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クラウド時代のソーシャルサービスと教育 as/1315.html
森川林 2011/07/22 18:13 



 クラウドという言葉は、もう古いと思う人もいるかもしれませんが、これは、今もなお、これからの社会を特徴づける根本的な概念です。

 クラウドというのは、単に自社サーバーで行っていた業務を、アマゾンやgoogleのサーバーを借りて行うというようなものではありません。単にこれまで切り離されていた情報がネットワークを介してつながるというだけではなく、もっと根本的に、情報の主体と客体がそれぞれクラウドの雲の中でつながってしまい、境目がなくなるということなのです。



 今、私たちは、インターネットで本を買おうとすれば、アマゾンで買うか楽天ブックスで買うかという選択をまず最初にすると思います。しかし、そういう選択をしなければならないのは、クラウド化がまだ十分に進展していないからです。クラウド化の完成された社会では、本を買うという選択だけがあり、その選択がどこの書店で行われるかということはクラウドの中に隠れて見えなくなります。これは、アマゾンにとっても楽天ブックスにとっても同様です。書店もクラウドの中にあり、顧客もクラウドの中にいます。

 そういう状態が嫌だからといって、自分の周りの雲だけをきれいに吹き消して見通しをよくするということは、言い方を変えれば、オープンからクローズドになることです。そして、オープンなクラウドの雲はますます広がり発展していくのに対して、クローズドな透明性はますます狭く小さくなり衰退していきます。

 これは、具体的には次のようなことです。ある人が、アマゾンで本を注文したとします。しかし、それがアマゾンの中で品切れであった場合、アマゾンはその注文を楽天ブックスに回します(今はまだそうなっていません。これは、クラウド化が進展したあとの話です)。すると、買い手は、どこで買ったという意識なく本を手に入れることができます。これは、買い手が楽天ブックスで買った場合も同様です。

 ところが、ここで、アマゾンが注文を楽天ブックスに回すのはもったいないからと、自社の品切れが解消するまでその注文をとどめておいたらどうなるでしょうか。これは、自分だけクラウドの雲の中に境を作って売上を確保しようとすることです。しかし、そのようにして境を作った途端、買い手はその境のある売り手を選択しなくなるのです。



 これを今のソーシャル・ネットワーキング・サービスにあてはめると、どうなるでしょうか。

 googleがfacebookに対抗して、新しくgoogle+というソーシャルサービスを開始しました。facebookをやっている人の中には、既にmixiもやっているし、ブログも複数運営しているし、twitterもやっている、というが多いと思います。この上更に、google+も始めるとなると、これらのソーシャルサービスをどう使い分けたらいいのかと頭を悩ます人も出てくるでしょう。しかし、そこで頭を悩ますのは、まだこれらのソーシャルサービスがクラウド化が十分に進展していない過渡期の状態にあるからです。

 クラウド化の進んだ社会では、個々のソーシャルサービスはクラウドの雲の中にのみこまれます。既にいま、twitterの投稿を自動的にfacebookに連携させたり、ブログの記事をやはり自動的にfacebookのノートに連携させたりすることができるようになっています。記事を投稿する個人の関心は、記事を書くことにあるのであって、どこに投稿するかということではなくなっています。

 これまでは、さまざまなソーシャルサービスを使い分けるという考えがありました。同じ記事をあちこちのソーシャルサービスにコピーするのは、読者に対して失礼だという感覚もあったと思います。また、検索エンジンに検索されやすくするために、同じ記事をコピーしたり、同じようなリンクを多数のブログにつけたりするのは、ルール違反だという感覚もありました。

 しかし、これからはそうではなくなってきます。ある記事を書いた個人は、その記事を多数のソーシャルサービスに同じように発信します。それは意図してそうするというよりも、ソーシャルサービスの中で自動的にそのような連携が行われるようになってくるからです。

 facebookの操作になじんでいる人は、facebookから情報を発信するでしょう。すると、それがブログにも、twitterにも、google+にも連携されて同じように発信されます。その情報を読む人は、やはり自分が操作的になじんでいるところからその情報を読み取ります。ある人はブログから読み取り、ある人はtwitterから読み取り、ある人はgoogle+からその情報を読み取ります。そして、コメントを返すときは、それぞれのソーシャルサービスから、その情報に対して返信をするのです。書く人はfacebookから、読む人はgoogle+で、そして、読んだ人がgoogle+で返信したコメントは、書いた人がfacebookで読み取るという形になります。もちろん、こういう状態になるにはまだしばらく時間がかかるはずですが、大きな方向はもう変わりません。



 このようなクラウドの状態に置かれるのが嫌だからといって、自社のソーシャルサービスにいる会員の情報を囲い込みするところは、クラウド化の発展から取り残されていきます。個人の関心は、どこのソーシャルサービスを使うかということではなく、どういう情報を発信するかというだけになるからです。

 個人は1人で、使えるソーシャルサービスは多数あります。これは、1軒の家に多数の玄関があるのと同じです。だれでも、どの玄関からでもその家に入れます。そして、どの玄関から出るのも自由です。しかし、もしある玄関から入った場合に限り、出るときもその玄関からしか出られないとすれば、人はすぐにその玄関を使わないようになるでしょう。よほど、その玄関に愛着があれば別ですが、普通の人間の関心は家に入ることであって、玄関を通ることではないからです。

 iphoneのOSかアンドロイドのOSかというのも、この選択に似ています。玄関の大きさに10倍ぐらいの差があれば、人はたとえクローズドの不便な玄関であっても、その不便さを我慢するでしょう。しかし、2倍以内の差であれば、多くの人はたとえ小さくてもオープンな玄関の方を選ぶはずです。クラウド化の進展とは、こういうことなのです。



 そして、このクラウド化は、ソーシャル・ネットワーキング・サービスの世界に留まりません。これからの社会は、政治も、経済も、教育も、文化も、遅い早いの違いはあれ、すべてこのクラウド化の雲の中にのみこまれていきます。もちろん、タイミングというものは必要で、雲がまだ広がっていない分野で、自分だけオープンになるというのは賢い決定とは言えません。しかし、いずれどの分野にも、この雲が押し寄せるとしたら、考え方だけはクラウド化に対応したオープンなものに切り換えておく必要があります。



 しかし、クラウド化がどれだけ進展しても、クラウドの雲の中にのみこまれないものももちろんあります。実は、そこに人間の本質があるとも言えるのです。

 クラウドは、人間の生活を確かに便利にします。しかし、人間は便利さのために生きているのではありません。便利さの雲の中に解消しないものが人間の本質で、それは身体性とも言うべきものです。

 ある個人がある特定のことに好みや関心を持ち、特定の過去の経験を持ち、特定の人に出会ったり、特定の行動をとったりするところに、人間の身体的な特質があります。

 将来、教育のコンテンツは限りなくクラウド化していきます。知識や方法は抽象的なものですから、クラウド化されればされるほど便利になっていくのです。しかし、例えば、ある子供がいるということは、その子供を育てた特定の家庭があり、その子供が生活する特定の地域があり、その子供と長い時間かけて接する特定の先生や友達がいるということです。

 この特定の家庭や、特定の地域や、特定の先生や友達が、クラウド化の進展にもかかわらず、決して雲の中にのみこまれることのない確実な地面として残ります。ところが、その地面は、過去の時代のように孤立した地面ではありません。広がる雲によって世界につながる地面になっているのです。

 言い換えれば、クラウド化によって限りなく便利になったソーシャル・ネットワークのプラットフォームを使って、世界中で最も優れた教育コンテンツをフルに利用して、家庭と地域の協力で小さな寺子屋教育が行われるというのが、未来の教育の姿になっていくだろうということなのです。

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「桃太郎」を例にした感想文の書き方 as/1314.html
森川林 2011/07/21 17:29 



 みんながよく知っている「桃太郎」を読んで感想文を書く練習です。このような形で書いていけば、読書感想文は簡単です。

 感想文のコツは、似た話を長く書くことです。1日に書く分量を400字ぐらいにしておき、3日か4日で全部仕上げるようにすれば負担がありません。

 以下は、小学校5、6年生ぐらいで書く感想文の例です。

▼1日目

 緑の山と青い川、桃太郎が生まれたのは、こんな自然の豊かな村だった。しかし、その村は、毎年来る鬼のためにとても貧しい村だった。(情景などがわかるようにして書き出しを工夫する)

 ある日、いつものように、おばあさんが川で洗濯をしていた。すると、川上から大きな桃がドンブラコッコ、ドンブラコッコと流れてきた。(物語の序盤から引用する)

 ぼくは、一年生のころ、父と母と弟でキャンプに行った。キャンプ場には、きれいな川があり、その川の近くでぼくたちはバーベキューをした。食べたあとのお皿を洗うと、川の流れがすぐに汚れを運んでくれる。ぼくは、昔の人はこんなふうに川で洗濯をしたのかなあと思った。(自分自身の体験を書く)

 さて、その川のキャンプでのいちばんの思い出は、冷やしておいたスイカがいつの間にか流されてしまったことだ。夜冷やしておいて、次の日に食べようと思っていたスイカが、朝起きてみるとなかった。一緒に冷やしておいた父のビールはそのまま残っていたので、たぶん夜のうちに川に流れていってしまったのだろう。

 ぼくは、ふと、桃太郎の生まれた桃も、上流でだれかが冷やしておいたのではないかという気がしてきた。(この感想は主題に関係なくてもOK)

▼2日目

 桃から生まれた桃太郎は、一杯食べると一杯分、二杯食べると二杯分大きくなった。しかし、桃太郎はいつまでも食べては寝るだけで何もしようとしなかった。(物語の中盤から引用する)

 ぼくの小さかったころの話を、父と母に聞いたことがある。最初三千グラムで生まれたぼくは、一年たつころには、もうその三倍の十キログラム近くになっていたそうだ。ぼくの今の体重は三十五キログラムなので、生まれたときの約十倍になっている。そんなに大きくなるまで何杯ご飯を食べたかはわからないが、たぶん最初のころの桃太郎と同じようにぐんぐん大きくなっていったのだろう。(身近な人に取材する)

 母に聞くと、ぼくは小さいころ、自分から言葉をしゃべろうとせず、まるでお地蔵さんのようにいつもにこにこ人の話を聞いているだけだったそうだ(「まるで」という比喩は文章を個性的にする)。母は、そのことを少し心配していたらしい。たぶん、そのときの母の気持ちは、いつまでも食べて寝るだけの桃太郎を見ておじいさんやおばあさんが感じた気持ちと同じではなかったかという気がする(「たぶん」という推測は自然と感想になる)。

▼3日目

 やがて成長した桃太郎は、犬と猿とキジを連れて鬼を退治に出かけた。犬は噛み付き、猿は引っかき、キジは目を突っつき、桃太郎は鬼を投げ飛ばした。(物語の終盤から引用する)

 ぼくは、この戦いぶりを見て、ふとぼくたちのサッカーチームを思い出した。サッカーには、もちろん、噛み付きや引っかきはない。まして目を突っついたりしたらすぐに退場だ。しかし、足の速い次郎君、シュート力のある和田君、ピンチのときでもみんなを笑わせるケンちゃんなど、ぼくたちのチームは、それぞれの得意なところを生かす点で桃太郎のチームと似ているのではないかと思った。

 このことを父に話すと、父は、こんなことを言った。

「桃太郎がいなかったら、鬼には勝てなかったけど、桃太郎が四人いても、やはり鬼には勝てなかっただろうなあ」(長い会話をそのまま書くと味が出る)

 ぼくは最初、桃太郎だけが主人公で犬や猿やキジは脇役だと思っていたが、次第に全員がそれぞれの役割で主人公なのだと思うようになった。どうしてかというと、みんなそれぞれの長所があり、その長所でお互いの短所を補い合っているからだ(「どうしてかというと」などの接続語を使うと感想も長くできる)。(結びは、本の主題に関する感想を書く)

▼4日目

 鬼を退治し、宝物を持って村に帰った桃太郎は、それからどうしただろうか。きっと、もう鬼の来ない平和な村で、豊かな自然に囲まれて楽しく過ごしたにちがいない。おばあさんが洗濯をしているきれいな川の横で、犬や猿とキジと水遊びをしている桃太郎の姿が思い浮かぶ。(書き出しと結びを対応させる)

 いま、ぼくたちの街に、桃太郎が戦うような鬼はいない。しかし、ぼくたちの街には、桃太郎が暮らしていた緑の山や青い川もない。もし、桃太郎がいまここにいたら、人間にとって戦う相手は鬼ではなく、きれいな自然を取り戻すことになるかもしれない。そして、その桃太郎とは、たぶんこれからのぼくたちなのだ。(「人間」という大きい立場で考え、自分のこれからの行動に結びつける)

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本好きん 20110724  
なるほど、こんな感想文を書いたら、先生方やPTAのご父兄はいたく感心されるに違いないし、受験戦争にも勝てそうだ、というのが私のこの感想文を読んだ感想だ。

だが、そこで私は自問する。待てよ、本当に子供がこんな「感想」を持つであろうか?もちろん、それをおわかりの上で、受験戦争を勝ち抜くためにも、このように書けば万人受けするよということ出紹介されているのだろうが、ちょっとひねくれた子供だった私にはどうも納得がいかないのだ。

私が子供の頃、この物語を聞いて最初に思ったことは、「きじやさるや犬たちは、あんなおっかない鬼と戦うのに、キビ団子しかもらえなくてもいいのかな?強い鬼と戦ったらお供の動物が死ぬかもしれないのに、桃太郎は動物たちにお団子ひとつしかあげないなんて・・・。物語では桃太郎はヒーローみたいだけど、私から見ると桃太郎はひどい!人間って、知恵があるのって、ずるい!私だったら絶対桃太郎についていかない!」というものだった。(大人になった今も、この感想はあまり変わらない。)

まあ、こんな感想文書く子は受験に成功するはずはありませんが、感想文って思ったことを書くものであって、100人いたら100人全く違う考えがあってもいいものだと思うのですがね。





森川林 20110724  
 そういう見方も、もちろんあります。
 私は、当然そういうアプローチで書いたものを認めます。自分らしいものの見方、考え方をしている子は、その個性を伸ばしていくようにすすめます。
 しかし、最初の出発点はそうではないのです。
 子供たちは、もっと単純に明るいもの美しいもの肯定的なものが好きです。
 しかし、肯定的なものから出発しても、そこには必ず暗い面やうその面があります。それに気がついて、ものの見方は次第に複雑になっていくのですが、大人がその暗い見方やうその見方を最初に教えるものではありません。
 本好きんさんの見方は、ひとつの貴重な個性ですが、多くの人はそういう感想文の書き方を参考として載せてほしいとは思わないでしょう。
 本当は、このサンプルでいろいろな見方の例を書いてもよかったのですが、それでは話が複雑になって何を言いたいのかわからなくなるので、シンプルな例を載せたのです。

ジャスミン・リリー 20140807  
こんな、感想文があるなんて、さすが日本!次は、この桃太郎の題名を教えて欲しいです!

Corosatiko 20140819  
とてもためになり夏休みの宿題の感想文の参考になりま〜す

ハイタカ 20150819  
凄くいい感想文でした。

匿名 20150830  
ためになった

はーたん 20171220  
上手い


匿名 20180818  
夏休みの宿題の感想文にしたい

匿名 20240815  
役に立った

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ソーシャル・ネットワーク時代の新しい教育 as/1313.html
森川林 2011/07/20 18:21 



 言葉の森は、5月からfacebookを始めましたが、facebookのようなソーシャルメディアは、宣伝のためでなくつながりのためにあるということがあらためてわかってきました。そのつながりが結果として宣伝につながることもありますが、宣伝を目的にするとつながりという大元の土台が崩れてしまいます。

 そのつながりとは、具体的に、「いいね」ボタンを押すつながり、コメントを書くつながり、グループで投稿するつながりなどです。共通の話題や価値観で一致した人が、グローバルでありながらきわめてパーソナルなつながりを持っているのが、facebookのようなソーシャル・ネットワークのつながり方の特徴です。

 では、このつながりの中で、何が求められているのでしょうか。それは、自然の中にあるつながりと似ています。森林を考えてみると、そこに生きる動植物は、自らの作ったものを相互に与え合うことによって豊かな生態系を作り出しています。今西錦司は、この自然の姿を棲み分けととらえましたが、もう一歩進めて考えると、それは、相互にぶつかり合わないための棲み分けであるよりも、もっと積極的に、相互に相手にないものを作り出すための棲み分けとも考えられるのです。

 今話題になっているシェアの世界も、この森林の持つ共生の世界と似ていますが、シェアには二つの面があります。ひとつは、所有のシェアです。これは、カー・シェアリングに見られるように自分の持っているものをシェアし合うという、いわば昔からある古い形のシェアです。これに対して新しいシェアは、所有のシェアではなく創造のシェアです。つまり、自分が相手にないものを作ることによってそれを相互にシェアするという考え方です。



 これからの世界を待ち受けている危機には、自然災害、戦争や暴動、新しい感染症、経済破局などが考えられます。人間にできることは、これらの危機が起こらないようにすることであるとともに、それがやむをえず起こった場合でも被害を少なくするように工夫することだと思います。

 その方法はひとことで言えば、自然災害に対しては早めに避難することです。戦争や暴動に対しては止めることです。止めることの中にはそのために敢えて戦うことも含みます。感染症に対しては我慢することです。明るい気持ちで免疫力を強化して耐えるというのが基本です。経済破局に対しては、助け合うということに尽きます。

 そして、今、直近で最も起こる可能性の高いものは何かというと、それは経済破局ではないかと考えられます。ちょうどこの記事を書いているときに、高島康司さんのブログを読むと、そこにコルマン博士の最新の記事が紹介されていました。
http://ytaka2011.blog105.fc2.com/

===引用ここから====(アンダーラインはこちらでつけました)

では、統合意識について、もう少し詳しく見ておこう。ワンネス、あるいは統合意識は、しばしば、心理的な観念に過ぎないもので、私たちの心の中にしかその存在を認識できないものだと考えられている。一部の教師たちは、量子力学的な意味でもつれ合っているのだから、私たちはワンネスだ、と述べている。私は、そのような言い分は、取るに足らない、意味のないものだと思う。もちろん、人類は全て同じ実在から生み出されたものであり、その実在の中では全員が繋がっている、という意味では、私たちはみな一つである。(訳注:これは生命樹との関係を意味している。)だが、観念やスピリチュアルな洞察を心理的に認識するだけでは、実際にワンネスを経験し現実化していく上では不十分なのである。統合意識とは、私たちが、この第9の波の助けを受けながら作り上げ、実践して行かなければならないものであり、それは国際的な通貨崩壊の後で初めて可能になるのである。誤解してはならないことは、ワンネスとは私たちが個人として備える属性ではなく、私たち相互と、そして私たちと神性とのあいだにおける関係性なのだ。



通貨システムの役割と、それが現在はどのように働いているかを調べてみよう。現代の世界では、「銀行」と呼ばれるものがあって、多くの人々が銀行のコンピューターの中に、いわゆる「口座」を持っている。コンピューターの中の口座は、あなたがどれだけの「お金」を持っているかを測る数字なのである(これは、たとえばアメリカではドルを単位にしている。)実際には、人類の大多数はそのような口座など持っていないが、一部の人々は、彼らの名義で、口座の中に1万ドルを持っているだろう。中には、1千万ドルとか、100億ドルを持っている人もいるだろう。それ以上に、多くの人々の口座は、銀行から借りているためにマイナスの数字になっているのだ。このように、どこでも、だれもが大体同じ時間を労働に充てているのに、口座の中の数字には莫大な開きがあるのだ。時には、地球に仕える行為に応じた報酬もあるかもしれないが、そうではないことが遙かに多い。実際には、最も地球を傷つけた人々が最高額の銀行預金を持っているのだ。とにかくも、この銀行のコンピューターの中の数字こそが、他の何にも増して権力の構造を決定していることに気付くべきだろう。高い数字を持つ者が、低い数字の者を支配しているのだ。お金とは、現実の存在ではない。しかし、社会を規制する法律によって、コンピューターの中の数字が支配するシステムが維持されているのだ。



このような銀行のコンピューターの中の数字こそが(ストックやファンドにも当然同じ事が当てはまる)、私たちの社会の権力構造を決定し、そして私たちが地球上において種としての営みや生活の中心を置いている、ほとんどあらゆる人間関係をも決めてしまっているのだ。いくらかの例外は勿論あるにしても、大局では、銀行のコンピューターによる判断が(金のあるなしが)、一人の人間の人生全体を決定してしまうのだ。このような通貨システムの許では、本当の意味の統合意識が存在し得ないことは明らかであろう。なぜなら、銀行のコンピューターに巨大な数字を持つ者が、そうでない者を支配し、支配される者が何をして、どのように時間を過ごすのかを決めているのだから、そのような支配は、ワンネスと相容れないのだ。現在の通貨システムは、第9の波が、とくにその「昼」が発展させる統合意識とは相容れないがために、私は、世界的な財政崩壊は「昼」に、とりわけ第5の昼に起こるだろうと予想している。また、この通貨システムの崩壊が起こることによって、私たちは、初めて魂に最高の地位を与え、そして私たちが創造しようとしているものに総体的に責任を負うことになるのだろう。銀行のコンピューターが支配する権力構造が崩壊したときには、それを非難したりネガティヴに捉える人はいないだろう。これから発生する出来事に対しては、私たち全員が、個人としての行為だけでなく、人類全体として、全責任を負うことになるのである。そのような道を歩む人々にとって、責任を負うべき行為は、神性と、そしてそのあらゆる生命の創造と響き合う統合意識から、発するのだろう。

====引用ここまで====

 これから起こる経済破局は、さまざまな現象として現れるでしょうが、その本質は、マネーを基準にして回っていた経済が回らなくなることです。お金という抽象的なつながりがなくなることによって、リアルなつながりが断ち切られるというのが経済破局の姿です。では、お金というつながりによって表されていたものは何なのでしょうか。

 それは、簡単に言えば、需要と供給が価格を通してつながっていたということです。このつながりは、需要と供給がグローバルになればなるほどますます抽象的になっていきます。逆に、グローバルの反対のローカルになればなるほど、お金が表していたつながりは抽象的なものから次第に具体的なものに変わっていきます。

 それは、例えば、このようなことです。見知らぬ人どうしが物を交換するためには、お金という抽象的なつながりが双方の信頼の支えになります。しかし、ごく親しい身近な人どうしで、例えば家族の中であれば、お金という媒介がなくても、お互いに顔を見て言葉を交わせば相手のほしいものがわかり、それを提供し合うことができます。

 そして、facebookのようなソーシャル・ネットワークは、このローカルな関係をワールド・ワイドに作り出しているとも考えられるのです。



 ここで、問題を子供たちの教育にあてはめて考えみると、次のようなことが、お金という媒介がない中でもできると考えられます。

 子供たちは、教育を必要としています。それは、人間が衣食住を必要とするのと同じような意味においてです。しかし、お金という抽象的なつながりがなくなったとき、教育はどのように提供されるのでしょうか。民間の教育機関である学習塾や通信教育は費用がかかるので、お金がなければサービスを受けることはできなくなるでしょう。しかし、公教育においても事情は同じです。国や地方自治体が先生の給与を払えなくなれば、無償で教えてくれる先生はいなくなるでしょう。

 しかし、そのときに、先に書いた創造のシェアがあれば、お金など何もなくても教育は見事に復活するのです。例えば、学校も、塾も、先生も、教材もなくなった世界で、子供の教育を始める場所は、その子供たちの住む地域です。

 地域のすべての人が、地域(を中心とした世界)のために、地域のすべての子供たちの教育を支えるというのが、新しい教育システムです。しかも、そのバックボーンには、ワールド・ワイドなネットワークがあります。

 そのネットワークのシステムには、まず、教材の作成のグループがあります。(facebookのグループのようなものと考えるといいでしょう)。教材を創造できる人が、それぞれ自分の得意分野で子供たちの教材を作ってシェアするのです。次に、授業のグループがあります。これはyoutubeなどを利用して、授業を創造できる人がシェアすればいいでしょう。授業だけでわかりにくい場合は、補習のグループがあってもいいでしょう。また、学習が終わったあとの評価には、発表のグループがあります。生徒それぞれの発表に対して相互にコメントを書きあい、その結果を、最初の教材作成のグループにフィードバックしていくのです。

 ネットワークで作られた教育のインフラをもとに、地域で実際の教育を行うのは、その地域で多くの人から人格者だと見なされている人になるでしょう。教師という専門職は、必ずしも必要ありません。なぜなら、教えるという専門職が必要でなくなるぐらい、教材を作り直していけばいいからです。

 地域の子供たちの教育は、学校や塾という機能的な組織によってではなく、地域や家庭という共同体的な組織によって担われていきます。特に、教育の地域性が発揮されるのは、教育の成果である発表の場においてです。例えば、作文の勉強であれば、子供たちが書いた作文を地域の公園に張り出して、地域の人たちがそれを見にくるというような形です。



 以上のシステムは、言葉の森で既に一部実現しています。今後、このシステムを更に広げていけば、ネットワークと地域を中心にした新しい教育が、作文の学習において行われるようになります。

 そして、作文の学習という指導しにくい分野できたことは、すぐに他の教科の教育にも広げていくことができます。

 更にまた、教育という分野でできたことは、同じように社会生活のさまざまな分野でできるようになるでしょう。こうして、お金という抽象的な媒介を必要としない経済が、やがてお金を必要とした世界よりも広範に行われるようになるとき、本当のワンネスの世界の準備ができるのだと思います。



 しかし、繰り返していえば、そのときに必要なものは、自分の所有しているものをシェアすることではありません。新しく創造したものをシェアするということです。

 人間は、だれでも社会に貢献したいと思っています。また、そのシェアのための仕組みもソーシャル・ネットワークの中でできつつあります。しかし、心構えや仕組み以上に大事なものは、ひとりひとりが自分の得意分野で新しい何かを創造し、その創造をシェアすることです。

 そのような社会ができたときに初めて、人間の文化は、自然の森林と同じような豊かさ持つようになるのだと思います。

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