これからは、勉強の技術とともに、勉強の意欲を高める工夫も大事になってきます。やる気のない10時間よりも、やる気のある1時間の方が得るものが多いからです。そして、現代の豊かな社会は、昔のようなハングリー精神を動機とすることができないからです。
ただし、現代の子供たちは、賞罰や競争という直接的なもので意欲を強化されがちです。それは、既にどこでも行われているやり方ですが、やりすぎれば弊害を生み出します。例えば、百マス計算のような能率のよい学習方法についても、スピード競争にこだわりすぎれば、もともとの目的とは違う方向に進みます。
そこで、意欲というものの本質を考えることが大事になってきます。意欲の前提となるものは、意欲の支点としての自分の今いる位置を知り、そこからどのように進むことが可能かを知ることです。つまり、意欲の出発点は、「知ること」です。
ある目的に到達することが心から可能だと思えば、行動は自然に始まります。そのように自然に行動できないから、賞罰や競争で強化するという方法が生まれてくるのです。
重力は、質量に比例し距離の二乗に反比例します。1等が百万円で全国に1人という目標と、10メートル先に落ちている百円玉を拾うという目標と、どちらがすぐに行動に結びつくかを考えれば、到達できる可能性というものが大きな意味を持っていることがわかります。
しかし、距離を短くすることは、単純なスモールステップというのではありません。というのは、スモールステップという考え方には、魅力というものが欠けていることが多いからです。大きな魅力のある目的を得るための小さな方法というのが距離を短くするという意味です。
つまり、わくわくできる目的のために明確な方法があり、その方法を新たな目的とした更に細分化された方法があり、更にまたその方法のためのより具体的な方法があるというような、方法の媒介化によって、最後に実行可能な方法にまで到達するというのが、意欲化の仕組みです。この目的→方法……方法→実行という流れの中で、言葉の森の勉強をこれから作り上げていきたいと思っています。
では、それは、具体的にはどういう形になるでしょうか。
まず、作文を書くということが大きな魅力のある目標にならなければなりません。そのためには、単に定期的に清書を書いて投稿したり発表したりするだけでなく、その発表をよりビジュアルで感動的で芸術的なものにしていく必要があります。上手な作文を書くことがすばらしいことだと実感できるような作品発表会にしていくことが第一に重要なことです。
第二に、そのすばらしい作文を作るための方法を、毎日の暗唱や読書などの自習に結びつけることです。作文を発表するための場所や時間や外観という外的なものを、自習や読書の努力と結びつけるのです。
その自習や読書の努力も、ただ、毎日同じように褒めるのではなく、毎日の小さなシールが3回続いたら大きなシールになり、大きなシールが5回続いたらきらきら光るシールになり、きらきら光るシールが4回続いたら、作品発表の際の作文に豪華な額縁がつく(笑)というような仕組みにします。つまり、大きな目的のために小さな方法があり、その小さな方法のために更に小さな方法があり、その小さな方法の最後の形は実行可能な行動になるという流れです。
この意欲を高める方法を生かしながら、これからの言葉の森の勉強を作っていきたいと思っています。
私は、付箋読書をするようになってから、読書がはかどるようになりました。
これまでは、読む本に線を引いて読んでいましたが、そういう読み方だと借りてきた本などは読めません。そこで、付箋を貼る読書の方法を考えました。
よく付箋を貼るのが面倒ではないかという人がいますが、線を引くよりもずっと簡単です。また、付箋を作るのが大変ではないかという人がいますが、先日試しに時間を計ってみたら、7分半で720枚の付箋が、のりとはさみで簡単にできました。これなら、購入した付箋と違って、いくら使ってももったいなくありません。
夜寝る前に、読みたい本を5冊ぐらい積んで、付箋読書で並行して読んでいきます。1冊の本について数十ページ読んで、読むのに少し飽きたら別の本に移ります。面白いところに縦に付箋を貼りながら読んでいくので、あとで再読するときに能率が上がります。付箋の貼ってある箇所だけを読んでいけば、十数分もあれば読み直しができるからです。また、読みかけのところには横に階段状に付箋を貼っておくので、どういう経過で読んだか外から一目でわかります。
本の中には、面白い本、つまらない本、難しい本、易しい本などがありますが、読書が進まなくなる原因は、難しい本で読むのが止まってしまうことと、面白い本でもずっと同じ本を読んでいると飽きるということにあります。付箋読書は、これらを解消します。
なぜ付箋読書で本をよく読むようになるかというと、本を読んだ経過が質の面と量の面の両方で外側からわかるからです。つまり、自分が読書をコントロールできる感覚があるので、自然に本を読むようになるのだと思います。
このコントロール感覚を、ほかの勉強にも生かすことができます。その話は、またいつか。
「メガ・グループの崩壊」(長谷川慶太郎著)を読みました。書名から受ける印象とは違って、中身は長谷川氏の著書に共通する明るいシナリオで書かれています。
デフレ下では世界のインフラ整備が進み、日本の工作機械をはじめとする優れた技術が世界に輸出されるという未来像がこの著書の内容です。
世界では、今、自動車から鉄道へという流れが起き、ベトナムやブラジルの新幹線に見られるようにさまざまな巨大プロジェクトが計画されています。ここに日本の新幹線技術や将来のリニア鉄道技術を輸出すれば、巨大な需要が生まれると同時に、世界の平和と繁栄を更に加速させることになります。
しかし、私は、これは一過性の繁栄だとも思います(もちろん、長期的に見た場合ですが)。やがて巨大なプロジェクトは次々と完成し、大きなインフラ整備はなくなっていきます。また、インフラ整備の巨大プロジェクトは、これまでの自動車産業などとは違い、国内の産業に対する波及効果があまりありません。
すると、世界のインフラ整備の需要で生まれた巨大な生産力は、やがてその需要を軍需に向けるような可能性も持っているのです。
では、どうしたらよいのでしょうか。
過去の日本は、外需に依存して経済を発展させてきました。しかし、単なる消費財の輸出という外需には、もはや限界があります。
例えば、自動車や家電製品の生産は、急速に途上国に追い上げられています。
現在、生まれている巨大な消費市場は、中国が担っていますが、その市場の特徴は、日本やアメリカが昔経過した3C市場(カー、クーラー、カラーテレビ)です。しかも、この市場に向けての生産は、安い人件費の消耗戦になりつつあります。そのため、消費財の外需に勝つためには、海外に生産拠点を移さざるを得ず、それは国内の生産の空洞化を生み出します。
しかし、だから、内需の振興という単純な話にはなりません。
民主党政権が今行っている、高校無償化、子ども手当、高速道路無料化などは、過去の内需をもう一度復活させようとするものです。例えて言えば、ファミリーレストランの活況をもう一度現出させたいというような内需です。
そのような内需ではなく、新しい創造的で高度な内需が求められています。そして、それが未来の日本の輸出産業になるという外需にもなっていくのです。
その新しい内需の内容は、人間が、より健康で、知的で、美しく、豊かで、夢があって、楽しく生きるための商品開発です。
しかし、それは、従来の医薬品、塾や習い事、美容、レジャー、娯楽などの発想で担うものではありません。全く新しい技術を開発して、知的で創造的な内需の商品を生み出すことです。
現在、アメリカでは、iPadやkindleのような新しい内需を生み出す商品が開発されています。しかし、日本が生み出す内需は、それらとは少し違うものです。
例えば、江戸時代には、日本刀などの優れた工芸品、剣道などの武道、日本的な食事や衣料の文化、浮世絵などの美術品、茶道や華道などの道の文化が生まれました。これらは、消費財でありながら高度に創造的なものであったので、日本の武道が世界に普及しているように、現在でもひとつの輸出産業として成立する可能性を持っています。
今日では、日本のアニメ技術もそうです。それをアニメ産業のように自然発生的な発展に任せるのではなく、日本の国家戦略として開発していくことが新しい内需の振興なのです。
つまり、古い外需振興、内需振興から脱却して、新しい外需、新しい内需を創造することが、日本がこれから発展していく道です。
では、そのための国家戦略の重点は何なのでしょうか。
江戸時代に高度で創造的な文化が生まれたのは、江戸という人口の集積した都市で、平和と自由が保障されていたからです。
これを現代にあてはめると、平和とは治安をよくし、都会でも家にカギをかけずに安心して外出できるような状態を作り出すことです。自由とは、あらゆる規制を撤廃し、法律や管理を簡素化することです。
平和と自由によって真の豊かさを生み出すというのが、日本の未来の展望になるのです。