは、確かに、その学校の過去問と相性がよかったかどうか、推薦ではなく実力で合格したかどうかなどの要素もありますが、今の社会では、トータルな学力を評価する一つの尺度になっています。
しかし、入試というのは数年に一度しかありません。もっと手軽なものとしては、PISAなどの学力テストによる評価もあります。
知能検査による頭のよさの評価というものもありますが、これは、子供が主に小さいころに使われるものであることと、本来の検査の目的が頭のよさを評価するものではないことから、一般的な尺度とは言えません。
推薦入試などでよく参考にされる、その子の過去のリーダーとしての実績などは、偶然に左右される要素がかなりあります。
同じく、推薦入試では、英語の試験が課される場合がありますが、英語は、ほとんどの学生が授業で勉強しているという点から見ると、その子の勉強全体の学力にほぼ比例しています。しかし、これは、海外からの帰国子女など勉強の前提に差がある場合も多いので、一概に学力全体の評価になるとは言い切れません。
数学の成績は、遺伝とは最も関係が薄いと言われています。数学の成績は、練習の量や解き方コツに関連しているので、頭のよさとは関係がありません。
国語の成績は、本当ならば頭のよさときわめて高い相関があるはずですが、今の国語の成績はそうではありません。
なぜかというと、現在の日本の国語は、文学の要素が多すぎるからです。文学の好きな子は、国語の文学分野が自然に得意になります。そして、なぜ文学が好きになるかというと、そこには多少遺伝の要素もありますが、それよりも、子供のころ熱中するような文学に出合ったということがかなり決定的な理由になるようです。
しかし、文学が好きな子は、数学が逆に苦手になるという傾向があります。文学的な発想と数学的な発想は、その方法がかなり違うからです。
では、頭のよさに最も関連があるのは何かというと、それは作文だと思います。思考力とは、そのほとんどが日本語力ですから、作文に使える語彙の豊富な子は、考えることも理解することも得意です。
しかし、作文の点数は、個人が主観的に評価するだけでは、評価する人による差もかなり出てきます。
そこで、森リンによる点数と、人間による内容の評価の点数が組み合わされれば、そのときの作文の評価が最もあてになる子供の頭のよさ(学力)になると思います。
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野口悠紀雄さんの「
世界経済が回復するなか、なぜ日本だけが取り残されるのか」「
日本を破滅から救うための経済学 再活性化に向けて、いまなすべきこと」を読みました。これらは、日本の現状に対する危機感と、日本の未来に対する責任感が伝わってくる本です。
以前、言葉の森のホームページで、「中国から離れ、日本の文化創造に目を向けよう」という記事を書きましたが(9月25日)、野口さんの著書にも、その記事と同じ問題意識があることがわかりました。
現在、日本の企業の中には、アメリカの需要に代わって中国などの新興国家が新しい需要を創出するという考えで、中国での市場開拓に関心を向けているところがあります。しかし、目先の中国市場に経営資源を投入することは、長い目で見ると日本経済の崩壊につながります。
日本は、日本よりも遅れた中国で生まれる古い内需の供給者になるのではなく、日本で新しく生まれる高度な内需の自己供給者になるのでなければなりません。その新しい内需を作ることが、今の日本に求められているのです。
しかし、その新しい内需は、現在一般に考えられているような介護、医療、農業ではありません。
アメリカは、新しい内需として、IT、金融という他国が追随できない高度な需要を創造しました。日本がこれから創造する内需も、他国が追随できない新しい魅力あるものでなければなりません。
戦後すぐの日本では、腹いっぱい食べられることが魅力の対象でした。高度成長期には、テレビや自動車が魅力の対象になりました。高度成長のころ若者だった人が、家に初めてテレビが来たときや、初めて自動車を持ったときの喜びがどのくらい大きかったかは、今では想像できないくらいのものでした。
そして、1980年代にはコンピュータが、90年代にはインターネットが魅力の対象となりました。このころは、ITの可能性が持つ魅力にだれもが燃えていたのです。
しかし、今では、ケータイも、mixiも、ブログも、ツイッターも、単なるコモディティとしての商品やサービスになってしまい、熱い魅力の対象にはなっていません。
中国をはじめとする新興国で今生まれている大きな需要は、かつて日本人がテレビや自動車に燃えていたころの需要です。すでに過去の歴史となった、先の見通しのわかった需要なのです。
その過去の需要に、これからの日本の産業が対応して、日本の社会が発展するというようなことは、もうありません。日本は、中国やアメリカがまだ見出していない、新しい魅力的な需要を自らの力で開発する必要があります。
考えただけで胸がわくわくするような需要。そのためには食べる時間も寝る時間も惜しくなるような需要、寝ても覚めてもそのことばかり考えているような需要が、これからの日本人が創造していく需要なのです。
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国語と算数の勉強の仕方には、大きな違いがあります。
算数は、わからなくなったら、わかるところまで戻り、わかるまでやるという勉強の仕方です。算数の難問というのは、いくつかの要素が組み合わされている問題で、易しい問題は、その組み合わせの数が少ない問題です。ですから、難しい問題にぶつかったときも、個々の要素に分解して、それぞれの要素を理解して積み上げればわかるという仕組みになっています。
算数は、教科書に書かれていることをマスターすることが勉強の目標です。受験勉強も、その延長にあります。
ところが、国語はそうではありません。小学校5年生で国語の成績が下がったら、小学校4年生の教科書まで戻ればいいというのではありません。その学年の教科書を全部マスターしたからといって、成績が上がるわけではありません。
国語の勉強は、できる子はできるし、できない子はできません。そのできるできないを分けるのは、ひとことで言えば読書の差です。読書の質と量が優れている子は、国語の勉強を特にしなくても成績はいいのです。ただし、国語でも漢字の書き取りだけは、勉強しなければできるようにはなりません。しかし、国語力の本質は、漢字力ではなく読解力です。
算数と国語の違いを、列車の旅の比喩で言うと、次のような感じになります。算数は、あるところまで来て、今いる場所がどこかわからなくなったら、前の駅に戻ればわかります。国語は、あるとこまで来て、今いる場所がどこかわからなくなったら、前の駅に戻るのではなく、周りの景色をよく見なければなりません。たとえ、前の駅に戻ったとしても、やはりそこで周りの景色をしっかりと見なければなりません。周りの景色を見るということは、日本語の日常生活を豊かにすることです。
逆に、算数の力をつけるために、日常の算数的な生活を豊かにするということは見当違いな努力になります。算数は、経験の中で身につける面ももちろんありますが、それ以上に勉強の中で身につけるものだからです。
ときどき、保護者の方から、「うちの子は作文が苦手なので、実際の学年よりもずっと下の学年から始めたい」という要望を聞くことがあります。下の学年に戻って勉強することは簡単ですが、しかし、それが上の学年に進む準備にはなりません。勉強するのは、下でも上でもかまいませんから、何しろ今その学年で読む力をつけることが重要なのです。これが、暗唱や読書の自習の意義です。そして、国語の問題に取り組むよりも、この読む勉強が、いちばん確実な国語の勉強法になるのです。
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